「熱心に学ぶよう招く」『救い主の方法で教える—家庭と教会で教えるすべての人のために』
「熱心に学ぶよう招く」『救い主の方法で教える』
熱心に学ぶよう招く
救い主が海の上を歩かれるのを見ることは,確かに畏敬の念が湧くことでした。しかし,ペテロにとってはそれだけではありませんでした。彼は救い主がなされたことを行い,救い主がおられる場所まで行って,自分も同じ経験をしたいと思いました。そこで,こう言ったのです。「わたしに命じて,水の上を渡ってみもとに行かせてください。」救い主は,ただこう言って招かれました。「おいでなさい。」それを聞いて,ペテロは安全な舟から飛び降りました。そして,弟子としての経験が受け身ではないことを示したのです(マタイ14:24-33参照)。弟子になるには,キリストを信じる信仰と熱心な努力が求められます。しかし,それには救い主とともに歩むという,豊かな報いもあります。
「おいでなさい。」「きてごらんなさい。」「わたしに従ってきなさい。」「あなたも行って同じようにしなさい。」(マタイ14:29;ヨハネ1:39;ルカ18:22;10:37)救い主はその教導の業の初めから,御自分が与える真理と力,愛を自ら経験するように,従う者たちに言われました。主がそうされたのは,これが学ぶということのほんとうの意味だからです。学ぶとはただ聞いたり,読んだりするだけではありません。変わり,悔い改め,進歩することです。救い主の言葉によれば,人は「研究によって,また信仰によって」(教義と聖約88:118;強調付加)学ぶのです。信仰には,単に強いられて行うのではなく,自ら行動することが含まれます(2ニーファイ2:26参照)。
救い主の模範に従って,わたしたちが教える人々に,求め,捜し,たたくよう招きます。そうすれば見いだすからです(マタイ7:7-8参照)。そしてわたしたち自身も,その招きに従うのです。キリストを信じる自分自身の信仰と勤勉な努力の両方を通して,わたしたちは主とともに歩むことの意味を,自分自身で知るようになります。
救い主は人々が自分の学びに責任を持てるよう助けられた
安全に海を渡れる船を造る作業は,だれにとっても難しいものです。ヤレドの兄弟は「絶えず主の手に導かれて」(エテル2:6),船の形状や空気の取り入れ方について指示を受けました。では,ヤレドの兄弟が船の中に光を用意することについて尋ねたときの主の対応で,あなたが何か気づいたことはあるでしょうか(エテル2:22-25参照)。このような方法で信仰を働かせるよう招かれたことによって,ヤレドの兄弟はどのような祝福を受けたでしょうか(エテル3:1-16参照)。
知っておくべきだと思うことを教師がすべて学習者に伝えてしまう方が,簡単に思えるかもしれません。しかし,デビッド・A・ベドナー長老は次のように勧告しています。「わたしたちが目指すことは,『彼らに何を伝えようか』ということであってはなりません。そうではなく,自問すべきなのは次のような質問です。『彼らに何をするよう招くことができるだろうか。もし学習者が進んでこたえるなら,個人の生活の中に聖霊を招き入れ始めるどういった霊感に満ちた質問することができるだろうか。』」(中央幹部との夕べ,2020年2月7日broadcasts.ChurchofJesusChrist.org参照)
自分の学びに責任を持つよう学習者を招くにはどのようにすればよいのか,考えてください。例えば,自分が持っている疑問を尋ねるよう勧めたり,答えを探したり,深く考えたり,自分の考えや気持ちを分かち合ったり,記録したりするよう勧めることができるかもしれません。そうするとき,彼らは信仰が強くなって,神の言葉の中に真理を見いだすようになり,それが真理だと分かるような経験をするようになります。自分自身の学びに責任を持つなら,ジョセフ・スミスが言ったように,わたしたちも次のように言うことができるようになります。「わたしは,……自分で分かりました。」(ジョセフ・スミス—歴史1:20)
考えるための質問: 学習者が受け身ではなく,自主的に学ぶことが大切なのは,なぜでしょうか。自らの学びに責任を持つようになってもらうために,学習者をどのように助けることができるでしょうか。あなたは,これができるようになるために,教師からどのような助けを受けてきましたか。人々が自分で学ぶよう招きを受けて勧められている場面として,聖文からどのような例を思いつきますか。その例を読んで,あなたは教え方をどのように変えようと思いましたか。
聖文から:1ニーファイ11章;教義と聖約9:7-8;58:26-28;88:118-125;ジョセフ・スミス—歴史1:11-20
救い主は,御自分の言葉を研究することによって主を知るように,人々を励まされた
救い主は,末日に御自分の教会を正式に組織される時期が来たとき,御自分の僕たちにこう言われました。「記されているものに頼りなさい。」(教義と聖約18:3)確かに,ほぼ翻訳が終わっていたモルモン書には,バプテスマの方式や聖餐の執行の仕方,その他の大切な事柄に関する説明が詳しく書かれていました。しかし,救い主は同時に,主の声を聞き,主をさらに深く知る機会として啓示を見ることを,御自分の僕たちに望まれたのです。同じ啓示の中で,主は彼らにこう告げておられます。「これらの言葉をあなたがたに語っているのは,わたしの声である。……そのために,あなたがたは,わたしの声を聞いたこと,そしてわたしの言葉を知っていることを証できる〔。〕」(教義と聖約18:35-36)
あなたが教える人々について考えてください。彼らは聖文の研究を,どのように見ているでしょうか。この点について,あなたはどのように見ていますか。聖文を読むことは,毎日行うべき義務にすぎないのでしょうか。あなたは聖文を研究するとき,救い主が自分に直接語りかけられていると感じますか。ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように教えています。「わたしたちはどこへ行けば主にお聞きできるのでしょうか。聖典に行くことができます。……毎日神の言葉に浸ることが,この増大する混乱の日々に,特に霊的に生き延びるためにきわめて重要です。わたしたちが毎日キリストの言葉をよく味わうとき,キリストの言葉は,自分が直面するとは思いもしなかった困難に対処する方法をわたしたちに告げます。」(「彼に聞きなさい」『リアホナ』2020年月5月号,89-90)教えるときには,救い主を見いだすという目的をもって聖文を研究するよう,学習者を励ましてください。単に救い主について述べた箇所や事実を探すということではなく,救い主を見いだすようにと勧めるのです。毎日聖文の中で主の声を聞くことは,生涯にわたって熱心に自分で行う福音学習の基礎です。
考えるための質問:あなた自身の聖文研究の習慣について考えてみてください。神の言葉を研究すると,神との関係はどのような点で強くなりますか。自分の研究の仕方を改善するために,どのようなことができますか。神の言葉を熱心に,また定期的に研究するよう人々を鼓舞するには,どのようにすればよいでしょうか。それを実行すると,学習者にどのような祝福があるでしょうか。
聖文から:ヨシュア1:8;2テモテ3:15-17;2ニーファイ32:3;モルモン書ヤコブ2:8;4:6;教義と聖約33:16
救い主は学ぶ備えをするよう人々を招かれた
どんなに良い種であっても,硬い土や石地,いばらの生えた土地では,育つことができません。同様に,どんなに貴く,信仰を鼓舞する教義であっても,受け入れる備えのできていない心を変えることも,まずできないのです。これは,種まきと種,様々な状態の土壌について,救い主が語られたたとえが伝えているメッセージの一部です。神の言葉が命をもたらす実を結ぶのは,「良い地」すなわち,柔和になって,霊の石やいばらが取り除かれた心の中にまかれたときなのです(マタイ13:1-9,18-23参照)。
霊的な準備は,あなたにとっても,あなたが教える人々にとっても,大切です。では,心を備え,神の言葉にとって「良い地」となるようにするには,どのようにすればよいのでしょうか。以下に挙げる,備えの原則について考えてみてください。自分の生活に当てはめ,そして,あなたが教える人々の生活にも当てはめるよう勧めるとよいでしょう。主が何を学んでほしいと願っておられるか分かるよう,祈ってください。主がともにいてくださるような生き方をしてください。日々,悔い改めてください。心から疑問に思っていることを質問することによって,学びたいという望みを育んでください。答えが分かるよう神が導いてくださるという信仰をもって,神の言葉を研究してください。どのようなことを主が教えておられようと,心を開いてそれを受け入れてください。
このような方法で学ぶ準備をするなら,学習者が,主が知らせようと望んでおられる事柄を見る霊的な目とそれを聞く霊的な耳を持つようになるでしょう(マタイ13:16参照)。
考えるための質問:あなた自身が学ぶ備えをするために,何をしますか。備えをすると,神の言葉を見て,聞いて,理解する方法は,どのように変わってくるでしょうか。学ぶ備えをするよう,どのようにして人々を鼓舞すればよいでしょうか。備えをしたうえで学ぶと,福音の真理の受け入れ方はどのように変わってくるでしょうか。
救い主は,学んでいる真理を分かち合うよう人々に勧められた
エノクは福音を宣べ伝えるよう主から召されたとき,「わたしは口の重い者……です」と言って嘆きました。しかし,雄弁さが主の僕に求められたことは,一度もありません。その代わりに,十分な信仰があって口を開くならば言葉が与えられると,主はエノクに約束して,「わたしはあなたに語る力を与えよう」と言われたのです(モーセ6:31-32)。エノクは信仰を働かせ,主は確かにエノクを通して語られたため,その言葉は非常に力強く,民は震え上がりました(モーセ6:47参照)。実に,地そのものが揺れ動いたほどです。山々は逃げ去り,川はその流れを変え,国々は神の民を恐れました。「それほどエノクの言葉は力強く,また,それほど神が彼に与えられた言葉の力は大いなるもの」(モーセ7:13)でした。
主は,預言者だけでなく,わたしたち全員に主の言葉を語る力を持ってほしいと望んでおられます。あなたが教える人々を含めた全員がその力を持つことを,主は望んでおられるのです(教義と聖約1:20-21参照)。わたしたちの言葉が山を動かしたり,川の流れを変えたりすることはないかもしれませんが,心を変える助けになることはあります。学習者が救い主とその福音について学んでいることを互いに分かち合う機会を設けることが大切なのは,そのためです。そのような機会があると,学習者は教えられた真理を自分のものにして,それを表現することができるようになります。また,別の場面で真理を分かち合う自分の力に,自信が持てるようにもなります。
考えるための質問:だれかと福音の真理について話をしたときのことを,考えてみてください。その経験から,どのようなことを学びましたか。だれかが勇気を出して自分の考えや信条を分かち合ってくれたことに,あなたが感謝したのはどんなときですか。あなたが教える人々は,学んでいることについて話す機会を通して,どのような恩恵を受けるでしょうか。彼らのために,あなたはどのような機会を提供することができますか。
救い主は御自分が教えられたことに従って生活するよう人々に勧められた
「あなたがたの光を人々の前に輝か〔せ〕なさい。」「敵を愛し〔なさい〕。」「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。」「狭い門からはいれ。」(マタイ5:16,44;7:7,13)救い主の地上での働き全体における最も鮮明で記憶に残る勧告の幾つかは,ガリラヤの海を見下ろす山腹で弟子たちを教えられたときに語られました。救い主の目的は人生を変えることにあります。このことを,勧告の最後に与えられた言葉の中で,主は明らかにしておられます。「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを,岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」(マタイ7:24;強調付加)
だれの人生にも雨が降り,洪水が押し寄せ,風が吹きます。学習者が今後直面するすべての試練に立ち向かおうとするのであれば,福音について学ぶだけでは十分ではありません。だからこそ,どのようにしたら学んでいることに従って生活することができるかを考えるよう,学習者たちに勧めるのをためらうべきではないのです。人の選択の自由は尊ぶべきですから,招き方は多くの場合,「あなたは何をすべきだと感じますか」のような一般的なものになるでしょう。時には,「取り組みたいと思う救い主の特質を,一つ選んでいただけますか」などのように,もっと具体的に勧める必要が出てくることもあるかもしれません。聖霊の促しに耳を傾け,促しを受けたらそれを認識し,学習者が分かち合う機会を設けるならば,主は彼らが個人的に何を行わなければならないかを教えてくださるでしょう。学んだことを実行するときに得られる祝福について考えられるよう,学習者を助けてください。また,たとえ難しくなってもそれを実行し続けるよう励ましてください。真理の実践は,より大きな信仰,証,改心につながる最速の道です。救い主が言われたように,御父の教義に従って生活することは,だれにとっても教義が真実であることをほんとうに知るための道なのです(ヨハネ7:17参照)。
考えるための質問: だれかの勧めを受けて行動するよう霊感を受けたのは,どのようなときですか。その結果,あなたの生活はどのように変わりましたか。聖典に記されている招きや,教会指導者からの招きに心を留めてください。人々に行動するよう招くときに役立つことで,あなたが学んだのはどのようなことですか。どのような方法で,自分が招いたことをフォローアップすることができるでしょうか。
聖文から:ルカ10:36-37;ヨハネ7:17;ヤコブの手紙1:22;モーサヤ4:9-10;教義と聖約43:8-10;82:10