回復の初期の女性たち
ワシントンD.C.で政治的な問題に勇敢に立ち向かう
エメリン・B・ウェルズとジーナ・ヤング・ウィリアムズは自信に満ちあふれた態度で,政府指導者たちが嫌がる問題について訴えました。
合衆国の首都ワシントンD.C.で列車を降りた二人の女性は,疲れてはいましたが固い決意を持っていました。ソルトレーク・シティーから5日間かけてやって来たエメリン・B・ウェルズとジーナ・ヤング・ウィリアムズは,教会員の大義を推し進めたいと願っていましたが,抵抗に遭うことも分かっていました。
1879年1月,二人は女性の参政権についての全国集会に出席し,合衆国議会に請願書を提出して,教会に対する厳しい法律を撤回するよう議員たちに求めました。
「わたしはわたしの民,特に女性の状況を向上させるために,自分の力の及ぶかぎりのことをしたいと思っている」と,エメリンは日記に書いています。11877年から1914年まで,エメリンは教会の女性のための出版物Woman’s Exponent(『ウーマンズ・エクスポーネント』)の編集者を務め,家庭や地域社会での善い行いを奨励しました。
参政権運動の全国指導者エリザベス・キャディー・スタントンとスーザン・B・アンソニーは,ユタから来た二人の女性を「心から歓迎」しました。2二人はエメリンとジーナを,この国の大統領であるラザフォード・B・ヘイズにメッセージを伝える委員会の委員に任命してくれました。3
エメリンは自信をもって大統領と話し,その時のことを次のように報告しています。「わたしたちが,この民の状態に関する幾つかの事実と,厳しく苛酷な措置によってどのような結果がもたらされる見込みかを伝えると,大統領は,わたしたちが提示したような観点からこの問題を考えたことはなかったと言いました。」ヘイズ大統領は妻のルーシーを呼んで,エメリンたちの訴えを聞かせました。「夫人の中に女性らしい共感が沸き起こるのがはっきりと分かりました。」4
さらに2週間にわたって,エメリンとジーナは教会を代表して影響力のある議員たちにメッセージを伝えました。エメリンは,自分たちのメッセージに「最大の関心を示す人々と頻繁に会いました」と回想しています。5
この年には世論を変えるには至りませんでしたが,エメリンと扶助協会の姉妹たちは17年間にわたり,女性と教会員の権利のために声を上げ続けました。幸いにも,1896年にユタが州となり,多くの宗教的および市民的権利が回復されました。