「モルモン書はどのような点でわたしたちの宗教のかなめ石なのか」『リアホナ』2020年7月号
モルモン書はどのような点でわたしたちの宗教のかなめ石なのか
モルモン書がこの神権時代の初めから果たしてきた役割と,この後も果たし続ける役割をどれほど強調してもしすぎるということはありません。
1997年6月26日に行われた新任伝道部会長セミナーにおける説教より。
ジョセフ・スミスはかつて,「『モルモン書』はこの世で最も正確な書物であり,わたしたちの宗教のかなめ石である。そして,人はその教えを守ることにより,ほかのどの書物にも増して神に近づくことができる」と語りました。1
「モルモン書が『わたしたちの宗教のかなめ石』であると表現した預言者ジョセフの見解は,核心を突いたきわめて重要なものです。かなめ石は,ほかのすべての石を支えるために,アーチの中央の最上部にはめ込まれます。そのかなめとなる部分を取り除くと,ほかのすべての部分もともに崩れ落ちてしまいます。モルモン書の信ぴょう性,すなわちモルモン書の起源や教義,モルモン書が出現した状況が真実であるかどうかは,末日聖徒イエス・キリスト教会が真実であるかどうかの中核を成しているのです。」2
預言者ジョセフ・スミスを通して回復されたこの福音が真理であるという基本宣言として,モルモン書がこの神権時代の初めから果たしてきた役割と,この後も果たし続ける役割をどれほど強調してもしすぎるということはありません。それでは,これからモルモン書が「わたしたちの宗教のかなめ石」である3つの理由についてお伝えします。
回復のかなめ石
「この教会の救いにかかわる重要な事柄はすべてモルモン書が真実であるかどうかにかかっており,それが暗に意味するところは,すべてはモルモン書の出現についての預言者ジョセフ・スミスの言葉が真実であるかどうかにかかっているということです。……つまり,モルモン書はジョセフの言葉どおりのものなのか,それともこの教会とその創設者の言葉は偽りであり,初めから人を欺くものだったのか,ということです。」3
モルモン書は「回復のかなめ石」です。なぜなら,わたしたちが教えている事柄はすべて,聖なる森やクモラの丘で預言者ジョセフ・スミスが最初に経験したことに端を発しているからです。わたしたちが手にしているすべてのものは,いずれにしろジョセフの最初の証が発端となっているのです。
わたしたちの教義のかなめ石
聖書にはすばらしい教義が収められていますが,モルモン書は,旧約聖書や新約聖書のどこにも載っていない教義を確立し,教義を教え,教義を広げ,教義を明確に示すという役割を担っています。
贖罪に関して言えば,ニーファイやヤコブ,その二人の父リーハイ,ベニヤミン王,アルマやアミュレク,そのほかの多くの人の教えは,聖書にあるどのようなものにも勝っています。わたしは聖書が大好きですが,贖罪については,モルモン書にとても大きな力があります。
イスラエルの散乱と集合,信仰,バプテスマ,復活についてもよく考えてみてください。モルモン書は,わたしたちの教義のかなめ石です。なぜなら,モルモン書はこうした基本的な教義について,聖書から失われた多くの事柄をわたしたちに与えてくれるからです。
キリストに対する証のかなめ石
もしだれかに「モルモン書の主人公はだれですか」と尋ねたとしたら,その人は戸惑ってしまうことでしょう。モルモン書には,千年にわたるニーファイ人やヤレド人の歴史が載っていますが,このような長い期間にわたって,一人の人が中心人物であり続けることはまずありません。その人は「そうだな,ニーファイかアルマじゃないかな。それともモルモンかモロナイかもしれない」と答えるかもしれませんが,どれも不正解です。
この書物における最も重要な人物はイエス・キリストです。最初から最後のページまで,意図してそうなっています。タイトルページに書かれているのはまさにこのことであり,この書物が用意されたのはこのため,すなわち「イエスがキリストであり,永遠の神であ〔る〕」(モルモン書のタイトルページ)ことを宣言するためです。キリストがこの書物のすべてなのです。
特別なメッセージ
モルモンとモロナイは取り残され,疲れ果て,悲しみに打ちひしがれていたにもかかわらず,モルモン書の最後に信仰と希望と慈愛について書き記しました。モロナイはこのように言っています。「わたしはあなたの言われたことを覚えています。あなたは,世のために御自分の命を捨てるほどこの世を愛したと言われました。……あなたが人の子らに対して抱いておられたこの愛が慈愛であることを,わたしは存じています」(エテル12:33-34。モロナイ7:38-48も参照)。この慈愛の定義は,キリストの贖罪の中核を成すものです。イエス・キリストはわたしたちを完全に愛しておられ,その愛は永遠に続きます。だからこそ,まことの慈愛であるキリストの慈愛はいつまでも絶えることがないのだと言えます。
人生には恐れや失敗は付き物であり,思うようにいかないこともあります。人から裏切られることもあれば,経済や仕事,政府に裏切られることもあります。しかし,モルモン書は次のメッセージを伝えています。それは,この世においても永遠にわたってもわたしたちを裏切ることのない一つのことは,主の贖いの犠牲に現されている主イエス・キリストの純粋な愛であるということです。
キリストがわたしたちを見放されることはないというのが,モルモン書のメッセージなのです。主の救いも,主の儀式も,主の教会も失敗に終わることはありません。今は時満ちる神権時代です。回復された福音が地のおもてから取り去られることは二度とありません。これがモルモン書のメッセージです。
主イエス・キリストの証人として,わたしはモルモン書について証します。モルモン書はわたしを主のもとに導いてくれました。19歳の宣教師だったころ,わたしはモルモン書の端々に主イエス・キリストを見いだしました。イギリスの雨と泥の中を歩き回り,コートの背や頭の上まで泥を跳ね上げて自転車に乗り,それまで伝道活動が行われたことのなかった都市で戸別訪問をし,バプテスマを見ることのない日々が長い間続きました。そして夜になりギルモア・ロード3番地に戻ると,モルモン書をむさぼるように読んでは涙を流しました。わたしは,イエスがキリストであり,モルモン書が真実であり,福音が回復されたことを知っていました。そのことをイギリスの人々が理解していないのなら,理解するようになるまでドアをノックし続けようと思いました。
わたしは,回復のメッセージにおいてモルモン書が担ってきた役割がどのようなものかを知っています。天にとって,預言者ジョセフの手にモルモン書を託すことがいかに急務であったかを理解しています。わたしは,キリストが主の主,王の王として支配し統治するために来られる道を備えるとはまさにどういうことかを理解しています。それは最初から最後まで,すなわちタイトルページから最後の節まで,イエスがキリストであり,福音が回復されたという証であり,宣言なのです。