2020
教会歴史:力と霊感の源
2020年7月号


教会歴史:力と霊感の源

昔の聖徒について学ぶにつれ,神の息子または娘として持つ自分の使命を果たす力がついてきます。

smiling woman

女性の写真/GETTY IMAGES

クック長老:教会歴史は信仰の大きな源にすることができますが,それを間違って解釈したり,軽視したりする人もいます。故意に歴史を歪曲して疑いの種をまく人もいます。

わたしたちは教会に関する信頼できる歴史を学ぶことによって,過去と現代の聖徒たちの心を結びます。皆さんやわたしのように不完全な人々が信仰をもって進んでいき,その人たちを通して神が御業を果たすことがおできになったことが分かるようになるのです。教会歴史を研究すると信仰が深まり,福音に従いたいという望みが強くなることを,約束します。

回復の物語は犠牲と決意,信仰の物語です。わたしたちは皆,教会歴史の中の欠かせない要素なのです。地を福音で満たすために果たすべき人生の使命は,だれにでもあります。昔の聖徒について学ぶにつれ,神の息子または娘として持つ自分の使命を果たす力がついてきます。

わたしは教会幹部として奉仕してきた24年間,幹部の兄弟たちが教会歴史についても教義においてもできるかぎり透明性を高めることを望んでいるのを見てきました。新たに資料を公開する取り組みが,人々に正しい背景の中で物事を学んでもらうための良い方法ではないかと,わたしたちは感じています。特に,The Joseph Smith Papersや「福音のテーマの論文」「教会歴史のテーマ」,そして,今や複数巻出版されている『聖徒たち』1がよいでしょう。これらの資料は,イエス・キリストの福音を信頼できる方法で理解するのに役立ちます。

『聖徒たち』の中でわたしが好きな話の一つは,南太平洋に行ったアディソン・プラットの物語です。プラットは60人ほどの人にバプテスマを施しました。妻のメアリーとわたしは,アディソン・プラットが伝道したフランス領ポリネシアのオーストラル諸島を訪問する機会がありました。

わたしがこれまで経験した中でいちばん驚いたことの一つは,「わたしは7世代目の教会員です」と言う若い女性にそこで出会ったことです。アディソン・プラットは聖徒たちがユタに行く前に,彼女の遠い先祖にバプテスマを施していたのです。

皆さんは世界のどこにいても,どんな血筋であっても大切な存在であり,教会歴史の中の欠かせない要素です。皆さんは非常に必要とされており,人々の生活にとって祝福となる人たちなのです。

なぜ教会は,教会歴史の中で論争の的になっている事柄についてあまりオープンではないのですか。

ケイト・ホルブルック

mother and daughter visiting grandmother

イラスト/デビッド・グリーン

わたしが4歳のころ,母と祖母がかつてブリガム・ヤングの家であったユタ州ソルトレーク・シティーのビーハイブハウスで働いていて,ブリガム・ヤングについて何でも教えてくれました。妻がたくさんいたこともです。それから10年くらいして,ジョセフ・スミスにたくさんの妻がいたことを知りました。ジョセフ・スミスがモルモン書を翻訳するのに補助として使った聖見者の石については,大人になるまで知りませんでした。別に教会がわたしから情報を隠していたわけではなく,わたしが子供のころは歴史的な情報があまり強調されていなかったのです。

日曜日の集会やセミナリーで学んだことは教会の業の中心になることでした。悔い改めについて学び,自分の生活をイエス・キリストの福音に沿ったものにすること,天の御父との関係を築くことを学びました。これらは,わたしが人生で最も大切にしている事柄です。ある人が知っておくべきだと思っているのに知らないことについて,学ぶことを非常に苦痛に感じる人がいることを,わたしは知っています。だからこそ,マットとわたしはこの仕事をしているのです。わたしたちには,歴史を十分に伝えている『聖徒たち』という本があるのですから,このような経験が人々にとって過去の一部になれば幸いです。

教会歴史に関する情報が信頼できるものかどうかは,どうすれば分かるのですか。

マット・グロー

わたしは過去9年間,教会で歴史について書く仕事をしてきました。教会の歴史に対する教会幹部の姿勢を見てきましたが,どうやって隠そうかとか,どうやって歴史を検閲しようかなどといった話をすることはありません。むしろ,歴史をより調べやすく,理解しやすくするために何ができるかという話をしています。

情報化時代の課題は答えを見つけることではないということを,皆知っています。答えは幾らでもあります。問題は,良い答えと悪い答え,良い情報と悪い情報を見分けることなのです。この教会の歴史についてはオンライン上で議論が盛んですが,議論が過熱するばかりで知識はあまり得られません。

人のことを悪く言うだけの情報には気をつけてください。本人が残した記録に基づいた情報,本人について公平に書かれた情報を参照しましょう。過去のあらさがしをしたり,背景と無関係に言葉や出来事を抜き出して物議を醸したりするのはとても簡単です。

わたしは歴史家として,あるイギリスの作家のこんなアドバイスに従うようにしています。「過去は外国である。そこでは作法が異なるのだ。」(L. P. Hartley, The Go-Between [1953], prologue)つまり,過去を旅する者として,「無作法な旅人」になってはならないという意味です。人々を,時代背景とその時代の文化の中で理解すべきです。彼らの落ち度だと思えることに忍耐しましょう。自分の知識の限界を認めて謙虚になりましょう。そして,過去について慈愛の精神を持つのです。

ジョセフ・スミスとモルモン書

わたしが10代のころ,兄が伝道に出ることはないだろうと考えていました。ワードから同じ時期に伝道に出るのは一人だけしか許されなかったからです。それ以外は皆,徴兵に応じられるようにしておかなければなりませんでした。しかし,ビショップとステーク会長はもう一人送り出すことができることを知りました。そこで,そのことを兄に伝えたのです。兄は家に帰って来て両親に話しました。

父はすばらしい人格者でしたが,教会に活発ではありませんでした。否定的な答えが返ってきました。でも,その理由は意外なものでした。父は教会に批判的ではなく,伝道に対しても好意的でした。しかし,兄は医学部に行く準備をしていたのです。父は言いました。「おまえは医学部に行くために勉強してきた。授業も取ってきたではないか。伝道に行くよりも医学部に行った方が人の役に立てるのではないかな。」

その晩,この忠実なすばらしい兄は,わたしとひざを突き合わせて話しました。わたしたちは,父に対する兄の答えを決める問いが3つあるという結論に達しました。第一はイエス・キリストが世の救い主かどうか,第二はモルモン書が神の言葉かどうか,そして第三は,ジョセフ・スミスが預言者かどうかです。気がついたのは,この3つの問いの答えが,自分がこれから先の人生で下すあらゆる決断に影響を与えるということでした。

わたしは常に救い主を愛していてモルモン書を読んでいましたが,この3つの問いの答えの重大さに気づいて,その晩祈りました。そして,聖霊からこれらの問いに対してすべて「そのとおりです」という深遠な答えを頂いたのです。イエス・キリストは救い主であられ,モルモン書は神の言葉であり,ジョセフ・スミスは預言者です。これらのことが真理であることを,わたしは証します。

ジョセフ・スミスの最初の示現の描写が記録によって若干異なるのはなぜなのですか。

マット・グロー

最初の示現についてジョセフ・スミスが書いたり口述筆記させたりした記録は,4種類あります。その4種類は同じことを伝えていますが,違いがあります。これは驚くには当たりません。完全に一致していたとしたら,わたしは歴史家として信ぴょう性を疑います。人間の記憶の仕組みからしてあり得ないからです。このようなケースは,歴史にも聖文にもあります(使徒9:722:9参照)。

もう一つ,神聖な経験がいかに言葉で表現しにくいか,ということも覚えておいてください。ジョセフは,言葉とは「小さくて狭い牢獄」であると言っています(in History of the Church, 1:299)。自分の体験してきたことの中でいちばん神聖なものについて考えてみてください。それを簡単に言葉にすることができますか。複数の記述があるのは,喜ぶべきことです。その方が新しい発見や新しい見方ができるのですから。「福音のテーマの論文」で,最初の示現についてのこの4つの記述を,ぜひ読んでください。最初の示現に対する感謝の念が,深くなることでしよう。

ウリムとトンミムは,モルモン書の翻訳でどんな役割を果たしたのですか。

ケイト・ホルブルック

預言者ジョセフ・スミス―えり抜きの聖見者

イラスト/デビッド・グリーン

ジョセフ・スミスは神の賜物と力によってモルモン書を翻訳しました。ウリムとトンミムは,モルモン書に登場するもので,版とともに埋められていました。モロナイはジョセフ・スミスに金版を渡すときに,ウリムとトンミムも渡したのです。ジョセフは聖見者の石も翻訳に使いましたが,これは版と一緒に埋められていたのではなく,その数年前にジョセフが自分で見つけたもので,霊的な啓示を受けるのに役立ちました。その両方を使ったのです。

筆記者の一人だったエマ・スミスは,ジョセフは座って翻訳を再開するときに「さて,どこまで訳したのだったかな」とか,「どこでやめたのだったかな」と言ったことがなかったと,後に言っています。ジョセフはいつも,前にやめたまさにその場所から翻訳を再開していました。ジョセフ・スミスがモルモン書を翻訳した後で3年間書き記した個人の日記を見ると分かりますが,線で消された言葉やまとまらない話,途中までの文が至るところに出てきます。口述筆記したモルモン書のページには,一つもそれがありません。隙のないきちんとした文章です。途中までの文や線で消された文は,一つもありません。

これはとても興味深いのですが,わたしにとってもっと大切なのは,モルモン書の内容です。モルモン書はわたしが,裁くよりも寛大になることをベニヤミン王から学び,バプテスマを受けたときに仲間の聖徒たちに対して何をすると約束するのかをアルマから学んだ本です。モルモン書は,慈愛がいかに大切なもので,それを得るにはどうすればよいのかを,モルモンとモロナイから学んだ本でもあります。モルモン書は今のわたしを形造り,わたしの世界観を形造ったのです。

多妻結婚

わたしは多妻結婚について3点述べたいと思います。第1に,このような結婚に多くの犠牲が伴ったことは明らかだということです。愛と結束は強かったものの,犠牲もありました。それに,多妻結婚をしている親たちは子供たちに犠牲を払うことを教えたのです。このような多妻結婚で生まれた子供たちの多くは,全世界に福音を携えて行き,多くの人々の生活に祝福をもたらしました。

第2に,例えばバイレート・キンボールのように,どんなことが自分の身に起こるのかを完全に知る前に,この教義が神から与えられたものだという個人の啓示を受けた人たちがいたということです。2

そして第3に,教会中央の指導者の評議会には,多妻結婚がその目的を果たしているという認識があったということです。多妻結婚を行った聖徒たちに敬意を払うべきですが,多妻結婚の目的は達せられたのです。

さて,まだ答えの得られていない疑問がありますが,皆さんに知ってほしいのは,愛の深い天の御父がおられて,幸福の計画という完全な計画があり,救い主がわたしたちのためにすべてのことをしてくださったということです。神とイエスを信頼しましょう。

なぜ彼らは教会初期に多妻結婚をしていたのですか。

ケイト・ホルブルック

モルモン書に出てくる多妻結婚についての教えでは,主はその民に一夫一婦制を望むが,まれに例外として,義にかなった民を起こすために多妻結婚を命じられることがあると言っています(モルモン書ヤコブ2:30参照)。ジョセフ・スミスが多妻結婚を命じられたのは,この例外に当たります。ジョセフは気が進まず,何年も実行しないでいました。結局多妻結婚を実行したのは,自分に与えられた神の戒めに従いたかったからでした。1830年代半ばに多妻結婚を試みましたが,徐々に公式に行うようになったのは1841年のことです。気心の知れた友人から少しずつ広めていきました。彼らは衝撃を受けました。この原則が理解できるようにと天の御父に祈り求めました。そして,自分たちにとってその時点でそれは正しいという霊的な証を個人的に受けたのです。

多妻結婚は50年ほど正式に実施されていましたが,行うかどうかは本人が選ぶことのできるものでした。研究者たちは今でも,実際に多妻結婚をしていた成人の末日聖徒の数を知ろうとしていますが,一般的にはそれが聖徒の中の少数派であったことは分かっています。そして,その多くが敬虔で筋金入りの教会員でした。1890年,ウィルフォード・ウッドラフ大管長(1807-1898年)が公式の宣言を出して,多妻結婚を終わらせました。この宣言を聞いて安堵した人もいました。多妻結婚はつらかったのです。この宣言を聞いて嘆いた人もいました。非常に多くを犠牲にし,この原則の証があったのです。

過去に行われた多妻結婚が来世でどんな意味を持つのかが分からずに悩む人もいました。教会の指導者は,多妻結婚は昇栄や永遠の栄光を得るために必ずしも必要なものではない,と教えています。一夫一婦制が標準であって多妻結婚は例外だということに,わたしは個人的に感謝していますが,この原則を実践した霊的な先祖たちの証と,称賛すべき従順さを軽視してはいるわけではありません。彼らは従順であり,それが正しいという証を持っていたのです。

神殿と聖約

カートランド神殿に現れたモーセ,エライアス,エリヤ

「モーセ,エライアス,エリヤ」Gary Ernest Smith

オハイオ州カートランドで起こった信じがたい出来事は,カートランド神殿の建設と奉献です。ジョセフが啓示で受けた奉献の祈りは,教義と聖約第109章に載っています。この奉献の祈りの中でジョセフは,この神殿を建設した聖徒たちの手の業と犠牲を受け入れてくださるようにと主に嘆願しました。

この神殿の奉献の1週間後,ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは別の示現を受けます。この示現を見たのは復活祭の日であり,過越の日でもありました。主が示現に現れて,その家を受け入れてくださったのです。「力を尽くしてわたしの名のためにこの家を建てた」のだから喜びなさいと(教義と聖約110:6),主は聖徒たちに言っておられます。その示現が閉じると,古代の預言者が3人現れました。つまり,モーセが来て地の四方からイスラエルを集める鍵を回復し,エライアスが来てアブラハムの福音の神権時代を委ね,エリヤが来て,結び固める権能を回復したのです(教義と聖約110:11-16参照)。

これらの鍵の回復は,主の目的を達するために絶対になくてはならないものでした。わたしたちにはモルモン書だけでなく,これらの鍵と神殿の儀式も必要だったのです。これらの鍵が今ほど大切な時代は,過去にありませんでした。

十二使徒の一人が預言者に召されると,その預言者の心が劇的に神殿の儀式に向かうようになるのを,わたしはこれまで見てきました。わたしは恵まれて,イリノイ州ノーブー神殿の奉献に,ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)とともに参列しました。ヒンクレー大管長がこの神殿の建設に深い感銘を受けていたことと,聖徒たちのために神殿を建てることを非常に重視していたことを思い出します。トーマス・S・モンソン大管長(1927-2018年)も同じ努力をし,ヒンクレー大管長と同じ霊感を天から受けました。そしてその霊感が劇的な形でラッセル・M・ネルソン大管長にも降っていることを,わたしたちは見ています。預言者の外套をまとったネルソン大管長は,神殿の儀式の貴さをさらに強く意識するようになっています。

教会の大管長になって初めてのメッセージの一つは,神殿に行って儀式を受け,聖約の道にとどまるようにという勧告でした。そのすぐ後で,何らかの理由で聖約の道を外れた人は戻るようにと言っています。3

初期の末日聖徒は神殿活動からどのような祝福を受けたのですか。

マット・グロー

ジョセフ・スミスが亡くなった時点でノーブー神殿の壁は半分もできていませんでした。しかも,聖徒たちが再び追放されることが,ブリガム・ヤング大管長(1801-1877年)の耳に間もなく入ってきたのです。そこで,ヤング大管長は主に尋ねました。「神殿ができてもすぐにそれを手放さなければならないことが分かっています。それでもわたしたちは,とどまって神殿を完成させるべきですか。それとも,今すぐここを去るべきですか。」静かな答えがありました。「とどまりなさい。」(see Brigham Young diary, Jan. 24, 1845, Church Archives; Ronald K. Esplin, “Fire in His Bones,” Ensign, Mar. 1993, 46)エンダウメントの儀式と結び固めの儀式は非常に大切なものだったので,聖徒たちはとどまる必要があったのです。

そこで翌年,聖徒たちは持てるものをすべてつぎ込んで神殿を建てました。完成が近づくころには,聖徒たちはノーブー周辺の家を焼かれており,神殿の建設が終わり次第西部に行けるよう準備をしていました。1845年12月,神殿がある程度出来上がってその一部分を奉献すると,聖徒たちはふさわしい人たちにエンダウメントを授け,夫と妻を結び固めました。

その後数か月,休みなく儀式を施して,あの西部への大移動のためにすべての人を霊的に備えさせたのです。わたしにとって,この同じ権能によって妻と子供たち,両親,その前の世代,これから生まれてくる世代に結び固められるということは,深遠で神聖なことです。これが可能になったのは,回復のおかげです。

回復の出来事の中であなたの証を強くした出来事を教えていただけますか。

ケイト・ホルブルック

woman crossing frozen river with children

イラスト/デビッド・グリーン

エマ・スミスがミズーリでの迫害から逃れようとした話を,わたしは覚えています。ミシシッピ川は部分的に凍っているだけで,人と荷物を載せた幌馬車がその上を進むのは無理でした。川幅が広いため,渡るのは危険でした。エマは6歳の子供にスカートの片側の裾をつかませ,8歳の子供には反対側の裾をつかませ,2歳の子供を片手に抱き,乳児をもう片方の手で抱いていました。

ジョセフの筆記者の義理の妹が縫ってくれた布のバッグを幾つかウエストにボタンで留めていました。ジョセフが数か月かけて訳した聖書の翻訳のたった一部しかない写しを,スカートの下に留めたそのバッグに入れて,エマは運んだのです。原稿を身につけ,子供たちを連れて,転ばないようにと念じながら,凍った川を一歩,また一歩と足を前に出しながら渡りました。

わたしにとって,これは途方もない勇気と信仰のしるしです。信じていることのために何かをしなければならないとき,ただただ,一歩,また一歩と足を前に出しながら前進していくのです。

pioneer scenes

上:イラスト/ダン・バー,「クインシーでの奇跡」ジュリー・ロジャース画,「リバティーの監獄のジョセフ・スミス」グレッグ・K・オルセン画

「元気を出してください」

皆さんの多くは,試練に遭ったり,苦労したりしています。それは,選択の自由があるからであり,サタンがいるからでもあります。しかし,皆さんは,愛の深い天の御父がおられることと,わたしたちには十分に理解できない方法でイエス・キリストの贖罪から祝福を得ることができることを,知る必要があります。

ある歴史家によると,1838年から1839年までの間にミズーリから脱出した聖徒は8,000人にも上るそうです。冬です。ジョセフはどこにいたのでしょうか。リバティーの牢獄です。聖徒たちがどんな目に遭っているかと思うと,ジョセフは胸が張り裂けそうでした。自分は見捨てられたと感じていました。

この不安な状況の中でジョセフは,教義と聖約第121,122,123章という,最もすばらしい聖文の中に数えられるものを受けています。大切な章ですので,ぜひ,読んでください。このときのことについて,『聖徒たち』には以下の短い記述があります。

「ジョセフは罪なき聖徒たちに代わって訴えました。『おお,主よ,彼らがどれほど長くこれらの不当な扱いと不法な虐げを受ければ,あなたの心は彼らに和らぎ,あなたの胸は彼らに対する哀れみの情に動かされるのですか。』

主はこう答えられました。『息子よ,あなたの心に平安があるように。あなたの逆境とあなたの苦難はつかの間にすぎない。その後,あなたがそれをよく堪え忍ぶならば,神はあなたを高い所に上げるであろう。あなたはすべての敵に打ち勝つであろう。』

主は,ジョセフを忘れてはおられないことを確信させました。『たとえ地獄の入り口が大口を開けてあなたをのみ込もうとしても,息子よ,あなたはこのことを知りなさい。すなわち,これらのことはすべて,あなたに経験を与え,あなたの益となるであろう。』

救い主はジョセフに,聖徒たちの苦しみが主の苦しみに勝ることはないと思い起こさせました。主は聖徒らを愛しており,苦痛を終わらせることがおできになります。それでも,贖いの犠牲の一部として彼らの悲しみと苦痛を背負い,ともに苦難を経験することを,主は選ばれたのです。そのような苦しみは主を憐れみで満たし,試練にあって主に頼るすべての者を助け,精錬する力を与えます。主はジョセフに,確固としてとどまるように勧め,決して彼を見捨てることはないと約束されました。」

ヒーバー・C・キンボール長老(1801-1868年)はミズーリ州最高裁判所の判事たちがジョセフを釈放すると考えていましたが,そうはなりませんでした。ヒーバーはリバティーの監獄に戻ると,地下牢に入れてもらえなかったため,ジョセフに向けてこの悪い知らせを大声で告げました。

するとジョセフは,温かい言葉を親しげに投げかけたのです。「元気を出してください」と言ってから,「できるかぎり早く,すべての聖徒を立ち去らせるのです」という指示を与えました。4

ここに皆さんへの教訓があります。どんな試練を受けていても,元気を出してください。しかし,誘惑を受けているのであれば,そこから立ち去ってください。聖霊に頼ってください。ジョセフがリバティーの監獄で示した模範と,聖徒たちがミズーリからノーブーへと脱出した例は,主イエス・キリストを信じる力と信仰の,すばらしい模範です。

使徒として,わたしはイエス・キリストのことを証します。わたしは,キリストが神であられることの,確かな証人です。わたしは,キリストがわたしたちすべての者を祝福する方法で教会を導き,指示しておられることを,皆さんに知ってほしいと思っています。主が生きておられることを証します。

このディボーショナルの全編は,devotionals.ChurchofJesusChrist.orgで御覧いただけます。