第26章
犠牲
犠牲の意味
犠牲とは,神の業を推し進めるために,時間やこの世の財産,労力など,主が求められるものは何であろうと主にささげることです。主は次のように命じられました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。」(マタイ6:33)喜んで犠牲をささげるかどうかが,神に対する献身の度合いを示します。人はその生活において,神のことを第一に行うか否かを常に試されています。
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主から求められるとき,見返りを期待せずに犠牲をささげることが大切なのはなぜでしょうか。
昔,犠牲の律法が実施されていた
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昔,主の聖約の民が執り行っていた犠牲には,どのような意味があったのでしょうか。
アダムとエバの時代からイエス・キリストの時代まで,主の民は犠牲の律法を守ってきました。民は群れの
イエスは事実この世においでになり,あらかじめ知らされていたとおりに自らを犠牲としてささげられました。イエスの犠牲により,すべての人は復活して肉体の死から救われ,イエス・キリストを信じる信仰により自分の罪から救われるようになったのです(本書第12章参照)。
キリストの
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贖 罪 が最後の大いなる犠牲と考えられているのはどうしてでしょうか。
わたしたちは今日 も犠牲を払わなければならない
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今日のわたしたちは,どのように犠牲の律法を守っているでしょうか。
血を流す犠牲は終わりを告げましたが,主は現在もわたしたちに犠牲をささげるよう望んでおられます。しかし,今日主が求められる犠牲は古代のそれとは異なっています。主は次のように言われました。「あなたがたは,もはや血を流すことをわたしへのささげ物としてはならない。あなたがたの……
持っているものすべてを喜んで主にささげなければならない
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人々が進んで犠牲を払うのはどうしてでしょうか。
使徒パウロは,わたしたちが「神に喜ばれる,生きた,聖なる供え物」になるべきであると述べています(ローマ12:1参照)。
わたしたちが生きた供え物になるのであれば,地上に神の王国を打ち立て,シオンを起こすために,自分の持っているものすべてを末日聖徒イエス・キリスト教会に喜んでささげられるようでなければなりません(1ニーファイ13:37参照)。
若くて裕福な役人が救い主にこう尋ねました。「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか。」イエスは答えて言われました。「いましめはあなたの知っているとおりである,『
この若い役人は善人でしたが,イエスから求められたときに進んでこの世の財産をささげようとはしませんでした。これに反して,主の弟子であるペテロとアンデレは,神の王国のために喜んですべてを犠牲にしました。イエスが「わたしについてきなさい」と言われると,「彼らはすぐに網を捨てて,イエスに従った」のです(マタイ4:19-20)。
この弟子たちのように,わたしたちは日々の働きを犠牲として主にささげることができます。「
それにもかかわらず,アブラハムとイサクは長い道のりを旅し,モリヤの山へ行きました。そこが燔祭をささげる場所でした。二人は3日間旅しました。このときのアブラハムの心情と苦しみを想像できるでしょうか。息子を犠牲として主にささげなければならないのです。モリヤの山に到着したとき,イサクはたきぎを背負い,アブラハムは火と刃物を持って,祭壇を築く場所に行きました。イサクは言いました。「父よ。……火とたきぎとはありますが,燔祭の小羊はどこにありますか。」アブラハムは答えて言いました。「子よ,神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう。」そしてアブラハムは祭壇を築いてその上にたきぎを並べると,イサクを縛ってたきぎの上に乗せました。アブラハムは刃物を取ってイサクを殺そうとしました。その瞬間,主の使いが彼を呼んで言いました。「アブラハムよ,……わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子,あなたのひとり子をさえ,わたしのために惜しまないので,あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った。」(創世22:1-14参照)
もはや息子を犠牲にする必要のないことを知ったとき,アブラハムはどんなにかうれしかったことでしょう。しかしながら,アブラハムの主への愛は,主に求められたすべてのことを進んで行うほど深いものでした。
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あなたが知っている人々の生涯から,これまでにどのような犠牲の模範を見てきましたか。先祖の生涯や,初期の教会員の生涯,聖文に登場する人々の生涯から,どのような犠牲の模範を目にしてきましたか。これらの模範から,どのようなことを学んできましたか。
犠牲は神のみもとで生活する備えとなる
犠牲を通してのみ,わたしたちは神のみもとに住むのにふさわしくなれます。犠牲を通してのみ,永遠の命を享受することができるのです。これまで大勢の人が持てるもののすべてを犠牲にしてきました。彼らが受けたような豊かな報いを得たいと望むならば,わたしたちも同様に進んで犠牲を払わなければなりません。
わたしたちはすべてのものを犠牲にするようには求められないでしょう。しかし,主のみもとに住むのにふさわしくなるためには,アブラハムのように進んですベてを犠牲にしなければなりません。
主の民は様々な方法で常に大きな犠牲を払ってきました。福音のために苦難やあざけりを忍んできた人もいます。家族から絶縁された新しい改宗者や,生涯の友人を失った人もいます。また,職業や命さえも失った人々がいます。しかし主はこのような犠牲を承知しておられ,次のように約束されました。「おおよそ,わたしの名のために,家,兄弟,姉妹,父,母,子,もしくは畑を捨てた者は,その幾倍もを受け,また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)
福音の
あるドイツの教会員は何年間も
扶助協会のある訪問教師は,30年間1回も欠かすことなく責任を果たしました。
南アフリカのある聖徒たちはバスに乗り,立ったままで3日間の旅をし,主の預言者に会って話を聞くことができました。
メキシコで地域大会が開かれたとき,教会員は大会の間中断食をして戸外で寝ました。皆,大会の会場に行くだけで資金を使い果たし,食事や宿泊に充てるお金が残っていなかったのです。
ある家族は神殿建築資金として献金するお金を作るために,自動車を売りました。
別の家族は家を売り,神殿に行く旅費を作りました。
たくさんの忠実な末日聖徒が経済的に厳しくても,什分の一と断食献金を納めています。
ある兄弟は日曜出勤を拒否したために,仕事を失いました。
ある支部の青少年は,親が集会所の建築を手伝っている間,子供たちを世話することを喜んで申し出ました。
若い男女が良い職業に就くチャンスや教育,スポーツをあきらめたり,延期したりして,伝道に出ています。
このように,主のために犠牲をささげている人の例はまだまだあります。しかし,天の御父の王国に一つの場所を得ることは,時間や才能,体力,財産,命さえ犠牲にしてもなお価値があります。犠牲を通して,わたしたちは主に受け入れられることを知ることができるのです(教義と聖約97:8参照)。
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進んで犠牲をささげることが,神のみもとに住む用意をすることに関係しているのはなぜだと思いますか。
参照聖句
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ルカ12:16-34(宝のある所に心もある)
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ルカ9:57-62(王国にふさわしくなるための犠牲)
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教義と聖約64:23;97:12(今日は犠牲の日)
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教義と聖約98:13-15(主のために命を失う者はそれを得る)
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アルマ24章(アンモンの民は,主との聖約を破るよりは命を犠牲にする方を選んだ)