第7章
同じ神の子供たち
1963年10月初旬,ソルトレーク・シティーの全米有色人種向上協会(NAACP)の地方支部は,総大会の期間中にテンプルスクウェアの外で平和的な抗議デモを行う計画を立てていました。近づきつつある抗議行動についての見出しが合衆国中の新聞を飾る中で,デモを組織した人々は,公民権に対する教会の態度を明確にするよう,このデモを通して教会指導者を促したいと望んでいました。
教会が所有する『デゼレト・ニュース』は,1956年に段階的な人種差別撤廃を支持する立場を表明していましたが,ユタ州は近隣の州と比べて,公民権法案の可決で後れを取っていました。NAACPは,教会がきっぱりとした声明を出せば,議員たちに影響を与えて,州内のすべての人に平等な保護と機会が保証されると期待していました。
この抗議行動は,この時期に合衆国で行われていた数多くのデモの一つとなる予定でした。その年,合衆国のジョン・F・ケネディ大統領は,アフリカ系アメリカ人およびそのほかの有色人種の人々を差別から守るための公民権法を提案していました。数か月後,NAACPは合衆国における社会的および経済的な不平等に抗議するために,ワシントンD.C.で大規模なデモ行進を組織しました。行進の最後には,公民権運動の著名な指導者であるマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが感動的なスピーチを行い,人種的不平等に対して立ち上がるよう,多くの人々を鼓舞しました。
テンプルスクウェアでのデモが計画されていることを聞いて,ユタ大学の哲学の教授であったスターリング・マクマリンは,ソルトレーク・シティーのNAACPの指導者たちと大管長会のヒュー・B・ブラウンとの会合を手配しました。
10月3日の夜,ブラウン管長は地元のNAACPの支部長であるアルバート・フリッツをはじめとする,抗議行動を組織していた人々を教会執務ビルに迎えました。その日にヘンリー・D・モイルの後任として大管長会に召されていた,N・エルドン・タナーも加わりました。
会合で,デモの組織者たちは,教会は公民権を支持して声を上げるつもりかと尋ねました。
「御存じのように」とブラウン管長は言いました。「教会は政治には関与しません。」教会は,長年にわたって政治的中立を保っていました。
するとデモの組織者たちは,教会はしばしば道徳的問題については発言していると指摘しました。そして彼らの考えでは,公民権は道徳的問題でした。
ブラウン管長は彼らに同意しましたが,ブラウン管長もタナー管長も,公の抗議行動が必要だとは考えませんでした。彼らは教会が公民権に関する声明を出すことについてマッケイ大管長と話すことを約束しました。
会合の後,ブラウン管長とタナー管長はスターリング・マクマリンに,声明の草稿を作成してマッケイ大管長の承認を得る準備を手伝ってくれるよう依頼しました。一方,アルバート・フリッツはNAACPのメンバーに対して,デモを延期して教会に声明を出す時間を与えるよう促しました。一部のデモ参加者は,すでにプラカードを作っていましたが,少なくとももう1週間待つことに同意しました。
10月5日土曜日,ブラウン管長はNAACPに,マッケイ大管長によって声明が承認され,翌朝の総大会でブラウン管長が声明を読み上げることを知らせました。
声明では,「この教会には人種や肌の色や宗教にかかわらず,あらゆる人が公民権を完全に享受することを否定するような,いかなる教義も信条も慣行も存在しません」と宣言されました。「わたしたちは,すべての人は同じ神の子供であり,いかなる個人や集団も,有給の雇用と完全な教育の機会,および市民のあらゆる特権に対する権利をだれかに認めるのを拒否することは,道徳的な悪であると信じています。」
「わたしたちは,教会に属している人もそうでない人も含め,世界中のすべての人に対して,神のすべての子供にとって完全な公民的平等を実現するために献身するよう呼びかけます」と声明は続きます。「このことが達成されないかぎり,人類は兄弟であるというわたしたちの高邁な理想は敗れることになります。」
この声明はソルトレーク・シティーでもほかの場所でも,新聞の一面を飾りました。アルバート・フリッツの要請に従って,NAACPは総大会の期間中に抗議行動を一切しませんでした。フリッツは,自分の組織と教会が協力し合えることを期待しました。
「わたしたちが一致して取り組めば,より良い州を作ることができます」とフリッツは言いました。
1963年を通じて,ヘリオ・ダローチャ・カマルゴは,ブラジル国内を頻繁に移動していました。1959年のスペンサー・W・キンボール長老の南アメリカ訪問の後間もなく,ヘリオはメルキゼデク神権を受け,そのときにはブラジル伝道部会長会で顧問を務めていたのです。教会が国の多くの地域で急速に成長していたため,ヘリオは召しのためにリオデジャネイロやベロオリゾンテ,レシフェ,そして新たに建設されたブラジルの首都ブラジリアといった遠く離れた都市まで出向いて聖徒たちと会う必要がありました。
過去4年の間に,ラテンアメリカでは3万5,000人以上が教会に加わっていました。1961年には,教会で最初のスペイン語のステークがメキシコシティーで組織されました。同時に,南アメリカにおける伝道部の数は2倍以上に増加していました。そのころはブラジルに二つ,アルゼンチンに二つ,ウルグアイに一つ,チリに一つ,ペルーとボリビアを範囲とする地域に一つの伝道部がありました。
これら各伝道部で掲げられた目標は,福音を広め,聖徒たちが忠実に生活するのを助け,南アメリカに最初のステークを設立することでした。ステークを組織することで,会員たちは教会で指導し,奉仕する権能を今以上に得ることができ,地域の外から指導者に来てもらう必要がなくなります。
ブラジル伝道部会長のウェイン・ベックとその前任者であるグラント・バンガーターはどちらも,聖徒たちをステークでの責任に備える最善の方法は,地元の教会指導者を育て,訓練することだと信じていました。ヘリオのメソジストの牧師としての経験は,教会の指導者となるには理想的でした。バンガーター会長は,すぐにヘリオを責任ある役職に召しました。
ヘリオの最初の指導者としての召しの一つは,ほかの二人のブラジル人聖徒とともに地方部会長会の顧問として奉仕することでした。当初,新たな務めに慣れていなかったヘリオは,その目的を理解しようともがき苦しんだ後,バンガーター会長に言いました。「わたしはここで価値のあることを何もしていません。」
「あなたは何をしたいのですか」とバンガーター会長は尋ねました。
「支部に戻って,教師になりたいです」とヘリオは答えました。「良い教師になれると思います。」
そこでバンガーター会長は,地元の聖徒たちがその国の教会の発展にとっていかに重要かを説明しました。地方部会長会の一員として,ヘリオは地元の教会指導者や教師を召し,訓練することにおいて重要な役割を果たしていたのです。
「今は南アメリカで,主が力をもって御業を確立するために,御自分の僕たちをお立てになっている時なのです」と,バンガーター会長は言いました。「その重荷を担うよう召される人々がいて,あなたはその務めを受けているのです。」
ヘリオは突然,教会の指導者の務めを新しい観点から見るようになりました。数週間のうちに,ヘリオと地方部会長会のほかのメンバーたちは,より効果的に働くようになっていました。
その後,ヘリオは多くの地元の指導者を訓練しました。その務めは,伝道部会長会に召された後も続きました。バンガーター会長とベック会長の顧問として,ヘリオは仲間の聖徒たちが聖餐会の質を高めるのを助け,教会建設プロジェクトへの参加を奨励し,強固な支部を作るために働きました。今では,伝道部内で教会がしっかり確立されている場所では,支部と地方部が事実上ワードとステークとして機能していました。バプテスマや確認が必要なときには,ブラジル人の神権者がそれを執行しました。
ヘリオの妻のネアは,伝道部の初等協会の組織で顧問として奉仕し,聖徒たちをステーク指導者として働けるよう育成するという役目を果たしていました。ステークでの教会の慣例にならい,会長会は毎年,初等協会の指導者と教師のための大会を開いていました。女性に向けたレッスンの中で,ネアは幼い子供たちを教えることや,初等協会の出席率を向上させること,利用可能な教科課程と視覚資料を用いることについて提案をしました。
「皆さんが子供たちのためにしてきたすべての働きを,神が祝福してくださいますように」と,ネアは1963年の大会で,初等協会で働く人々に言いました。「そして,熱意と誠実さをもって主から託された業に自らをささげ,福音の原則に従って生活しようとするわたしたちの信仰と望みを,神が増し加えてくださいますように。」
伝道部会長会での務めにおいて,ヘリオは牧師時代と同じ熱心さで自分の召しを尊んで大いなるものとしました。あるときヘリオはバンガーター会長に,キリストのまことの弟子であるためには,キリストの大義への完全な献身と奉献が求められるのだと言いました。
「敬虔なメソジストならだれでもこのことを知っています」とヘリオは言いました。そして,末日聖徒もまたこのことを理解するべきだと,ヘリオは信じていました。
1963年の終わり近く,44歳のウォルト・メイシーは落ち着かない気持ちでいました。ソルトレーク・シティーにある3件の食料品店の共同所有者だった彼は,日曜日も店を開け続けるべきか悩んでいたのです。子供のころから,安息日は神聖な休息の日だと教わってきました。しかし最近では,安息日に多くの末日聖徒がほかの人々と同じように買い物をしていることに,ウォルトは気づいていました。
周りを見回すと,レストランもガソリンスタンドも小売店も,日曜日に営業しています。そしてウォルトの長年のビジネスパートナーであるデール・ジョーンズは,自分たちの食料品店も日曜日の営業を続けるべきだと考えていました。日曜日は売れ行きがよく,ウォルトも店を開けることで週末に買い物をする必要のある家族は助かるだろうという主張を受け入れていました。自動車を2台所有している家庭はほとんどなく,平日は夫が車で職場に行くのが普通であったため,日曜日は買い物する大切な日だったのです。
しかしウォルトは安息日に営業することについて,完全にそれでよいと感じることは決してありませんでした。自分の店で働いている若い人たちが宗教の集会に出席するのを妨げてしまっているという気がして悩んでいたのです。数年前,ウォルトはデールに,日曜日に閉店すれば自分たちの事業は祝福を受けるだろうと提案しましたが,デールは同意しませんでした。「店を閉めることはしないよ」と言って,デールは話を終わらせました。
しかしそのころ,十二使徒定員会会長のジョセフ・フィールディング・スミスと交わした会話が,ウォルトの心を騒がせていました。スミス会長と妻のジェシーは,ソルトレーク・シティーの西側にあるウォルトたちの店の常連客でした。ある日,スミス会長はウォルトが働いていた肉売り場のカウンターへ歩み寄りました。
「メイシー兄弟,あの看板を窓から外していただけませんか」とスミス会長は言いました。窓にはたくさんの看板が掛かっていたので,ウォルトはどの看板かと尋ねました。
「『日曜営業』の看板です」とスミス会長は言いました。会長はウォルトに,自分は日曜日には閉店することによって安息日を尊ぶ店で買い物をしたいのだと言いました。そして背を向けて出て行きました。それ以来,ウォルトが店でスミス会長を見かけることはありませんでした。
スミス会長は50年以上にわたって使徒を務めていました。その間に,世界中のクリスチャンの間で安息日を尊ぶ気持ちが失われていくのを見てきました。安息日に労働することについては納得のいく理由もあると認める一方で,スミス会長とほかの教会指導者たちは,日曜日が単なる娯楽と商業のための日になっていくことに懸念を抱いていました。そこで,安息日をスポーツイベントや映画,買い物など,ほかの曜日にもできることのために用いないよう,繰り返し声を上げていたのです。当時のほかのどの使徒にも増して,ジョセフ・フィールディング・スミスは主の日を聖く保つよう聖徒たちに訴えていました。
「わたしたちは安息日を破るのをやめなければなりません」と,スミス会長は1957年4月の総大会で述べています。「わたしは皆さんに約束します。もし皆さんが安息日を遵守するなら,安息日に店を開いている皆さんが,もし店を閉め,主から与えられている務めに心を配り,主の戒めを守るなら,皆さんは栄えるでしょう。」
2年後,大管長会は同じ原則を教え,日曜日に買い物をしないようにと聖徒たちに呼びかけました。
スミス会長との会話の後,ウォルトは変わろうと決意しました。正しいと知っていることに対して自分の行いは不十分だという印象を受けたのです。
ウォルトは再度デールに,日曜日に閉店することを持ちかけましたが,デールは検討を拒みました。「それなら」とウォルトは言いました。「これはわたしにとってとても大きな問題だから,どちらかが経営権を相手に売るのがよいだろう。」
1か月後,デールは共同経営の解消に同意しました。3店舗のうち,デールが2店舗,ウォルトが1店舗の経営権を持つことになりました。ウォルトは自分の店を「メイシーズ」という新しい店名で再開することに決めました。
それから間もなく,『デゼレト・ニュース』に,メイシーズは日曜日は営業しないという告知が掲載されました。その夜の11時15分,ウォルトの家に電話がありました。スミス姉妹からでした。「会長があなたとお話ししたいそうです」とスミス姉妹は言いました。
スミス会長が電話に出ました。「メイシー兄弟,今日の夕刊で,あなたが安息日に店を閉めることにしたと知りました。また買い物に行きますよ」とスミス会長は言いました。
間もなく,ウォルトはスミス会長が自分の店で買い物をしているのに気づきました。
1964年の初め,ベル・スパッフォードは中央扶助協会会長になってから19年目に入っていました。扶助協会は世界中に26万2,002人の会員を擁し,女性たちは6,000以上のワードや支部で扶助協会の集会に定期的に集い,互いから学び合い,慈善奉仕を提供していました。扶助協会は自らの資金を集めて管理し,多くのプログラムや活動,プロジェクトを運営しており,その中には間もなく創刊50周年を迎える『扶助協会誌』(Relief Society Magazine)も含まれていました。
スパッフォード会長は扶助協会の姉妹たちを大変誇りに思っていました。「女性たちが多くの活動に参加し,数多くの女性が雇用されている時代にあって,扶助協会の定例集会への平均出席者が増加しているのは励みになります」と,スパッフォード会長はそのころ,扶助協会の年次大会で述べていました。「皆さんの扶助協会での献身的な働きと,義にかなった生活に感謝します。」
新しい年が始まり,スパッフォード会長とその顧問であるマリアンヌ・シャープとルイーズ・マドセンは,移動が続く数か月を控えていました。
新しいコーリレーションプログラムのもとで,その年の前半,中央扶助協会会長会と管理会はステーク大会を訪問することになっていました。地元の扶助協会の指導者を訓練し,ステーク会長会や高等評議会,ビショップリック,そのほかのステークやワードの指導者たちと話すためです。これらの大会に出席することは,扶助協会の業について神権指導者に学んでもらう新たな機会となりました。
教会がアメリカ合衆国外でますます多くのステークを組織するにつれて,会長会も国外を訪れる機会が増えていきました。そのころでは,オーストラリア,ニュージーランド,サモアのステークで訓練を行っており,春にはヨーロッパの聖徒たちを訪ねました。
世界各地でステーク大会を訪問しながら,スパッフォード会長と管理会のメンバーは,扶助協会の重要性を強調するフィルムストリップ『目覚め』(The Awakening)を上映しました。フィルムストリップは,手ごろな値段で使いやすかったため,教会内外で教材として人気を博しつつありました。『目覚め』では,一連の画像をスクリーンに映しながら,教会員メアリー・スミスについての架空の物語が語られます。弱くなっていたメアリーの信仰が,扶助協会とワードの会員たちの個人的な訪問のおかげで再びよみがえる話です。フィルムストリップの最後では,メアリーと家族は教会に戻り,神殿で結び固めを受ける準備をしています。
長年にわたって,スパッフォード会長と顧問たちは,扶助協会のほとんどの教材を承認してきました。例えば『目覚め』は,ソルトレークのバトラーステークの扶助協会の会員たちによって制作されたもので,それを中央扶助協会会長会が様々なステークで自分たちが使う資料の一部として採用したのです。
しかしそのころには,教会の各組織の教科課程を開発する責任は,ハロルド・B・リー長老と新たに創設された教会相互調整評議会に移されていました。扶助協会は相互に関連付けられたレッスンプランをまだ使用していませんでしたが,委員会はすべての教会組織に対して,レッスンの概要やそのほかの資料を提出して承認を受けるよう求めていました。スパッフォード会長はこの変化を支持し,調整評議会の一員として,教会のレッスンを相互に関連付ける作業に携わっていました。
1964年6月24日,スパッフォード会長はニューヨーク万国博覧会の「扶助協会デー」のためにアメリカ合衆国東部を訪れました。1893年のシカゴ万国博覧会と同様に,教会はこの博覧会を世界に向けて自分たちのメッセージを分かち合う機会であると捉えました。そこでソルトレーク神殿を模した巨大な展示ホールを建設し,救い主と主の福音に関する様々な展示を行いました。その中には,訪れた人々に救いの計画について教えた,『幸福の探求』という題名の15分の人気を博した映画も含まれていました。
扶助協会デーは,末日聖徒の女性たちが成し遂げてきた事柄を紹介するために計画されました。この日のハイライトは,ニューヨークその他の都市のステーク扶助協会から集まった「歌う母親たち」の聖歌隊でした。彼女たちの歌を聞くために多くの人が集まり,スパッフォード会長は,コンサートは回を重ねるごとに良くなっていると感じました。博覧会は騒がしい場所であったにもかかわらず,女性たちが声を合わせて賛美歌やそのほかの神聖な曲を歌うと,すべての騒音が消え去ったように思われました。スパッフォード会長の耳には,まるで天使の合唱のように響きました。
後に,ある記者から,なぜ「歌う父親たち」の聖歌隊がないのかと聞かれて,
スパッフォード会長はこう答えました。「これは女性の組織ですので。」
このころ,ジュゼッパ・オリバはアルゼンチンのキルメスの部分的に完成した集会所で席に着きました。そこは教会の建設プログラムで宣教師によって建てられたアルゼンチンで最初の教会堂であり,その朝,地方部大会に出席していた聖徒たちは,その完成を心待ちにしていました。世界中の多くの集会所と同じく,この建物もそこに集う聖徒たちの多年にわたる献身的な奉仕と犠牲を象徴していました。
ジュゼッパと夫のレナートは,イタリアのシチリア島の出身でした。多くのイタリア人のように,彼らは第二次世界大戦後,より良い働き口を求めて家族とともにアルゼンチンに移って来ました。新しい国と文化と言語に慣れるのは大変でしたが,南アメリカで5人の子供のいる家庭を築いていました。シチリア島を離れて7年後,ジュゼッパは末日聖徒の宣教師と出会い,彼女と二人の娘はすぐにそのメッセージを受け入れました。その後,二人の娘はどちらも教会員の若い男性と結婚しました。
しかし,大会の間,ジュゼッパは不安を抱きながら座っていました。アルゼンチンを経済危機が襲っていたのです。国内での生活費は年に20パーセントも上昇し,企業は従業員に給料を払うことができず,多くの人が職を失っていました。経済的に先の見通せない状況で,かご職人だったレナートはすでにシチリア島に戻っており,家族も呼び戻したいと考えていました。
けれども,ジュゼッパは戻りたくありませんでした。スペンサー・W・キンボール長老のアルゼンチン訪問以来,5年間で国内の教会員数は8,000人以上に増加していました。アルゼンチンの支部は強く,忠実な聖徒たちが納めた什分の一によって,アルゼンチン伝道部は史上初めて財政的に自立することができていました。改宗者のバプテスマの数は増加し,ジュゼッパが出席していたような支部を強めていました。
それに対して,イタリアには教会の支部は一つもありませんでした。レナートを追ってイタリアに戻ることを選ぶとしたら,ジュゼッパは定期的に教会に出席することで受けられる祝福を諦めなければならなくなります。そして,レナートは教会員ではないので,ジュゼッパのために聖餐やそのほかの神権の儀式を執行することはできませんでした。
地方部大会の午前の部会が終わると,ジュゼッパはアルゼンチン伝道部会長のアーサー・ストロングに近づき,自分の悩みについて話しました。娘たちと一緒にアルゼンチンにとどまりたい一方で,ヨーロッパで夫とともにいる必要があるとも感じていたのです。
ストロング会長は耳を傾けた後,イタリアに戻るよう勧めました。「そこがあなたのいるべき場所です」と会長は言いました。
「教会についてはどうするべきでしょうか。」ジュゼッパは尋ねました。
「教会はあなたの町で成長するでしょう」とストロング会長は約束しました。「それについて心配する必要はありません。」
ジュゼッパは懐疑的でした。そのようなことがほんとうに可能なのでしょうか。それでも,主を信頼し,イタリアに戻ることに決めました。結局,ジュゼッパの信仰は彼女を道に迷わせてはいませんでした。
1964年6月,18歳のダリウス・グレイは近所に新しい家族が引っ越して来たのに気づきました。その家の前を通ると,たくさんの子供たちが外で遊んでいます。
子供の一人が,「ぼくたちはフェリックス家族だよ」と言いました。「モルモンなんだ!」
アフリカ系アメリカ人のダリウスは,幼いころから両親と一緒に様々な教会に出席してきました。その中には黒人が圧倒的に多い教会もありました。ダリウスは宗教に興味を持ち,ついにはカトリック,ユダヤ教,イスラム教,バハーイー教を研究するまでになりました。しかし,ユタ州の隣にあるコロラド州に住んでいたにもかかわらず,末日聖徒についてはほとんど何も知りませんでした。そしてこれまで末日聖徒に出会ったこともなかったのです。
それから数か月のうちに,ダリウスはこの新しい家族と知り合いになりました。ジョン・フェリックスはアマチュア無線士で,ダリウスにモールス信号を教えてくれました。ジョンの妻バーバラは,自分の信仰を分かち合うことにさらに積極的でした。バーバラと子供たちは,ダリウスにモルモン書をプレゼントしました。ダリウスは受け取るのをためらいましたが,本が好きだったので,結局読み始めました。
モルモン書の言葉はダリウスの魂に語りかけ,ダリウスは宣教師の訪問を受けることにしました。父親は数年前に亡くなっていて,家にいるのはダリウスと母親のエルシーだけでした。エルシーは信仰の篤いクリスチャンで,ほかの宗教を信じる人々と話すことにいつも前向きでした。ダリウスは,母親は宣教師が来ても気にしないだろうと思いました。
ところが,訪問の間,エルシーは寝室から出て来ませんでした。そして若い宣教師たちが帰ると,ダリウスを呼びました。
「あの人たちにはもう来てほしくないの」とエルシーは言いました。
「どうして?」ダリウスは尋ねました。
「ここはわたしの家ですよ。とにかく来てほしくないの」とエルシーは言いました。
ダリウスはそれ以上尋ねるべきではないと分かっていましたが,この件をそのままにしておくこともできませんでした。そしてついに,なぜ宣教師に反対するのかを再び尋ねると,母親は,以前に末日聖徒の二人の宣教師が家に来たことがあるのだと説明しました。そのとき,家に入るやいなや,宣教師の一人が,エルシーが黒人かどうかを尋ねたのだそうです。
「ええ,もちろんです」とエルシーは答えました。
すると二人の宣教師は何の説明もなく立ち去ったのです。それ以来,彼女は教会に対して否定的な感情を持つようになったのでした。
この話を聞いて,ダリウスは悩みました。ダリウスは母親の話を信じましたが,それと同時に,母親の不愉快な経験はやや特殊なものではないのかとも思いました。
ダリウスは宣教師とのレッスンを続け,間もなく教会に入る決意をしました。しかしバプテスマを受ける前日に,ダリウスは宣教師たちに教会の人種に関する教えについて質問しました。それがどのように自分に当てはまるだろうかと思ったのです。
しばらくの間,だれも口を開きませんでした。それから宣教師の一人が立ち上がり,ダリウスに背を向けてゆっくりと部屋の隅まで歩いて行きました。もう一人の宣教師が言いました。「そうですね,グレイ兄弟,まず始めに,あなたは神権を持つことはできないでしょう。」
ダリウスは急にばかばかしくなってきました。「お母さんの言ったことはほんとうだった」と思いました。これでどうして教会に加わることができるでしょうか。ダリウスは黒人だからという理由で違った扱いを受けるのがどんな気持ちかを知っていました。そして自分をほかのだれかより劣っていると見なす気はありませんでした。
その晩,ダリウスはベッドに入り,毛布にくるまりました。ダリウスは神を信じており,イエス・キリストを通して救いが得られることを信じていました。そして今日まで,宣教師たちから教わったことをすべて信じていました。どうしたらよいのか分かりませんでした。自分の信仰を,教会の神権の制限について知ったことと,どうすれば和解させることができるというのでしょうか。
すぐ近くの窓を開けて,ダリウスは窓枠に頭をもたせかけました。夜の空気を胸いっぱいに吸い込んで,祈りをささげました。祈り終えると,窓を閉めて,眠ろうとしました。しかし眠れずに寝返りを打つうちに,もう一度祈るべきだと感じました。再び窓を開け,祈り始めました。
すると今度は,はっきりと聞き取ることのできる声が彼に語りかけました。「これは回復された福音です。あなたは加わるのです」と,その声は言いました。
一瞬にして,ダリウスはどうするべきか分かりました。翌日,彼はバプテスマの水に入り,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員となりました。