モルモンの奇跡の書
モルモンはニーファイ人の記録を短くまとめるという困難な務めを,効果的かつ奇跡的な方法で成し遂げました。
モルモンは,ニーファイの民がまさに絶滅しようとしているのを見たとき,彼らについて「小さな短くまとめた記録を書き記〔す〕」作業を始めました(モルモン5:9)。この大仕事が開始されたのは,ニーファイ人が最終的にクモラの地に集合する前に最後に宿営した場所でのことでした。ニーファイ人が耐えていた生活状況はまことに厳しいものでした。民は避難民であって,衣食住を安定的に満たすことはできませんでした。モルモンの執筆活動は4年に及んだものと思われます。それは,レーマン人の司令官が合意した最後の戦いのための準備期間でした。しかしいずれにしても,歴史の要約は完了し,記録は最後の戦いのかなり前にクモラの丘に埋められました(モルモン6:6参照)。
モルモン書の作成が困難な偉業であったことは明らかです。特にモルモンが「戦場」という状況下でその務めを果たしながら,最後の戦いに備える軍隊の指揮官を兼務していたことを考慮すればなおさらです。そして当然のことながら,最後に完成したものは不完全な部分がないわけではありません。1
モルモンの働きの限界
モルモンが目的を果たす際に直面した限界について考えてみましょう。
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新たな記録の大きさに厳しい制限を設ける必要があった。モロナイが安全な場所に運んで行けるように,持ち運びのできる大きさでなければならなかった。
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物理的に何世紀もの間,持ちこたえるようにしなければならなかった。
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モルモンが利用できる文字体系の中で,その書を書くのにふさわしい簡潔なものは一つしかなかった。
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内容は実用的な長さでなければならず,要約している原記録が示す史実に忠実で,なおかつ自分が妥当だと思う文章表現でなければならなかった。
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著作期間は短かった。モルモンが600年を超える歴史を全て編さんして書く期間は3年余りであった。手元にある記録史料を全て読み通す時間はなかったと思われる。また,文体を微調整したり編集し直したりする時間がなかったことは明らかである。
以上のような多くの制約がある中で,モルモンは,含める情報と除外する情報をどのようにして選んだのでしょうか。
いろいろな意味で,モルモンがこれほどの短期間に霊感に基づいてモルモン書の制作を成し遂げたことは,ジョセフ・スミスが後にその記録の翻訳を成し遂げたことと同様に,驚くべきかつ称賛に値する事柄でした。
文字体系の選択
モルモン書には,記録者が述べたいことを明瞭に表すのが難しいと記しているところが数か所あります(モルモン書ヤコブ4:1;モルモン9:33;エテル12:23-25,40参照)。モルモンはこう言っています。「わたしたちの言語では書けないことがたくさんある。」(3ニーファイ5:18)この意味での「わたしたちの言語」は明らかに,彼らの話し言葉ではなく,文字体系を指します。さらにモロナイは,ヘブライ文字,すなわちアルファベット方式を用いていたら「不完全なところがまったくなかった」であろうと述べています(モルモン9:33)。
ニーファイ人の歴史家たちは,記録するために用いられた「文字」を「改良エジプト文字」と呼んでいます(モルモン9:32)。この文字体系は,「ユダヤ人が学んできたこととエジプト人の言葉」から成っていました(1ニーファイ1:2)。ヘブライ語の音声を書き留めるために,古代パレスチナでは時折,エジプトの象形文字が使われました。2ジョセフ・スミスが翻訳した版から文字を写したとされる「アンソンの写し」3にある文字の見本から判断すると,その文字は,リーハイの時代に日常的に用いられていたエジプトの文字にそのまま倣ったものではなかったことは明らかです。むしろエジプトのヒエラティック,つまり神官文字に近いものです。すなわち,もっと昔の,別の文字体系であるように見えます。石に刻むのではなく,筆とインクで書くときに当時まだ用いられていたものです。
ヒエラティック体系は,ヘブライ語のアルファベットよりも簡明ですが,もっと曖昧でさまざまな解釈ができるものでした。その文字の大多数は,アルファベットのように音声を書き留めて言葉にしたというよりも,全体的に,複雑な形態素や語(現在は表語文字と呼ばれている)を表しているからです。それぞれの表語文字の意味を覚えなければなりませんでした。この曖昧さが,モロナイが語った「わたしたちの言葉の用法」上の問題の一部であったようです(エテル12:25)。
以下のことも「不完全」のさらなる要因であったかもしれません。すなわち,エジプトのヒエラティックはおもに筆記体で書かれていたため,これを用いて金属の版に記録を刻むということは,記録者が少し手を滑らせると,修正する有効な手立てがなく,文字を読み間違う原因となる可能性があるということです。
多数の記録
モルモンは記録を作成する際に,ニーファイの大版に加えて,時折その他の文書も使用しました。何度か「アルマ自身の記録」を用いたことを述べています(アルマ5:2;第7章の前書き;35:16)。また,「ヒラマンの記録」と「彼の息子たちの記録」も利用しました(ヒラマン書の序文)。またわたしたちは,「ニーファイの記録」も読んでいます(3ニーファイ5:10)。
モルモンは時折その他の原書も使いましたが,それが何であったかはっきりと告げていない記録もあります。利用できた補助的な記録として以下のものがあります。
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ゼニフの版にある記録(モーサヤ9-22章)。
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ゼラヘムラ,ギデオン,ミレクで宣べ伝えた事柄についてのアルマ自身の記録(アルマ5,7,8章)。
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アモナイハでアルマとアミュレクが経験したことの話(アルマ9-14章)。
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モーサヤの息子たちと彼らの同僚がレーマン人の間で行った働きに関する詳細な記録(アルマ17-27章)。
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アルマが息子のヒラマン,シブロン,コリアントンに述べた言葉(アルマ36-42章)。
モロナイも,エテルが記したヤレド人の歴史の翻訳と要約をエテル書として自ら編さんして加えました。また,父モルモンの教えと手紙の抜粋を含めました(モロナイ7-9章)。4
最も重要な神聖な記録は,それが永続するように金属に記されました。もっと朽ちやすい物に記された記録はそのうちに読めなくなると考えたのでした(モルモン書ヤコブ4:2参照)。紙に書かれた聖文が日々使われていたことは,アモナイハでアルマの言葉を聞いて改心した人々が持っていた聖文が焼き捨てられたことから分かります(アルマ14:8参照。モーサヤ2:8;29:4;アルマ63:12と比較)。金属の版は,それを造るのも(モルモン8:5参照),それに刻むのも容易ではないため,数は限られていました。
モルモンは,得られるさまざまな物を利用して,「神が授けてくださった知識と理解に応じて」歴史を書き上げました(モルモンの言葉1:9)。ニーファイ人に当てたイエスの教えを長々と書きすぎないよう主が指示されたときのように,神の助けが時折直接かつ具体的に与えられました(3ニーファイ26:6-12参照)。しかし,追加の歴史的情報が啓示されたという記録はありません。
「このことから分かるように」
モルモンが何度か述べているように,彼が短くまとめた記録にはニーファイの大版に見られる歴史資料のほんの一部しか採り上げることができませんでした(モルモンの言葉1:5;3ニーファイ5:8;26:6参照。モルモン書ヤコブ3:13-14;4:1も参照)。では,どのようにして資料を選んだのでしょうか。
第1の基準は彼の書に繰り返し述べられています。その目的は,読者,特に将来アメリカの約束の地に住む民,とりわけリーハイの子孫に,父祖リーハイに与えられた約束と預言が彼らにとって意義深いものであることをよく理解させることでした。「あなたがたはわたしの命令を守るかぎり地に栄える」(ジェロム1:9)。実際,アメーロンは,モルモンが最も注目するリーハイの声明を,次のように逆説的に述べています。「あなたがたはわたしの命令を守らないかぎり,地に栄えることはない。(オムナイ1:6〔英文参照〕,強調付加)
モルモンは教訓として善と悪の差異を劇的に描き出しています。彼の記録の中の民は従順と美徳を強調していますが,他方では対照的にかたくなで悪事を働いています。モルモンは,悪党についてはまったくの悪人であり滅びて当然であることを述べ,英雄についてはほとんどあらゆる点で称賛に値すると述べています。中間の領域にいる人のことはほとんど述べられていません。モルモンは,善と悪は対極にあるということに関して読者の心に少しも疑問を残したくないと思ったのです(モロナイ7:5-19にあるモルモン自身の対比の言葉に留意)。霊感に基づく個人的な解釈を加えて,自分の言葉の幾つかを明確にしました。「このことから分かるように」というような言葉を用いて,しばしばこの書き方を際立たせています(例として,アルマ42:4,7,14;ヒラマン3:23-31;6:34-40を参照)。
モルモンとモロナイは,解釈を加えた比類ない歴史として,彼らの「簡潔な」記録を将来の読者に提供しています。歴史家の歴史としてではなく,二人が自分の民と神に長期にわたって困難な奉仕を行う中で学んだ教訓を読者に与えることを意図した力強い道徳的メッセージとして,遠い将来の人々のためにそれを残したのです。自分たちが知っていた最も効果的な方法で,利用可能な最良の資料を用いました。彼らの著作に見られるその働きと献身は,わたしたちの時代の全ての人に恩恵をもたらしてきました。
わたしは彼らに深く感謝しています。