「救いを受け継ぐ者」『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第3巻「大胆かつ気高く,悠然と」1893-1955年,第13章
第13章:救いを受け継ぐ者
第13章
救いを受け継ぐ者
1917年1月,スーザ・ゲイツはニューヨーク・シティーに行き,扶助協会中央管理会でともに奉仕していた病気の友人,エリザベス・マキューンを訪ねました。エリザベスと夫のアルフレッドは,アルフレッドがニューヨークでビジネスを行えるよう,その冬に同市へ引っ越していました。スーザは友人が病気だと知ると,看病のためすぐに駆けつけました。しかしスーザが到着したときには,すでにエリザベスは快方に向かっていました。それでも,エリザベスはスーザに,滞在して一緒にいてほしいと伝えました。滞在中,スーザは市の図書館を利用して系図の探求を行うことができました。スーザは教会での奉仕の中でも,系図の探求に全精力を傾けていたのです。
15年前にデンマークで,スーザは国際女性会議の集会に出席している最中に重病を患ったことがありました。当時ヨーロッパ伝道部会長だった使徒のフランシス・ライマンに祝福を求めたところ,ライマン会長はスーザが死を恐れることのないよう祝福し,スーザには霊界で行うべき業があると約束しました。しかしその後,祝福の途中で,ライマン会長はおよそ2分間にわたり黙り込み,やがてスーザに次のように告げたのです。「天で評議会が開かれ,あなたが生きて神殿活動を行うことと,これまでに増して大いなる業を行うことが決まりました。」1
病気から回復した後,スーザは系図と神殿活動に打ち込みました。スーザはユタ系図協会に積極的にかかわるようになりました。この協会は,神殿の結び固めに関するウィルフォード・ウッドラフの1894年の啓示を受けて創設された,教会が運営する組織です。スーザはソルトレーク神殿で働き始め,系図クラスで教え,家族歴史に関する週間コラムを『デゼレト・イブニング・ニュース』のために執筆し始めました。
1911年に扶助協会中央管理会の会員になったとき,スーザとエリザベス・マキューンは系図と神殿活動を教会の女性の新しい優先事項としました。二人は合衆国とカナダのワードや支部を訪問し,先祖を探求する訓練を聖徒たちに行いました。さらにスーザは系図に関するレッスンを『扶助協会機関誌』に執筆していたほか,中央管理会の求めに応じ,家族歴史活動に携わる聖徒たちを助けるための参考書を書いている最中でもありました。2
ニューヨーク・シティーにいる間,スーザは図書館でマキューン家の先祖の名前も調べました。また,最善を尽くしてエリザベスにできるかぎりの愛を注ぎ,世話をしました。
スーザが家に戻る予定日の前日,エリザベスはニューヨークにある東部諸州伝道本部で開かれる扶助協会の集会に出席できるほど,体調が良くなっていました。スーザは女性たちに系図探求について話しました。ニューヨーク・シティーの末日聖徒の女性は少数でしたが,スーザは彼女たちの間で御霊を強く感じました。3
帰りの旅の途中で,スーザはさらに二つの町に立ち寄り,聖徒たちを訪ねました。ある集会の後,一人の支部会長がスーザのところに来て話をしました。「高齢の方の証をいつも楽しく拝聴しています。年配の方の経験談を聞くのがとても好きなんです」と支部会長は言いました。
スーザは心の中で笑いました。「スーザ,聞いた?あなたは高齢者ですって」と心の中でつぶやきました。スーザは60歳でしたが,まだ多くの年月が残されており,なすべき業がさらにたくさんありました。4
ジョセフ・F・スミスは1917年4月に行われた教会の総大会の開会に当たり,「わたしたちは重大な時代に生きています」という認識を示しました。ユタ州中の新聞が,合衆国にドイツが攻撃を仕掛けてくる危険性について憂慮する記事であふれ返っていました。5過去2年半,合衆国は戦争に対して中立を保っていました。しかし,ドイツが最近になって無制限潜水艦戦の方針を再開したことから,アメリカ船は攻撃を受けやすい状況になっていました。さらにドイツの当局者は,合衆国を南方から攻撃する経路を作り出すため,メキシコとの同盟を模索していました。これに対応して,合衆国議会はドイツに対して宣戦布告する権限をウッドロー・ウィルソン大統領に与えました。6
ソルトレーク・タバナクルの説教壇に立つスミス大管長には,大会に集まった多くの聖徒たちが不安と恐れを抱いていることが分かりました。スミス大管長は,人類家族の平和と幸福と福利を求めるようにと聖徒たちを励まして,こう言いました。「今日,教会員として,またこの国の市民として自らの義務を果たすなら,明日生じるかもしれないことをひどく恐れる必要はありません。」7
その日のうちに,ウィルソン大統領は正式に宣戦布告しました。間もなく,5,000人近くのユタ州の若い男性が軍隊に入隊し,そのほとんどは末日聖徒でした。8教会の多くの女性が赤十字社に加わり,戦時の看護師として奉仕しました。軍隊に入隊できなかったアメリカ人聖徒たちは,政府発行の「自由公債」を購入して戦費を支えるなど,ほかの方法で自分たちの国を支援しました。エリザベスの娘ベティー・マキューンは,自動車の運転と整備を覚え,救急車の運転手になりました。七十人の・H・ロバーツ長老は志願して,3人いた末日聖徒の従軍聖職者の一人として奉仕しました。9
総大会のすぐ後,ジョセフ・F・スミスはハワイに旅をし,ライエ神殿の建設工事の進捗を観察しました。ハマナ・カリリとデビッド・ハイリという現場監督の指示の下,業者たちはすでに神殿の外側を完成させており,現在は内装の仕上げに追われているところでした。ハワイ神殿は鉄筋コンクリートと近隣の山の溶岩で建てられ,十字型で,尖塔はありませんでした。建物の外側は,ユタ州の芸術家レオ・フェアバンクスとアバード・フェアバンクスによる聖文の場面を描いたセメント彫刻によって飾られていました。10
79歳の誕生日を1か月後に控えていた10月,預言者は聖徒たちに,自分は老いを感じ始めていると語りました。「霊的には今もほとんど変わらずに若いままだと思っていますが,肉体は疲弊します。そして皆さんに申し上げておきたいのですが,わたしの老いた虚弱な心臓は時折,脈拍がひどく乱れるのです」と大管長は言っています。11
ジョセフ・F・スミス大管長の健康状態は年末が近づくにつれて悪化し続け,1918年が明けると,定期的に医師の診察を受け始めました。それと同時期に,息子のハイラムも体調を崩いしていました。ヨーロッパ伝道部会長としての任期を終えてから16か月がたっていましたが,その間ずっと,ハイラムは健康で丈夫でした。それでも,ジョセフはハイラムの身を案じていました。ハイラムはジョセフの心の中で常に特別な場所を占めており,ジョセフは主に対する息子の奉仕と献身に計り知れないほどの喜びを見いだしていました。しかもハイラムはジョセフに,ジョセフ自身の父親である祝福師ハイラム・スミスの面影を見ていたのです。12
ハイラムの病気は日を追うごとに悪化していきました。ハイラムは腹部に激しい痛みを感じていましたが,これは虫垂炎にかかっている兆候でした。友人たちは病院に行って手術を受けるよう強く勧めましたが,ハイラムは「わたしは知恵の言葉を守ってきたので,主がわたしを癒してくださるでしょう」と言って手術を拒んでいました。
1月19日,痛みはほとんど耐え難いほどになりました。ハイラムの妻アイダはすぐにジョセフに知らせ,ジョセフは息子の回復を求めて熱心に祈りました。一方,使徒のオーソン・F・ホイットニーとジェームズ・E・タルメージは,病床のハイラムを見舞い,一晩中見守りました。ジョセフの甥であるラルフ・T・リチャーズ医師を含めた医師や専門家のグループも,ハイラムを看病しました。
患者を診察した後,リチャーズ医師はハイラムが医療的な助けを求めるのを遅らせすぎたように感じ,病院に行ってほしいと訴えました。「今行ったとしても,助かる見込みは千に一つしかありません」とリチャーズ医師はハイラムに警告しました。「それに賭けますか?」
「はい」とハイラムはこたえました。13
病院で,医師たちはレントゲンを2枚撮り,ハイラムの虫垂を切除することに決めました。手術の最中,リチャーズ医師は虫垂が破裂し,有毒な細菌がハイラムの腹部全体に広がっていることを知りました。
ハイラムは手術を乗り切りましたが,ジョセフは相変わらず心配のために弱っており,午後は横になったまま過ごし,食事を取ることができませんでした。その夕方にはハイラムが元気を取り戻した様子だったので,ジョセフの気持ちも上向きました。感謝と安堵の思いで満たされ,ジョセフは教会の大管長としての務めに戻りました。
しかし,ハイラムの手術の3日後,ジョセフは病院から電話を受けました。多くの祈りや,医師の入念な処置にもかかわらず,ハイラムが亡くなったのです。ジョセフは言葉を失いました。ジョセフにはハイラムが必要で,教会にもハイラムが必要でした。どうして命が助からなかったのでしょう。
悲しみに打ちひしがれ,ジョセフは自らの苦悶を日記にさらけ出しました。「わたしの心はずたずたに引き裂かれている」とジョセフは記しています。「そして今,わたしに何ができるだろう!ああ!何ができるだろう!わたしの魂は引き裂かれ,心は打ち砕かれている!おお!神よわたしを助けたまえ!」14
ハイラムが亡くなってからしばらくの間,スミス家族は悲しみに暮れました。すぐに病院に行かなかったハイラムの決断に疑問を呈する聖徒たちもいました。「もし最初に言われたときに病院へ行っていたら,生きられたかもしれない」と言う人もいました。スミス家族の親しい友人だった管理ビショップのチャールズ・ニブリーも同じ意見でした。知恵の言葉を信じるハイラムの信仰は良い動機に基づいていたものの,主は肉体の治療に関して科学的な訓練を積んだ技能を有する男女を与えてくださってもいると,ニブリーは指摘しています。15
愛する者を失った悲しみの中,スミス家の人々は慰めを求めてビーハイブハウスに集まりました。この家はブリガム・ヤングの古い居宅で,ジョセフ・F・スミスはそこに住んでいました。集まることで悲しみは多少和らぎ,家族はハイラムの称賛に値する忠実な生涯に喜びを感じる機会が得られました。しかし,だれもがハイラムの死に呆然としていました。16
夫を亡くした妻アイダは深い悲しみで言葉を失っていました。アイダとハイラムの結婚生活は22年間に及んでいました。その間,ハイラムは時折,「いいかい,もしわたしが先に死ぬようなことがあったら,君を長く残しておいたりはしないよ」と言っていました。17ハイラムにとって,これは冗談めかした愛情表現のつもりでした。死がこれほど早く唐突に訪れることは,ハイラムにもアイダにも予見できなかったのです。
ハイラムの46度目の誕生日となる1918年3月21日,アイダは故人の最も親しい友人たちを家に招き,ハイラムの生涯をしのぶための小さな会を催しました。ユーモアのある話を交えながら友人の思い出を語り合ううち,一同は深い話をするようになりました。ハイラムとアイダの古くからの友人だったオーソン・F・ホイットニーは,神が御自分の子供たちのために用意された完全な計画についての詩を暗唱して聞かせました。
いつか,人生のすべての教訓を学び終えたとき
そして太陽と星が永遠に沈んだとき
分別に乏しいわたしたちの見向きもしなかった物事が
わたしたちが涙をにじませて嘆いた物事が
人生の闇夜から,わたしたちの前に立ち現れては消えるだろう。
さながら星々の中でも青みの深いものほど明るく輝くように。
そして,わたしたちは神の計画が正しかったことを知り
最も厳しいと思われた仕打ちが,最も真正な愛だったことに気づくだろう!
アイダはこの詩を気に入り,これこそまさにハイラムが亡くなって以来,聞きたくてたまらなかったメッセージだとオーソンに言いました。しかし,その夕べはアイダの胸に痛みをもたらしました。訪問客たちが食卓の周りに集まったとき,アイダはハイラムが普段座っていた椅子が空席になっているのを見て涙せずにはいられなかったのです。18
アイダにとって数少ない慰めの一つは,彼女とハイラムの間にもう一人,赤ん坊が生まれるのが分かっていたことでした。自分が妊娠していることを知ったのは,夫が亡くなった直後のことでした。アイダはすぐ姉のマーガレットに,自分のところに移って来て,19歳から6歳までの4人の子供たちの世話を手伝ってもらえないかと頼みました。マーガレットはその求めに応じました。
アイダの健康状態は夏の間,常に良好でしたが,彼女はまるで自身の死に備えているかのように振る舞いました。「あなたはどこも悪くないわ」とマーガレットはアイダによく言って聞かせました。「あなたは生き長らえるのよ。」19
しかし,妊娠期間の終わりが近づいてきたころのアイダは,自分が子供の誕生後に長く生きられないことを確信しているように見えました。義理の母であるエドナ・スミスのもとを訪れていたとき,アイダはまるで霊界にいるハイラムとともにいたくてたまらないかのような口ぶりでした。自分たちは幕の向こう側で一緒に重要な業を行うことができると,アイダは言いました。20
9月18日の水曜日,アイダは健康な男児を出産しました。その後,アイダは母親に,その子はマーガレットが育ててくれるだろうと告げました。「わたしはハイラムのもとに戻ることになるから,子供たちは残して行かなければならないと分かっているの」と言ったのです。「だから,どうか赤ちゃんとかわいい子供たちのために祈ってほしいの。主はきっと子供たちを祝福してくださるわ。」21
次の日曜日,アイダはハイラムが一日中,自分のそばにいるように感じました。「ハイラムの声を聞いたわ」とアイダは家族に言いました。「彼がいるのを感じたの。」22
数日後,アイダのおいが自分の家に飛び込んで行きました。そして,「今,ハイラムおじさんがアイダおばさんの家に入るのを見たよ」と母親に言うのです。
「ばかなことを言って」と母親は言いました。「ハイラムは亡くなったのよ。」
「ぼくは見たんだ」と少年は言い張ります。「この目で見たんだ。」
母親と息子は,わずか数軒先にあるスミス家に歩いて行きました。二人がそこで見たのは,亡くなっているアイダでした。アイダはその日の夕方,心不全のために死亡していたのです。23
ジョセフ・F・スミスの家族は,アイダの死去の知らせによりジョセフが打ちひしがれてしまうのを恐れ,そのことをすぐには伝えませんでした。ハイラムが亡くなって以来,ジョセフはいっそう虚弱になり,この5か月間はほとんど人前に姿を見せていませんでした。しかしアイダの死の翌日,家族がアイダの生まれたばかりの息子をジョセフのもとに連れて行くと,ジョセフは涙を流しながらその赤ん坊を祝福し,ハイラムと名付けました。それから家族は,アイダのことをジョセフに話しました。
皆の予想に反し,ジョセフはその知らせを落ち着いて受け止めました。24そのころ,世界は非常に多くの苦しみと痛みに見舞われていました。日々の新聞には戦争に関する恐ろしい記事が載っていました。すでに数百万の兵士や市民が命を失い,ほかにも数百万人が重軽傷を負っていました。その夏の初頭,すでにユタ州出身の兵士たちはヨーロッパに到着し,戦争の情け容赦のない残虐さを目にしていました。そして今は,さらに多くの末日聖徒の若者たちが戦闘に加わる準備をしており,それにはジョセフの息子も何人か含まれていました。実のところ,息子のカルビンはB・H・ロバーツとともに,従軍聖職者としてすでにフランスの前線に赴いていました。
また,致死率の高いインフルエンザの変異株も世界中で人々の命を奪い始めており,戦争による痛みと苦しみを増幅させていました。このウイルスは驚くべき速さで広がっていたため,ユタ州では病気と死が押し寄せるのを防ごうと,わずか数日後には劇場や教会などの公共施設を閉鎖しました。25
1918年10月3日,ジョセフは自室に座り,イエス・キリストの贖罪と世の贖いについて深く考えていました。ジョセフは新約聖書のペテロの第一の手紙を開き,救い主が霊界にいる霊たちに教えを説かれたことについて読みました。そこにはこう書いてありました。「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは,彼らは肉においては人間として裁きを受けるが,霊においては神のように生きるためである。」
この聖句について深く考えていたとき,預言者は御霊が自分のうえに降り,理解の目を開いてくださるのを感じました。ジョセフは霊界にいる大勢の死者を見ました。救い主が地上で務めを果たされる前に亡くなった義にかなった男女が,主がそこに来て死の縄目からの解放を宣言されるのを喜んで待っていました。
救い主はその群衆に御姿を現され,義人の霊たちは自分たちが贖われるのを喜びました。彼らは主の前にひざまずき,主を救い主,および死と地獄の鎖からの解放者として受け入れたのです。主の前から発する光が彼らの周囲で輝き,彼らの顔は光を放ちました。彼らは主の名を賛美しました。26
ジョセフはその示現に驚嘆しながら,再びペテロの言葉について思い返しました。不従順な者たちの霊は,義人の霊よりもはるかに大勢いました。救い主はどのようにして,霊界を訪れた短い時間に,御自分の福音をすべての霊たちに宣べ伝えることがおできになったのでしょうか。27
ジョセフの目は再び開かれ,救い主は不従順な霊たちのもとへ自ら行かれたわけではないことを理解しました。代わりに,主は義人の霊たちを組織し,使者たちを任じ,暗闇の中にいる霊たちのもとへ福音のメッセージを伝えるように命じられました。このようにして,背きのうちに死んだり真理を知らずに死んだりしたすべての人たちが,神を信じる信仰,悔い改め,罪の赦しのための身代わりのバプテスマ,聖霊の賜物,そのほかの不可欠な福音の原則について学ぶことができるのです。
義人の霊たちの大群衆に目を凝らしてみると,アダムとその息子のアベルとセツがジョセフの目に入りました。また,エバが,様々な時代に神を礼拝してきた忠実な娘たちとともに立っているのも見えました。そこにはノア,アブラハム,イサク,ヤコブ,モーセをはじめ,イザヤ,エゼキエル,ダニエルなど,旧約聖書とモルモン書に出てくる預言者たちもいました。預言者マラキの姿も見えました。マラキは,エリヤが来て,先祖に与えられた約束を子孫の心に植え,末日における神殿活動と死者の贖いのために道を備えると預言した人物です。28
ジョセフ・F・スミスはまた,ジョセフ・スミス,ブリガム・ヤング,ジョン・テーラー,ウィルフォード・ウッドラフ,そして回復の基を据えたほかの人々も見ました。その中には殉教したジョセフの父ハイラム・スミスもいました。ジョセフが父の顔を見るのは74年ぶりのことです。彼らは,末日にやって来て神のすべての子供たちの救いのために働くよう生まれる前に選ばれていた,高潔で偉大な霊たちの中にいました。
次に預言者は,この神権時代の忠実な長老たちが次の世でも自らの働きを続け,暗闇と罪の束縛の下にいる霊たちに福音を宣べ伝えることを知りました。
「悔い改める死者は,神の宮の儀式に従うことによって贖われるであろう」とジョセフは述べています。「彼らは自分の背きの代価を支払い,洗われて清くなった後,その行いに応じて報いを受けるであろう。彼らは救いを受け継ぐ者だからである。」29
示現が閉じると,ジョセフは自分が見たすべてのことについて深く考えました。翌朝,ジョセフは健康状態が思わしくないにもかかわらず,10月の総大会の最初の部会に出席し,聖徒たちを驚かせました。会衆に向けて話をすると心に決めたジョセフは,大きな体を震わせながら,おぼつかない姿勢で説教壇に立ちました。「わたしはこれまで70年以上,皆さんの父親や先祖とともに,この大義のために働いてきました」とジョセフは言いました。「そしてわたしは皆さんとともに,今日もこれまでと変わらず固い決意を持っています。」30
感情に圧倒されることなく自分の示現について話すだけの力がなかったので,ジョセフはそれについて暗に言及するにとどめました。「この5か月の間,わたしは独りではありませんでした」とジョセフは会衆に語りました。「祈りと,嘆願と,信仰と,決意の精神をもって生活し,絶えず主の御霊と交わっていたのです。」
「今朝の集会を迎えられてうれしく思います」とジョセフは言いました。「全能の神の祝福が皆さんにありますように。」31
秋の総大会から約1か月後,スーザ・ゲイツとジェイコブ・ゲイツはスミス家族からリンゴを一箱受け取るため,ビーハイブハウスに向かいました。夫妻が到着すると,ジョセフ・F・スミスはスーザを部屋に呼びました。ジョセフはその病室で何週間も寝た切りになっていました。
スーザは以前に家族を慰めてもらったように,ジョセフを慰めようと最善を尽くしました。しかし,スーザは教会での自分の奉仕のことで落胆していました。32前年にユタ系図協会へ100万ドルを寄付していたエリザベス・マキューンは別として,扶助協会中央管理会で家族歴史や神殿活動に情熱を持っている女性はほとんどいないように思われたのです。実際,中央管理会の一部の会員は,扶助協会の毎月の系図についてのレッスンの廃止を提案していました。レッスンが難しすぎるうえあまり霊的ではないとして,最近,ステークの扶助協会の指導者たちから批判の声が上がっていたのです。33
「スーザ」とジョセフは二人の会話の中で言いました。「あなたはすばらしい働きをしています。」
スーザは恥ずかしく思いながら,「確かに忙しくしてはいます」と答えました。34
「あなたはすばらしい働きをしています」と大管長は意見を曲げずに言いました。「あなたが思っているよりもずっとすばらしい働きです。」ジョセフは,信仰を持ち,真理に献身するスーザのことを愛していると伝えました。それから妻のジュリナに,ある書き付けを持って来るよう頼みました。ジュリナがその紙を持って来ると,ジェイコブとほかの数名も部屋に入って来ました。
皆が集まったところで,ジョセフはスーザにその書き付けを読むように言いました。受け取ったスーザは,そこに書かれていることに驚きました。預言者として,ジョセフは啓示やそのほかの霊的な事柄について話すときは,常に慎重であるように努めていました。しかしスーザが手にしていたのは,ジョセフが霊界について見た示現についての記録でした。ジョセフは総大会の10日後,自分の息子の一人である使徒のジョセフ・フィールディング・スミスに,啓示の内容を口述していたのです。そして,10月31日には,大管長会と十二使徒定員会がその示現を読み,その内容を全面的に支持していました。
その啓示を読んだスーザは感動しました。その啓示にはエバやほかの女性たちが預言者たちと並んで同じ大いなる業において奉仕していることが書かれてていたからです。主の用向きにおいて夫や父親とともに働いている女性たちについて語られている啓示は,スーザが知るかぎりこれが初めてでした。
その後,ジョセフとその家族に別れを告げてから,スーザはその啓示を公表される前に読めたことは祝福であったと感じました。スーザは日記に次のように記しています。「ああ,天は今もなお開かれていると知れたこと,エバとその娘たちが思い起こされたこと,そして何より,神殿活動と働き手と系図活動にそのような励ましが必要なときにこの啓示が与えられたことは,わたしにとって慰めになった!」
スーザは一刻も早くエリザベス・マキューンに読んでほしいと思いました。「それは獄にいる霊たちの救いのために向こう側で働いているすべての偉大な人たちを目にしたもの,すなわち示現です」とスーザは友であるエリザベスに手紙で伝えています。「この啓示が教会全体の神殿活動に与える刺激について考えてください!」35
1918年11月11日,ヨーロッパ諸国の軍隊は停戦に合意し,4年にわたる戦争が終結しました。しかしインフルエンザの世界的流行は広がり続け,最終的には数百万人の犠牲者を出しました。多くの場所で,当たり前のように日々繰り返されていた生活が止まってしまいました。人々は自分の身を守り,ウイルスの拡散を防ぐために,鼻と口を覆う布マスクを着けるようになりました。新聞には常時死者の名前が掲載されました。36
停戦から1週間後,ヒーバー・J・グラントはビーハイブハウスにいるジョセフ・F・スミスの様子を見に行くことにしました。ヒーバーはそのとき十二使徒定員会の会長を務めており,次に教会を導くことになる立場にありました。教会の大管長としての責任をぜひ受けたいという思いはなく,ジョセフにもう12年は生きていてほしいと願い,そう祈っていました。12年後には教会の100周年を祝えるからです。この時点でも,ヒーバーはジョセフが亡くなるとは考えていませんでした。
ビーハイブハウスでは,ジョセフの息子デビッドが戸口でヒーバーを迎え,来て父親と話すようにと促しました。しかしヒーバーはためらいました。預言者のじゃまをしたくないと思ったのです。
「会った方がいいですよ」とデビッドは言いました。「これが最後になるかもしれないのですから。」37
ヒーバーが目にしたのは,ベッドに横たわっているジョセフでした。目を覚ましており,呼吸が苦しそうです。ジョセフはヒーバーの手を取り,しっかりと握りました。ヒーバーがジョセフの目を見詰めると,預言者が自分を愛してくれていると分かりました。
「主があなたを祝福してくださいますよ」とジョセフは言いました。「あなたは大きな責任を負っています。これが主の業であり人の業ではないことを,常に覚えていてください。主はいかなる人間よりも偉大であられます。主は御自分の教会をだれに導いてほしいかを御存じであり,決して間違いを犯されることがありません。」38
ジョセフがヒーバーの手を放すと,ヒーバーは隣の部屋に退いて涙を流しました。ヒーバーは帰宅して夕食を取ってから,ジョセフにもう一度会うためビーハイブハウスに戻りました。そこには大管長会でジョセフの顧問を務めているアンソン・ランドが,ジョセフの妻や数人の息子たちと一緒にいました。ジョセフは痛みがひどく,ヒーバーとアンソンに祝福を授けるよう求めました。
「兄弟たち,わたしが解放されるように祈ってください」とジョセフは言いました。
ジョセフの息子たちも加わり,一同はジョセフの頭に手を置きました。彼らはジョセフとともに働く中で分かち合った喜びと幸福について語りました。そして,ジョセフをみもとに呼び戻してくださるようにと,主に願い求めたのです。39