第10章
一刻の猶予もない
1966年の春,アジズ・アチア博士は,管理人の後に続いてニューヨーク市のメトロポリタン美術館の資料倉庫に入りました。中を見回して1冊のファイルを見つけ,それを開くと,驚きました。
中には,古代エジプトのパピルスの断片が幾つか入っていました。パピルスはひどく損傷していましたが,アジズは二人の男性が描かれていることを容易に見て取ることができました。一人はライオンをかたどった長椅子に横たわり,もう一人はその横に立っています。長椅子の上の男性の腕と胴体の部分,そして立っている人物の頭の部分が欠けていました。この資料の保存を雑に試みた人物により,パピルスは1枚の紙にのりで貼り付けられ,欠けた部分は大雑把に描き足してありました。
アジズは末日聖徒イエス・キリスト教会の会員ではありませんでしたが,ユタ大学の歴史学と言語学の教授であったことから,聖徒たちの間で長く暮らしていました。そのため,今見ている図が『高価な真珠』のアブラハム書からのものであることに気づきました。
ほかにも9枚のパピルスの断片が,この図とともに保存されていました。アジズがそれらを調べていると,かつて預言者ジョセフ・スミスが所有していたパピルスであることを裏付ける証明書が見つかりました。証明書の日付は1856年で,ジョセフ・スミス3世とエマ・スミス,エマの2番目の夫ルイス・ビダモンの署名がありました。
これらの断片は,預言者ジョセフとほかの聖徒たちが1835年に4体のミイラを古物商から購入した際に入手したパピルスの巻き物の一部でした。7年後,ジョセフはこのパピルスの図を,アブラハム書と呼ばれる翻訳とともに出版しました。ジョセフの死後何年かたってから,エマはミイラとパピルスを売却し,新しい所有者がそれらを分けて,一部を近隣の美術館に売っていたのです。数十年の間,巻き物は火事で焼けてしまったと考えられていましたが,これらの断片は何らかの経緯で東に運ばれ,メトロポリタン美術館に収められていたのです。
「この資料はここにあるべきものではない」とアジズは言いました。これらの断片が教会にとってどれほど重要なものかを知っていたアジズは,それを聖徒たちのもとへ戻す手助けをしようと決心しました。
同じ年,14歳のイザベル・サンタナは新しい環境に圧倒されていました。彼女はメキシコシティーにある教会所有の学校,ベネメリト・デ・ラス・アメリカス(the Centro Escolar Benemérito de las Américas)に通うために,メキシコ北部の町シウダードオブレゴンの家を離れたばかりでした。首都メキシコシティーは700万人が暮らす巨大都市で,だれもが彼女の故郷の人々とは違った身なりや話し方をしているように思われました。
「お願いします」「ありがとう」「すみません」を,人々はとても改まった言い方で言います。北部の人々は,そのような話し方はしませんでした。
回復された福音はメキシコで1800年代に根付き始め,今や二つの強いステークがありました。過去20年間で,メキシコの末日聖徒の人数は約5,000人から3万6,000人以上へと増えていました。
会員数が増えるにつれ,教会の指導者たちは,メキシコの若い世代の聖徒たちが学校教育と職業訓練を確実に受けられるようにしたいと考えました。1957年,大管長会は委員会を任命し,メキシコにおける教育の実情を調査し,全国に教会の学校を設立することについて提案するよう指示しました。都市部にはメキシコの急増する人口に見合う数の学校がないことが分かったため,委員会は全国に少なくとも12の小学校と,メキシコシティーに中学校,短期大学,教員養成学校をそれぞれ1校ずつ開設することを提案しました。
当時,教会はニュージーランド,西サモア,アメリカ領サモア,トンガ,タヒチ,フィジーで学校を運営していました。その数年後,チリで二つの小学校を開校したころ,教会はすでにメキシコでの教育の取り組みも進めていました。イザベルがベネメリトに着いたとき,約3,800人の生徒がメキシコで教会が運営する25の小学校と二つの中学校に在籍していました。
ベネメリトは3学年から成る中学校で,1964年,メキシコシティーの北にある116ヘクタールの農場に開設されました。イザベルが初めてこの学校について知ったのは,オブレゴンで教会が運営する小学校に通っていたときのことです。家と家族から1,600キロ以上離れて暮らしたくはありませんでしたが,クラスに出席して新しいことを学びたいと強く思いました。
この学校の教師は全員がメキシコ出身の末日聖徒でした。生徒たちは必修のスペイン語,英語,数学,地理,世界史,メキシコ史,生物,化学,物理を履修します。また,美術,体育,テクノロジーのクラスにも登録することができました。学校とは別に運営されていたセミナリープログラムが,生徒たちに宗教教育を提供しました。
イザベルの父親は教会員ではありませんでしたが,ベネメリトに通いたいという彼女の望みを応援し,妹のヒルダとともに入学することを許してくれました。ヒルダは1歳年下でしたが,イザベルが一人で学校に行きたがらなかったため,二人は小学校以来,同じ学年だったのです。
イザベルとヒルダは母親に連れられてベネメリトへ行きました。到着したとき,学校はまだ一部が建設中で,地面は土で,わずかな校舎と,生徒たちが住む寮が15棟ありました。それでも,イザベルは学校の敷地の大きさに驚きました。
イザベルのグループは第2棟に入るように言われました。寮の管理人から温かい歓迎を受け,洗濯機や,持ち物を入れるクローゼットのある二段ベッドが二つずつある寝室を見せてもらいました。寮にはそれぞれ,寝室が4つと,食堂,台所,居間もありました。
イザベルは多くの時間を,ほかの生徒を観察して過ごし,慣れない文化に溶け込もうと努力しました。ベネメリトには約500人の生徒がいて,ほとんどがメキシコ南部の出身でした。彼らの人生経験はイザベルの経験とは異なり,食べるものもまた多様であることに気づきました。よりスパイシーな味付けと食材の選択に驚きました。
文化の違いはどうあれ,ベネメリトの生徒たちは皆,同じ規則に従うことを求められました。早起きして家事をし,授業に出席するという厳格な日課を守っていました。また,教会に行くことや祈ることなど,霊的な習慣をしっかりと身につけることも推奨されていました。家族の一部だけが教会員である家庭で育ったイザベルとヒルダは,ベネメリトに来るまでそのようなことを定期的に行ったことはありませんでした。
到着して数日で,イザベルは,何人かの生徒がホームシックになって去っていくのに気づきました。しかし,なじみのない人々や食事や習慣にもかかわらず,自分はとどまって成功することを決心していました。
「自分が94歳になろうとしているなんて,とても信じられない」と,デビッド・O・マッケイ大管長は1967年1月1日の日記に記しています。大管長はその日を静かに自宅で過ごし,様々な経験を振り返っていました。「幸せで興味深い人生だった」と思いました。「何と長い時間が過ぎたのだろう,しかしあっという間でもあった。」
預言者は新しい年を楽しみにしていたものの,懸念を抱いていました。「世の中には問題が山積みだ」とマッケイ大管長は書きました。新聞やテレビは毎日のように,戦争や人種問題,政情不安,自然災害などを報道していました。アメリカ合衆国とソビエト連邦の緊張は高いままでした。そしてアジアやアフリカ,中央アメリカや南アメリカの各地で多くの人々が激しい地域紛争に巻き込まれ,政府が転覆して地域社会が分断されかねない状態にありました。
マッケイ大管長は特に,すでに10年続いていた東南アジアの国ベトナムでの内戦について危惧していました。ベトナムに共産主義が根付くことを阻止しようと,アメリカ合衆国は最近,45万人の部隊を南ベトナムに派遣したばかりでした。ゲリラ戦が急速にエスカレートし,紛争のいずれの側でも兵士と市民に数えきれない犠牲が出ていました。
南ベトナムの首都サイゴンには教会の支部が幾つかあり,約300人の地元の聖徒たちが,アメリカ軍に従軍している4,000人の教会員の一部とともに集っていました。十二使徒定員会のゴードン・B・ヒンクレー長老と七十人第一評議会のマリオン・D・ハンクス長老はそのころ,戦争で荒廃したベトナムを訪問していました。聖徒たちとの地方部大会で,ヒンクレー長老は福音を宣べ伝えるためにこの地を奉献し,国に平和が戻るように祈りました。「どうか戦闘の騒音がやむ日が早まりますように」と,ヒンクレー長老は懇願しました。その晩,教会指導者たちは遠くで砲撃の音が響く中で証を述べました。
マッケイ大管長は1967年には混乱と争いが収まることを願っていましたが,それはかないませんでした。6月には,イスラエルと近隣諸国の間に戦争が勃発し,中東は不安定になりました。翌月には,ナイジェリアで続いていた政情不安が内戦に発展しました。一方,アメリカ合衆国では,ベトナム戦争による死傷者数の増加と戦争の不人気により,時として暴力を伴う反戦運動が頻発するようになりました。さらに,全国的に人種間の緊張が限界に達し,多くの主要都市が暴動に揺れました。
預言者はこの騒乱が青少年に与える影響を心配していました。一部の若者は世界情勢に落胆し,親たちや祖父母たちの価値観や文化に疑問を抱くようになっていました。多くの青少年が有害な薬物に手を出し,不特定多数の相手と性的な関係を持ち,粗野な言葉遣いをしていました。
マッケイ大管長は教会の青少年を愛していたので,彼らにこのような傾向の犠牲になってほしくありませんでした。大管長は末日聖徒の青少年に対して,セミナリーやインスティテュートといった,平日に行われる何らかの宗教教育の場への出席を奨励しました。そこでは,価値観と標準を共有する人々に囲まれながら,キリストのような性質を養うことができるからです。当時,教会はまた,若い男性と若い女性が清い生活,デート,ダンス,服装,礼儀に関する教会の標準を知り,理解し,それに従うことができるように,『若人の強さのために』というパンフレットを制作したばかりでした。しかし,マッケイ大管長は,親たちと教会指導者にも,道徳的な生活が幸福をもたらすことを青少年に教え,実際に示す義務があると信じていました。
1967年10月の総大会では,マッケイ大管長は体調不良のため自分で説教を行うことができませんでした。そこで息子のロバートに,自分に代わって原稿を聖徒たちに向けて読むよう頼みました。
マッケイ大管長は大会の最初の部会で宣言しました。「わたしはこの教会の将来……について考えるときに,『一つになる』こと,そして会員間に亀裂を生じさせかねないことを避ける以上に重要なメッセージはないと強く感じます。」
それまでの数年間,教会はコーリレーションの取り組みを通じてプログラムを相互に関連させ,神権と家庭と家族の役割を強調することで聖徒たちを一致させようと努めてきました。この年のこの時期までに,教会のコーリレーションは国際機関誌の内容を標準化し,統一された教科課程を導入していました。また,世界中での成長を受けて,マッケイ大管長は,ステーク会長会の訓練を支援する69人の「十二使徒会地区代表」を召し,教会の運営が世界各地で効率的かつ一貫した形で行われるように支援していました。
聖徒たちが社会不安と価値観の変容に直面する中で,マッケイ大管長とほかの教会指導者たちは,相互に関連付けられたプログラムが世界中の人々のために統一されたメッセージと安定した土台を提供するように望んでいました。
「これがわたしたちの前にあるチャレンジです」とマッケイ大管長は聖徒たちに言いました。「主か明らかにされた教会組織の枠組みの中で全員が力を合わせて働くという目的の一致が,わたしたちの目標です。」
同じ年,ファン・グンオクは韓国のソウルにあるソンジュク孤児院で約80人の少女たちの世話をしていました。1964年にこの女子孤児院の施設長として雇われた際,彼女はプロテスタントの後援者たちに,自分が末日聖徒であることを告げませんでした。韓国では,教会はあまりよく理解されていなかったのです。事実,グンオクが1962年にバプテスマを受けたとき,彼女が教鞭を執っていたキリスト教の学校は彼女を解雇しました。
そのころ,韓国の聖徒たちの数は3,300人ほどになっていました。韓国人で最初の末日聖徒となったキム・ホジクは,アメリカ合衆国に留学中の1951年に教会に加わりました。1959年に亡くなる前に,ホジクは韓国に戻り,大学の教授や管理者を務め,教え子の一部に回復された福音を伝えました。これらの学生たちは,アメリカ軍人とともに,韓国での教会の成長を助けました。モルモン書の韓国語訳は1967年に出版されました。
後援者たちに教会員であることを伏せてはいたものの,グンオクは末日聖徒であることを恥じてはいませんでした。支部の扶助協会会長として奉仕し,子供日曜学校のクラスを教えました。また,孤児院で手伝いたいという教会員の訪問を歓迎しました。ある日,スタンレー・ブロンソンという名前のアメリカ軍人からグンオクに電話がありました。スタンレーはソウルに駐在している末日聖徒で,孤児院を訪問して子供たちを元気づけるために歌を歌いたいと申し出ました。
数日後,スタン(スタンレーの呼び名)がやって来ました。彼は身長が2メートル近くあり,周囲の人々から頭一つ抜けていました。少女たちは彼の歌を聞くのを楽しみにしていました。スタンは徴兵される前にフォークソングのアルバムを録音したことがあり,韓国にいる間にもう1枚アルバムを録音したいと考えていました。
皆が集まると,グンオクがスタンに言いました。「ギターを弾いていただく前に,子供たちがあなたのために準備したものがあるんです。」
グンオクはよく来客のために少女たちに歌わせていて,彼女たちはよく練習ができていました。少女たちがスタンのために何曲か歌うと,スタンはとても驚きました。その歌声は完璧なハーモニーを奏でていたのです。
スタンは少女たちと一緒に歌うために,定期的に施設を訪れるようになりました。間もなく,彼は一緒にアルバムの録音をして,売り上げを施設のために使おうと提案しました。
グンオクはすばらしい考えだと思いました。若いころ,グンオクは世界をより良くするために自分をささげようと誓っていました。北朝鮮からの戦争難民だった彼女は,若くして父親を亡くしていたので,家族と地域社会の強力なサポートなしに少女たちが韓国で成功するのがどれほど大変かを知っていました。韓国では多くの人が孤児になった少女たちを見下し,価値のない存在だと見なしていたからです。教育を受けるために,グンオクは貧困と闘い,片親と家を失った環境で必死に努力してきました。スタンと共演することで,自分が世話をしている少女たちが自分の価値に気づき,ほかの韓国人たちにもそれに気づいてもらえたらと思いました。
スタンはレコーディング・スタジオを見つけ,次の数か月間,グンオクはスタンと一緒に少女たちのリハーサルと録音を助けました。軍から30日の休暇をとったスタンは,合衆国に帰り,録音したものをレコードにしました。それから韓国に戻り,韓国で収録されるアメリカの人気テレビ番組の特別編に少女たちと一緒に出演する手はずを整えました。
アルバム『ダディ・ビッグ・ブーツ:スタン・ブロンソンとソンジュクウォンガールズ』(Daddy Big Boots: Stan Bronson and the Song Jook Won Girls)は,1968年初めにソウルにやって来ました。グンオクは韓国でアルバムを大々的に発売したいと思い,韓国の大統領,アメリカ合衆国大使,在韓国連軍司令官を,地元の女子高校で開かれた発売記念パーティーに招きました。出席できたのは大使だけでしたが,ほかの要人たちも代理を送り,発売は成功しました。
間もなく,ソンジュク孤児院の歌手たちは引っぱりだこになりました。
一方,アメリカ合衆国では,ブリガム・ヤング大学の哲学教授トルーマン・マドセンが,同僚で歴史学部の教授リチャード・ブッシュマンからメモを受け取りました。リチャードは,読んだばかりの学術論文について懸念を抱いていました。著者のウェスリー・ウォルターズはアメリカ合衆国中西部の長老派の牧師で,ジョセフ・スミスの最初の示現が真実ではないことを証明したと主張していたのです。
長年,批判する人々は教会の神聖な歴史に度々疑いを投げかけようと試みてきましたが,その多くは根拠のない同一の主張に基づいて論じられたものでした。しかし,この論文は違いました。「よく書かれていて,よく調査もしてあります」と,リチャードはトルーマンに知らせてきました。実際,別の同僚は,この文書が聖徒たちの信仰にとって深刻な脅威となると信じていました。
リチャードはトルーマンに,この論文の写しを送りました。ウェスリー・ウォルターズは,1820年の春にジョセフ・スミスが御父と御子にまみえたことを直接反証することはできないと認めたうえで,最初の示現をめぐる歴史的状況に関する預言者の主張を調査したのです。
長い間,この示現について預言者ジョセフが残した記録として末日聖徒に知られているものは二つだけでした。最もよく知られている記録は,1838年に始まるもので,高価な真珠で読むことができました。もう一つの記録は,教会の新聞である『タイムズ・アンド・シーズンズ』(Times and Seasons)に1840年代初頭に掲載されたものです。しかしそのころ,ブリガムヤング大学の大学院生で教会記録保管課の職員のある人物が,教会が保管するジョセフ・スミスの文書集から,より早い時期に記された最初の示現についての二つの記録を発見していました。
ウェスリーは何らかの歴史的な矛盾を暴こうと,4つの記録を注意深く調べました。そして,地元の宗教復興運動に促されて祈りによって主を求めたという預言者の主張について調べたとき,ウェスリーは最初の示現から約5年後まで,スミス家の住居近くで何らかの復興運動があったという証拠を一切見つけることができなかったのです。ウェスリーにとっては,これはジョセフ・スミスが話をでっち上げたことを意味しました。
トルーマンは,ウェスリーの発見は誤りであると確信していました。しかし,最初の示現や黎明期の教会については歴史的研究がほとんどなされておらず,それを証明する方法がありませんでした。かつて伝道部会長を務めたトルーマンは,多くの人が,御父と御子を見たという預言者の力強い証のゆえに回復された福音を受け入れてきたことを知っていました。最初の示現に対する攻撃は,回復の土台そのものに対する攻撃であるように思われました。
論文を読んだ後,トルーマンはソルトレーク・シティーで歴史家から成る小さなグループを立ち上げました。全員が尊敬を集めている学者であり,熱心な教会員でした。ウェスリーの論文について議論するうちに,彼らは自分たちの学者としての訓練を教会のために活用できることに気づきました。彼らをはじめとする信者たちは,教会の歴史をそのルーツから新たに研究する必要があったのです。そうしなければ,最初の示現に関するウェスリー・ウォルターズの主張が覆ることはないでしょう。
トルーマンをリーダーに,グループは委員会を組織し,末日聖徒の学者たちに教会の初期の歴史を研究するよう奨励しました。ウェスリーの論文に対応するため,委員会は5人の歴史学者をアメリカ合衆国東部に派遣し,宗教復興運動と最初の示現について調査させることを提案しました。しかし残念なことに,彼らには資金がありませんでした。
委員会は当初,研究費を民間からの寄付で賄おうとしました。しかし,これは部分的にしか成功しなかったため,トルーマンは大管長会に助けを求めました。マッケイ大管長と顧問たちはそれまで,教会歴史の研究と保存のためのほかの取り組みを支援していました。例えば,この10年の間に大管長会は1839年から1846年まで教会の本部があったイリノイ州ノーブーの歴史的資産の購入と保存のために資金を提供しました。
大管長会はまた,ジョセフ・スミスの所有していたパピルスの断片にも関心を寄せていました。アジズ・アチアやメトロポリタン美術館と緊密に連携しながら,N・エルドン・タナー管長はパピルスが教会に寄贈の形で戻るよう計らいました。合衆国中の新聞がパピルスの獲得を伝え,教会は記者会見を開き,パピルスの断片の画像を『インプルーブメント・エラ』(Improvement Era)で公開しました。大管長会の要請により,パピルスの断片はさらなる研究のためにブリガム・ヤング大学教授のヒュー・ニブレーに貸し出されました。古代世界の研究における教会随一の学者だったヒューは,モルモン書の信憑性を裏付ける強力な歴史的証拠を発見しており,アブラハム書についても同じことができると確信していました。
1968年の春,トルーマンは大管長会に手紙を書き,研究旅行の資金7,000ドルの援助を求めました。「最初の示現は,歴史学的に激しい攻撃を受けています」とトルーマンは伝えました。「一刻の猶予もありません。」
当初,大管長会はプロジェクトに資金を提供しないことを決定しました。そのころ,教会は世界中で次々に教会堂を建設したために負債を抱えていました。以来,教会指導者たちは支出に対してより慎重になっていたのです。
しかし,トルーマンは諦めませんでした。彼は当時,教会歴史に関する会議でウェスリー・ウォルターズと顔を合わせ,ジョセフ・スミスの信用を失墜させようというこの牧師の決意を感じていました。
「資料を先に手に入れるために,彼はどんなことでもするでしょう」と,トルーマンは大管長会に言いました。「行動を先送りするべきではありません。」今度は,5,000ドルの支援を求めました。
マッケイ大管長と顧問たちは要請を再検討して,研究者たちに資金を提供することに同意しました。
その年の9月のある暖かい午後,14歳のマエタ・ホリデーは,カリフォルニア州ロサンゼルスの郊外にあるフラートンへ向かうバスに一人で座っていました。彼女は窓越しに,高速道路の両側に広がるオレンジの木々をじっと眺めていました。ユタとアリゾナの州境の,樹木もまばらな砂漠にある自分の故郷とはまったく違う眺めでした。
マエタはディネ,すなわちナバホ・ネイションの住民でした。マエタは古くから先祖の地の境界となってきた4つの神聖な山に囲まれたアメリカ先住民居留地で育ちました。19世紀,アメリカ合衆国政府は,末日聖徒を含む白人入植者のために場所を作るために,ナバホ族のようなアメリカ先住民のグループから接収した土地にナバホ族のようなアメリカ先住民居留地を造ったのです。しばしば劣悪な環境の居留地で生活することを強いられて,多くの家族が苦労していました。
マエタが暮らしていたナバホ居留地は広大で,人々は互いに遠く離れて住んでいたため,子供たちを学校に送り迎えするのが大変でした。一方で政府が出資する寄宿学校は,しばしば生徒数が多すぎて,資金も不足していました。このような状況の下で,アメリカ先住民の多くの親たちが,子供を居留地外の学校に送り出すことで,彼らの生活をより良いものにしようとしました。
マエタは教会のインディアン学生配置プログラムの一環として,カリフォルニア州にやって来たところで,一度も会ったことのない白人の家族とこれから一緒に生活するのです。マエタの姉もこのプログラムに参加していたことから,マエタもそうしたいと思いました。はやる気持ちで登録したものの,新しい里親家族のことが心配でした。
配置プログラムは1954年,スペンサー・W・キンボール長老の指導の下で創設されました。当時の多くの末日聖徒と同様に,キンボール長老はアメリカ先住民をモルモン書の民の直系の子孫と見なしていました。教会員には,レーマン人の兄弟姉妹が教育の機会を得て,聖約の民としての神聖な行く末を実現するのを助ける義務があると,キンボール長老は信じていました。
配置プログラムでは,アメリカ先住民の子供たちは居留地の家を離れて,学校に通う間,末日聖徒の家族とともに暮らします。プログラムの目的は,生徒たちがより良い学校に通い,福音を中心とした家庭での生活を経験できるよう支援することでした。1968年までに,63以上の部族出身の約3,000人の生徒が,カナダと合衆国の7つの州の家庭に配置されました。配置の対象となる生徒はすべて末日聖徒でしたが,中にはプログラムでやって来る前はほとんど教会に参加したことがない子供たちもいました。
南カリフォルニアでプログラムを指揮していたグレン・バン・ワーゲネンはマエタのことを,彼女がある家族とユタ州カナブに住んでいたときに耳にしていました。マエタはその家族との生活をとても気に入っており,一家の娘とも仲良くしていました。マエタが9年生に進級したとき,グレンがカリフォルニア州での配置プログラムに参加するよう招くと,マエタはすんなりとその誘いを受け入れました。
マエタはカルビン・ホリデーとエブリン・クランクの間に生まれた6人姉妹の末っ子でした。両親は結婚して間もなく教会に加わりましたが,後に教会への関心を失ってしまいました。マエタは8歳でバプテスマを受けましたが,定期的に教会に出席することはなく,バプテスマの持つ意味も理解していませんでした。マエタにより良い教育を受けさせようと,両親は彼女が学齢に達するとすぐにアリゾナ州にあるアメリカ先住民の寄宿学校に入れたため,彼女は何度も引っ越しを経験することになりました。
マエタは居留地で,両親が愛し合い,子供たちが幸せに暮らしている家族を知っていました。しかし彼女の家族はそうではありませんでした。両親の離婚後,母親は2度再婚しました。その2度の結婚でマエタの母親はさらに6人の子供を産みました。母親が長く家を空けたため,マエタは幼いきょうだいたちの面倒を見なければなりませんでした。一度ならず,マエタときょうだいたちは食べ物も水もほとんどない状態で放置されました。マエタはきょうだいたちを食べさせようと必死で努力し,時には腐った羊肉と数個の缶詰でしのぐこともありました。
あるとき,マエタが外で火を使って揚げパンを作っていると,母親が彼女に目をやって言いました,「おまえに期待できそうなのは赤ん坊を産むことだけだね。」マエタはとても傷つきました。その瞬間,心の中で,「必ず成功してみせる」と誓ったのでした。
南カリフォルニアのバス停に着き,マエタは母親から離れることができてほっとしました。しかし,中年の夫婦がドアから入って来るのを見て緊張しました。「あの人たちが新しい両親になるんだわ」と思いました。
養父のスペンサー・ブラックは,もの静かで控えめな人でした。マエタは過去に男性から虐待を受けて傷ついた経験があったため,幾分慎重に彼にあいさつしました。しかし養母のベンナは,人を和ませるような心の持ち主でした。
二人はマエタを家に連れ帰り,自分たちの子供である15歳のルーシーと13歳のラリーに引き合わせました。ブラック家族にはそのほかに,すでに家を出ている3人の年上の子供がいました。マエタは大きな暖炉と花でいっぱいの庭のある新しい家になじんでいきました。これまでずっときょうだいと部屋を共有してきた彼女にとって,自分だけの寝室を持てるのは特にうれしいことでした。
しかし,マエタはまだ完全に快適であったわけではありませんでした。町はあまりに大きく,スモッグに覆われていました。里親は親切でしたが,マエタは実の母親が時々そうであったように,彼らも見せかけの親切さで自分を利用して家事をさせようとしているのではないだろうかと考えました。
カリフォルニアに来たことを後悔はしていませんでしたが,その夜,ベッドに横になり,高速道路から聞こえる車の騒音に悩まされていると,居留地の静けさが恋しくなりました。