「義にかなった道」『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第3巻「大胆かつ気高く,悠然と」1893-1955年,第3章
第3章:「義にかなった道」
第3章
義にかなった道
結び固めに関するウィルフォード・ウッドラフの啓示の知らせがヨーロッパ伝道部に届いたのは,アンソン・ランドがドイツの支部を訪問しているときでした。知らせを聞いたアンソンは「この啓示は多くの人の心に喜びをもたらすだろう」と叫びました。1
この新しい慣習は,彼の伝道部にいる数人の長老たちにとっても特別に意義深いものでした。聖徒たちが死者のために必要不可欠な儀式を執行できることを主がジョセフ・スミスに啓示されて以来,教会員たちは先祖を調べ,身代わりの儀式を執行してきました。移民の親を持つ長老たちの中には,親戚や公文書から先祖に関する情報をもっとたくさん集められるだろうと期待してヨーロッパに来る人たちもいました。2
それが,ウッドラフ大管長の啓示により,その長老たちの情報集めにさらなる目的が加わったのです。実際,教会中の多くの聖徒が,何世代にもわたって途切れることのない結び固めをしようと,以前に増して家族の歴史を調べることに熱心になっていきました。使徒で教会歴史家でもあったフランクリン・リチャーズは,教会が支援する系図図書館を作る計画まで立てていました。3
しかし,ヨーロッパとアメリカの不況によって,ヨーロッパの多くの聖徒たちは,ユタに移住する希望が持てなくなっていました。ユタは,先祖の儀式ができる神殿のある唯一の場所だったのです。アメリカ合衆国における金融危機は,ユタにやって来た聖徒たちの就労をほぼ不可能にしていたため,教会指導者は移民たちが仕事を求めてユタを離れるのではないかと心配していました。経済状況に失望した聖徒の中にはすでに,教会を去る人たちもいました。4
1894年7月,アンソンはユタがいかに悲惨な状況にあるかを知ります。大管長会はヨーロッパ伝道部に急きょ手紙を送り,教会に金銭的援助を求めるワードやステークがますます増えていて,教会の財政が耐えきれないほどひっ迫していると報告しています。
「このような状況に配慮し,当分の間,移民することを控えるよう指示することが賢明であると判断しました」と大管長会は書き送ったのです。5
このような要請をしたからといって,大管長会がイスラエルの集合をやめたわけではありません。それまでの40年間,聖徒たちは集合を命じた啓示を実行に移す努力を熱心にしてきました。宣教師たちは,世界中の新しい改宗者にユタに移民して主の宮の近くに住むよう勧めてきました。しかし,その慣行を,経済状況が良くなるまで中断しなければならなかったのです。6
「わたしたちは常にイスラエルの集合のために祈り,聖徒たちがシオンに来るのを見て喜びを感じています」と述べた後で大管長はこう付け加えています。「集合したイスラエルと,まだ集合していないイスラエルの利益を最大限守るために,大いなる知恵を働かせなければなりません。」
大管長会はアンソンに,状況が良くなるまで,ヨーロッパで教会を強めるように指示しました。「聖徒たちが皆,支部を強めて維持するために宣教師の長老たちをできるだけ助けることを自らの道徳的かつ宗教的義務と捉えるようにしてください」と書き送っています。7
アンソンは直ちに書簡のコピーを伝道部指導者に送り,その勧告に従うよう指示しました。8
1894年7月16日,連邦議会とグローバー・クリーブランド大統領は,ユタの住民が州憲法を起草することを許可します。同日中に,大管長会はワシントンにいる教会の協力者から電報を受け取り,喜びました。電報には,「州に昇格。自由獲得。努力が実る」とあったからです。9
聖徒たちが1849年に初めて州昇格の請願書を提出したとき,連邦政府は州ではなく準州への昇格を承認しました。準州の市民であるユタの住人には,自分たちの知事やその他の高官を選ぶ権利が与えられず,合衆国大統領が任命した役人を受けいれるしかありませんでした。この制度によって長年にわたり,聖徒たち,それ以外のユタ住民,そして合衆国政府の間に多くのあつれきが生まれました。また,聖徒たちが就くことのできない政府の役職も,幾つかありました。州政府の下で,ユタの人々はようやく自治権を手にすることができるのです。10
しかし,ユタの苦労はまだ始まったばかりでした。州憲法起草のためにソルトレーク・シティーで開かれた代表者会議で,エメリン・ウェルズやほかの女性指導者が新しい州憲法に女性の選挙権の復活を求める嘆願書を提出しました。アメリカ合衆国のほとんどの州と準州では女性の選挙権が認められていなかったのですが,ユタでは1870年に女性市民に選挙権を与えていたのです。しかし,その17年後,準州の聖徒たちの政治力を弱めるためにエドマンズ・タッカー法が制定され,この権利が剥奪されてしまいました。11
この法律に憤慨したエメリンとユタの女性たちは,ユタ準州全域に女性選挙権協会を組織します。また,国内外の女性選挙権団体と協力して,すべての女性に選挙権を与えることを求めて闘い続けたのです。12エメリンにとって,選挙権やその他の権利の目的は神聖なものでした。自由は,イエス・キリストの福音の原則だと信じていたのです。扶助協会は,会員たちに,自立して自分の能力を伸ばすように勧めていました。教会の集会では,女性たちも宗教上の業務に関する採決に参加していました。それなのに,なぜ公共の場で同じ特権を享受できないのでしょうか。13
しかし,女性の選挙権の問題は,教会の指導者の意見も二分する大きな議論を巻き起こします。14女性が選挙権を持つことに反対する人々は,女性は感情的で政治的な決定を下すことができないと主張するのが常でした。また,夫や父親,兄弟が女性を代表して投票しているのだから,女性が自分で投票する必要はないというのが彼らの言い分でした。15代表者会議で代表を務めたB・H・ロバーツ長老も,同様の考えを持っていました。彼はまた,女性の選挙権を州憲法に盛り込むことにも反対していました。そんなことをしたら激しい論争が起こって,州憲法がユタの有権者の承認を得られなくなると考えたからです。16
1895年の春,ソルトレーク・シティーで州憲法制定会議が開催されました。有権者でない人は公式な参加を禁じられていたため,女性たちは女性選挙権論者の一人の夫に頼んで代表者たちに向け嘆願書を読み上げてもらうことにしました。17
3月28日,B・Hは会議でこの問題について発言し,こう述べました。「この準州の大多数が女性に選挙権を与えることを支持していることは認めます。けれども,それに反対している人は非常に多く,彼らは激しく抵抗していて,その条項を入れるなら,必ずやこの州憲法に反対票を投じるでしょう。」18
2日後,ソルトレーク・シティーで長年ビショップを務めていたオーソン・ホイットニーが,女性選挙権論者のために会議で演説しました。彼は,政府に参加することは女性の行く末であると宣言し,代表者たちに女性に選挙権を与えることを支持するようにと勧めました。「わたしはそれが,全能の神がこの堕落した世を良くしてくださる偉大な手段だと思います。神はこの手段を使って,この世を世の創世主の座まで近づけてくださるのです。」19
エメリンも『ウーマンズ・エクスポーネント』(Woman’s Exponent)の社説で,女性選挙権に反対する人々に反論し,こう書いています。「女性に選挙権を与えることに反対する人たちが,自分たちは女性たちを崇拝し大切に思うから反対するのだと女性たちに信じさせようとしているのを見ると,哀れに思います。」「ユタの女性はこれまで,どのような試練のときもくじけることがありませんでした。その誠実さは疑問の余地がありません。」20
4月4日の総大会の扶助協会集会において,エメリンは,州憲法制定会議の代表者たちが新たな州憲法にそれを盛り込んでくれることを信じ,再び話者として女性の選挙権について話しました。次の話者のジェーン・リチャーズが,女性に選挙権を与えることを支持する人は起立するよう,部屋にいた女性たちに呼びかけました。部屋にいた全員が立ち上がりました。
エメリンの要請を受けたジーナ・ヤング会長が祈りをささげ,この大義を祝福してくださるようにと主に願い求めました。21
ユタ準州の女性たちが選挙権の嘆願書を提出しているころ,アルバート・ジャーマンは,父親に証を述べようとロンドンからイングランド南西部に向かっていました。彼はウィリアムに,教会に対する考え方を変え,有害な講演を止めてほしいと思っていました。父が話を聞いてくれさえすれば,相手の気持ちに理解を示しながら分かりやすく話す自分の言葉は父に通じるはずだと,信じていました。22
アルバートが訪ねてみると,ウィリアムはエクセターという町で快適な暮らしをしていました。ふさふさとした白髪に豊かなあごひげをたくわえた姿は,実際の年齢より老けて見えはしたものの,健康そのものでした。10年以上たっての再会に,ウィリアムは最初,アルバート本人かどうかを疑っているようでした。23イングランドに戻ったウィリアムは,アルバートが殺害されたといううわさを聞き,大管長会に問い合わせの手紙を送ったけれども,返事がなかったので最悪の事態を想定したというのです。24
しかし,直接会ったことで,アルバートはウィリアムに,自分が間違っていたと納得させることができました。25アルバートに,ウィリアムとの知恵比べの前に福音を学ぶように勧めたランド会長の助言は賢明なものでした。父親と再会したアルバートには,彼が知的な人物であることが見て取れました。26
それに,ウィリアムはアルバートに対して意地悪なことを言ったり,暴力を振るったりはしませんでした。1894年から1895年にかけてのイングランドの冬は厳しく,アルバートは呼吸器系の病気を患い,それが悪化していました。ウィリアムは天候が回復するまで,彼を自分の家に滞在させて療養させます。ウィリアムの妻のアンも,アルバートが回復するように,できる限りのことをしました。27
滞在中,アルバートは父親に証を述べようとしましたが,うまくいきませんでした。その間アルバートは,父親が意図的に教会についてうそを言っているのか,それとも,不条理なことを繰り返し言っているうちにそれをほんとうだと思い込むようになったのか考えましたが,結局分かりませんでした。28
ある日,ウィリアムはアルバートに,教会が1,000ポンド払えば,聖徒たちへの攻撃をやめてもよいと言い出しました。そのわずかな金をもらえれば,自分が聖徒たちを誤解していたことを公に認め,二度と教会を批判する目的で集会所に足を踏み入れないと言うのです。アルバートはランド会長にその提案を伝えましたが,大管長会はそれを拒否しました。29
数週間後,父親の教会に対する考えを変えられないまま,アルバートはエクセターを後にします。別れる前に,アルバートとウィリアムは写真館に行って一緒に写真を撮りました。ある写真では,ウィリアムがテーブルに座って開いた本のページを右手で指さし,アルバートがその後ろに立っています。別な写真では,二人が,父と息子として隣り合って座っています。ウィリアムのひげの奥に,かすかなほほえみが見て取れました。30
ソルトレーク・シティーにおける州憲法会議は,5月に終わりました。代表団は女性の選挙権を州憲法に盛り込むことを採択し,エメリン・ウェルズを始め,数えきれないほど多くの人々がそれを喜びました。31
大会終了後も,B・H・ロバーツは教会で専任の責任を果たしながら,政治活動を続けていました。州のどこに行っても,女性に選挙権を与えることに反対する彼の演説は不評でした。それでも,説教者また講演者としての彼の評判は,教会内でも教会外でも上々でした。9月,次の選挙の2か月前に,ユタ民主党が合衆国下院議員候補としてB・Hを指名します。32
何十年にもわたり,教会の指導者はユタ政府の重要なポストに就いてきました。聖徒たちはまた,ユタ準州における教会の影響力を維持するために,個人的な政治的信条を犠牲にして投票を一本化していました。しかし,1890年代に入って聖徒たちがいろいろな政党に別れるようになると,教会指導者はユタの住人がすべて同じ政治的意見を持っているわけではないことを認め,教会と政治の問題を分けることを意識するようになっていきました。当時,大管長会と十二使徒定員会は,中央幹部は政治について公に発言して有権者に影響を与えるべきでないということで合意していました。33
しかし,州憲法会議の期間中に限り,大管長会はこの勧告を一時保留にして,B・Hやその他の中央幹部が代表団を務めることを許可していたのです。その後,民主党に指名されたとき,B・Hは指名を受諾することが間違っているとは思いませんでした。また,大管長会がそれに異議を唱えていることにも気づいていませんでした。使徒のモーゼス・サッチャーも,民主党から米国上院選に立候補するように指名されたときに,同じように感じていました。34
しかし,1895年10月の総大会の神権会で,ジョセフ・F・スミスが,それぞれの定員会会員に相談なく指名を受諾したとして,この二人を公の場で叱責したのです。彼は集会に出席していた人たちに次のように述べています。「教会には神託を受ける使徒や預言者がいるのですから,彼らに助言を求めなければなりません。権能を受けた人が自分の好きなようにすると決めた瞬間,その人は危険な場所に足を踏み入れたことになるのです。」35
ジョセフ・F・スミスはこの発言の中で,B・Hの政治的信条を批判したわけではありません。むしろ,教会の政治的中立性と,専任の教会指導者はその時間と努力を教え導くことに集中させるべきであるという方針を再確認したのです。しかし,集会後,共和党員がその叱責を受けてB・Hの選挙運動に攻撃を仕掛けました。ジョセフ・F・スミスが共和党員だったことから,多くの民主党員はジョセフ・F・スミスが教会での立場を利用して自分たちの政党に打撃を与えていると非難しました。36
その後しばらくして,B・Hは新聞のインタビューに答えて,教会の権威を尊重していると語り,かろうじて大管長会が自分の選挙運動を妨害しようとしていると非難することはしませんでした。けれども,彼は,大管長会が反対しても自分には選挙に出馬する権利があると主張しました。教会の規則に違反していないと信じていたからです。その後,彼の発言はより大胆になります。ある政治集会では,教会における影響力を利用して有権者の意見を左右しようとする人々を糾弾しました。37
投票日当日,全国の共和党候補者たちがB・H・ロバーツやモーゼス・サッチャーのような民主党員を下して圧勝しました。そしてユタの有権者は,女性に選挙権を与える条項を含む新しい州憲法を承認したのです。
B・Hは公の場では明るく振舞おうと努力しました。彼も彼の政党も,選挙ではだれかが負けることは分かっていました。「それが今回はうちの政党だったというだけだ」と彼は言っていました。
しかし,心の中では,今回の敗北に深く傷ついていたのです。38
1896年1月4日,ユタはアメリカ合衆国の45番目の州になります。ソルトレーク・シティーでは,祝砲が鳴り,笛の音が響き渡りました。大勢の人が旗や垂れ幕を振りながら街に繰り出して,爽やかな青空に鐘が鳴り響きました。39
しかし,ヒーバー・J・グラントはまだ,友人のB・H・ロバーツとモーゼス・サッチャーのことが心配でした。二人とも公職に立候補する前に神権指導者に相談しなかったことについて謝罪しようとしなかったので,大管長会と十二使徒は,二人が自分たちの教会の務めよりも政治家としてのキャリアを優先していると判断するようになっていました。大管長会はまた,B・H・ロバーツが選挙演説やインタビューの中で,自分たちと教会を不当に批判したと考えていました。40
2月13日,大管長会と十二使徒の大多数がソルトレーク神殿で,B・Hらの七十人定員会会長たちと会合を持ちました。会合の中で,使徒たちは大管長会を批判した発言についてB・Hに尋ねます。B・Hは自分の言動をすべて認めましたが,何一つ取り消そうとはしません。
会合が進むにつれて,ヒーバーの心は重くなっていきました。指導者たちは代わるがわる,B・Hに謙遜になるようにと切に勧めるのですが,彼は耳を貸そうとしません。ヒーバーは立ち上がってB・Hに話しかけようとしましたが,胸がいっぱいになって言葉になりませんでした。
使徒と七十人がそれぞれ発言した後,B・Hが立ち上がり,自分のしたことを謝罪するよりは七十人の会長会の地位を失う方がよいと言いました。それから,部屋にいる人々に,自分が信仰を失わないように祈ってほしいと頼みました。
「自分で祈ったらどうですか」と使徒のブリガム・ヤング・ジュニアが尋ねました。
「正直なところ,今はそんな気になれません」とB・Hは答えました。
会合の最後に,ヒーバーが閉会の祈りをささげ,部屋を出て行こうとするB・Hを捕まえて,抱き締めました。しかしB・Hはその手を振り切り,硬い表情のまま,足早に立ち去りました。41
それから数週間後の3月5日,大管長会と十二使徒定員会が再びB・Hと会いましたが,彼の気持ちが変わっていないことが分かりました。ウッドラフ大管長は,自分が置かれた立場を考え直すために,彼に3週間の猶予を与えました。もし悔い改めなければ,彼を七十人から解任し,神権を行使することを禁止することになります。42
翌週,ヒーバーと十二使徒の同僚フランシス・ライマンは,B・Hと個人的に会う約束を取りつけます。話していく中で,B・Hは,自分の考えは変わらないと,この二人の使徒たちに伝えました。もし大管長会が自分の代わりに七十人会長会の職に就く人を探す必要があるなら,それは自由にしてもらっていいと言うのです。
B・Hは,コートを着て出て行く段になると,こう言いました。「二人には知っておいてほしいのですが,わたしは処分が下されると,悲しみのどん底に落ちます。失うことになるすべてのことをわたしが大切に思っていないなどと,あなたがたに思ってほしくはありません。」
ヒーバーは,この友人の目に涙が浮かんでいるのに気づき,座ってもらいました。するとB・Hは,教会指導者が公の場で自分に失礼な行動を取ったり,共和党を支持するような説教をしたりしたことがあったと言うのです。2時間にわたり,ヒーバーとフランシスは彼の憂慮している問題にこたえ,進む道を変えるようにと懇願しました。ヒーバーは,自分とフランシスは祝福されて,何を言うべきかが分かったと感じました。
話し終えると,B・Hはこの二人の友人に,その夜自分の置かれた状況について考え,朝に自分の決断を伝えたいと言いました。ヒーバーは,主が友人を祝福してくださることを祈りながら,彼に別れを告げました。
翌朝,B・Hはヒーバーとフランシスに短い手紙を送りました。その一部にはこう書かれていました。「わたしは兄弟たちが持つ神の権能に従います。彼らがわたしに非があると思うのですから,わたしは彼らに頭を下げ,神の僕である彼らの手にこの身を委ねます。」
ヒーバーはすぐに手紙の写しを作ると,走って道を渡り,ウッドラフ大管長の執務室に届けました。44
それから約2週間後,B・H・ロバーツはソルトレーク神殿で,立候補の許可を求めなかった自分の非を認め,大管長会に謝罪しました。自分が公の場で言ったことが聖徒たちの間に亀裂を引き起こしたとしたら申し訳なかったと謝罪し,不快な思いをさせた人には償いをすると約束したのです。
また,ヒーバー・J・グラントやフランシス・ライマンと話すうち,先祖を思う気持ちが心を和らげてくれたと述べました。
そして,こう言ったのです。「わたしは父方と母方の唯一の教会員です。神権を失えば,神権を代表する者のいないまま先祖を眠らせておくことになります。このことを考えると,わたしの心は強く揺さぶられました。
わたしは主のもとに行き,光と教えを受けました。神の権能を持つ者に従うよう,主の御霊を通して教えられたのです」と彼は続けます。「兄弟たちの満足のいくように償い,皆さんが適切と判断して課すどのような屈辱も甘んじて受けます。ただ,神の神権を保持して,この聖い宮で先祖のための業をする特権をいただけるように,切に願い,祈ります。」45
大管長会はB・Hの謝罪を受け入れました。10日後,ウッドラフ大管長の指示の下,ジョージ・Q・キャノンが教会指導者の政治への関与について教会の立場を明確にする声明の草稿を書き上げます。ジョージは,教会の大管長会と中央幹部の承認を得るためにそれを提出しました。46
翌日,1896年4月の総大会で,ヒーバー・J・グラントがその声明を聖徒たちに読み上げました。声明には,まだヨーロッパにいたアンソン・ランドと,大管長会および同僚の使徒たちと和解することを拒絶したモーゼス・サッチャーを除き,教会の中央幹部全員の署名がありました。
「政治に関する声明」と呼ばれたこの声明は,教会の政教分離の信条を確認するものでした。またこの声明は,専任で主の業に仕える決意を表明した中央幹部は全員,公職を求めたり,受けたりする前に所属する定員会の指導者から承認を得なければならないとしています。47
B・H・ロバーツはこの総大会で,教会の指導者を支持するよう聖徒たちに勧め,不屈の主の業について証しました。「この神権時代にあって,人は不完全でも御業は安定して進んでいくと,神は常に約束しておられます」と彼は宣言しました。
「暗闇につまずく人々がいたとしても,救いへと導くその確かな約束にすがることで,義にかなった道へ戻ることができるかもしれません。」48