第12章
贖 罪
贖罪はわたしたちの救いに不可欠である
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贖罪がわたしたちの救いに不可欠なのはなぜでしょうか。
イエス・キリストは「世のために十字架につけられ,世の罪を負い,世を
アダムの堕落はこの世に2種類の死をもたらしました。肉体の死と霊の死です。肉体の死とは肉体と霊が分離することであり,霊の死とは神の前から絶たれることです。この2種類の死がイエスの贖罪によって克服されていなかったならば,二つの結果が生じていたでしょう。すなわち,わたしたちの体と霊が永遠に分離したままであること,そして,二度と天の御父とともに住めなくなることです(2ニーファイ9:7-9参照)
しかし,賢明な天の御父はわたしたちを肉体の死と霊の死から救うために,
イエス・キリストは人類の罪を贖える唯一の御方であった
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イエス・キリストがわたしたちの罪を贖える唯一の御方であったのはなぜでしょうか。
幾つかの理由によって,イエス・キリストは救い主となり得る唯一の御方でした。一つの理由は,天の御父がイエスを救い主となるように選ばれたことです。イエスは神の独り子であり,したがって死を克服する力を備えておられました。イエスは次のように説明しておられます。「命を捨てるのは,それを再び得るためである。だれかが,わたしからそれを取り去るのではない。わたしが,自分からそれを捨てるのである。わたしには,それを捨てる力があり,またそれを受ける力もある。」(ヨハネ10:17-18)
イエスが救い主となる資格を備えておられるもう一つの理由は,この地上で生活した人の中で,罪を犯さなかった唯一の御方だからです。これにより,イエスは他の人々の罪を償うのにふさわしい犠牲となられたのです。
キリストはわたしたちの罪を贖うために苦しみ,亡くなられた
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本項を読むに当たって,自分がゲツセマネの園や十字架を目の前にして,イエス・キリストの苦しみを目撃していると想像してください。
救い主は,ゲツセマネの園で苦しみ,十字架上で命をささげることによってわたしたちの罪を贖われました。救い主が人類のあらゆる罪のためにどれほど苦しまれたかを完全に理解することはできません。ゲツセマネの園において,わたしたちの罪があまりにも重かったために,イエスはあらゆる毛穴から血を流すほどの激しい苦痛を味わわれました(教義と聖約19:18-19参照)。その後,十字架にかけられてからも,イエスはこの世で最も残酷と言える方法で死の苦しみを受けられたのです。
わたしたちのためにこれほどの霊と肉体の激しい苦痛に耐えられたイエスは,どれほどわたしたちを愛しておられることでしょう。また,ほかの子供たちに代わって苦しみと死を引き受けるよう御自分の独り子を遣わされた天の御父の愛も,何と深いことでしょうか。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは
贖罪と復活は全人類に復活をもたらす
十字架におかかりになってから3日目に,キリストは再び御自分の体をまとい,復活した最初の人になられました。友人たちがイエスを捜しに行くと,天使たちが墓の番をしており,次のように言いました。「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに,よみがえられたのである。」(マタイ28:6)イエスの霊は再び肉体に戻り,二度と分離しない状態となっていました。
キリストはこのようにして肉体の死を克服されました。キリストの贖罪により,この世に生を受けるすべての人は復活します(1コリント15:21-22参照)。イエスが復活されたのとちょうど同じように,わたしたちの霊は肉体と結合し,「すべての人がもう死ぬことはあり得ない。……決して分離しない」のです(アルマ11:45)。この状態を「不死不滅」と呼びます。この復活は,「老いた人にも若い人にも,束縛された人にも自由な人にも,男にも女にも,悪人にも義人にも,」(アルマ11:44)かつてこの世に来たすべての人に及びます。
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復活について知識があることで,これまでにどのような助けを得てきましたか。
キリストを信じる人は贖罪により罪から救われる
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本項にあるたとえが贖罪を理解するうえでどのように役立つか考えてください。たとえに登場する人々は,わたしたちの人生においてはだれに当たるでしょうか。
救い主の贖罪により,わたしたちは霊の死を克服することができるようになりました。あらゆる人が復活します。しかし,贖罪を受け入れる人だけが霊の死から救われるのです(信仰箇条1:3参照)。
わたしたちはキリストを信じる信仰を持つことによって,キリストの贖いを受け入れます。この信仰によって,罪を悔い改め,バプテスマを受け,聖霊の
救い主は次のように語っておられます。「見よ,神であるわたしは,すべての人に代わってこれらの苦しみを負い,人々が……〔わたしが苦しんだように〕苦しみを受けることのないようにした。」(教義と聖約19:16-17)キリストはわたしたちの罪を贖うという役割を果たされました。贖罪の効力が生活の隅々にまで及ぶようにするために,わたしたちはキリストに従い,罪を悔い改める努力をしなければなりません。
十二使徒評議会のボイド・K・パッカー会長は次のような説明をして,もしわたしたちが自分の責任を果たすならば,キリストの贖罪によってどのように罪から救われるかを教えています。
「皆さんに一つの物語,つまりたとえを話しましょう。
あるものが欲しくてたまらない人がいました。人生でそれに勝る大切なものはなかったのでしょう。彼は望みをかなえるため多額の借金をしました。
そのような多額の借金はしないように,特に貸し主には注意するように警告されていました。しかし,自分の思いどおりにして,欲しいものをすぐ手に入れることの方がもっと重要だったのでしょう。借金はいずれ返済できると思い込んでいました。
それで彼は契約書に署名しました。借金はそのうちに返せると思っていたので,さして気にもかけませんでした。支払期限は遠い先のことのように思われたからです。今欲しいものを手に入れた,そのことが大切に思われたのです。
貸し主のことがいつも心の片隅にあり,時々借金の一部を返済しました。けれども,決済日のことはまったく考えにありませんでした。
しかしそうしている間にその日が来て,支払期限が切れました。返済はまだ全部は終わっていません。貸し主が来て,全額支払うように要求しました。
そのとき初めて気づいたのは,貸し主には自分の持ち物を残らず取り上げる権限があるだけでなく,自分を投獄する権限もあるということでした。
『お返しすることはできません。わたしには返済する力がないのです』と彼は告白しました。
『それでは』と,貸し主は言いました。『契約を履行してあなたの財産をもらいます。あなたは獄に入るのです。あなたはこの契約に同意し,自分で決めたのです。契約書に署名したのですから,今こそ履行しなければなりません。』
『支払期限を延ばすか,負債を免除していただくわけにはまいりませんでしょうか』と,借り主は請い求めました。『何とかして,財産をそのまま持てるように,そして獄に入らなくてもよいようにお取り計らいください。きっとあなたも,世の中には
貸し主はこう答えました。『憐れみというものは常に,あまりにも一方的で,満足するのはあなただけです。もしあなたに憐れみを施せば,わたしは返済されないことになります。わたしが要求しているのは正義です。あなたは正義を信じますか。』
『契約書に署名したときは信じていました。あのとき契約書はわたしの味方でした。守ってくれると思ったからです。あのとき憐れみを必要としなかったし,永久に必要ないとも思っていました。わたしは考えたのです。正義はわたしたち双方を等しく満足させてくれるのだと。』
『正義が要求するのは,借金を返済するか罰を受けるかです』と貸し主は答えました。『これが律法というものです。あなたは律法に同意したのですから,従わなければなりません。憐れみが正義の働きを奪うことはできないのです。』
こうして一方は正義を要求し,一方は憐れみを請いました。どちらも相手が折れなければ主張を通すことはできません。
『もし負債を免除してくださらないならば,憐れみはありません』と借り主は嘆願しました。
貸し主は答えました。『もしそうしたならば,正義はなくなるでしょう。』
二つの律法とも満足できないように思われました。どちらも一見相反するような永遠の原則です。正義を貫き,憐れみも施す道はないのでしょうか。
否,道はあります。正義の律法を完全に満たし,また憐れみをも完全に及ぼすことができます。しかし,この方法には第三者が必要です。そして,今度はそのようになったのです。
借り主には一人の友人がいて,助けにやって来ました。友人は借り主をよく知っており,先の見えない人間であることが分かっていました。こんな苦境に陥ってしまうとは愚かなことだと思いました。しかしそうは思っても,やはり借り主を愛していたので,助けてやりたいと思いました。友人は二人の間に入ると,貸し主に向かって次のような申し出をしました。
『友が財産を失わず獄にも入らずに済むよう,契約を免除してくださるのでしたら,負債はわたしが肩代わりいたします。』
貸し主が申し出をあれこれ考えていると,仲介者はさらに言いました。『あなたは正義を要求されました。友は支払うことができませんが,わたしがお支払いします。あなたは公正な扱いを受けるわけですから,これ以上請求することはできません。これなら異存はないでしょう。』
貸し主は同意しました。
それから,仲介者は借り主に向かって言いました。『わたしが負債を肩代わりしたら,わたしを貸し主として認めますか。』
『はい,もちろんです。』借り主は泣いて答えました。『あなたはわたしを獄から救い,憐れみを施してくださいました。』
『それでは』と恩人は言いました。『わたしに負債を支払いなさい。条件はわたしが決めます。易しくはありませんが,実行可能な条件です。方法はわたしが用意します。あなたは獄に入る必要はありません。』
こうして貸し主は全額支払いを受けました。公正な扱いを受け,契約も破られずに済んだのです。
一方,借り主は憐れみを受けました。正義の律法も憐れみの律法もともに成就しました。一人の仲介者がいればこそ,正義はその一切の要求を満たし,憐れみも十分に満たされたのです。」(『聖徒の道』1977年10月号,487参照)
罪とは霊的な負債のことです。もし救い主であり仲保者であるイエス・キリストがおられなければ,わたしたちは霊の死を受けることにより,罪の代償をすべて支払うことになるでしょう。キリストのおかげで,悔い改めて戒めを守るという条件を満たすならば,天の御父のみもとに帰り,一緒に住むことができるのです。
罪を
「見よ,わたしは,……世の人々を罪から救うために世に来た。
それゆえ,悔い改めて
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贖罪という祝福に感謝を示す方法について深く考えてください。
参照聖句
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アルマ34:9-16(贖罪の必要と神の犠牲)
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2ニーファイ9:7-12(贖罪は,肉体的・霊的な死からわたしたちを救ってくれる)
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ローマ5:12-17(一人の人により死がもたらされ,一人の人により命がもたらされた)
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ヒラマン14:15-18(イエスの死の目的)
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信仰箇条1:3(全人類の救い)
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1ペテロ1:18-20(予任されていたイエス)
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マタイ16:21(必要なイエスの犠牲)
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ルカ22:39-46(イエスはゲツセマネの園で苦しまれた)
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1 ヨハネ1:7(人を罪から清められるイエス)
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2ニーファイ9:21-22(全人類のために苦しまれた救い主)
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モーサヤ16:6-8(イエスによってのみ得られる復活)
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アルマ11:40-45;モルモン9:12-14(万人の復活)
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イザヤ1:18(雪のように白くなる罪)
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1コリント15:40-44;アルマ40:23(復活の説明)