第5章
十二使徒定員会
はじめに
十二使徒定員会のボイド・K・パッカー 会長(1924-2015年)は,定員会のほかの使徒たちについて次のように述べています:
「現在の十二使徒は実に平凡な人たちです。キリストの時代の十二使徒と同様,一人一人は人目を引きませんが,全体が集まると大きな力を発揮します。
皆以前は様々な職業に就いていました。科学者や弁護士,教師もいます。
ネルソン長老は心臓外科の分野での開拓者的存在で,数え切れないほどの手術をしました。
定員会には,船員,海兵隊員,パイロットとして軍隊にいた使徒も何人かいます。
皆,教会で様々な責任を果たしてきました。ホームティーチャー,教師,宣教師,定員会会長,ビショップ,ステーク会長,伝道部会長,そして最も大切な,夫と父親として奉仕してきたのです。
全員が,イエス・キリストの福音の生徒であり,教師です。そして救い主を愛する気持ち,御父の子供たちを愛する気持ち,また主がこの教会の頭であられるという証によって一つとなっています。
十二使徒のほとんどは,地上でのキリストと同様,つましい家庭の出です。生ける十二使徒はイエス・キリストの福音を教え,導くことにおいて一つとなっています。召しが与えられたとき,各自が自分の網を捨てて主に従いました。
キンボール大管長のこの言葉は有名です。『わたしの人生は奉仕を通して擦り切れていく靴のようなものです。』十二使徒の全員も同じです。主に仕える中で擦り切れていきます。喜んでそうしています。」(「十二使徒」『リアホナ』2008年5月号,85-86。『歴代大管長の教え—スペンサー・W・キンボール』 xxxviも参照)
この章を研究するときに,使徒たちの役割と責任を学ぶことで個人の証を強めるよう努めてください。使徒たちは,神聖な神権の鍵を通して教会を導いています。その鍵により,使徒たちはイエス・キリストの特別な証人となり,福音を世界に宣べ伝えています。
解説
5.1
使徒たちは主のまことの教会の土台の一部を成す
使徒パウロは次のように教えています。忠実な聖徒は「神の家族なので〔あり〕……使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって,キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。」(エペソ2:19-20;強調付加)
1980年4月6日付けの宣言の中で,大管長会と十二使徒定員会は次のように宣言しました:
「わたしたちは,末日聖徒イエス・キリスト教会が回復された教会であり,神の御子がこの地上でその御業を行っておられたときに設立したもうた教会が,そのまま回復されたものであることを厳粛に断言するものであります。この教会は聖なるイエス・キリスト御名を冠し,イエスを隅のかしら石として使徒と預言者の上に建てられています。」(「末日聖徒イエス・キリスト教会大管長会および十二使徒定員会による宣言」『聖徒の道』1980年9月号,84)
5.2
使徒は特別な証人であり,イエスがキリストであられることを知っている
ハロルド・B・リー大管長(1899-1973年)は,使徒たちによるイエス・キリストの証の現実性を二人の宣教師が理解する手助けをしたときの経験について次のように話しています:
「数年前,一組の宣教師がやって来ました。難しい質問を抱えているようでした。彼らの話によると,ある若いメソジスト派の牧師に,今日この地上にあってまことの教会を設立するには使徒が必要であると話したところ,一笑に付されたということでした。そして牧師はこう語ったそうです。『ユダが死んでその空席を補充するために一人の人を選ぶ必要に迫られたとき,彼らが,その人は主の使命から復活まで含めてすべてを目撃した人でなければならないと言ったのを覚えておいででしょう。これが使徒の資格であるとしたら,あなたの教会の使徒たちはどうなのですか。』
二人の若者はわたしに『どう答えたらよいでしょうか』と尋ねてきました。
わたしはこう言いました。『帰ってその牧師さんに二つの質問をしなさい。第1に,使徒パウロは使徒としてその資格をどのようにして得たのですか。パウロは主を知りませんでした。主と親しく接したことはありませんでしたし,他の使徒とともに行動したこともありません。主イエスの導きと教え,それに復活も目撃していません。そのような状況で,彼はどのようにして資格を得たのですか。第2に,今日の使徒が古代の使徒と同じ証を得ることがないとなぜ決めつけられるのですか。』
わたしは証します。今日において使徒と呼ばれる人は,主の使命についてあたかもその場にともにいたかのように知ることができるし,また実際にその知識を得ているのです。」(Stand Ye in Holy Places〔1974年〕,64-65)
使徒たちは,個人の啓示によってイエスがキリストであられること,またイエスが復活された御方であられることをはっきりと知っています。聖典には「使徒たちは主イエスの復活について,非常に力強くあかしをした」と書かれています(使徒4:33)。ジョセフ・F・スミス大管長(1838-1918年)は,使徒たちの召しの神聖さについて次のように説明しています:
「これらの十二人のキリストの弟子は,イエス・キリストの神聖な使命を直接目で見,耳で聞いた証人と考えられています。十二使徒は,ただ単にわたしは信じる,とか,わたしは信じているので受け入れているのだ,と言うことは許されません。啓示を読めば明らかなことですが,彼らは知らなければならない,自分で知識を得なければならないと,主はわたしたちに教えておられます。十二使徒は,自分の目で見,耳で聞いたかのように真理を知らなければなりません。主は十字架につけられた後死からよみがえり,現在全能の力を持って神の右手に立っておられます。世の救い主イエス・キリストを証するのが彼らの使命です。上の教えと真理を世界に宣べ伝え,宣べ伝えられていることを確かめるのが使命であり,義務です。」(Conference Report, 1916年4月,6)
教義と聖約107:23には,「十二人の巡回評議員は召されて,十二使徒,すなわち全世界におけるキリストの名の特別な証人となる」と書かれています。十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長(1924-2015年)は,イエス・キリストについての使徒たちの証の神聖さについて次のように話しています:
「過去1年の間にわたしはしばしば質問を受けてきました。多くの場合それらの質問は好奇心から生じたたわいないもので,キリストの証人として立つための条件についてでした。彼らが尋ねるのは,『イエス・キリストを見たことがありますか』という質問です。
これはわたしが他の人に対して1度も尋ねたことのない質問です。わたしはこのような質問は非常に神聖な個人的なものであり,人がある特別の霊感によって実にある権能を授けられたときにさえ,尋ねることの畏れ多いものであると考えているので,定員会の兄弟たちに尋ねたこともありませんでした。
話すべきでない神聖な事柄が幾つかあります。……
この教会において高い職にある指導者や,ワードおよび支部の会員たちが『わたしは神が生きたまい,イエスがキリストであることを知っている』という同じような言葉で証するのを聞く人々は皆,次のような疑問を感じます。『なぜもっと明解な言葉で言わないのでしょうか。』『なぜあの人たちはもっと明確にもっと分かりやすく言わないのでしょうか。』『使徒たちはもっとほかに言うことはないのでしょうか。』
神殿での神聖な経験がどれほどわたしたちの証を培うかということです。証は神聖であって,わたしたちが証を言葉として述べようとすると,同じ言葉になるのです。使徒たちは初等協会の小さな子供たちや,日曜学校の若者たちが述べるのと同じ言葉でこう証します。『わたしは神が生きておられること,イエスがキリストであられることを知っています。』
わたしは『御霊』の導きによらなければ,軽々しく尋ねたり答えたりしてはならない質問があると申し上げました。わたしは他の人々に対してそのような質問をしたことはありません。しかし,質問されたときではありませんでしたが,彼らがその質問に答えるのを聞いたことがあります。彼らは『御霊は証する』神聖なときに,『御霊』の勧めによってそれに答えたのです(教義と聖約1:39)。
わたしは幹部の一人が次のように言うのを聞いたことがあります。『わたしは自分の経験から,イエスがキリストであられるということは,言い表し得ないほど神聖なことであると知っています。』
またある幹部は『わたしは神が生きておられることを知っています。主が生きておられることも知っています。それだけでなく,わたしは主を知っています』と証しました。
彼らの証に意味をもたらし,力を与えたものは,その言葉ではありません。『御霊』です。『人が聖霊の力によって語るときには,聖霊の力がそれを人の子らの心に伝えるからである。』(2ニーファイ33:1)
わたしは,この聖なる職に召された人々の中では自分があらゆる面で最も小さな者です,という気持ちを常に抱きつつ,謙遜にこの話をしています。
さてわたしも皆さんと同じように,なぜわたしのような者が,聖なる使徒職に召されたのか不思議に思っています。わたしには多くの面でこの召しを行うのに必要な資格に欠けています。この資格を満たすために,努力しなければならないことがたくさんあります。このことについて考えていると,わたしはたった一つ,恐らくこの職に召された理由だと思われることに一つだけ気づくのです。それはわたしが先ほど述べた証を持っているということです。
わたしはイエスがキリストであられることを皆さんに証します。わたしは,イエスが生きておられることを知っています。イエスは時の絶頂にお生まれになり,福音を教え,試みに遭われ,十字架にかかられました。そして3日後に復活されました。イエスは復活の初穂であり,骨肉の体を有しておられます。これらのことを証します。わたしはイエス・キリストの証人です。」(「『みたま』は証す」『聖徒の道』1972年,1月号,10-11参照)
ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)は,使徒としての自身の証について次のように述べています:
「わたしは聖任された使徒,キリストの特別な証人として,イエス・キリストが実際に神の御子であられることを謹んで証いたします。キリストは,旧約聖書の預言者たちが待ち望んだメシヤです。キリストはアブラハム,イサク,ヤコブの子孫が,何世紀にもわたって規定どおりの礼拝を通じて来臨を祈り続けたイスラエルの望みです。
イエスは,ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けて,御父の御旨に従われた神の愛する御子です。イエスは荒れ野で悪魔に試みられながら,誘惑に屈しませんでした。救いを得させる神の力である福音を宣べ,至る所すべての人が悔い改めてバプテスマを受けるようにと命じられました。イエスは権威を持つ者として語り,罪を赦し,足や目,耳の不自由な人々を癒すことによってその力を示されました。水をぶどう酒に変え,ガリラヤ湖の荒波を鎮め,地上を歩むかのようにその水の上を歩かれました。命を狙うよこしまな支配者たちを狼狽させ,悩む心に平安を与えられました。
そしてついに,ゲツセマネの園で苦しみ,十字架上で亡くなられて,世に生まれるすべての人のため身代わりとして罪のない命をささげられたのです。イエスはそれから3日目にまさに死からよみがえり,復活の初穂となって死に打ち勝たれました。
復活された主は,証人として神から選ばれた人間に時折姿を現し,あるいは聖霊を通じて御心を啓示しながら,救いの御業を続けておられます。
わたしが証を述べるのは,聖霊の力によってです。わたしは自分の目で見,耳で聞いたようにキリストの実在を知っています。また,信仰の耳をもって聞くすべての人の心に,御霊がわたしの証の真実なことを証すると知っています。」(「使徒が語るキリストの証」『聖徒の道』1984年8月,8-9参照)
5.3
神の王国のすべての鍵が使徒に与えられる
大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は,使徒の神権の鍵の重要性について次のように証しています:
「パウロはエペソの人々に,主の教会の頭はキリストであられると証しました。そしてパウロは,救い主が神権のすべての鍵を保持する預言者と使徒の土台の上に御自身の教会を建てられたことを教えました。
パウロは,ジョセフ・スミスが預言者となり,天が再び開かれる日を待ち望んでいました。そして,それは実際に起こりました。バプテスマのヨハネが地を訪れ,アロン神権を死すべき人に授け,天使の働きと,罪の赦しのために水に沈めるバプテスマの鍵を授けました。
古代の使徒と預言者たちが地を訪れ,彼らが地上にあったときに保持していた鍵をジョセフに授けました。1835年2月,死すべき人が聖なる使徒の職に聖任されました。1844年3月の後半に,十二使徒に神権の鍵が授けられました。
預言者ジョセフ・スミスは自分の死が差し迫っていることを知っていました。また,神権の鍵と使徒の職が再び失われることはあってはならないし,またあり得ないことも知っていました。
使徒の一人であるウィルフォード・ウッドラフは,ノーブーで預言者が十二使徒に語ったときのことを記しています:
『その場で預言者ジョセフは立ち上がり,わたしたちにこう言いました。「兄弟たち,わたしはこの神殿が完成するのをこの目で見たいと望んでいました。わたしはこの目でそれを見ることはないでしょう。しかし,あなたがたは見るのです。わたしは,あなたがたの頭に神の王国のすべての鍵を結び固めました。天の神がわたしに啓示されたすべての鍵,力,原則をあなたがたに結び固めたのです。今や,わたしがどこへ行こうと何をしようと,王国はあなたがたのうえにあるのです。」』
ブリガム・ヤングから〔現在の大管長〕に至るまで,ジョセフの後に続いた預言者は皆,この鍵を保有し,行使し,聖なる十二使徒の職を保持してきました。」(「信仰と鍵」『リアホナ』2004年11月号,27-28)
十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,使徒の神権の鍵を地上で完全に行使できるのは,先任使徒のみであると説明しました:
「神の王国の鍵すなわち地上の王国を統治するに当たって大管長会が持つ権威と権能は,初めに天より明らかにされ,次いで使徒として聖任され,十二使徒評議員会の一員として按手聖任された一人一人に啓示の霊により授けられるのです。
しかしこの鍵は大管長会が持つ権能ですから,それを完全に行使することのできる人は一時代に一人しかいません。その人は常に先任使徒であり,管理使徒であり,管理大祭司であり,管理長老です。他の使徒たちに指示を与えることができるのはその人だけであり,その指示は絶対です。
したがって,この鍵は,すべての使徒に与えられてはいますが,使徒の中のだれかが先任使徒となって地上における主の油注がれた者とならないかぎり,ある程度の制限の下に行使されるのです。」(「王国の鍵」『聖徒の道』1983年7月号,39,強調付加)
預言者,聖見者,啓示者としての鍵を持つ十二使徒は,その鍵によって教会の大管長によって与えられる責務を執行することができます。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は次のように説明しています:
「十二使徒は自分たちの責務において導きとなる啓示を,あるいは神権や教会組織を整えるための啓示を受けることができます。十二使徒は管理者からステークに派遣されると,啓示を受けたり,組織を変更したり,主の御心にかなってほかの事柄を処理したりする権能を持っています。しかし教会全体の導きとなる啓示を受けることはありません。それができるようになるのは,大管長の地位を継ぐことになった場合のみです。つまり,教会全体のために啓示と導きを受ける権利は,十二使徒一人一人に与えられてはいますが,それはある使徒が大管長の職に就くまでは,行使されることはないということです。教会の大管長が存命中は,発動されない力なのです。」(Doctrines of Salvation,ブルース・R・マッコンキー編,〔1956年〕,第3巻,157,強調付加)
5.4
十二使徒の責務
「十二人の巡回評議員は召されて,十二使徒,すなわち全世界におけるキリストの名の特別な証人となる。このように彼らは,その召しの義務が教会における他の役員とは違っている。……
十二使徒会は巡回管理高等評議会であり,天の規定にかなって教会の大管長会の指示の下に主の名において職務を行い,またまず異邦人のために,次いでユダヤ人のために,教会を築き上げ,すべての国々において教会の諸事をすべて整える。
七十人は,十二使徒会,すなわち巡回高等評議会の指示の下に主の名において行動し,まず異邦人のために,次いでユダヤ人のために,教会を築き上げ,すべての国々において教会の諸事をすべて整える。
十二使徒は,遣わされ,鍵を持ち,イエス・キリストの福音を宣言することによって門を開く。これはまず異邦人に,次いでユダヤ人に行われる。……
十二使徒はまた,啓示に従って教会の他のすべての役員を聖任し,整えなければならない。」(教義と聖約107:23,33-35,58)
十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長は,使徒の責務について次のように話しています:
「主は『ある人を使徒とし,ある人を預言者とし……た』理由を明らかにされました。それは,『聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ,キリストのからだを建てさせ,
わたしたちすべての者が,神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達』するためです〔エペソ4:11-13〕。
したがって,使徒,すなわち大管長会と十二使徒定員会の務めは,信仰の一致をもたらし,救い主に関する知識を宣言することです。主の『もっとすばらしい方法』を学び従うすべての人の生活を祝福すること,それがわたしたちの務めなのです〔1コリント12:31;エテル12:11〕。わたしたちは救いと昇栄が得られるように人々を備えさせる必要があります。」(「救いと昇栄」『リアホナ』2008年5月号,8)
ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,使徒の基本的な職務を次のようにまとめています:
「大管長会と十二使徒評議会は,神権の鍵を持つ者として召され聖任されていて,教会を管理し,儀式を執行し,教義を解釈し,慣例を設け維持する権能と責任を与えられています。使徒に聖任され,十二使徒評議員会会員として支持された人は皆,預言者,聖見者,啓示を受ける者として支持されます。」(「神がかじを取っておられます」『聖徒の道』1994年7月号,59,強調付加)
十二使徒定員会の会員の選抜と聖任が行われた後に,当時教会の大管長補佐であったオリバー・カウドリ管長(1806-1850年)は,彼らに次のような訓告を与えました:
「あなたがたは聖なる神権に聖任され,御使いより権威権能を授かった人々からこれを受けています。あなたがたには,すべての国々にこの福音を宣べ伝える責任があります。与えられた責任を十分に果たさなければ,大いなる罪がその頭に下るでしょう。偉大な召しであればあるほど,それを怠ったときの罪は大きいのです。それゆえ,心からへりくだるようにと警告申し上げます。人の心の思い上がりというものをわたし自身よく知っているからです。世のへつらいに踊らされてはなりません。世のものに心を奪われてはなりません。あなたがたの務めを第一にするのです。忘れないでください。人々の救いがあなたがたの働きに委ねられています。この召しにこたえるなら,限りない祝福がいつもあなたがたとともにあるでしょう。
……あなたがたは今や自分の力で天よりの証を受ける必要があります。
…… 信仰を強め,疑いや罪,一切の不信仰を捨ててください。そうすれば,あなたがたが神に近づくのを何ものも妨げることができないでしょう。あなたがたの聖任は,神御自身がその御手をあなたがたの上に置かれて初めて完全なものとなります。わたしたちは資格を得るために,昔の使徒たちと同じことが求められているのです。神は昔も今も変わっておられません。救い主がかつて使徒たちの頭に御自身の手を置かれたのであれば,末日においてもそうされるのではないでしょうか。
……あなたがたは一つであり,すべての国民に対する王国の鍵を各々が等しく受けています。神の御子の福音を地のもろもろの民に宣べ伝えるために召されているのです。あなたがたが福音を地の果てや海の島々にまで宣べ伝えることは,天の御父の御心です。
人々を救うために熱心に働いてください。どの人も同じように尊い存在です。いつの時代も,悪魔は神の僕の命を奪おうとしてきました。だから,もし御業の発展と成就のために命を犠牲にするよう神から求められたら,いつでもそれに応じられるように備えておいてください。神に不平を言ってはなりません。常に祈ってください。油断してはなりません。……
……あなたがたの召しを忠実に果たすように勧告します。欠けるところがあってはなりません。すべての点において十分に召しを果たさなければなりません。……すべての国民にはあなたがたに要求する権利があります。あなたがたは髪が白くなるまで,分かれては会い,会っては分かれるのを繰り返すでしょうが,三人の見証者のように互いに堅く結ばれているのです。」(History of the Church, 2:195-96, 198,強調付加)
5.5
神の王国を確立するために使徒は世界中に遣わされる
ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,使徒(apostle)という言葉の意味を次のように説明しています:
「使徒(apostle)という言葉はもともと字義的には『遣わされた人』という意味です。この定義がもし『ある権能と責任をもって遣わされた人』を表しているのだとしたら,主がこの地上を歩まれたときに与えられた召し,そしてわたしたちの時代に与えられている召しを的確に表していることになります。」(「キリストの特別な証し人」『聖徒の道』1984年7月号,92,強調付加)
ブリガム・ヤング大管長(1801-1877年)は,全世界に神の王国を確立することは,使徒の務めであると次のように説明しています:
「使徒が受けている召しは,全世界に神の王国を築くことです。この力を行使する鍵を持つのは使徒であって,ほかのだれでもありません。使徒が召しを尊んで大いなるものとするなら,主の民にとっては常に使徒自身の言葉は主の言葉に等しいのです。」(Discourses of Brigham Young,ジョン・A・ウィッツォー選〔1954年〕,139,強調付加。歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』153も参照)
十二使徒定員会のL・トム・ペリー長老(1922-2015年)は,使徒の責務により,彼らは全世界に遣わされると次のように説明しています:
「十二使徒は今でも引き続き『遣わされた者』です。わたしたちが割り当てを果たすために旅をするときと,教会初期の使徒たちが旅をしたときとでは,状況が異なっています。現在,世界中を旅する方法は初期の使徒たちの時代とは随分違うのです。しかし,わたしたちの責任は,かつて救い主がお与えになったのと同じです。主は御自分が召した使徒にこう指示を出されました。『それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ,わたしは世の終りまで,いつもあなたがたと共にいるのである。』(マタイ28:19-20)」(「定員会とは何ですか」『リアホナ』2004年11月号,24)
七十人のブルース・C・ヘイフェン長老は,十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)が1年間に世界で訪れた場所について次のように説明しています:
「1年間に個人で担当する割り当ては交代制であるにせよ,この全世界に広がる教会の使徒はそれぞれ,その業はまさに世界にまたがるものであり,すべての教会のプログラムだけでなく,すべての国とその地の人々を取り巻くものとなっています。その一例として1993年のマックスウェル長老が参加した大会や特別集会の割り当てを見てください〔表を参照〕。
中国やモンゴルにも行きますし,1年間に行う大きな割り当てはこのように大変なものです。しかも,これは他のすべての十二使徒に共通して見られるものです。」(A Disciple’s Life: The Biography of Neal A. Maxwell〔2002〕,458-459)
ニール・A・マックスウェル長老の大会と特別集会の割り当て(1993年度)
日付 |
場所 |
割り当て |
---|---|---|
1月30日 |
ユタ州マンタイ |
ステーク大会 |
2月13日 |
ユタ州プロボ |
地区大会(BYU既婚者のステーク) |
2月20日 |
ソルトレーク・シティー |
マデレイン・カトリック大聖堂の奉献 |
2月27日 |
テキサス州エルパソ |
ステーク大会 |
3月6日 |
メキシコ,エルモシージョ |
地区大会 |
3月13日 |
カナダ,トロント |
ステーク大会 |
4月9日~19日 |
モンゴル,中国,北京 |
モンゴルの奉献,中国政府関係者への訪問 |
4月25日~26日 |
カリフォルニア州サンディエゴ |
サンディエゴ神殿奉献 |
5月1日 |
ユタ州オグデン |
地区大会 |
5月22日 |
フランス,パリ |
ステーク大会 |
6月12日 |
アイダホ州ツインフォールズ |
地区大会 |
6月19日 |
ユタ州スプリングビル |
ステークの再組織 |
7月4日 |
ユタ州プロボ |
フリーダム・フェスティバル |
8月22日 |
ソルトレーク・シティー |
ユタ北地域ステーク会長への訓練 |
8月28日 |
オレゴン州ニッサ |
ステーク大会 |
9月11日 |
カナダ,モントリオール |
地区大会 |
10月16日 |
ノースカロライナ州ローリー |
地区大会 |
10月23日 |
ミシシッピ州ハッティーズバーグ |
地区大会 |
6年11月 |
日本,東京 |
伝道部会長セミナー,地域訓練 |
13年11月 |
韓国,ソウル |
地域訓練 |
17年11月 |
香港 |
地域訓練 |
20年11月 |
フィリピン,マニラ |
伝道部会長セミナー,地域訓練 |
12月4日 |
イリノイ州シカゴ |
シカゴ神殿ワーカーの集会 |
(A Disciple’s Life: The Biography of Neal A. Maxwell〔2002年〕,459)
大管長は,時として十二使徒定員会のある会員に,世界の一部の地域を一定期間管理するよう割り当てを与えることがあります。移動手段とコミュニケーション技術の発達により,使徒たちがこれらの地域をアメリカ合衆国にある教会本部から監督することができるようになりましたが,過去には海外の国に居住して職務を行った使徒もいます。一例として,ダリン・H・オークス長老とジェフリー・R・ホランド長老は,2002年-2004年まで地域会長としてそれぞれフィリピンとチリで奉仕し,L・トム・ペリー長老は,2004年ー2005年まで地域会長としてヨーロッパ中部に滞在していました。
ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,世界に住む人々に教えを伝える使徒の責務について次のように教えています:
「彼らの最大の関心事は地上における神の業を推し進めることであり,教会の内外を問わず,御父の子供たちの福利を気遣うことに違いありません。彼らは悲しむ人を慰め,弱い人を力づけ,くじけそうな人を励まし,友のいない人の友になり,生活に困っている人を養い,病人を祝福します。,そして神の御子であり,友であり主であって,自分たちが僕として仕える御方について,信じていることとしてではなく確かに知っていることとして証を述べるために,行えることをすべて行うに違いないのです。」(“Special Witnesses for Christ,” 49-50)
5.6
すべての国民に福音を宣べ伝えるよう扉を開く鍵が使徒に与えられている
預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は次のように教えています。十二使徒は「この務めの鍵を持ち,すべての国民に対して天の王国の門の錠を開け,すべての造られたものに福音を宣べ伝えます。これが彼らの使徒職に伴う権威と権能と力です。」(History of the Church, 2:200。『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』141も参照)
大管長会の指示の下,十二使徒は政府関係者やそのほかの国家指導者たちと交渉を行い,伝道の業のための「扉を開き」ます。また,神権の権能を行使して,福音を宣べ伝えるために国々を再び奉献します。エズラ・タフト・ベンソン大管長(1899-1994年)は次のように説明しています:
「世界の各国での伝道活動は,大管長会または十二使徒定員会の会員がその国をその目的のために奉献して初めて始まります。教会は国の法律を遵守し,教会の慣習がその国の法律やしきたりと対立することがないようにしています。教会の慣習が法律で許可されない国では伝道活動をすることはありません。」(“150th Year for Twelve: ‘Witnesses to All the World,’” Church News, 1985年1月27日,3,強調付加)
十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,1925年にバラード長老の祖父が使徒の鍵によって南アメリカを奉献したときの経験について次のように話しています:
「パーリー・P・プラット長老が南米を訪れたのは1851年です。1925年に伝道再開の試みがなされました。1925年のクリスマスの日に,アルゼンチン,ブエノスアイレスのトレスデフェブレロ公園で,わたしの祖父メルビン・J・バラード長老が福音伝道の地として,南アメリカを奉献しました。そのときの奉献の祈りから引用したいと思います。
『南アメリカ諸国の大統領,統治者,指導者を祝福し,彼らが我らを受け入れ,この地の人々に救いの門戸を開く許しを与えるようになさしめたまえ。
御父よ,我は我に与えられたる,祝福を施す権能,大管長よりの命,また聖なる使徒職の権能により,南アメリカのすべての国々に福音が宣べ伝えられるよう,この扉の鍵を開き,この地において福音の宣教を妨ぐるあらゆる力が鎮められるよう,戒め,かつ命じん。またさらに,福音を宣べ伝える地として,この地の諸国を祝福し,奉献するものなり。かくして,救いがすべての人々に及び,シオンの地のこの一角にても,汝の名がたたえられ,栄えを受けんことを。』(Crusader for Righteousness〔Salt Lake City: Bookcraft, 1966年〕,p. 81。強調付加)」(「南米における王国の発展」『聖徒の道』1986年5月,13)
5.7
十二使徒定員会の決定は全会一致で行われる
教会を管理する評議会でいかに全会一致が実現するかを説明するために,十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長(1924-2015年)は次のように話しています:
「皆さんの教会がどのように管理されているかは,大管長会と十二使徒定員会の集会で用いられる原則と手順を説明するのが最も良いでしょう。これらの手順は,わたしたち全員が持っている人の弱さからこの業を守ってくれるものです。
ある事柄が神殿で行われる会議で大管長会と十二使徒定員会の前に提示されると,すぐに判断することは,それが重大な結果をもたらすものかどうかということです。一見影響がなさそうでも後々、大きな永続的な結果をもたらす評議事項があることを皆さんも私も知るでしょう。
管理定員会の決定は,『定員会の全会一致の声によってなさなければならない』こと,また『全会一致でない限り,彼らの決議は……同等の祝福を受けるに値しない』ことは啓示により明白なことです(教義と聖約107:27,29)。全会一致となるようにするために,結果を伴う課題は,それが提案された時点で結論を出すことはほとんどありません。また提案が大きな問題の一部である場合は,各自が課題を明確に理解できるように,または,よくあることなのですが,その課題について明確な気持ちを得られるよう,『意見が一つとなる』ようにするための時間を十分に取ります。……
どの経路を通じてその課題が上がってきたのか,提案したのはだれか,その集まりに出席または欠席していたのはだれかということが決定を左右するような提案が,故意に行われることは考えられません。
通例の会議では,欠席者がいることはよくあることです。御業を進めねばならないことはわたしたち全員が理解していますし,他の兄弟たちの決断を受け入れます。しかし,ある課題について特定の使徒が定員会の他の兄弟たちよりも詳しく調べ上げている場合,あるいは割り当て,経験,個人の興味などにより他より詳しい使徒がいる場合は,その使徒が討議に参加できるまで課題を遅らせることがよくあります。
そして常に,わたしたちのだれかが問題を理解できない場合,または確信を持てない場合は,将来の会議まで保留にします。
評議会の一員が病気で入院中でありながら,遅らせることができない急を要する決断で『全会一致』が必要な場合に,その兄弟と話し合うために代表団を病院に送ったことも覚えています。ほかには,討議中の課題について海外にいる兄弟に気持ちを伺うために,わたしたちのだれかが一時会議を離れて電話をかけることもあります。
わたしたちが守っているルールがあります。それは評議会に参加している兄弟たち全員(だれか一人でもなく,委員会だけでもなく)の気持ちが一致したことを記録する議事録に記入されるまで,結論には達していないということです。今後の行動を記す議事録が記録されるまで,事実上の承認は,行動に移してよいという意味にはなりません。通常その議事録は次の会議で承認されます。
決定した事柄について,後になってから時にだれかの気持ちが落ち着かないことがあります。その気持ちを軽視することは決してありません。その落ち着かない気持ちは,実は啓示の霊かもしれないからです。
わたしたちが集う評議会ではそのような方法を取っています。そうすることで教会の安全を守り,個人的に責任を負っているわたしたち一人一人が安心できるようになります。神の計画の下では,平凡な能力の人たちが,助言や霊感による導きによって非凡な事柄を成し遂げるのです。」(“I Say unto You, Be One”〔ブリガム・ヤング大学デボーショナル,1991年2月12日〕3-4,speeches.byu.edu,強調付加)
大管長会のジェームズ・E・ファウスト管長(1920-2007年)は,全会一致がなぜそれほど大切なのかを次のように説明しました:
「この全会一致の原則が偏見や個人的な好みを排除します。この原則から確かなように,世の人が多数決や議論を通じて治めるのとは異なり,神は御霊によって治められます。また,人の持つ最高の知恵や経験を用いるのは,心に深く確かな指示を神から受けるまでのことです。全会一致は,人間の弱さを防ぐものなのです。」(「絶えざる啓示」『聖徒の道』1990年1月号,10参照;強調付加)
十二使徒定員会で奉仕する兄弟たちは,各自個人の意見を持ち,異なる背景を持つ人々でありながら,彼らの間で不一致や反目がないことをゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は次のように話しています:
「方針,手続き,プログラム,または教義に関する主要な問題については,大管長会と十二使徒会が一緒に,慎重に祈りをもって検討します。これら二つの定員会,すなわち大管長会定員会と十二使徒定員会は一緒に集会を持ち,全員が自由に意見を述べて,主要な問題を一つ一つ検討します。……
ここで再び主の言葉を引用したいと思います。『これらいずれの定員会が下す決議も皆,その定員会の全会一致の声によってなされなければならない。すなわち,彼らの決議を互いに同等の力すなわち効力のあるものとするために,各定員会のすべての会員がその決議に同意しなければならない。』(教義と聖約107:27)
大管長会と十二使徒の審議によるいかなる決議も,全会一致の同意なくしてなされません。最初の検討段階では,意見の相違が見られることもあります。それは当然のことです。これらの人々はそれぞれ異なる背景を持ち,自分自身の考えを持っています。しかし,最終決議を下す以前に,皆,心から一致し,同じ意見に到達します。
主の啓示された言葉に従うならば,このとおりになります。再び啓示の言葉を読みたいと思います。
『これらの定員会,またはそれらのいずれかの決議は,完全な義により,聖さとへりくだった心,柔和と寛容により,また信仰,徳,知識,節制,忍耐,信心,兄弟愛,および慈愛により下されなければならない。
なぜならば,これらのものが彼らの内にますます豊かになるならば,彼らは主を知る知識について実を結ばない者となることはない,という約束があるからである。』(教義と聖約107:30-31)
わたし自身の証を付け加えさせていただきます。わたしは十二使徒評議員会の一員として20年間,また大管長会の一員として約13年間働いてきましたが,その間にこの手続きが守られずに主要な決議がなされたことは一度もありませんでした。審議の中で意見の相違を見ることはありました。各人が自分の意見を述べる過程を通して,考えや概念が変更され選別されます。しかしわたしは,教会幹部の中に深刻な不一致や,個人的な反目を見たことは一度もありません。むしろ,聖霊の導きと啓示の力によって,それまで分かれていた見解が完全に調和し一致していく,美しくすばらしい光景を目にしてきました。そのときに初めて,様々な決議が実施されるのです。それこそ,この主の業を導く際に度々現れる啓示の御霊であると,証します。」(「神がかじを取っておられます」『聖徒の道」,1994年7月号,60)