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第8章:天の御父に祈る


第8章

天の御父に祈る

A woman sitting at a desk with the scriptures open in front of her.  She has her hands clasped and eyes closed in prayer.

祈りとは何か

イエスは次のように教えられました。「あなたがたは,わたしの名によって常に父に祈らなければならない。」(3ニーファイ18:19

祈りは地上にいるわたしたちに与えられた最大の祝福の一つです。祈りを通して日々天の御父と交わり,導きを求めることができます。

祈りは誠実に,真心から天の御父と会話することです。わたしたちは神に祈るべきであり,ほかの何ものにも祈ってはなりません。いかなるものであっても,人あるいは神が造ったほかの生物や事物には祈りません(出エジプト20:3-5

なぜ祈るのか

祈りはこの世の初めから福音に欠かせないものでした。アダムとエバを訪れた主の天使は,悔い改めて御子の名によって神に呼び求めるようにと命じました(モーセ5:8参照)。この戒めが取り消されたことは一度もありません。祈りは神にいっそう近づくうえで助けとなります。あらゆる思いと言葉と行いが,祈りの影響を受けるのです。

わたしたちは,サタンと彼に従う者たちの誘惑と戦う力を得られるように祈り求めなければなりません(3ニーファイ18:15教義と聖約10:5参照)。神に罪を告白し,ゆるしを請うために祈らなければなりません(アルマ38:14参照)。

日々の生活に主の導きと助けがあるように祈り求めなければなりません。家族や友達,隣人のために,作物や家畜,日々の仕事やそのほかの活動のために祈る必要があります。敵の力から守られるように祈らなければなりませ(アルマ34:17-27参照)。

天の御父に愛を表し,神を身近に感じるために祈らなければなりません。また,恵みや慰め,日々与えられるすべてのものに感謝するために御父に祈ます(1テサロニケ5:18参照)。福音に従って生活する強さを得るために,天の御父に祈り求める必要があります。

わたしたちが祈るのは,永遠の命に通じる細くて狭い道を最後まで歩き続けるためです。すべての義の源である神に祈り,思いと言葉と行いにおいて義を保たなければなりません。

  • これまで祈りによって,どのように天の御父に近づくことができましたか。

いつ祈るか

天の御父と交わる必要を感じたときにはいつでも,心の中で,あるいは声に出して祈ることができます。心を注ぎ出すために,独りになることが必要なときもあります(マタイ6:6参照)。さらに,日常生活においても祈ることができます。教会の集会で,家庭で,また道を歩いているとき,働いているとき,食事の支度をしているときに祈ることができます。どこにいても,何をしていても祈ることができます。昼でも夜でも,いつでも祈ることができます。独りでいるときも,人と一緒にいるときも,祈りは可能です。いつでも天の御父に心を向けることができます(アルマ34:27参照)。わたしたちは「常に祈〔る〕」ことができるのです(教義と聖約10:5)。

時々,怒ったり,落胆したり,心を乱したりして,祈りたくないと思うことがあるかもしれません。そういうときにこそ,心を奮い立たせて祈る必要があります(2ニーファイ32:8-9参照)。

少なくとも朝と夜,独りで祈らなければなりません。聖文には,朝も昼も夜も祈るようにと記されています(アルマ34:21参照)。

わたしたちは家族の祈りをささげることによって家族が祝福を受けるようにしなさい,と命じられています(3ニーファイ18:21参照)。教会の指導者は毎日朝と夜に家族の祈りをささげるように勧告しています。

また,食事の都度,食物を感謝し祝福を求めて祈りをささげます。

教会のすべての集会は祈りによって始め,祈りによって終えます。わたしたちは主に祝福を感謝し,助けを願い求め,主の喜ばれる方法で礼拝します。

どのように祈るか

どのような場所においても,立ってもひざまずいても,声に出しても心の中でも,また独りでも人前でも,常に信仰をもって「誠心誠意」祈らなければなりません(モロナイ10:4)。

天の御父に祈るとき,心に感じていることをありのままに話す必要があります。御父に信頼を置き,赦しを求め,願い事をし,感謝し,御父への愛を表します。無意味な言葉の繰り返しは避けるべきです(マタイ6:7-8参照)。自分の願うことが必ずしも自分にとって最善ではないことを覚え,常に御父のこころが成るように祈るべきです(3ニーファイ18:20参照)。最後にイエス・キリストの名により祈りを終えます(3ニーファイ18:19参照)。

祈りはどのようにこたえられるか

  • 祈りの答えが必ずしも分かりやすい形で与えられるとは限らないのはなぜだと思いますか。祈りの答えが自分の望むときに,あるいは望む方法で与えられるとは限らないのはなぜだと思いますか。

心からの祈りは必ずこたえられます。時には望まない答えであることがあるでしょう。願い求めた事柄がわたしたちにとって最善ではないからです。願ったとおりにこたえられる場合もあります。そのとき,わたしたちはなすべきことについて温かく快い気持ちになります(教義と聖約9:8-9参照)。もう少し待つようにという答えもあります。祈りは,主がわたしたちにとって最も良いと思われる時期に,ふさわしい方法で必ずこたえられるのです。

時折,主はほかの人を通して祈りにこたえてくださることがあります。仲の良い友達,はんりょ,親や家族,教会の指導者,宣教師—このような人が霊感されて,わたしたちの祈りの答えとなる行動を取ることがあります。例えば,ある若い母親の赤ん坊が家でけがをしたときの話です。赤ん坊を医者に連れて行こうにも手立てがありません。そのうえ,引っ越して来たばかりで,近所に知っている人はいませんでした。母親は助けを求めて祈りました。すると間もなく,近所の人がドアをノックして次のように言いました。「こちらに伺ってみなければという気がしたのですが。何か助けが必要ではありませんか。」こうしてこの人の助けによって,若い母親は赤ん坊を医者に連れて行くことができたのです。

神はしばしばわたしたちに力を与えて,自分で自分の祈りにこたえられるようにしてくださいます。わたしたちは助けを求めると同時に,願ったことを実現するために精いっぱいの努力をしなければならないのです。

イエス・キリストの福音に従って生活し,絶えず祈るならば,喜びと幸福を手にするでしょう。「あなたは謙遜けんそんでありなさい。そうすれば,主なるあなたの神は手を引いてあなたを導き,あなたの祈りに答えを与えるであろう。」(教義と聖約112:10

  • これまで天の御父はどのような形であなたの祈りにこたえてこられましたか。

参照聖句とその他の資料