「癒しは得られるのでしょうか」「被害者への支援」
「癒しは得られるのでしょうか」「被害者への支援」
癒しは得られるのでしょうか
癒しは得られます。主の贖罪を通して,救い主の助けにより,どのような虐待であっても癒しを得ることができます。
傷ついているとき,自分が感じている苦痛を平安に変えることができるとはなかなか思えないかもしれません。抱えている傷が何年も見過ごしにされ,認識されないままでいることもあるでしょう。ほほえみでその傷を覆い隠し,何事もなかったかのように過ごしているために,あなたの痛みに気づかない人もいるかもしれません。
預言者ジョセフ・スミスがリバティーの監獄に留置されていたとき,教会あてに手紙を書きました。そこには「迫害者に関する聖徒たちの義務」が述べられています(教義と聖約第123章の前書き参照)。その手紙の中で預言者は,迫害と肉体的危害を被った聖徒たちに,受けた苦痛を口外せずに何事もなかったかのように振る舞うようには言いませんでした。むしろ,聖徒たちの苦しみの記録を取りまとめ,権威ある者たちに提出するように指示したのです。
同様に,あなたも隠したり,何も起こらなかったふりをしたりする必要はありません。あなたは無力で,力がなく,混乱していて,寂しく,孤独であると感じているかもしれません。あなたが何を考え,どう感じていたとしても,あなたには無限の価値があり,愛されていることを理解してください(教義と聖約18:10参照)。
癒しのプロセス
癒しはあなたの苦痛を和らげる助けになります。癒しは時間のかかるプロセスですが,わたしたちの身代わりとなられた主の贖いの犠牲があるので,救い主イエス・キリストの助けによって癒しを得ることができます。
癒しのプロセスには以下の事柄が含まれます。
-
失ったことを認め,深く悲しむ
-
自分の重荷をほかの人と分かち合う
-
虐待が自分の人生に及ぼした影響を認識し,必要であれば専門的なカウンセリングを受ける
-
虐待を受けた経験があなたという人物を決定づけるわけではないことを理解する
-
神の癒しの力を信頼する
このプロセスに取り組むに当たって,以下のことを自問してください。
-
虐待は自分の人生にどのような影響を与えただろうか。
-
自分は癒しのプロセスのどの段階にいるのだろうか。
-
前に進むうえで助けになるのはどのようなことだろうか。
心の癒しのプロセスと肉体のけがの治療と手当てのプロセスとを比較してみましょう。若いときに足の骨を折ったと仮定してみてください。医師のもとに行って治すことをせずに,足をかばいながら歩いていると,やがてひどい痛みはなくなりました。しかし,足を一歩踏み出す度に常にわずかな痛みがあります。数年後,痛みがなくなることを願って医師に診てもらいに行くと,医師は骨の位置を直し,大きくなった骨の出っ張りを除去し,ギプスをはめ,脚を強くするために理学療法士のもとへあなたを送らなければならなくなったのです。
虐待からの癒しを得ようとするとき,まずその苦痛が現実のものであり,それに対してできることがあることを認識する必要があります。そのプロセスには,何が起こったかを認識すること,また傷つき,おびえ,悲しく感じている気持ちを認めることが含まれます。この癒しのプロセスにおいて,経験のある専門のカウンセラーに相談すると助けになることがよくあります。(お住まいの地域でどのようなファミリーサービスのリソースが利用できるかは,ビショップに確認してください。)
癒しに向けて取り組んでいる間も,虐待された記憶がなくなることはないかもしれません。しかし,激しい感情の波や虐待された経験によって人生にもたらされた悪影響は弱まっていき,やがてほとんど存在しなくなるでしょう。
専門的な助けが受けられるかどうかにかかわらず,祈り,救い主の生涯と主の贖罪について学び,ほかの人から支援を受け,教会の指導者の霊的な助けを求めることはあなたにとって力となります(「どこで支援を受けられますか」参照)。教会の指導者はあなたの重荷を軽くするうえで力になってくれますし,霊感を受けてあなたの神聖な価値や,あなたと天の御父と救い主との関係をあなたが理解できるように助けてくれます。
十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老はこう明言しています。「厳粛に証します。暴力,倒錯的行為,近親者からの性的虐待によって,自分の気持ちを踏みにじられ,ひどく傷つけられたとしても,あなたの責任ではありません。罪悪感を持つ必要もありません。虐待によって傷を受けるかもしれませんが,それをそのままにしておく必要はありません。……
癒しには長い時問が必要です。回復は,通常,段階を追って進みます。そして,どのようなささいな前進についても主への感謝を示すなら,その回復はさらに速められていきます。」(「忌まわしい虐待の傷を癒す」『聖徒の道』1992年7月号,36-37)
赦す
癒しのプロセスに取り組むとき,救い主の助けにより,自分を傷つけた人を赦す力を培うことができます。
加害者の行動に対してどのように責任を取ってもらうかを任せられる場所に行くことが癒しの一環となります。公的機関により責任を負わされるか否かにかかわらず,すべての加害者が神の前に立たなければならない日がやって来ます(教義と聖約137:9)。
いつどのように加害者に責任を取ってもらうかにかかわらず,「いかなる程度の不義によってでも,人の子らを制御し,支配し,強制しようとしたりするとき,まことに,天は退き去り,主の御霊は深く悲しむ」のは確かなことです(教義と聖約121:37;強調付加)。詳しい支援を得るには「赦すことができるでしょうか」を参照してください。
地域社会と教会のリソース
(下記のリソースの中には,末日聖徒イエス・キリスト教会によって作成,保持,管理されていないものもあります。これらの資料は,追加のリソースとして役立てるように意図されていますが,教会の教義や教えと一致しない内容について,教会が是認するものではありません〔一部のリソースは英語のみ〕。)
-
“Healing from Sexual Abuse,” Chieko N. Okazaki, BYU devotional, Oct. 23, 2002 (PDF)(video)
-
「重荷から解放される」リチャード・G・スコット『リアホナ』2002年11月号
-
「希望と癒しへの架け橋」ナノン・タリー『リアホナ』2017年4月号
-
「忌まわしい虐待の傷を癒す」『リアホナ』1992年7月号
-
「贖罪はすべての苦痛を癒す」ケント・F・リチャーズ『リアホナ』2011年5月号
-
「癒し手であられる主」キャロル・M・スティーブンス『リアホナ』2016年11月号
-
Overcoming Trauma, Elizabeth Smart, The Daily Goalcast