第4課
夫婦間の問題に対処する
応用のための提案
あなた自身の必要や状況に合わせて以下の提案に従ってください。
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以下の読書課題でリン・G・ロビンズ長老は「悲劇のためのレシピ」を紹介している。ロビンズ長老の説明を読んで,家庭における一致のためのレシピを作る。そのレシピに入れる「材料」を決める。
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問題に怒りではなく忍耐と愛をもって対処することを決意する。その決意を頻繁に思い出すための方法を考える。例えば,靴にコインなどの小さな物を入れておいたり,ポケットに自分あてのメモを入れておいたりするのもよいであろう。
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『家庭の夕べアイデア集』(31106 300)の「結婚生活における争いを解決する」(256-257)を読む。既婚者の場合は
伴侶 と一緒に読んで話し合う。
読書課題
以下の記事を研究する。既婚者の場合は
選択の自由と怒り
七十人
リン・G・ロビンズ
サタンは家族の中に怒りをあおり立てる
「わたしのすてきな家族……」すべての子供たちの望みがこの賛美歌に歌われています(「家族は永遠に」『賛美歌』187番参照)。
家族に関して,わたしたちはこのように宣言しています。「家族は……創造主の計画の中心を成すものであり……」,「夫婦は,互いに愛と関心を示し合うとともに」,「愛と義をもって子供たちを育て……るという神聖な義務があります。」(『家族-世界への宣言』1995年9月23日)
家族はサタンにとっても最大の標的です。サタンは家族に対して戦いを
サタンはわたしたちの家庭を囲う壁をも乗り越えて入り込み,家族に危害を加え,しばしば破滅に追いやります。サタンは家族の間に「怒り」をあおり立てる戦略を用います。サタンは「争いの父」であって,「互いに怒って争うように人々の心をあおり立てる」のです(3ニーファイ11:29,強調付加)。この「あおり立てる〔stir〕」という方法は,災いをもたらすレシピのようなものです。まず,中火でいらだちを温めて辛らつな言葉に加えて混ぜ〔stir〕,煮立たせます。そのままどろどろするまでよく混ぜて,冷やします。不快な感じのまま数日間放っておきます。冷たくしてからどうぞ。おかわりも十分できます。
わたしたちは怒らないよう選ぶことができる
サタンの策略の巧妙な点は,怒りを選択の自由の支配下から切り離すことにより,自分は自制できぬ感情の犠牲者だと,わたしたちに信じ込ませることです。「平静を失う」という言葉を耳にします。平静を失うという言葉は,興味ある単語を選んで組み合わされています。これは広く一般的に使われている慣用句でもあります。「何かを失う」とは,「故意にではない」,「たまたまそうなった」,「好んで行ったことではない」,恐らくは「責任を問われない」不注意による出来事かもしれませんが,いずれにしても「責任がない」という意味を含んでいます。
「彼がわたしを怒らせたんです。」これもよく耳にする言葉で,同様に,自らをコントロールせず,選択の自由を行使していない状態を表しています。このような迷信は正体を暴かなければなりません。わたしたちを怒らせる人などいないのです。だれかがわたしたちを怒らせるのではありません。何ら強制力は働いていないのです。怒りは意識的に選ぶものであり,意志に基づいて決めることなのです。ですから,わたしたちは怒らないという選択が可能なのです。わたしたちが選ぶのです。
「しかし自分ではどうすることもできません」と言う人に,ウィリアム・ウィルバンクスは「それはたわごとだ」と答えています。
「争いを好む,……怒りを抑える,怒っていることを人に話す,金切り声を上げる,大声でわめく」などの行為はすべて,怒りに対処するために計算の上で取る戦術です。「わたしたちは過去の経験から効果が実証されているものを選んでいるのである。上司に不満を持っていても感情を抑えられるにもかかわらず,友人や家族からうるさくされると我慢できないことに気づいているだろうか。」(“The New Obscenity,”『リーダーズ・ダイジェスト』1988年12月号,24,強調付加)
ウィルバンクスは高校2年生のときに,学校のバスケットボールチームの入部テストを受けて合格しました。練習の初日に,ウィルバンクスは全選手が見守る中で一対一のプレーをするようにとコーチから言われました。ウィルバンクスは簡単なシュートを外したときに,思わず頭に血が上ってじだんだを踏み,泣き言を言いました。するとコーチがやって来て言ったのです。「今度そんな態度を見せたら,二度とうちのチームではプレーさせないぞ。」それから3年間,ウィルバンクスは自制心を失うようなことは一度もありませんでした。後年,彼はこの出来事を振り返って,その日コーチから人生を変える原則を教えられたと知りました。それは,怒りはコントロールできるということです。(“The New Obscenity,” 24参照)
主の教え
ジョセフ・スミス訳のエペソ人への手紙第4章26節で,パウロはこのように問いかけています。「あなたがたは怒りながら罪を犯さずにいられようか。」主はこの問題について非常に明確な答えを与えておられます。
「争いの心を持つ者はわたしにつく者ではなく,争いの父である悪魔につく者である。悪魔は互いに怒って争うように人々の心をあおり立てる。見よ,互いに怒るように人々の心をあおり立てるのは,わたしの教義ではない。このようなことをやめるようにというのが,わたしの教義である。」(3ニーファイ11:29-30)
主がお与えになったこの教義すなわち戒めは,わたしたちに選択の自由があることを踏まえたうえで,良心に基づいて決断を下すよう呼びかけています。主はわたしたちに,怒らないという選択をするよう望んでおられます。
いかなる場合でも,怒りを正当化することはできません。主はマタイによる福音書第5章22節(欽定訳)でこのように述べておられます。「しかし,わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して理由なく怒る者は,だれでも裁判を受けねばならない。」(強調付加)興味深いことに,ジョセフ・スミスの霊感訳(マタイ5:24参照)と第3ニーファイ第12章22節には,「理由なく」という語句が見当たりません。主は「理由なく」という語句を取り除いて,わたしたちが言い訳する余地を取り払われました。「このようなことをやめるようにというのが,わたしの教義である。」(3ニーファイ11:30)わたしたちは怒りを「やめる」ことができます。なぜならば主がそのように教え,命じておられるからです。
怒りとはサタンの影響に負けることである
怒りとは,自制心を放棄することにより,サタンの影響下に身を置くことです。それは心の中で犯す罪であって,やがて憎しみの気持ちや行動へと発展していきます。また,それは高速道路でほかの運転者に怒りを向ける起爆装置であり,スポーツ競技場での激高した姿であり,家庭内暴力となって現れています。
抑制されない怒りはいとも簡単に,残酷な言葉があふれ出る引き金になったり,感情を虐待する様々な形態と化したりして,人々の純粋な心に傷跡を残します。「口から出るものが人を汚すのである」(マタイ15:11)と救い主は述べておられます。
デビッド・O・マッケイ大管長はこのように述べています。「夫婦は『家が火事で燃えている場合を除いて』,相手に向かって大声を上げてはなりません。」(Stepping Stones to an Abundant Life,ルウェリン・R・マッケイ編〔1971年〕,294)。
肉体への虐待は,怒りが抑制の利かない状態にまで達した結果であって,決して正当化できるものではありません。いかなる場合にも,義とされることはありません。
怒りは人に罪悪感を抱かせる野蛮な行為であり,人を正そうと試みる残忍な方法にほかなりません。これはしつけと混同されがちですが,ほとんどの場合,逆効果に終わります。このため,聖典には次のような警告が記されています。「夫たる者よ,妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない」,さらに「父たる者よ,子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。」(コロサイ3:19,21)
「わたしは二度と怒るのをやめよう」
選択と責任は互いに切り離すことのできない原則です。怒りは選択の結果であるために,『世界への宣言』では強い警告が発せられています。「
わたしたちの生活から怒りを取り除く第一歩は,選択の自由と怒りとの関係を理解することです。わたしたちは怒らないよう選ぶことができます。そして,この選択は今日,今すぐ実行できます。「わたしは二度と怒るのをやめよう。」この決意をすることを深く考えていただきたいと思います。
教義と聖約第121章は正しい指導原則を見いだせる最も優れた聖文であると言えます。第121章を応用する最も大切な対象は
子供たち一人一人が心に抱いている夢,すなわち「わたしのすてきな家族」がかなうよう願っています。