総大会
根に養いを与えれば,枝は生長します
2024年10月総大会


14:32

根に養いを与えれば,枝は生長します

皆さんの証の枝は,天の御父とその愛する御子に対する深い信仰から力を受けるのです。

ツビッカウの古い礼拝堂

2024年はわたしにとって節目の年です。ドイツのツビッカウでバプテスマを受け,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に確認されてから75年になります。

イエス・キリストの教会の会員であることは,わたしにとってかけがえのないことです。兄弟姉妹の皆さんとともに神の聖約の民に数えられることは,わたしの人生で最も光栄なことです。

弟子としての歩みについて考えるとき,わたしはしばしばツビッカウの古い家屋のことを思い出します。子供のころイエス・キリスト教会の聖餐会に出席したことは大切な思い出です。そこで,わたしの証の苗木は初めて養いを得ました。

礼拝堂には古い空気駆動のオルガンがありました。毎週日曜日には,一人の若い男性が割り当てを受け,頑丈なレバーを上下に動かしてふいごを操作し,オルガンを弾けるようにしました。わたしは時折,この大切な仕事を補佐する大きな特権にあずかりました。

会衆が賛美歌を愛唱する間,わたしはオルガンに送る風が途切れないように全力で空気を送りました。ふいごの操作席からは,一つは救い主イエス・キリストを,もう一つは聖なる森にいるジョセフ・スミスを描いた,見事なステンドグラスの窓がよく見えました。

聖徒たちの証に耳を傾け,シオンの賛美歌を歌いながら,太陽の光が差し込む窓を眺めていたときに感じた神聖な気持ちを今でも覚えています。

その聖なる場所で,神の御霊がわたしの思いと心に,イエス・キリストが世の救い主であられることが真実だと証してくださいました。この教会は主の教会です。預言者ジョセフ・スミスは父なる神とイエス・キリストにまみえ,御二方の声を聞きました。

今年の初め,ヨーロッパでの割り当てを受けたとき,ツビッカウに戻る機会がありました。残念ながら,大好きだったあの古い礼拝堂は何年も前に取り壊され,その場所には大きなアパートが建っていました。

何が永遠で,何が永遠ではないのでしょうか

子供のころから愛着があった建物も,今や残っているのが思い出だけであることは確かに悲しいです。わたしにとって神聖な建物でした。とは言え,それは建物にすぎません。

それとは対照的に,何年も前に聖霊から受けた霊的な証は,今も消え去っていません。それどころか,強くなっています。イエス・キリストの福音の基本的な原則について若いころに学んだことは,生涯にわたってわたしの堅固な土台となってきました。ツビッカウの礼拝堂が解体され,ステンドグラスの窓がなくなった後も,わたしが天の御父とその愛する御子との間に築いた聖約のつながりは,ずっとわたしの中に残っています。

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」とイエスは言われました。

「『山は移り,丘が動いても,わがいつくしみはあなたから移ることなく,平安を与えるわたしの契約は動くことがない』と,……主は言われ〔ました〕。」

この世で学べる最も大切なことの一つは,永続するものとそうでないものの違いを知ることです。それが分かれば,すべてが変わります。人間関係や自らの選び,人への接し方も変わります。

何が永続し,何が永続しないのかを知ることはイエス・キリストとその教会に対する証を育む鍵です。

枝を根と間違えないでください

回復されたイエス・キリストの福音は,預言者ジョセフ・スミスが教えているように,「すべての真理を余すところなく受け入れる」ものです。しかしそれは,すべての真理に同じ価値があるという意味ではありません。真理には,わたしたちの信仰の根底にあり,核となる不可欠なものがあります。そのほかのものは付属するものか,枝となるものです。それらは基本的な事柄と結びついてこそ価値があります。

預言者ジョセフはこのようにも述べています。「わたしたちの宗教の基本原則は,使徒と預言者たちがイエス・キリストについて立てた証です。すなわち主が亡くなり,葬られ,3日目に再びよみがえって,天に昇られたことです。わたしたちの宗教に関するほかのすべての事柄は,それに付随するものにすぎません。」

言い換えれば,イエス・キリストとその贖いの犠牲こそがわたしたちの証の根源なのです。ほかのすべてのものは枝です。

枝が重要でないということではありません。木には枝が必要です。しかし,救い主が弟子たちに言われたように,「枝がぶどうの木につながっていなければ,自分だけでは実を結ぶことができない」のです。枝は,根にある栄養,つまり救い主とつながっていなければ,枯れて死んでしまいます。

イエス・キリストの証を養うことに関して,わたしたちは時折,枝を根として捉えてしまうことがあるように思います。イエスは当時のパリサイ人がこのような間違いをしているのを御覧になりました。彼らは律法の比較的小さな部分に注意を払いすぎるがあまり,救い主が「もっと重要」だと言われた,「公平とあわれみと信仰」といった基本的な原則を見過ごしてしまったのです。

木に養いを与えたいなら,枝に水をかけるのではなく,根に水をやります。同様に,証の枝を育てて実を結んでほしいなら,根に養いを与えてください。教会歴史の特定の教義や慣習,要素について確信が持てない場合は,イエス・キリストを信じる信仰によって明確さを求めてください。あなたのための主の犠牲,あなたへの愛,あなたに対する御心を理解するよう努めてください。へりくだって主に従ってください。皆さんの証の枝は,天の御父とその愛する御子を信じる皆さんの深い信仰から力を受けるのです。

例えば,モルモン書についてより強い証を得たいなら,モルモン書がイエス・キリストを証していることに焦点を当ててください。モルモン書が主についてどのように証しているか,主について何を教えているか,そしてそれがどのように主のもとに来るようあなたを招き,鼓舞してくれるかに注目してください。

もし教会の集会や神殿でより有意義な経験を求めているなら,そこで受ける神聖な儀式の中に救い主を探してみてください。主の聖なる宮で主を見いだしましょう。

教会の召しに燃え尽きてしまったと感じたり,大きな負担に感じたりすることがあるなら,奉仕の焦点をイエス・キリストに当て直し,奉仕を主への愛の表現としてください。

根に養いを与えれば,枝は生長します。そして,やがて実を結ぶことでしょう。

「〔主〕に根ざし,〔主〕にあって建てられ〔る〕」

イエス・キリストを信じる強い信仰は,一晩で生まれるものではありません。この死すべき世においては,疑いといういばらやあざみが自然に生えてきます。健康で実を結ぶ信仰の木には,意識的な努力が必要です。そして,その取り組みで重要なことは,わたしたちがキリストにしっかりと根ざしていることを確認することです。

例えば,最初は友好的な会員や親切なビショップ,礼拝堂の清潔な様子に感銘を受けて,救い主の福音と教会に引き付けられるかもしれません。こうした状況は,教会を成長させるうえで確かに重要です。

しかし,わたしたちの証の根がその程度の深さにしか根を張らないとしたら,建物もそれほど見栄えせず,会員もあまり友好的ではないワードに移り,ビショップが気分を害するようなことを言った場合にどうなるでしょうか。

また,例えば,戒めを守り,神殿で結び固めを受けるなら,幸せな大家族に恵まれ,明るく従順な子供たちは全員教会に活発に集い,伝道に出て,ワードの聖歌隊で歌い,毎週土曜日の朝に集会所の掃除を進んで手伝うことを期待するのは理にかなったことではないでしょうか。

わたしたち皆が生活の中でこのようなことを目にできるよう願いますが,そうでない場合はどうでしょうか。どのような状況にあっても救い主とつながったままでいられるでしょうか。主と主の時を信頼することができるでしょうか。

わたしたちはこのように自問しなければなりません。自分の人生で実現してほしいことが自分の証の基となってはいないだろうか。それはほかの人の行動や態度に左右されるものだろうか。それとも,変わりゆく人生において,イエス・キリストの上にしっかりと土台が築かれ,「〔主〕に根ざし,〔主〕にあって建てられ」たものだろうか。

伝統,習慣,信仰

モルモン書には,「神の儀式を厳密に守った」民の話が記されています。しかし,懐疑論者であるコリホルが現れ,救い主の福音を「先祖の愚かな言い伝え」と呼んであざけりました。コリホルは「多くの人の心を惑わし,平然と悪事を犯させ」ました。しかし,そのほかの人々にとってイエス・キリストの福音が単なる伝統以上のものであったために,彼らを欺くことはできませんでした。

信仰は,わたしたちの伝統やほかの人の言動に関係なく,個人的な経験やイエス・キリストへの献身に深く根ざしているときに強いのです。

わたしたちの証は試され,問われます。試されることがない信仰は信仰とは言えません。逆風に遭わない信仰は強くはありません。ですから,信仰の試しや答えの得られない疑問があっても,落胆しないでください。

行動する前にすべてが理解できるものだと期待するべきではありません。それは信仰ではないのです。アルマが言ったように,「信仰とは物事を完全に知ることではない」のです。すべての疑問に答えが出るまで行動せずにいると,達成できる善いことや信仰の力は著しく制限されてしまいます。

祝福が望んだように訪れないときでさえも,持ち続けるからこそ信仰はすばらしいのです。わたしたちは未来を見ることはできませんし,すべての答えを知っているわけでもありません。しかし,前進し,上昇し続ける中で,救い主,贖い主であられるイエス・キリストを信頼することができます。

信仰により,人生の試練や不安を堪え忍ぶことができるのは,それがキリストとその教義にしっかりと根ざしているからです。イエス・キリストと主を地上に送ってくださった天の御父は,揺らぐことがない,完全に信頼できる御方です。

証は,一度築いたら永続するものではなく,常に養いが必要な木のようなものです。神の言葉を心に植えることは,最初の一歩にすぎません。証が育ち始めてからが肝心です。そのような時にこそ,「実を結ぶように,十分に注意して養いを与え」るのです。そこには,「非常な熱意」と「御言葉〔に対する〕忍耐」が求められます。しかし,主の次の約束は確かです。「それで,わたしの同胞よ,そのときにあなたがたは,その木があなたがたのために実を結ぶのを待ちながら示した,あなたがたの信仰と熱意と忍耐と寛容の報いを刈り入れるのである。」

愛する兄弟姉妹,友人の皆さん,古いツビッカウの礼拝堂とステンドグラスの窓を恋しく感じる自分がいるのも事実です。しかし,過去75年間,イエス・キリストはわたしを,想像もできなかったほど胸躍る人生の旅に導いてくださいました。主は苦難の中でわたしを慰め,自分の弱さを認識できるように助け,霊的な傷を癒し,信仰を育む中でわたしを養ってくださいました。

わたしたちが救い主とその教義,主の教会にある信仰の根を絶えず養うことができるよう,心から祈り,また祝福します。このことを,救い主,贖い主,そして主の神聖な御名により証します。イエス・キリストの御名により アーメン。

  1. 2024年はわたしが中央幹部に召されてから30年,またその召しのために家族でドイツからアメリカ合衆国に引っ越すことになってから25年目に当たります。また,ちょうど20年前の2004年10月2日,わたしは十二使徒定員会の一員として,また「全世界におけるキリストの名の特別な証人」として支持されました(教義と聖約107:23)。

  2. その建物に対するわたしの思いは,アルマの民がモルモンの泉に対して抱いていた気持ちと似ているものがあります。その地は彼らにとって美しい場所でした。なぜなら,そこで「〔彼らは〕自分たちの贖い主を知るようになった」(モーサヤ18:30)からです。

  3. マタイ24:35ジョセフ・スミス—マタイ1:35も参照

  4. イザヤ54:103ニーファイ22:10も参照

  5. トーマス・S・モンソン大管長は同様の真理を次のような言葉で述べています。「地上でのこの短い人生で得られる教訓の中で,最も重要な教訓の一つは,大切なこととそうでないことを区別するよう教えてくれる教訓であると,わたしは信じています。皆さんに切にお願いします。……人生で最も大切な事柄をやり過ごしてしまわないようにしてください。」(「人生の旅路に喜びを見いだす」『リアホナ』2008年11月号,85)同様に,ラッセル・M・ネルソン大管長は最近,「日の栄えの考えを持〔つ〕」よう勧めた際に,このように言われました。「現世は,永遠にわたる最も重要な事柄を選択することについて学ぶ,特別なクラスです。」(「日の栄えの考え」『リアホナ』2023年11月号,118)

  6. 『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』 264;『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』 16-18

  7. 『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』49

  8. ヨハネ15:4

  9. マタイ23:23, 新改定標準訳聖書より和訳

  10. 古代アメリカの文化とモルモン書の民の考古学的な類似性に注目するのは興味深いことでしょうか。そのような場合もあるでしょう。ジョセフ・スミスがモルモン書をどのように翻訳したかの詳細について,筆記者やその他の人々の記録から学ぶことは役に立ちますか。それが役に立つ人もいるでしょう。しかし,このどちらもモルモン書が神の言葉であるという永続する証となることはありません。永続する証を得るには,モルモン書の中に救い主を見いだし,自分に語りかける主の声を聞く必要があります。それができれば,古代のゼラヘムラの町が実際はどこにあったのかといったことや,ウリムとトンミムがどのようなものであったのかは重要ではなくなります。これらの枝は必要に応じて刈り込まれても良いものであって,残るのは木です。

  11. 教義と聖約84:19-20参照

  12. ジョイ・D・ジョーンズ「主のために」『リアホナ』2018年11月号,50-52参照

  13. 創世3:18参照

  14. ネルソン大管長は,「イエス・キリストと主の福音に対する自分の証に責任を持つように」わたしたち全員を招いています。「そのために努力してください。証を育ててください。」(「世に打ち勝ちなさい。そうすれば,休みが与えられるであろう」『リアホナ』2022年11月号,97)

  15. コロサイ2:7

  16. アルマ30:3

  17. アルマ30:12-16,31参照

  18. アルマ30:18

  19. 興味深いことに,コリホルの主張は,改宗したばかりのレーマン人,すなわち,かつては先祖の言い伝えが原因でキリストに従っていなかったアンモンの民(アルマ30:19-20参照)の間ではまったく説得力のないものでした。

    それとは対照的に,モルモン書には,「自分たちの先祖の言い伝えを信じなかった」(モーサヤ26:1-4参照)ために主の教会から離れてしまった若い世代のことも書かれています。家族が義にかなった伝統を築くのは良いことです。しかし,その伝統の背後にある理由を家族が明確に理解することは,同じくらい重要です。わたしたちはなぜ毎朝毎晩祈るのでしょうか。なぜわたしたちは家族の聖文研究をするのでしょうか。毎週家庭の夕べを開いたり,家族の活動や奉仕プロジェクトなどを行ったりするのはなぜでしょうか。これらの伝統がいかにわたしたちを天の御父とイエス・キリストに近づけてくれるかを子供たちが理解すれば,彼らは自分が築く家庭の中でそれらを継続し,さらに発展させる可能性が高まります。

  20. アルマ32:21。信仰に力があるのは,信仰からもたらす知識によるのではなく,信仰がもたらす行動にあります。

  21. ヘブル10:23参照

  22. アルマ32:37,41-43