第32章
信仰から来る力
2000年10月1日,90歳となったヒンクレー大管長はアメリカ合衆国東部のマサチューセッツ州ボストン神殿を奉献し,稼働中の神殿を年末までに100にするという目標を達成しました。2か月後,世界中のクリスチャンが救い主の降誕と新たな千年紀の始まりを祝う準備をする中,大管長はさらに二つの神殿を,ブラジルのレシフェとポルトアレグレで奉献しました。ほかに19の神殿が建設中または計画段階にありました。それは,教会の歴史上最も多くの神殿が奉献された年にふさわしい締めくくりでした。
ヒンクレー大管長はその生涯において,教会がユタ州在住者が大半である40万人の会員を擁する組織から,148か国に1,100万人以上の会員を擁する組織へと成長するのを見てきました。この預言者が生まれた1910年,教会には4つの神殿があるだけで,エンダウメントは英語でのみ行われていました。今では教会の神殿は世界中にあり,エンダウメントは何十もの言語で受けることができます。神殿の設計に関する霊感あふれる変更が,その実現を助けていました。
しかしヒンクレー大管長が気にかけていた建物は,神殿だけではありませんでした。大管長は以前から,総大会に現地で出席したいと願うすべての人を収容するのに,ソルトレークタバナクルは十分な大きさではないという懸念を抱いていました。そこで大管長は,タバナクルの3倍の座席数を備えた新しいアッセンブリーホールの建設を委託しました。テンプルスクウェアの北ブロックに建てられ,2000年10月に奉献されたカンファレンスセンターは,驚くべき技術の結晶であり,預言者は歓喜しました。
ヒンクレー大管長の指導の下に,教会は新しいテクノロジーも次々に採り入れていきました。教会の大管長になって間もなく,ヒンクレー大管長はユーザーが聖典と,ジョセフ・スミスの証,総大会の説教などを利用できるウェブサイトの創設を承認していました。2000年の終わりまでに,www.lds.orgにはデジタル版の聖典,30年分の教会機関誌,「家族—世界への宣言」や「生けるキリスト—使徒たちの証」が掲載されました。
ヒンクレー大管長は,インターネットに善の力の大きな可能性を見いだしていたのと同時に,そこにある悪についてもよく見ていました。ポルノグラフィーは深刻な懸念事項でした。「関わらないでください!疫病のように避けてください。同じように致命的だからです」と大管長は嘆願しました。大管長はまた,身体的および性的な虐待を非難し,加害者が法の裁きを受けるよう,教会指導者に協力を求めました。
預言者は,教会を離れていく多くの聖徒たちのことを依然として心配していました。大管長の指示の下に,宣教師たちはバプテスマに先立つ改心により重点を置くようになり,伝道部とステークの指導者たちは新しい調整評議会で会合を持ち,新会員たちに仕えるより良い方法について話し合いました。 ヒンクレー大管長は,聖餐会の出席が改善されないことを心配する一方で,世界中の聖徒たちによる定着の取り組みに励まされていました。
新しい千年紀の幕開けに,大管長は若い世代に希望を見いだしました。伝道に出る人や,主の宮で結婚する人がどんどん増えていました。大管長はまた,彼らが過去の世代よりも良い教育を受けていることにも注目しました。
教会の大管長として,ヒンクレー大管長は若い聖徒たちが必要な教育と職業訓練を受けられるように助ける方法を強く求めていました。その年の初め,教会教育管理会の会合の間に,大管長は2年制の教育機関であるリックスカレッジをブリガム・ヤング大学アイダホ校として4年制にするよう,御霊が自分に告げるのを感じました。その変更により,教会の大学に通う機会を得る末日聖徒の若者が増えることになります。
次の日,ヒンクレー大管長はその案を使徒たちに提示し,使徒たちは全会一致で承認しました。次に大管長はリックスカレッジの学長であるデビッド・A・ベドナーに相談し,新しい大学は入学する学生の数を増やすためにオンライン授業を利用して教えることに焦点を当てるべきであると判断しました。
預言者は時を置くことなく,すぐにこの変更を発表しました。「すばらしい教育機関になることでしょう」と大管長は宣言しました。
そのころ,ヒンクレー大管長はまた,発展途上国の若い女性や男性,特に帰還宣教師のことについてよく考えていました。貧困と,教育や仕事の見通しの暗さに直面し,落胆して教会から離れていく人たちが後を絶たなかったのです。大管長の勧めを受けて,管理ビショップリックは世界中の聖徒たちが職業専門学校や大学の費用の支払いを援助する,少額のローンを提供する新しいプログラムの準備に取り組み始めました。1800年代にヨーロッパの何千人もの聖徒たちがユタ州に集合するのを支援した教会のプログラムである永代移住基金に倣って,ヒンクレー大管長はこれを永代教育基金と呼ぶことにしました。
「わたしはこのプログラムは霊感によるものであり,とても多くの若い男女の人生を祝福するものであると感じている。彼らの視野は引き上げられ,大志がかき立てられることだろう」と大管長は書きました。
11月,ヒンクレー大管長は,教会の青少年に向けて特別なディボーショナルを放送しました。より良いイエス・キリストの弟子となるために,6つのB〔訳注—英語ではBeで始まる6つの実践事項〕を学んで実践するよう青少年を招きました。
その1か月少し後,1年の終わりを迎えて,大管長は自分の人生と神の慈しみを振り返りました。預言者の体は弱っていましたが,霊は平安と満足感に輝いていました。「わたしが感じているのは,天の御父とその愛する御子への心の底からの感謝だ。さあ,新しい年を楽しみにしよう」と,大管長は2000年12月31日の日記に記しています。
2か月後の2001年2月26日,ダリウス・グレーとマリー・テーラーは,ソルトレーク・シティーにある家族歴史図書館のホールの人混みの中で座っていました。部屋の正面では,使徒のヘンリー・B・アイリングが100人以上の記者や特別ゲストを前にして,フリードマン銀行のプロジェクトについて話していました。
11年の作業を経て,ダリウス,マリー,そしてユタ州立刑務所の550人以上のボランティアにより,記録に名前のあった48万4,083人のアフリカ系アメリカ人全員の情報の抽出が完了していました。 そのころ,教会はそのプロジェクトに技術的および金銭的な支援をするようになっており,その情報はCD-ROMや教会の家族歴史センターにおいて調査者が検索できるようになっていました。
「アフリカ系アメリカ人にとって,フリードマン銀行の記録は,現存する家系図関連の文書記録で最大のものです。近い将来,このデータベースを教会の系図ウェブサイトFamilySearch.orgで無料で提供できたらとも思っています」とアイリング長老は発表しました。
この発表までの数日,ダリウスは家族歴史部の指導者たちと会い,データベース公開の計画を練っていました。「ほんとうにやるんだな。実現するんだ」とダリウスは思いました。
プロジェクトの運命は,常に確かなものであったわけではありませんでした。初期のころは,神殿の業のために名前を抽出することがプロジェクトの動機となっていました。しかし1990年代中ごろ,教会は親族でない人の名前を神殿に提出することをやめるよう,積極的に人々に呼びかけるようになりました。この変化は亡くなった人の家族に敬意を払うために重要であり,必要なことでしたが,プロジェクトが行き詰まる原因にもなりました。その結果,ダリウスとマリーは,アフリカ系アメリカ人が自分の先祖を見つけるのに役立つ検索ツールを作ることに焦点を移しました。
受刑者たちは1999年10月に名前の抽出を終えました。その後,彼らは注意深く写しを検証し,3週間の刑務所封鎖があったにもかかわらず,2000年7月中旬に作業を完了しました。
このプロジェクトの調整を助けてきたある受刑者は,完了したときに感極まりました。自分がこの作業にこれほどまでに影響を受けるとは思ってもみませんでした。その受刑者は奴隷にされて家族から引き離された父親たちや母親たちの,胸が張り裂けるような記録を読みました。撃たれて亡くなった人たちについての記録もありました。彼が抽出した記録の一つには,農機具と交換された,名のない奴隷の赤ちゃんのことが記されていました。
多くの受刑者が同様に,人生が変わるような経験をしました。あるとき,コーディネーターが泣いているボランティアを見つけました。「この人たちがこんな風に扱われていたなんて信じられません」と,その受刑者は言いました。ボランティアの肩に手を置くと,コーディネーターはその男性に白人至上主義グループの刺青が入っていることに気づきました。
データが抽出され,ダリウスとマリーはその情報を広く利用してもらえるようにする方法を見つけなくてはなりませんでしたが,彼らにはそのためのリソースがありませんでした。人気のある系図ウェブサイトから数万ドルでデータを買い取るという申し出がありましたが,ダリウスとマリーは断りました。受刑者たちの作業から利益を得るのは間違っていると感じたのです。その代わりに,希望するすべての人が利用してもらえるようにするという条件で,教会に寄贈したのでした。
ワシントンD.C.とアメリカ合衆国のほかの11都市へ中継されたCD-ROMの公開イベントでは,ダリウスとマリーの両方がプロジェクトについて話をしました。ダリウスはこの記録には痛ましく不快なストーリーが数多く記されていることを認めました。「わたしたちは人種について話すのを恐れることがよくあると思いますが,人種は現実に存在します。わたしたちは,この歴史を共有しなければなりません。」
このプロジェクトの核となるのは家族であると,ダリウスは信じていました。「この記録は家族がどれほど大切なものであったかを教えてくれます」と彼は言いました。「奴隷という厳しい環境にあっても,人々は互いの状況を把握しようと必死でした。努力して,お互いに記録し合ったのです。」
マリーが同意しました。「わたしはフリードマン銀行の記録を発見したとき,アフリカ系アメリカ人が奴隷の鎖を断ち切って,家族のきずなを築くところを心に思い描きました」と彼女は言いました。彼女はこの記録が家族を引き合わせるものになることを望んでいました。
フェリシンド・コントレラスがチリのサンティアゴでビショップとして奉仕するよう召されたとき,妻のベロニカはワードの扶助協会会長を解任になりました。しかし彼女はすぐに新しい召しを受けました。ステークのセミナリーとインスティテュートの教師です。
長年にわたり,教会の宗教教育インスティテュートは一般にアメリカ合衆国の大学のキャンパス近くで開かれていました。しかし1970年代初頭,教会教育システム(CES)の指導者たちは,インスティテュートを世界中のステークで運営できるように,調整を加え始めました。この変化により,大学生だけでなく,教会のすべてのヤングアダルトがこのプログラムの恩恵を受けられるようになりました。地区CES教育長がクラスを監督し,ステークが教師を提供しました。
チリでは,教会が運営する十数校の小中学校と協力して,平日に宗教教育を行っていた時期がありました。しかし会員がいるすべての国で教会が学校を運営するのは費用がかかり,教会の方針では,聖徒たちが適切な一般の学校へ行くことができるようになり次第,教会の学校は閉校することになっていました。1981年,教会はチリにおける最後の学校を閉校し,聖徒たちに向けた宗教教育はセミナリーとインスティテュートのみに頼るようになりました。
調査では,インスティテュートの生徒たちは,インスティテュートに出席していない人たちよりも教会に活発であり続ける傾向がはるかに強いことが示されていました。しかしチリでは,活発なヤングアダルトの聖徒のうちで登録しているのは5人に1人だけでした。ベロニカがこの召しを受けた当時,インスティテュートに定期的に出席しているのは,ステークでほんの3,4人でした。
ベロニカは,若い人たちが成長して神に近づけるように助ける業において,インスティテュートが重要な役割を果たすと確信していました。彼女は教会で会うすべてのヤングアダルトに,そしてヤングアダルトの親に,インスティテュートのことを話すようにしました。また各ワードのビショップに会い,クラスに出席するように若い人たちを招くよう促しました。ビショップの多くは協力的で,ベロニカがインスティテュートの重要性に対する確信を分かち合ったときは特にそうでした。間もなく,50人以上の生徒がインスティテュートに出席するようになりました。
生徒の多くは職場や学校から直接来ていたため,クラスが始まる前に食事をする時間がないことがよくありました。空腹ではレッスンに集中できないのではないかと心配して,ベロニカは彼らが到着したときに何か食べる物があるようにしました。たいてい,ケーキやちょっとした軽食を用意しました。時にはバーベキューなどのしっかりした食事を用意することもありました。しかしどんな食べ物を用意しているか,生徒たちには決して言いませんでした。秘密にしておいて,それがクラスに来るための励みになればと思ったのです。
年度の初め,ベロニカはどんなことを学びたいか生徒たちに尋ねました。彼らの意見に基づいて,彼女は標準聖典,神殿と伝道の備え,そして永遠の結婚のクラスを教えました。
インスティテュートのテキストを出発点として,ベロニカはよく祈ってレッスンを準備し,生徒たちが日々の苦労に対処できるような方法を探しました。彼女が好んで行っていたのは,聖文を1節ごとに分けて,自分たちが学んでいる人や預言者の生涯や教えについて,生徒たちに深く考えてもらうことでした。また若い人たちに,質問することを奨励しました。
「皆さんがした質問や提起した問題の答えが分からなかったときは,調べてきて答えます。または一緒に答えを探しましょう」と,ベロニカは言うのでした。
インスティテュートのクラスが発展するとともに,生徒たちの結束が強まっていきました。生徒たちは,ベロニカとともに楽しく時間を過ごし,生徒同士も楽しく過ごしました。個人的な問題があるときには,助言を求めてベロニカのもとに生徒がやって来ることもありました。彼女はいつも,正しい人たちと一緒に問題を解決するよう,彼らに勧めました。
「ビショップか,お父さんかお母さんと話してください。家庭で問題があるのなら,それは家庭で解決しなくてはならないからです。そしてもし解決法がないときには,ビショップと話してください。それが最善の方法です。」
ベロニカは,生徒たちが様々な試練に直面していることをよく知っていました。そのころ,チリの経済は低迷しており,多くの若者がどうすれば学校に行き,結婚し,家族を養うための費用を賄うことができるだろうかと考えていました。ベロニカの部屋の壁には,「信仰込めて一歩ずつ」という言葉が掛けられていました。信仰を持って行動し,イエス・キリストの教えを日常生活に当てはめることで良い結果が生まれると,彼女は信じていたのです。
「わたしたちは常につまずきます。でもわたしたちには,助けてくださる主の御手がいつもあるのです」と彼女はよく生徒たちに言いました。
2001年5月,セブ・ソレスタはフィリピンのイロイロ市の家を出発しました。大学時代からの夢であった,アメリカ合衆国に住んで働くためです。セブにはすでにアメリカに移住しているフィリピン出身の友人や親族がいて,彼らは幸せで洋々たる人生を送っていました。「僕もきっとその夢がつかめるはずだ」とセブは思いました。
妻のマリダンは,セブが家を離れて地球の反対側に行ってしまうことを良く思っていませんでした。「その夢はあなただけの夢よ。わたしの夢ではないわ」と彼女は夫に言いました。彼らは3人の10代の息子を育てなければならず,医薬品事業を営まなければならず,教会の召しを果たさなければなりませんでした。夫がなぜ遠くに行きたいのか,彼女には理解できませんでした。
「賢明によく考えるべきだわ」と,マリダンは助言してきました。「夫婦として,わたしたちは一つ屋根の下で暮らす必要があるの。」
それでもセブの夢を妨げたくはないと思い,マリダンは最終的には移住に同意しました。二人とも,夫婦の一方がフィリピンに残り,もう一方が海外で働き,離れて暮らしているフィリピン人の夫婦をたくさん知っていました。自分たちが同様にできないことがあるでしょうか。
アメリカ合衆国で,セブは西海岸の町,カリフォルニア州ロングビーチにいるおじのところで暮らしました。近くの病院で夜勤の仕事を見つけました。夜勤は大変で,仕事はつらかったのですが,給料がよく,セブは喜んで働きました。
週末には地元のワードに出席し,その後,おじと一緒に親戚を訪ねました。セブは新しい友人を作るのも,親戚たちと親睦を深めるのも好きでした。しかし同時に,妻と子供たちを恋しく思い,孤独も感じていました。マリダンと毎日電話で話そうとしましたが,それにはお金がかかりました。フィリピンに遠距離通話をするには,1時間あたり10ドルかかるテレフォンカードを使わなくてはならないのです。
カリフォルニアで5か月働いた後,セブはフィリピンに戻ることを真剣に考え始めました。ビザはもうすぐ期限が切れ,合衆国で働き続けたいのならば更新しなくてはなりません。十分にお金が貯まったらマリダンと息子たちを呼んで,恐らく永住することになるだろうと考えていた時期もありました。しかしマリダンは合衆国で暮らすことに興味を持っておらず,セブは家族がいないのであればここにとどまりたいとは思いませんでした。
2001年9月11日の朝,過激派の暴力集団がアメリカ合衆国東部で3機の民間航空機をハイジャックし,ニューヨーク市とワシントンD.C.地域のビルに衝突させました。4機目の航空機は,乗客がハイジャック犯に抵抗した後,野外に墜落しました。この攻撃により3,000人近くが亡くなり,激しい怒りと恐れが広がりました。世界中の人々が嘆き悲しむ中,アメリカ合衆国とその同盟国は,この攻撃の背後にいる過激派グループに対する「テロとの戦い」を誓いました。
セブはこの悲劇を伝えるテレビニュースを見て,自分がいる場所が安全だとはもはや感じられなくなりました。妻と子供たちと一緒にいたいと思いました。息子たちは多感な時期です。年齢とともに,自分たちを導き,強めてくれる存在を必要としていました。セブは息子たちとその母親とともに家にいる必要がありました。
ハイジャックの数日後,セブはフィリピンに向かう飛行機に搭乗しました。予定していたよりも早い帰国でしたが,後悔はありません。ほんとうの幸福は,この世の成功にあるのではないことに気づいたのです。それは家庭にあるのでした。
9月11日の攻撃から1か月もたたないうちに,ヒンクレー大管長は総大会で,激化しつつある対立について聖徒たちに話しました。「わたしたちは,粗暴な者が恐ろしく卑劣な行いをする時代に生きています」と大管長は述べました。「わたしたちの力は全能の神を信じる信仰から来ています。天の下のどのような力も神の業をとどめることはできません。困難は訪れるかもしれません。世界は戦争と戦争のうわさに巻き込まれるかもしれません。しかし,この業は前進し続けます。」
そしてこう続けました。「わたしたちが前進するとき,すべての人に手を差し伸べ,人類社会を祝福できますように。すなわち,虐げられ,抑圧された人々を励まし,飢えた人々と貧しい人々に食べ物と衣服を与え,身近にいるこの教会の会員でない人々にも,愛と親切を示すことができますように。」
数か月後,ソルトレーク・シティーでは2002年冬季オリンピックが開催されました。ヒンクレー大管長が何年もの間楽しみにしていたイベントです。テロ攻撃から日があまりたっていないにもかかわらず,このオリンピックによってユタ州にはかつてないほど多くの訪問者が各国からあり,その中にはこの町の宗教的な受け継ぎや文化について質問したくてたまらない何千人ものジャーナリストたちもいました。ヒンクレー大管長は,宣教師がオリンピックの観光客に教えを説くことはしないと発表し,教会による地域支援を方向付けました。それでも,教会は聖徒たちについて学びたいという記者たちや訪問者たちのために対策を講じました。
2001年10月,教会指導者たちは教会の信条や実践している事柄についての基本的な質問に答える新しいウェブサイトを立ち上げました。また,オリンピックの間,教会は記者たちのために,ジョセフ・スミス記念館にメディアセンターを設置しました。教会とその教えに興味がある人はだれでも,「世の光」というショーを見ることができました。これは教会の歴史と回復された福音のメッセージについての,キリストを中心としたショーで,カンファレンスセンターで週に4日行われました。
9月11日の出来事の後であり,オリンピックでの大きな懸案事項は安全でした。各オリンピック会場には厳重な警備が敷かれましたが,それでも主催者はオリンピック開催都市の友好的なコミュニティー精神を保つよう懸命に努力しました。競技が滞りなく行われるように,教会はソルトレークオリンピック委員会に,集まった人々のための駐車場や,多岐にわたる奉仕などのリソースを提供しました。開会式では,タバナクル合唱団が世界中の30億人の聴衆に歌声を届けました。通訳者として奉仕した帰還宣教師たちを含め,多くの聖徒たちが時間をささげてボランティアで働きました。
オリンピックが終わり,預言者はこの経験を振り返って日記に書きました。「教会はこのオリンピックによって大いに祝福された。直接的な伝道は行わなかったが,世界中に友人と,称賛してくれる人たちを得た。これまでわたしたちのことをほとんど聞いたことがなかった人たちも,今は多少なりとも知ってくれている。」
大管長はこの町にやって来てオリンピックを楽しんだ多くの要人,国家元首,業界のリーダーたちのことを考えました。そしてブリガム・ヤングの預言を思い起こしました。ソルトレーク・シティーは「国中の都市を結ぶ主要都市」になり,国王たちや皇帝たちが訪れるだろうという預言です。
ヒンクレー大管長はこう記しました。「この2週間でわたしたちが見てきたことの中で,この預言は成就されてきた。 さあ,腰を落ち着けて業に戻ろう。」