過越の食事を取った後,イエスは弟子たちの足を洗い,互いに仕え,愛し合うことについて教えられました。この課では,イエスがなさったようにほかの人に仕え,愛することによって幸せを求めるようになってもらいます。
質問に対する複数回答の奨励。 生徒に質問して一つ答えが返ってきたら次に進むというタイプのレッスンにならないよう,気をつけてください。ほかの生徒にも答えてもらったり,前の回答にコメントしてもらったりしてください。生徒に話し合いに加わってもらう際には,御霊の導きを求めてください。
生徒の準備: ほかの人に仕えたり,キリストのような愛を示したりする機会を生徒に見つけてもらいます。
「イエス様のように」(『子供の歌集』 40-41)を歌うか,その歌詞を読みます。または,ChurchofJesusChrist.org にある「音楽ビデオ:I’m Trying to Be like Jesus—Emily Brown(イエス様のように—エミリー・ブラウン)」(3::18)を見てもいいかもしれません。歌ったり,読んだり,見たりしながら,イエス様のようになりたい理由を考えましょう。
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Music Video: I’m Trying to Be Like Jesus – Emily Brown
歌を歌ったり,歌詞を読んだり,ビデオを見たりしながら感じた考えや気持ちを,生徒に発表してもらうといいかもしれません。次の質問をします。最初の質問は,話し合いではなく内省を促すためにしてください:
聖霊の促しに注意を払いながら,このレッスンに参加してください。聖霊は,救い主の模範と教えによく従えるよう霊感を与えてくださいます。
この聖文の話の出来事を生徒が視覚的にイメージできるように,このレッスンの始めからこの絵を表示しておくといいかもしれません。
救い主は生涯が終わりに近づくころ,最後の過越の食事に使徒たちを集められました。この晩の出来事は,しばしば「最後の晩餐」と呼ばれます。
ヨハネ13:1-11 を読んで,イエスと使徒たちが過越の食事を終えた後にイエスが何をされたかを調べてください。
過越の食事のときに起こったその他の出来事については,今週のほかの課で扱います。
新約聖書の時代,人々は通常,サンダルを履き,ほとんどが未舗装であった道路を歩いていたため,足が非常に汚れていました。このことを知っておくと役に立つかもしれません。ほかの人の足を洗うことは,通常,最も地位の低い使用人によって行われていたようです。
使徒たちの足を洗うことによって,救い主は立派な奉仕を行っただけでなく,神聖な儀式を定めることもなさいました(see Bruce R. McConkie, Doctrinal New Testament Commentary [1965], 1:708–9)。この儀式は,預言者ジョセフ・スミスを通してこの神権時代に回復されました(教義と聖約 88:74-75,137-141 ;『聖徒たち』 第1巻,161参照)。これは預言者や使徒によってめったに話されることのない神聖な儀式であるため,教師はこの儀式が今日どのように行われているかについて論じるべきではありません。教師と生徒は,お互いの足を洗うことに関連するいかなる活動にも参加すべきではありません。代わりに,このように弟子たちに仕えるという救い主のすばらしい愛の模範を強調してください。
ヨハネ13:12-17 を読んで,救い主の言葉から学ぶことができる教訓を探してください。
ほかの人に仕えると幸せになることを示すために,ChurchofJesusChrist.org にあるビデオ「When Ye Are in the Service—YW(あなたがたが奉仕しているとき—YW) 」(3:07)と「When Ye Are in the Service—YW(あなたがたが奉仕しているとき—YM )」(3:02)のどちらかまたは両方を見せるといいかもしれません。
3:7
3:2
使徒たちの足を洗った後,救い主は時間を取って彼らを教えられました。 ヨハネ13:34-35 を読んで,イエスが教えられた重要な教義を見つけてください。
生徒が次のような真理を見つけられるように助けてください:イエス・キリストの真の弟子になるためには,イエス・キリストが自分を愛してくださるように,わたしたちも互いに愛し合わなければならない。
自分を傷つけた人を愛するのに苦労している生徒がいるかもしれません。イエス・キリストが自分やほかの人を愛しておられることを生徒に感じてもらうためにはこの真理をどのように当てはめる必要があるか,聖霊の導きを求めながら考えてください。
次の活動は,二人一組または小グループで行ってもらうといいかもしれません生徒が自分の例をホワイトボードに書かれたリストに追加してもよいでしょう。
救い主がほかの人に愛を示した聖文の中の話について,考えてみてください。
時間を取って,自分に対するイエスの愛をいつ,どんなふうにして感じるか考え,それを書き留めてください。心を静めて,そのようなときのことに気づけるよう天の御父に助けを求めるといいかもしれません。
救い主がどのような形で自分に愛を示しておられるのかを考えることが,うまくできない生徒もいるかもしれません。赦してくださる,自分の価値が分かるよう助けてくださる,自分の苦労を分かっていることを知らせてくださるなど,救い主がどのような形で愛を示しておられるか,例を挙げるといいかもしれません。聖文に出てくるのと同じ愛と思いやりを,救い主がわたしたちに示し続けておられることを生徒に理解してもらうために,個人的な経験を分かち合うといいかもしれません。ディーター F ウークトドルフ長老のメッセージを,ChurchofJesusChrist.org にあるビデオ「主の愛を感じることを通して,主の声を聞く」(2:01)で紹介してもいいかもしれません。
2:1
次の「学習の評価」の課でこの計画のフォローアップをすることを知っておいてください。ここで何か変更を行った場合は,それに合わせて「学習の評価」の課も調整してください。
救い主の模範に従って人を愛し,人に奉仕するために何をするか,それをいつしたいか,計画を立ててください。以下に挙げるアイデアについて考えると,計画を立てるのに役立つかもしれません:
家族や友人,地域社会の人のために,今日何かをする。
自分とは違う人,あるいは過去に仲良くするのに苦労した人にさえも,愛と優しさを示すために何かをする。
自分が大きな愛や敬意を示したくなる人はだれか考える。
どうしたら救い主の愛をもって努力することができるかを考える。
ヨハネ13:26 にある「一きれの食物」とは,食事をしている人々がボウルからスープや肉をすくうために使う,パンの小さな切れ端でした。主人がパンの切れ端をスープに浸して夕食の客に渡すのは親切と敬意のしるしだったので,救い主はこの行為によってユダに友情を申し出られたのです。ユダにとっては,計画した裏切りをやめる最後の機会だったのかもしれません。
どうすれば,奉仕を通してほかの人にイエス・キリストの愛を感じてもらうことができるでしょうか。
ヘンリー B ・アイリング管長は次の話をしています:
「介護施設での聖餐会を訪問する割り当てを受けたときのことです。聖餐のパスを頼まれました。聖餐のパスの正確さについて考える代わりに,年配の方々一人一人の表情を見ていました。多くの方が涙を流していました。一人の女性がわたしの袖をつかんで,わたしを見上げ声を出して,『ありがとう,ありがとう』と言いました。
主は御自分の御名によって行われた,わたしの奉仕を祝福してくださったのです。その日,わたしは自分の役割をよく果たせるようにではなく,このような奇跡が起こるように,人々がわたしの愛を込めた奉仕を通して,主の愛を感じられるようにと祈りました。これこそが,主の御名によって人々に仕え,祝福をもたらす鍵だと学びました。」
ホワイトボードに次の図を描きます:
以下の質問を読み上げ,生徒に答えを深く考えてもらいます(声に出して答える必要はないことを説明します):
あなたはこの線のどこにいますか。
今よりももっと幸せになりたいですか。
だれが幸せになるのを助けたいですか。
幸せになるために何ができるかを知るのに役立つ原則を探しながら, ヨハネ 13章 を学ぶよう,生徒に勧めます。
「互に愛し合いなさい」の項の冒頭では,生徒をレッスンに再び引き込むのに次の活動が役立つかもしれません。
末日聖徒イエス・キリスト教会の会員などクリスチャンではないとか,イエス・キリストの真の弟子ではないと非難されたことがあるかどうか,生徒に尋ねます。そのような非難を受けたことがある生徒がいる場合は,そのときどのように対応したか尋ねます。クラスの人たちに,次の質問について話し合ってもらいます:
あなたはクリスチャンではないとだれかに言われたとしたら,あなたはどのように答えますか。
あなたがイエス・キリストに従う者であることをどのようにして示すことができるでしょうか。
イエス・キリストが愛してくださるように互いに愛し合うとき,人はわたしたちがイエスの弟子であることを認めるであろう という, ヨハネ13:34 の真理を強調するといいかもしれません。
この真理を説明するため,ポール E ・コーリカー長老が七十人の一員として奉仕していたときに語った,次の話を分かち合ってください:
「二人の若い宣教師がドアをたたきました。自分たちのメッセージを聞いてくれる人を探していたのです。ドアが開いて,わりと体格の大きな男性が,友好的とは言い難い声で彼らを出迎えました。『二度とうちのドアをたたくなと言ったはずだ。今度来たら不快な思いをさせると警告しただろう。ほっといてくれ。』男性はあっと言う間にドアを閉めてしまいました。
長老たちがそこを去るとき,年上の,より多くの経験を積んできた宣教師が後輩宣教師を慰め,励まそうとして彼の肩に腕を乗せました。宣教師たちは知りませんでしたが,男性は宣教師が言われたとおりにするかどうか確かめるために窓から見ていました。男性は,宣教師が自分のそっけない対応を笑い,軽んじるに違いないと思っていました。しかし,宣教師が互いを思いやるのを見て,男性の心は瞬時に和らげられました。彼はドアを再び開け,戻って来てメッセージを教えてほしいと宣教師に頼みました。
… 互いに愛し合い,思いと言葉と行いをキリストに焦点を当てたものとする能力を育む原則は,キリストの弟子となるうえで重要です。」
(ポール E ・コーリカー「主はわたしたちを心から愛しておられる 」『リアホナ』 2012年5月号, 17参照)
この宣教師のやり取りがなぜこの男性にそのような影響を与えたのか,生徒に考えてもらいます。