ヤングアダルト
自分に対する神の愛を感じることを学ぶ
神が御自分のすべての子供たちを愛しておられることは知っていましたが,なぜか自分は例外のように感じられました。
大学1年生だったわたしが扶助協会に出席していたとき,ある人が,神が自分のことをどのように感じておられると思うかを書き留めるようにという促しを感じた経験を分かち合いました。
わたしは衝撃を受けました。
家に帰ると,同じことを行うようにという促しを感じました。しかし10分後,何も書くことがなくただそこに座っていると,涙があふれてきました。自分が詐欺師のように思えました。わたしの証の多くは,神と,わたしたちに対する神の完全な愛に基づいていました。それなのに,わたしは何一つ書くことができなかったのです。
神が御自分のすべての子供たちを愛しておられることは知っていましたが,なぜか自分は例外のように感じられました。
なぜそんなことになったのでしょうか。
自信のない自分と向き合う
翌年,セラピーに通い始めると,徐々に自分の考えを整理できるようになりました。セラピストからは,わたしは妥協を許さないタイプの人間になりやすい傾向があると指摘されました。わたしは,自分は戒めを完全に守らなければならず,そうでなければ自分には強さが足りないのだと考えていました。そして気づいたのは,生活の中で神を感じられないのだから,神は存在しないのだと,自分が決めてしまっていたことでした。けれども人生を振り返ってみれば,それは真実でないと分かりました。そして,問題は神ではなく,自分にあることに気づいたのです。
幼いころから,わたしは自分の心に,もし完壁でないなら自分は決して十分ではないという考えを刻み込んでいました。もちろん,完壁な人などいないのですから,わたしは劣等感の海を泳ぎ続けることになりました。自分には何らかの価値がある,という考えには違和感を覚えました。そのため,いつも自分はどこか不十分で,だれの愛も受けるに値しないと思っていたのです。神の愛もです。
しばらくの間,わたしは自分の孤独と,不十分であるという気持ちと戦うために,あらゆるものになろうとしました。ありとあらゆる活動を忙しくこなし,自分の思いを人生のほんとうの問題からそらしていたのです。そして,自分自身の問題に目を向けるのを避ける手段として,ほかの人が必要としている事柄について考えることに過度に時間を費やしていました。家庭教師をし,テニスをし,すべての友人や近所の人たちのためにお菓子を焼き,教授の助手も務めました。また,アルバイトをしたり,授業を幾つも取ったり,学内の複数のクラブやグループの会長を務めたりもしました。
外から見る人にとっては,わたしはすべてをうまくこなしている女の子でした。その人たちに見えていなかったのは,わたしは心の中では,自分はこれでいいんだと感じさせてくれる何かを必死に探していたことでした。しかし,より多くのことに取り組もうとすると常に,自分は何者であり,どんな人になりたいのかに関しては,人生で混乱が増すばかりでした。
大学の1年目が終わりに近づいたころ,自分には価値がないと思っていたために,自分がひどくまひしてしまっていることに気づきました。わたしは人生が与えてくれるすばらしいものを一切拒んでしまうほど,自身を過剰な劣等感にさらし,自分の人生に何も感じなくなっていったのです。
わたしは一歩下がって,これほどのことをしているのに,なぜまだ何も感じないのだろうかと考えました。これをきっかけに,わたしはひどいうつ状態になっていきました。神に完全に見放されたと感じたとき,あなたはどうしますか。
前に進まなければならないと気をもみながらもむなしさを感じ,神は実際はわたしのことをどのように感じておられるのだろうかと考えているうちに,わたしは自分の中の何かを変えなければならないことに気づきました。この気づきによって,わたしは自分に対する神の愛を感じるための道を歩き始めたのです。
神の愛を感じたいと求める
最初は何から始めればよいのか分からず,それだけでも気が遠くなるほどでした。しかし,それからの1年間,わたしは主とその無限の慈しみに頼って一日一日を過ごしました。預言者のメッセージを読み,自分が交わした神殿の聖約について深く考え,毎晩10分だけでも時間を取って聖文を読み,一日を通じて祈りによって天の御父と語り合うことに,大きな力と心の平安を見いだしました。
これらのことをしているうちに,生活の中に神の手が見えるようになっていきました。自分が何者であるか,人生でどの道を選ぶべきなのかは分かりませんでした。どの道なら,自分はこれでいいんだと感じられるのかも分かりませんでした。けれども,やがて自分がほんとうに必要としているのは,自分が神にとってどのような存在であるかを知ることだと気づいたのです。
今はわたしにとって,大学の最後の学期です。学生,従業員,娘,姉妹,友人として,たくさんのストレスを抱える中でわたしが気づいたのは,あらゆる成功に不可欠なのは,自分の価値を知り,神が自分についてどのように感じておられるかを理解するということです。
今でもまだ,自分の将来については分からないことがたくさんありますが,それでよいのです。
わたしにとっては,自分が今完全である必要はないと知っていることが,一日を乗り切る助けとなっています。わたしは神がわたしを御存じであることを知っています。また,たとえ神の愛を感じられないときでも,神は忍耐強くわたしに働きかけてくださっていることも知っています。
苦しんできたこの数年の間に,神はわたしが以前には決して気づくことのなかった特質や才能を自分の中に見つけるのを助けてくださいました。そして何より重要なのは,個人の啓示とわたしに対する神の御心を理解するための日々の努力を通して,神がわたしのことをどのように感じておられるかを,徐々に知ることができたということです。わたしは生活の中で,救い主の力と贖罪の祝福に存分に頼ることができてきました。そのおかげで,神の愛を感じ,自分が神に愛されている娘であると知ることができました。
預言者たちのメッセージを読んでいく中で,ラッセル・M・ネルソン大管長の次の言葉を読んだときに胸を打たれました。「女性は主の模範に従うときに,自分の価値を見いだします。キリストのように人々に愛の手を差し伸べたいと願うときに自身の計り知れない価値に気づくのです。」
大管長はまた次のように言っています。「〔女性の〕自尊心は個人の義や,神との親しい関係によって得られるのです。」1この言葉から,自分が何者であるかということは,自分の言動の組み合わせ以上のものであると理解しました。わたしは永遠の存在であり,救い主がなさったように,愛と思いやりをもって導くという特別な召しを受けています。そしてこの理解は,うつ病がもたらすどんな思考にも勝るものです。
前進する
今もまだ時々,神の愛がどんなものであるか,また,人生のささやかな,ごく平凡な瞬間にどんな永続的な喜びがあるかを忘れてしまうことがあります。しかし,キリストの贖罪の奇跡とは,悔い改めのためだけではありません。主の恵みは,わたしたちが日々を乗り越え,自分自身を愛することができるようにもしてくれるのです。わたしはこの事実をよく忘れてしまいますが,それが真実であることに変わりはありません。
わたしたちが人間の性質に引っ張られやすく,神がはっきりとした思いや霊感を与えてくださっても,必ずしもそれが正しいと思えないときもあるでしょう。そこで,自分を助けるために,わたしたちは神の愛を感じたときのことを書き留め,振り返ることができます。その愛を感じられる方法を模索し続けることができます。日々の礼拝や個人の聖さを深める努力を続けることは,天の御父との関係を強めてくれるだけでなく,個人の幸福や自尊心を増し加えることにもつながります。キリストはそうした努力を大いなるものとして,天の御父が望んでおられるような人になれるよう助けてくださいます。
わたしは努力を続ける決意をしています。なぜなら,キリストに望みを抱いているからです。主に頼るとき,人生はこれからも良くなっていき,成長していくことができると知っています。自分に対する神の愛が無限であることを知ってからは,悲しみを押しのけ,自分の不十分さや完璧を求める思いに打ち勝つために,より大きな力をいつも見いだせるようになりました。
以前の劣等感が戻って来そうになったときには,神がわたしのことを面白くて,優しくて,寛大で,美しいと思ってくださっていることを思い起こします。そして何より,神はわたしが努力している姿を見てくださっていることを思い起こします。
トーマス・S・モンソン大管長は次のように言っています。「神の愛は,皆さんがその愛にふさわしいと感じているかどうかにかかわらず,皆さんのために存在しています。いつもそこに存在しているのです。」2わたしはこの真理に深く感謝しています。深い葛藤の中で,わたしたちは自分たちが前に進むのを助けてくださる神の栄光を見ることができます。神はいつでもわたしたちを応援してくださっているのです。