『わたしの礎—高潔さを示す』—所要時間:20分以内
-
深く考える:主が「心が高潔」な人を愛されるのはなぜでしょうか。
-
視聴する:「人はどんな代価を払って,その命を買いもどすことができようか」(ldschurch.jp/srs)動画を視聴することができない場合は,111ページを読んでください。
「人はどんな代価を払って,その命を買いもどすことができようか」
動画を視聴することができない場合は,この台本を読んでください。
画像「人はどんな代価を払って,その命を買いもどすことができようか」よりロバート・C・ゲイ長老:救い主はかつて弟子たちにこうお尋ねになりました。「人はどんな代価を払って,その命を買いもどすことができようか。」
これは何年も前に,よく考えるようにと父がわたしに教えてくれた質問です。わたしが大きくなると,両親はわたしに雑用を割り当て,その労働に対して小遣いをくれました。わたしはしばしば,映画を見に行くために週に50セントと少し,そのお金を使いました。当時11歳児の映画の入場券は25セントでした。それで25セント残り,チョコレート菓子に使えました。1本5セントです。チョコレート菓子5本と映画です。これほどすばらしいものはありません。
12歳になるまですべてそんな感じでした。ある日の午後,列に並んでいて,12歳児の入場券は35セントだと気づきました。つまり,チョコレート菓子が2本少なくなるということです。その犠牲を払う心の備えがまったくなかったので,自分に言い聞かせました。「外見は1週間前と同じさ。」列が進んで,25セントの入場券を求めました。売り場の人は疑わず,わたしは3本ではなくいつもどおりチョコレート菓子を5本買いました。
それができたことがうれしくて,わたしはその後,この大きな成果について父に話すため急いで家に帰りました。わたしがその次第を話すと,父は何も言わず,話し終わったわたしをただ見ながらこう言いました。「5セントのために魂を売ったのかい。」父の言葉が12歳のわたしの心に突き刺さりました。決して忘れない教訓です。
(「人はどんな代価を払って,その命を買いもどすことができようか」『リアホナ』2012年11月号,34)
110ページに戻る
-
話し合う:高潔であるとは,どのような意味でしょうか。人はこの世のものを得るために,ほんの小さな方法で自分の魂を売ることがあります。どのような例があるか挙げてみてください。