2023
「人にはできない事も,神にはできる」(ルカによる福音書18:27)
2023年6月号


Inviting All to Receive the Gospel ─ 命の水へ招く

「人にはできない事も,神にはできる」
(ルカによる福音書18:27)

1990年の春先,ユタ州プロボにあるブリガム・ヤング大学(BYU)の寮に一人の日本人女性が入寮した。当時30歳の藤井洋子さんである。働いて貯めた資金で念願の語学留学の夢をかなえるために渡米した洋子さんは,別の大学で4か月学んでから,学費の安さに引かれてBYUに移ってきたのだった。

プロボは洋子さんにとって居心地のよい街だった。「BYUの前にいた大学のある街は白人が多く,アジア人や黒人は眼中にないという冷たい空気がありました。でもプロボは人種に関わらずフレンドリーな雰囲気で,大学の寮でもみんな親切でした。」

ある日,寮で出会った姉妹宣教師に誘われて大学の中にあるワードの聖餐会に出席するようになる。数回出席したとき,宣教師から日本語の『モルモン経』1 を贈られた。宗教にあまり興味はなかったものの,手書きのメッセージを添えてプレゼントしてくれた優しさがうれしかった。「バプテスマについても紹介されたんですけど,そこまでの気持ちはないからって断りました。」

それから間もなく,洋子さんは歯の治療のため日本に一時帰国することになった。名残を惜しむ姉妹たちに「必ず戻ってくるから!」と約束してアメリカを離れた。しかし,治療は終わったものの事情があって再び渡米することができなくなってしまう。

宣教師たちから贈られた『モルモン経』を見るたびに,約束を守れなかった心苦しさがよみがえった。「とても心残りで,せめて手紙を書けばよかったとずっと後悔していました。」そのまま,32年の歳月が流れた。

『モルモン経』に導かれて

2022年3月。東京ステーク麻布ワードで奉仕していた専任宣教師の江戸るあ姉妹は,隣の中野ワードの長老たちから1人の女性を紹介される。その人は,以前アメリカでもらった『モルモン経』を見つけて教会へ連絡したという。江戸姉妹たちはLINEを使って連絡を取った。彼女こそが,33年前BYUに語学留学していた洋子さんだった。

江戸姉妹は初めて接したときの洋子さんの印象について「助けを求めている感じでした」と振り返る。当時,洋子さんは精神的な不調からお酒が手放せなくなり,アルコール依存症に苦しんでいた。「生死をさまようほどの経験もして,このままでは本当に死んでしまうかもしれないと思ったときに,アメリカでもらった聖典を2冊持っていることを思い出したんです。」留学中,洋子さんは最初に通っていた大学でも別の宗派の教会に通い,日本語の聖書をもらっていた。聖書でも『モルモン経』でもどちらでもいいから,自分の助けになる本を見つけたい。「もし最初に聖書を見つけていたら,そちらの教会に行っていたかもしれません。」一心に段ボール箱を探った洋子さんが先に見つけたのは『モルモン経』だった。手に取ると姉妹宣教師たちの優しさ,街の人々の温かさがよみがえってきた。あのときの愛情が今のわたしには必要だ─そう感じた洋子さんは,すぐにインターネットで末日聖徒イエス・キリスト教会を検索し,連絡を取ったのだった。

洋子さんの話から,江戸姉妹と同僚は彼女が置かれている大変な状況を理解する。ところが一度目のコンタクトの後なかなか次の約束を作ることができない。当時は新型コロナウイルス流行の影響で国内の宣教師が不足しており,江戸姉妹たちも県をまたいで4つのユニットを掛け持ちし多忙な日々を送っていた。また洋子さんの状況は理解していたものの,「あまりしつこくしてはいけないかも」という日本人特有の遠慮もあったという。

そんなとき,江戸姉妹の同僚が転勤することになる。新しくやってきたのは小西メリー姉妹。ブラジル人と日本人のハーフだった彼女は,日本へのビザが発給されるまでの間ブラジルで伝道していた。洋子さんの状況を伝えられた小西姉妹は「すぐ助けよう!!」と意気込む。「(依存症の人には)毎日会ったほうがいい,急いで連絡しないと!」それからすぐに洋子さんとのレッスンが始まった。

ブラジルでは文化的な背景から,アルコールやドラッグ,コーヒーなどの依存症に悩む求道者が多い。依存症の人々に伝道するためのトレーニングを受けていた小西姉妹は最初のレッスンで「知恵の言葉」について教えることを提案する。これまでも依存症の人々のニーズに合わせてレッスンを進めてきた経験からだった。早い段階でバプテスマの予定を作ることも重視していた。「小西姉妹は,予定を立ててからのほうが依存症を克服できる可能性がある,キリストの力を受けられるから,と言っていました。」しかし,ブラジルでは当たり前の伝道方法も日本で日本人同僚と働いてきた江戸姉妹には違和感があった。頻繁に意見が食い違い,あるときは乗っていた電車を途中下車して駅のホームで徹底的に話したこともあった。そんな二人の一致を可能にしたのは,小西姉妹が転勤してきたときに決めた伝道目標だった。「“Prioritize relationship of God(主との関係を第一にする)”人じゃなくて神様を第一にしたいね,と話してたくさん祈りました。」

2回目のレッスンでバプテスマの予定を立てることを勧めたとき,洋子さんは「お酒をやめられるなら何でもしたいです」と決意する。予定日は約3週間先の5月1日になった。

断酒の難しさと夢遊病

前向きにレッスンに取り組んでいた洋子さんだったが,お酒を断つことは簡単にはいかなかった。専門のクリニックに通院し,治療薬も処方されていたものの毎日服用できない。「抗酒剤 2 っていうのがあって,それを飲んでからお酒を飲むと部屋中のたうち回るほどの苦痛が7時間も続くんです。一度経験すると同じ思いをするのがいやでお酒を飲まなくなる。だから毎朝服用しないといけないのに,人間はずるいから『今日は飲んじゃうかも』っていう日はあらかじめ朝,抗酒剤を飲まないようにしちゃうんですね……。」

さらに洋子さんの断酒を難しくしていたのは,幼い頃からの夢遊病癖だった。「寝ているのに布団からむくっと起き上がってドアを開けて出ていく。それを慌てて連れ戻すことが何回もあったと父親から聞かされていました。」同じことが大人になった洋子さんに起こった。真夜中になると夢うつつに財布を持って出て行き,深夜営業のスーパーで焼酎などを買って飲んでしまうのである。「子供の頃のように全く覚えていないことはなくて頭のどこかで『あれっ,わたしスーパーに来ている』と自覚している自分もいるんですが,ちゃんと覚醒しているわけではないのでコントロールできない。でもお酒を飲みたい気持ちは潜在的にあるので買ってしまう,という状態でした。」どうすればよいのか洋子さんは途方に暮れる。お酒を飲んでしまった,と報告するたびに「また頑張りましょう!」と励ましてくれる江戸姉妹たちにも話せなかった。

同じ頃,江戸姉妹たちは,洋子さんについて毎晩祈る中で,ある導きを受けていた。それは,洋子さんに神権の祝福を受けさせるように,というものだった。「でも,洋子さんは頑張っていたし,レッスンはオンラインで直接会う機会もなく,いつ勧めたらいいのか迷っていました。」

「死ぬまでお酒はやめられない」

バプテスマの予定を作ってから最初の日曜日,洋子さんは麻布ワードに出席した。膝の悪い洋子さんは曇天の下,杖をついて教会まで足を運んだ。対面で顔を合わせるのは初めてだったが,江戸姉妹は洋子さんの様子がいつもと違うと感じる。「ひどく落ち込んでいるように見えました。」

2時間プログラムが終わってから,これまでもレッスンに同席してくれていた麻布ワードの教会員夫妻も交えて話をした。洋子さんは何度も「無理,わたしにはもう無理です……」と繰り返す。それから自身の夢遊病について打ち明けた。絶句する江戸姉妹たちに洋子さんは憔悴しきった様子でつぶやく。「寝ている間のことなんてわたしにもどうしようもできません,だから無理なんです……。」そして,追い打ちをかけるように起こった数日前のクリニックでの出来事を話し始めた。

洋子さんが週1回通っていたのはアルコール依存症専門のクリニックだったが,看護師から「このクリニックでお酒をやめられた人はいないよ。やめられたのは死んだ人だけだね」と言われたという。

「アルコール依存症の患者さんは肝臓を壊して亡くなる人が多いし,お酒をやめられないことで精神的に病んで自殺してしまう人もいる。クリニックで見かけていた方が来なくなって,自殺したんだよっていう話もよく聞きました。」それでも,頼みの綱だったクリニックでの言葉は洋子姉妹の心を深くえぐった。

話し終え,重たい空気が流れる部屋の中で江戸姉妹と小西姉妹は顔を見合わせる。今こそ神権の祝福を勧めるときだ。そう思った。

神様の涙

麻布ワードが使用している神殿別館には訪問者センターが併設されており,2階には「イエス・キリストの生涯と教え」について紹介する展示室がある。部屋の中央に置かれたいすに座り,洋子さんはレッスンに同席してくれていた神権者の兄弟から祝福を受けた。兄弟が手を置いた瞬間,頭が温かくなったという。「頭全体がほわんと温かくなって,祝福してくださった兄弟の手の温度とは全く違う温かさでした。」主は神権者を通して洋子さんに深い愛を伝えられた。「神様はあなたのことをよく知っています。あなたのことをすべて受け止めます,と言われて,ありがとうございます,という感謝と神聖な気持ちで胸がいっぱいになりました。」

同席していた江戸姉妹は,兄弟から発せられる言葉の一つ一つに力強さを感じていた。「洋子さんの依存症について,お酒をやめられないというようなネガティブな言葉は,一切ありませんでした。」

祝福を終え,洋子さんと別れた江戸姉妹たちが麻布ワードを出ると,雨が降っていた。不思議な雨だった。傘を持っておらず濡れながら帰ったが,濡れている感じがしない。「きれいな雨でした。洋子さんの祝福を神様が喜んで涙を流しておられるように感じました。」

「薬を飲んではいけません」

祝福から数日たった夜,洋子さんは自宅で,薬を飲もうかどうしようかと考えあぐねていた。お酒をやめたいが,抗酒剤をはじめとする薬は効果が強い分,体に負担がかかっているのではないか。ずっと心配だった洋子さんは,いつも祈るよう江戸姉妹たちに勧められていたことを思い起こす。祈って決めようと,ベランダの前に座った。「天のお父様,わたしをアルコールから遠ざけてください。薬も飲みたくないです,どうかわたしを助けてくださいって。わたしは長く祈るのが苦手なので短い言葉でしたけれど,心から祈りました。」

祈り終えたとき,どこからともなく声が聞こえた。─ 薬を飲んではいけません,お酒もやめなさい ─。

「一瞬空耳かな?とも思いましたが,はっきり聞こえました。」これは,神様の声だ!と洋子さんは確信する。

主の言われたとおりにしようと決めた洋子さんは,その日から治療薬とお酒を同時にやめた。導きを受けて決めたとはいえ,これまでなら考えられない大胆な試みだった。いつまたお酒を飲みたくなるのかと思ったが,何時間たってもお酒を飲みたくならない。そのまま数日がたったとき,洋子さんは自分の祈りがこたえられたことを知る。「─ ああ,わたしは天のお父様のおかげでお酒からも薬からも解放されたんだ!って思いました。」

3日間お酒を飲まない状態が続いたとき,洋子さんは江戸姉妹たちにお酒をやめられていることを伝えた。

反対の声─江戸姉妹たちの試練

洋子さんが知恵の言葉を守っているという報告は本当にうれしかったものの,その頃江戸姉妹たちもまた試練の時を迎えていた。周囲から洋子さんのバプテスマの予定に反対する声が上がり始めたのである。「いろいろな人から,バプテスマを急ぎすぎじゃない?よく考えたほうがいいよって言われました。」数週間で断酒しバプテスマを受けることが当たり前のブラジルから来た小西姉妹にとって,洋子さんのスケジュールは無理のあるものではなかった。同僚の江戸姉妹とも何度も話し合い,祈った上で納得していたのに,周囲の理解を得るのは難しかった。「延期を勧めてきた人たちの中にはわたしたちが尊敬していた宣教師もいました。心配してくれていることは分かっていましたが,ショックでした。」

洋子さんの改宗についてポジティブな姿勢を崩さなかった小西姉妹も,度重なる反対の声に落ち込んでしまう。その姿に江戸姉妹ははっとした。「いつも明るい小西姉妹が引っ張ってくれていたけれど,彼女に助けられてばかりじゃだめだ!と気づいたんです。」そして,野出明広伝道部会長が,以前ゾーン大会で話した言葉と聖句を思い出す。「『人には限界がありますが,主にはありません。わたしたちは人間として限界を作りますが,これは主の業です,限界を設けないでください』という言葉と,『人にはできない事も,神にはできる』の聖句でした。」

それから江戸姉妹と小西姉妹はさらに熱意を込めて主に祈り,いつも伝道部会長の言葉と聖句を思い出すように努めた。「ポジティブな気持ちをなくさないように,『行ける!』『できる!』と合言葉のように言い合っていました。」二人で心を奮い立たせ,洋子さんのバプテスマの準備に邁進した。昼は4つの担当エリアを駆けまわり,毎晩オンラインでレッスンをする毎日。姉妹たちの信仰と熱意を感じた洋子さんも毎日モルモン書を読み,アルコールの誘惑に負けないために祈ってバプテスマに備えた。

祈り続ける日々

そして迎えた2022年5月1日,洋子さんは麻布ワードでバプテスマを受けた。水から上がったとき,洋子さんを大きな喜びが包んだ。「これで本当にわたしは天のお父様の娘になれたんだ!と思いました。」

バプテスマ会の翌日,江戸姉妹は野出会長にLINEでメッセージを送った。洋子姉妹が無事にバプテスマを受けられたことを報告し,これまで信じ支えてくださったことへの感謝を伝えた。ほどなくして会長から返信がある。「江戸姉妹が主を信じてくださったことが何よりうれしいです。」

***

2023年4月。バプテスマを受けてもうすぐ1年を迎える洋子姉妹は,今もアルコールの誘惑に負けないように祈り続ける日々を送っている。

「誘惑に立ち向かうために大切なことは『続ける』ことです」と洋子姉妹は言う。「天のお父様を信じて祈り続ける,これだけです。」朝起きて「今日もお酒を飲まなくてすむように助けてください」と祈り,夜は「今日も飲まなくて済んだことを感謝します」と祈って床に就く。そうやって,薬とお酒をやめることを決意したあの夜以来,一滴のアルコールも口にせず過ごしてきた。今もクリニックに通ってはいるが,とても体調がいいと洋子姉妹は笑う。外出の際に手放せなかった杖も使っていない。「整形外科で教えてもらったリハビリを毎日続けていたら,良くなっていたんです。でもこれもリハビリだけの効果ではなくて,天のお父様の助けがあってのことだと思います。」

1年半の任期を終えて2023年2月に帰還した江戸姉妹は,伝道中に主がくださった贖いの力と,その力を信じ続けた洋子姉妹に深く感謝している。「贖いの力は,信じるときに,愛によって働くと学びました」と江戸姉妹は語る。「わたしたちは皆,誘惑を受けますが,誘惑を受けているときでさえも主は,信じるタイミングを与えてくださる。洋子姉妹が祈ったことも,わたしたちが『できる!』と言い合っていたことも,全て信仰による選びでした。そして信じて選んだらすぐに,主は応えてくださるんです。」

4月9日,日本中のユニットでイースター特別聖餐会が行われた日,江戸姉妹はワード宣教師に召された。「人にはできない事も,神にはできる」─ 試練の中で培った主への信頼と証を糧に,江戸姉妹の伝道はこれからも続いていく。◆

  1. 現在の『モルモン書』

  2. アルコール依存症の薬物療法で用いられる薬。再飲酒防止を目的としており,服用後に飲酒すると吐き気や顔面紅潮,頭痛等の反応を引き起こす。シアナマイド,ノックビンなどがある

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