2020
これによって彼らを試し
2020年11月


15:19

これによって彼らを試し

アブラハム3:25

何であれ,主なる神が命じられることをすべて果たせるように備え,その意志と能力を示そうとするべき時があるとしたら,それは今です。

この総大会に備える中,わたしの思いと心に浮かんだ考えや印象を分かち合うに当たり,聖霊の助けがわたしたち皆にもたらされるよう祈ります。

試験の重要性

フルタイムでの教会奉仕に召される20年以上前のこと,わたしは大学で教え,管理する仕事に就いていました。教師であるわたしの主要な責任は,学生たちが自分で学ぶ方法を身につけられるよう助けることでした。仕事において不可欠な務めと言えば,試験問題を作成し,成績をつけ,試験の出来に関して学生たちにフィードバックをすることだったのです。皆さんも経験からお分かりでしょうが,学習プロセスの中でも,試験というのはあまり学生に歓迎されるものではありません。

それでも,定期的な試験は学習に欠かせません。特定の教科に関して自分が確実に理解している事柄と,自分が学ぶべき事柄とを把握するうえで,効果的な試験は役立つものです。自分の知識や進歩を評価できるものに関して,判断基準を与えてくれるものでもあります。

同様に,現世の学校における試験は,永遠の進歩に不可欠なものです。ところが興味深いことに,「試験」という言葉は,英語の標準聖典に収められた聖文において一つたりとも見当たりません。天の御父の永遠にわたる幸福の計画に対するわたしたちの霊的な知識,理解度,献身の度合いとともに,救い主の贖罪の祝福を求めるわたしたちの能力を適切な形で明らかにする様々なパターンを言い表す際には,「試す」「調べる」「試みる」といった言葉が用いられています。

救いの計画を立てられた御父は,古代および現代の聖文において,「試す」「調べる」「試みる」という言葉を用い,試しの生涯の真の目的を言い表しておられます。「そして,わたしたちはこれによって彼らを試し,何であろうと,主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。」1

詩篇を著したダビデによる嘆願の言葉について考えてみましょう。

「主よ,わたしをためし,わたしを試み,わたしの心と思いとを練りきよめてください。

あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり,わたしはあなたのまことによって歩みました。」2

1833年,主はこのように宣言しておられます。「それゆえ,あなたがたの敵を恐れてはならない。あなたがたがふさわしいと認められるように,死に至るまでもわたしの聖約の中にとどまるかどうか,あらゆる点であなたがたを試すことを,わたしは心の内に定めたからである,と主は言う。」3

今日の「試し」と「試み」

2020年は,世界的なパンデミックという点においても際立った年でした。わたしたちは様々な形で試され,調べられ,試みられたのです。個人として家族として,わたしたちが困難な経験によってのみ学び取れる,価値ある教訓を得られるようにと祈っています。わたしたち皆が,「神の偉大さ」と,神が「〔自分の〕苦難を聖別して,〔自分の〕益としてくださる」という真理をいっそう深く認められるようにとも願います。4

いかなる類のものであれ,わたしたちが人生において試しと試みに満ちた状況に直面する中で,導きと力をもたらしてくれる二つの基本的な原則があります。第1に備えるという原則,第2にキリストを確固として信じ,力強く進むという原則です。

試しと備え

救い主の弟子として,わたしたちは次のように命じられています。「すべての必要なものを用意しなさい。そして,一つの家,すなわち祈りの家,断食の家,信仰の家,学びの家,栄光の家,秩序の家,神の家を建てなさい。」5

わたしたちは,「備えていれば恐れることはない」という約束も受けています。

「敵の力から逃れ,染みがなく,罪もない,義にかなった民として〔主〕のもとに集められる」のです。6

これらの聖文は,わたしたちが物質的にも霊的にも,生活と家庭を整え,備えるうえで,完璧な枠組みを提供してくれています。現世で試される経験に備えて努力する中で,わたしたちは救い主の模範に倣うべきです。主は「ますます知恵が加わり,背たけも伸び,そして神と人から愛された」御方です。7知的,身体的,霊的,社会的,それぞれの分野でバランスよく備えられていたのです。

数か月前のある午後のこと,スーザンとわたしは食糧貯蔵と非常用物資を見直していました。新型コロナウイルスが瞬く間に広がったのに加え,一連の地震により,ユタの自宅が揺さぶられていたころです。予期せぬ困難に備えるようにとの預言者の勧告に従うべく,わたしたちは結婚当初から取り組んできました。ですから,ウイルスと地震の只中にあって自分たちの備えの現状を「調べる」ことは,時宜にかなった良い活動に思われました。こうした抜き打ちの試験における自分たちの成績を確かめたいと思ったのです。

たくさんの学びがありました。多くの分野において,自分たちの取り組んでいた備えは申し分ないものでした。ところが,改善が必要な分野もありました。とりわけ今この時期に必要なものに関しては,認識と対応が不足していたのです。

たくさんの笑いも起こりました。例えば,数十年もの間食糧貯蔵庫に眠っていた,ずっと昔の収納にしまい込んでいたものを見つけました。実のところ,新たに世界的パンデミックを引き起こしてしまうのではという恐れから,幾つかの容器を開いて調べるのはためらわれるものがありました。危険物はきちんと処分しましたから,世界に健康被害が及ぶ可能性はなくなりました。ご安心ください。

近ごろは総大会で中央幹部が備えに関連した話を大々的にすることもないし,緊急時の計画や非常用物資,食糧貯蔵,72時間キットはもう重要でないだろうと思い込んでいる教会員もいますが,数十年にわたり,教会指導者たちは繰り返し備えるようにとの勧告を発してきました。時を越えて続く,一貫した預言者たちの勧告は,はっきりと耳に届く力強い演奏を生み,独奏では決して出せない,はるかに大きな音量で警告を発しているのです。

困難な時期にあって,物質的な備えにおける不備が明らかとなったように,霊的な無頓着さや慢心といった疾患は,困難な試練にあってとりわけ害をもたらすものとなります。例として,10人のおとめのたとえから学べるのは,備えを先延ばしにしていると,試験で失敗してしまうということです。花婿がやって来るその日,おとめたちには試験が課されましたが,思慮の浅い5人のおとめはふさわしく備えていませんでした。そのことを思い起こしてみましょう。

「思慮の浅い者たちは,あかりは持っていたが,油を用意していなかった。

しかし,思慮深い者たちは,自分たちのあかりと一緒に,入れものの中に油を用意していた。

夜中に,『さあ,花婿だ,迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。

そのとき,おとめたちはみな起きて,それぞれあかりを整えた。

ところが,思慮の浅い女たちが,思慮深い女たちに言った,『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから。』

すると,思慮深い女たちは答えて言った,『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは,多分ないでしょう。店に行って,あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう。』

彼らが買いに出ているうちに,花婿が着いた。そこで,用意のできていた女たちは,花婿と一緒に婚宴のへやにはいり,そして戸がしめられた。

そのあとで,ほかのおとめたちもきて,『ご主人様,ご主人様,どうぞ,あけてください』と言った。8

しかし彼は答えて,『はっきり言うが,あなたがたはわたしを知らない』と言った。」9

少なくともこの試験において,思慮の浅い5人のおとめたちは,自らが御言葉を行う者ではなく,ただ聞くだけの者となっていたことを証明したのでした。10

法科大学院で学んでいた実直な友人がいます。学期の間,サムは毎日復習とまとめに時間を注いでいました。各履修コースに関して,自分の取ったノートから学んでいたのです。毎週末,毎月末,サムは同じ方法に則ってすべての講義を復習していました。こうした取り組みのおかげで,サムは単に詳細を記憶するだけでなく,法律に精通するようになったのです。卒業試験が近づくころ,サムには備えができていました。実際,司法を習得する過程にあって,卒業試験の時期はいちばんストレスが少なかったそうです。試験で成功を収めるには,効果的で時宜にかなった備えをしておくことです。

法律を学ぶ際にサムが取った方法は,成長と進歩に関して主が示された重要なパターンの一つを際立たせるものです。「​主​なる​神​は​こう​言われる。『わたし​は​ここ​に​も​少し,そこ​に​も​少し​と,教え​に​教え,​訓戒​に​訓戒​を​加えて,それ​を​人​の​子ら​に​与えよう。わたし​の​訓戒​を​聴き,わたし​の​勧め​に​耳​を​貸す​者​は,​知恵​を​得る​ので​幸い​で​ある。わたしは受け入れる者にさらに多く〔を与える。〕』」11

各自,「自分のなすべきことをよく考え」,12「はたして信仰があるかどうか,自分を反省し,自分を吟味する」ようお招きします。13生活様式の調整や制限を余儀なくされたここ数か月の間,どのようなことを学びましたか。生活において,霊的,身体的,社会的,情緒的,知的に何を改善する必要がありますか。何であれ,主なる神が命じられることをすべて果たせるように備え,その意志と能力を示そうとするべき時があるとしたら,それは今です。

試しと力強く進むこと

以前,事故に遭って他界した若き宣教師の葬式に参列したことがあります。式場で宣教師の父親が話をしました。愛する子供と予期せず現世で離れることになり,心を痛めていると言いました。伝道中になぜそのようなことが起こったのか,個人的に受け入れられてはいないことを率直に打ち明けてくれました。しかしながら,わたしの心にずっと残っているのは,自分の子供が今,なぜ旅立ったのか,神は御存じであることを知っていると,この善良な男性が口にしたことです。彼にとっては,それで十分だったのです。彼は集まった人々に向けて,悲しみはあるが,自分と家族は元気にやっており,堅固で揺るぎない証は健在だと伝えました。彼はこのように断言して話を閉じました。「皆さんに知っていただきたいのは,イエス・キリストの福音においてわたしたち家族は全力を尽くしているということです。すべてをささげているのです。」

心から愛する人を失うのは,つらく胸が痛むものですが,霊的に雄々しいこの一家の人々は備えられており,苦しみをもたらす事柄を通して永遠に重要な教訓を得られるということを証明したのです。14

忠実さとは,愚かなものでも狂信的なものでもありません。それどころか,忠実さとは,わたしたちの救い主であられる主の御名とその約束を信じ,信頼を置くことです。「これからもキリストを確固として信じ,完全な希望の輝きを持ち,神とすべての人を愛して力強く進〔む〕」なら,15わたしたちは永遠に基づく観点と洞察に恵まれ,死すべき人間としての限られた能力が計り知れないほど高められます。わたしたちは「皆集まり,聖なる場所に立ち」,16「主の日が来るまで,……動かされないように」なることができるでしょう。17

1998年12月,ブリガム・ヤング大学アイダホ校の学長を務めていたころ,ジェフリー・R・ホランド長老がキャンパスを訪れ,週ごとのディボーショナルの一つで話をしてくれることになりました。お話の前,スーザンとわたしは学生の一団を招き,ホランド長老に会って話をする場を設けました。ともに過ごす時間が終わりに近づく中,わたしはホランド長老に質問しました。「一つだけという制限があれば,学生たちに何を教えますか。」

ホランド長老はこう答えてくれました。

「わたしたちは,物事がいっそう両極化していく流れを目の当たりにしています。末日聖徒であるわたしたちが,中立の立場を選ぶことはできません。道の真ん中を通ることはできないのです。

流れる川で立ち泳ぎをしていたら,どこかへ移動することになります。ただ流されるままに,どこへでも向かうことでしょう。流れに合わせ,潮に乗り,動きゆく水の中に漂っていてはなりません。

選択する必要があります。選択しないことも,選択です。今,選ぶことを学んでください。」

両極化が進んでいくというホランド長老の発言は預言的なものであり,彼がわたしの質問に答えてから22年間の社会的傾向や出来事がそれを証明しています。主とこの世の方法との違いは著しいものになると予告したホランド長老は,片足を回復された教会に,もう一方の足を世に置いていた,楽な時代はすばやく過ぎ去ることを警告したのです。この主の僕は,選択し,備え,救い主の献身的な弟子となるよう若者たちを励ましました。ホランド長老は,人生において試され,調べを受け,試みられる経験に向けて,またその経験を通じて,彼らが備え,力強く進めるようにと助けていたのです。

約束と証

自らを証明していく過程は,天の御父の偉大な幸福の計画において基礎を成すものです。救い主に対する信仰を抱きつつ,備え,また力強く進むなら,わたしたちは現世における究極の試験において,皆同じ評価を受けられることを約束します。「『良い忠実な僕よ,よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから,多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」18

永遠の父なる神は,わたしたちのお父様であることを証します。イエス・キリストは御父の生ける独り子であり,わたしたちの救い主,贖い主であられます。これらの真理を,喜びをもって主イエス・キリストの聖なる御名によって証します,アーメン。