2023
個人の平安を見いだす
2023年5月号


15:54

個人の平安を見いだす

皆さんが平安を見いだし,多くの人がそれを見いだせるように助け,それを伝えることができますように。

愛する兄弟姉妹の皆さん,わたしたちは,総大会のこの最初の部会で,霊感された教えと美しい音楽を聴く機会に恵まれています。皆さんの参加と信仰に感謝しています。

今日わたしは,どんな状況にあっても個人の平安を見いだすという奇跡について,自分が学んできたことをお話しします。天の御父の子供たち全員が平安を切望していることを,救い主は御存じであり,それをお与えになることができると言われました。ヨハネ書に記されているイエス・キリストの御言葉を思い出してください。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。」1

平安とは何を指し,主がそれをどのように与えてくださるのかは,主が語られたその言葉を聞いた人々の状況から分かります。キリストの御業の絶頂期に関する,ヨハネの記述に耳を傾けてください。すさまじい悪の力がキリストに襲いかかり,間もなく弟子たちにも襲いかかろうとしていました。

救い主は次のように述べておられます。

「『もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである。

わたしは父にお願いしよう。そうすれば,父は別に助け主を送って,いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず,知ろうともしないので,それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら,それはあなたがたと共におり,またあなたがたのうちにいるからである。

わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。

もうしばらくしたら,世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし,あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので,あなたがたも生きるからである。

その日には,わたしはわたしの父におり,あなたがたはわたしにおり,また,わたしがあなたがたにおることが,わかるであろう。

わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は,わたしを愛する者である。わたしを愛する者は,わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し,その人にわたし自身をあらわすであろう。』

イスカリオテでない方のユダがイエスに言った,『主よ,あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして,世にはあらわそうとされないのはなぜですか。』

イエスは彼に答えて言われた,『もしだれでもわたしを愛するならば,わたしの言葉を守るであろう。そして,わたしの父はその人を愛し,また,わたしたちはその人のところに行って,その人と一緒に住むであろう。

わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は,わたしの言葉ではなく,わたしをつかわされた父の言葉である。

これらのことは,あなたがたと一緒にいた時,すでに語ったことである。

しかし,助け主,すなわち,父がわたしの名によってつかわされる聖霊は,あなたがたにすべてのことを教え,またわたしが話しておいたことを,ことごとく思い起させるであろう。

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。』」2

わたしは,救い主のこの教えから少なくとも5つの真理を学びました。

まず,平安の賜物は,主の戒めを守る信仰を持った後に与えられます。聖約を交わした主の教会の会員にとって,従順であることは,自分がそうするとすでに約束していることです。

第2に,聖霊が訪れて,わたしたちとともにいてくださいます。わたしたちが忠実であり続けるなら,聖霊がわたしたちの中に宿ると,主は言っておられます。それが聖餐の祈りの約束であり,御霊が伴侶となり,心と思いの中で御霊の慰めを感じることができるということです。

第3に,救い主は,わたしたちが聖約を守るのであれば,御父と御子が互いに対して持っておられる愛,またわたしたちに対して持っておられる愛を感じられると約束しておられます。わたしたちは,将来永遠に御二方とともにいる祝福にあずかるときと同じように,現世で御二方を身近に感じることができます。

第4に,主の戒めを守るには,従順以上のものが必要です。心,力,思い,精神を尽くして神を愛さなければなりません。3

神を愛さない人は神の戒めを守りません。そのような人には,この世でも来るべき世でも平安の賜物はありません。

第5に,主はわたしたちを愛しておられ,わたしたちの罪の代価を払ってくださいました。そのため,わたしたちが主を信じる信仰と悔い改めによって,主の贖罪の効力によって,「人知ではとうてい測り知ることのできない」4平安の賜物を現世で,また主とともに永遠に得ることができることは明らかです。

皆さんの中には,主の約束してくださった平安を感じていない方々が多くいるかもしれません。個人の平安と霊的な慰めを祈ってきたのにもかかわらず,平安をお与えくださいとの嘆願に天が沈黙していると感じているかもしれません。

皆さんや皆さんの愛する人たちが平安を得るのを望まない敵がいます。その敵は平安を得ることができません。救い主と天の御父があなたに得させたいと思っておられる平安を,あなたが見いだしたいと望むことさえ妨げようとして,その敵は働きかけます。

サタンは,わたしたちの周りに憎しみと争いの種をまこうとさらに努めているようです。わたしたちは,国々や方々の都市,地域,電子メディア,また世界中でそれが起きている証拠を目にしています。

しかし,悲観する必要はありません。この世に生まれてくるすべての新生児がキリストの光を受けているからです。その普遍的な賜物とともに,何が正しいかの感覚,愛し愛されたいという思いがあります。死すべき世に来る,神のすべての子供には,生まれながらに正義と真理という感覚が備わっているのです。

子供の個人の平安についてわたしたちが楽観的でいられるかは,子供を養う人々にかかっています。救い主から平安の賜物を受け取るように努めながら子供を育て,接するならば,自分自身の模範と努力を通して,崇高な平安の賜物を受けるにふさわしくあるよう子供の信仰を鼓舞することでしょう。

聖文は次のように約束しています。「子をその行くべき道に従って教えよ,そうすれば年老いても,それを離れることがない。」5そのためには,平安の賜物にふさわしくあるように子供を世話し養育する責任を負う人が必要です。

悲しいことに,霊的な両親—時には独り親—によって育てられた子供たちが,信仰と平安の一時期を過ごした後に悲しみの道を歩むことを選ぶとき,わたしたちは皆,痛みを感じます。

その悲しみが生じるときでさえ,主から頂くもう一つの賜物があるのでわたしは楽観的です。それは,主は信頼できる弟子たちの中から,平和を作り出す多くの人を立てられるということです。彼らは神の平安と愛を感じてきました。彼らの心には聖霊がおられ,主は,迷っている羊に手を差し伸べるように彼らを導かれます。

わたしは,生涯を通じて,世界中でそれを見てきました。皆さんも目にしています。皆さんは,だれかを助けるよう導かれているとき,それを偶然と思うことがあるかもしれません。

わたしはかつて,旅先で出会った人に,「御家族のことを少し話していただけますか」と一言尋ねました。その会話が基で,彼女が悩んでいるという成人した娘さんの写真を見せていただき,わたしは,写真に写るその女性の,表情の善良さに心を打たれました。わたしは,彼女のメールアドレスを教えてもらえるか尋ねるようにとの促しを感じました。その娘さんは当時,道を見失い,神から自分へのメッセージがあるのかどうか知りたいと思っていたのです。神はそれに応じられ,そのメッセージがこれでした。「主はあなたを愛しておられます。いつもです。主は,あなたが戻って来てほしいと思っておられます。約束された祝福は今も有効です。」

教会の会員たちは,個人の平安という主の賜物を感じています。主のみもとに来て同じ平安を得るにふさわしくなる機会をほかの人たちが得られるよう助けるため,主はすべての人を鼓舞しておられます。すると,今度はその人たちが霊感を求めて,その賜物をほかの人々に伝える方法を知るようになります。

若い世代が,その後の世代を育てる人になることでしょう。相乗効果が奇跡を生み出します。それは時の経過とともに広がり,増大し,地上の主の王国は,ホサナの叫びで主をお迎えする準備をして,その準備が整います。地上に平安があることでしょう。

わたしは確かな証を述べます。救い主は生き,この教会を導いておられます。わたしはこれまで自分の生活の中で主の愛を,また,天の御父の子供たちすべてに対する主の愛と思いやりを感じてきました。救い主のみもとへ来るようにとの招きは,平安への招きです。

ラッセル・M・ネルソン大管長は,全地の神の生ける預言者です。大管長はこのように述べています。「世の中の状態や個人的な状況にかかわらず,楽観と喜びをもって将来と向き合うことができることを約束します。」6

皆さんにわたしの愛をお伝えします。皆さんの深い信仰と愛は,人々に届いています。そのおかげで主は人々の心を変えて,人知を超えた平安の賜物を分かち合う望みを与えることがおできになるのです。

皆さんが平安を見いだし,多くの人がそれを見いだせるように助け,それを伝えることができますように。主が再び来られるとき,すばらしい千年の平安があるでしょう。わたしは喜びをもって,イエス・キリストの御名により証します。アーメン。