第11章
ほかの国の
1968年の10月初旬,イザベル・サンタナはベネメリト・デ・ラス・アメリカス(the Centro Escolar Benemérito de las Américas)での2年目を過ごしていました。これは教会の学校で,1,200人の生徒を抱えるまでになっていましたが,それはイザベルがここにやって来たときの2倍以上の人数でした。そのため,キャンパスが拡張されており,講堂と体育館,小さな食料品店,店舗用の建物が2棟,受付センター,そして追加で35の居住用コテージが新築されました。その年の初めにN・エルドン・タナー管長が新たな建物を奉献するためにメキシコシティーを訪れたときには,タバナクル合唱団も来て奉献式で歌いました。
イザベルと妹のヒルダは学校生活にすぐになじみました。イザベルは生まれつき内気でしたが,その性格が学業の妨げにならないように努力しました。親しい友人を作り,直面する文化の違いを乗り越える方法を身につけ,知らない人に話しかけるよう最善を尽くしたのです。
また,勤勉な生徒としての自分を確立していました。学校では,普段から教師たちや管理者たちの助言を求めるようにしていました。相談相手の一人,エフライン・ビラロボスは,若いころにメキシコで教会の学校に通っていたことがあり,その後ブリガム・ヤング大学で農学を学びました。すぐれたユーモアのセンスの持ち主で,イザベルをはじめ,ベネメリトの生徒たちからとても話しやすい人だと思われていました。故郷を遠く離れた彼らにとって,エフラインは良き師であり,導き手であり,そして父親のような存在でした。
イザベルに影響を与えたもう一人の教師はレオノール・エステル・ガルメンディアで,学校で物理と数学を教えていました。イザベルの学校での最初の年に,レオノールは生徒たちに,数学が好きな人は手を挙げるように言いました。たくさんの人が手を挙げました。次に数学が好きでない人を尋ねたとき,イザベルが手を挙げました。
「どうして好きではないのかしら。」とレオノールが尋ねると,
「理解できないからです」とイザベルは答えました。
「ここではきっと理解できますよ。」
レオノールの授業は楽ではありませんでした。でも時々,彼女はクラス全体に課題を出し,それから生徒を一人ずつ自分の机に呼んで,一緒に数学の問題を解くことがありました。間もなく,イザベルはなんの道具も使わずに問題が解けるようになりました。イザベルはそのような能力が身につくとは思ってもいませんでした。
多くのクラスメートと同様に,イザベルは学業と仕事のバランスをうまく取るようにしていました。教会は学費を低く抑えるために,教育費の大半を負担していました。残りの金額を支払うために,一部の生徒たちは校舎の清掃をしたり,学校の敷地内の酪農場で働いたりしました。イザベルは学校の電話交換手の仕事を見つけました。何時間も狭い交換手の部屋に座り,キャンパス内の電話をピンと番号の並んだ交換台を使ってつなぎました。仕事は簡単だったので,時間を過ごすためにしばしば本を持ち込みました。
当時,世界中で大学生たちが自国の政府に対して抗議活動を行っていました。メキシコシティーでも,多くの学生が不正のない経済と政治を求めるデモ行進を行いました。彼らはまた,メキシコの指導者に対するアメリカ合衆国の介入に憤慨していました。学生たちの目には,合衆国とソ連の間の冷戦のせいで強国が弱い隣国を支配する構図が出来上がっているように見えたのです。
さらに状況を複雑にしたのは,メキシコシティーが夏季オリンピックを開催しようとしていたことでした。ラテンアメリカの国でオリンピックが開催されるのはこれが初めてでした。オリンピックの10日前の1968年10月2日,メキシコ軍がメキシコシティーのトラテロルコ広場でデモ隊に発砲し,50人近い死者が出て,緊張は最高点に達しました。その後数週間,当局は学生運動のリーダーたちを逮捕し,一方で政府とメディアはともに努めてトラテロルコの虐殺を大きく採り上げないようにしました。
ベネメリトは流血の現場に近く,イザベルは殺害について知ると深く悲しみました。しかし生徒と教師の大半は政治的な抗議活動にかかわっていなかったため,学校にいれば安全だと思っていました。
ところがある日の午後,スクールバスを盗むという脅しの電話が学校にかかってきたのです。イザベルは恐怖を感じましたが,取り乱すことなく,「どちら様ですか」と尋ねました。
すると,相手は電話を切ったのです。
どうすればよいか分からず,彼女はピンを交換台に差し込み,校長のケニヨン・ワグナーに電話しました。
校長は,「イザベル,この件はわたしたちが対処します」と言いました。
結局電話はただの脅しで何も起こらず,イザベルはほっとしました。ベネメリトはイザベルにとってオアシスになっており,福音を学び,教育を受けられる平和な場所でした。
そこにいるかぎり自分は守られていると,イザベルは感じていました。
1968年11月10日の朝,ヘンリー・ブルクハルトは約230名の聖徒たちとともに,ドイツ民主共和国の東部国境の都市ゲルリッツで,地方部大会に来ていました。彼らが集まった3階建ての建物は今にも崩れそうな状態で,外壁は劣化し,窓の周りはレンガがむき出しになっていました。
突然,集会所に割れんばかりのどよめきが起こりました。使徒のトーマス・S・モンソンが会場に入って来て,聖徒たちを驚かせたのです。ベルリンの壁ができてからの7年間,彼らが中央幹部に会う機会はほとんどありませんでした。
モンソン長老はそのころ,ドイツ語圏の伝道部を監督する割り当てを受け,ヘンリーは東ドイツの教会の指導者として,モンソン長老と働くことを強く望んでいました。41歳のモンソン長老は,彼より少し年上なだけでした。しかしモンソン長老は使徒であり,ヘンリーからすれば雲の上の存在でした。どんな人物なのだろうか。うまくやっていけるだろうか。
これらの疑問は,モンソン長老が集会所に足を踏み入れた瞬間に消え去りました。モンソン長老は地に足の着いた,熱心な人でした。ドイツ語は話せず,ヘンリーも英語を話せませんでしたが,二人は友人になりました。
大会は10時に開会しました。集まった聖徒たちは皆,ほほえんでいて,モンソン長老がその場にいることを喜んでいるのがはっきりと分かりました。教会員の中には間違いなく密告者が数人いて,仲間の聖徒たちの言動を政府に報告していました。ヘンリーは彼らの大半を把握していると思っていましたが,密告を制止しようとはしませんでした。あまり教会に賛同していない人からよりも,教会について真実を語る末日聖徒の情報提供者から政府が報告を受ける方がはるかによいと考えたのです。
それでもヘンリーは自分や多くの東ドイツ人に課せられた多くの制限には腹を立てていました。そのような状況下で教会を導くために,ヘンリーは引き続き週に6日は家族と離れて過ごさざるを得ませんでした。ヘンリーと妻インゲには2番目の子供,トビアスという男の子が生まれていました。政府の職員とやり取りをしなければならないことが頻繁にありましたが,そのようなとき,彼らはヘンリーに共産主義の利点を分からせようとしました。ヘンリーにはそれが理解できませんでした。国の現状や,聖徒にほかの聖徒についての密告を促すような体制について考えると,「どうしてこのようなことができるのか」と考えてしまうのです。
モンソン長老もまた,東ドイツの状況に明らかに衝撃を受けていました。大会で聖徒たちを前に話をしようと立ち上がったとき,モンソン長老の目には涙があふれていました。語ろうとしても声が出ず,感情で息が詰まっているようでした。そしてついに,次のように言いました。「皆さんが神の戒めに忠実であり続けるなら,ほかの国の教会員が受けているすべての祝福が,皆さんのものになるでしょう。」
ヘンリーや集まったほかの聖徒たちに対して,モンソン長老は彼らが教会員として切望していたすべてのことを約束してくれました。しかし,この言葉が現実となるには,東ドイツで多くのことが変わらなければなりません。教会の指導者が東ドイツでステークを設立しようと提案したときには,ヘンリーは政府から望ましくない関心を向けられるのではないかと心配して,その提案を拒否していました。また,東ドイツが国境の監視を厳重にして以来,神殿の祝福も手の届かないものになっていました。聖徒たちがスイス神殿に行く許可を得ようとしても,政府は毎回その申請を却下していました。
それでも,部屋はすばらしい御霊で満たされました。モンソン長老は聖徒たちを祝福し,彼らは熱のこもった賛美歌で大会を締めくくりました。
このころ,西アフリカの国ガーナでは,ジョセフ・ウィリアム・ビリー・ジョンソンが,イエス・キリストのまことの福音を見いだしたと確信していました。その4年前,友人のフランク・メンサーから,モルモン書と末日聖徒のそのほかの書籍やパンフレットを受け取っていたのです。隣国のナイジェリアと同様,ガーナには教会員が集まる場はありませんでした。フランクはそれを変えたいと思っており,
「あなたこそわたしがともに働くべき人だと感じています」とフビリーに言いました。
それ以来,二人はガーナの首都アクラとその周辺で,非公式に4つの末日聖徒のグループを組織しました。教会本部と連絡を取り,教会が西アフリカに宣教師を派遣することに後ろ向きであることを知りました。しかし,ラマー・ウィリアムズとほかの人々から,福音を研究し,志を同じくする信者と集まるように励まされました。ブリガム・ヤング大学の教授,バージニア・カトラーがガーナ大学で家政学のプログラムを開始するためにアクラに来ていることを知ると,二人は彼女とともに毎週の日曜学校を始めました。
ビリーは福音を分かち合いたくてたまりませんでした。貿易業界で働いていましたが,仕事を辞めてより多くの時間を伝道活動にささげたいと思っていました。しかし,ビリーの妻は同じ信仰を持っていなかったため,「この教会は新しすぎるわ。仕事は辞めないで」と言いました。
それでもビリーは,もっとこの教えを伝えたい強く望んでおり,「わたしの中で何かが燃えていて,とても隠すことはできないんだ」と妻に告げました。
宗教はビリーにとって昔からずっと大切なものでした。母親のマチルダは敬虔なメソジストで,神を信じる信仰を持ち,神の言葉を愛するようにビリーを育てました。学校では,ビリーはほかの生徒たちが遊んでいる間に,しばしば一人になれる場所を見つけて賛美歌を歌い,祈っていました。教師の一人がそれに気づき,あなたはいつか祭司になるだろうと言いました。
成長するにつれ,驚くべき夢や示現を見ることによってビリーの信仰は確かなものになっていきました。フランク・メンサーから回復された福音を紹介されて間もなく,ビリーは祈っていると,天が開いて大勢の天使が現れました。天使たちは,ラッパを吹き,神に賛美の歌を歌っていました。「ジョンソン,ジョンソン,ジョンソン」と,ビリーを呼ぶ声がしました。「もしわたしの命じる業を行うならば,あなたとあなたの国は祝福されるでしょう。」
しかし,ビリーとフランクの言うことや彼らの信仰を,だれもが受け入れたわけではありません。彼らは間違った教会に従っているのだと言う人々もいました。また,彼らはイエス・キリストを信じているのではないと非難する人々もいました。そのような人々の言葉にビリーは傷つきました。自分は惑わされているのだろうかと思い悩み,断食を始めました。3日後,自宅で壁に教会の大管長たちの肖像を飾っている部屋に入ると,ひざまずいて神に助けを求めました。
「この預言者たちに会いたいです。彼らから指導を受けたいです」と祈りました。
その夜,眠っていると,ビリーの夢にジョセフ・スミスが現れて言いました。「すぐに宣教師たちがやって来ます。マッケイ大管長はあなたのことを考えていますよ。」
また別の男性が近づいて来て,自分はブリガム・ヤングだと名乗りました。「ジョンソン,わたしたちはあなたとともにいます」とヤング大管長は言いました。「気を落とさないでください。」夜が明けるまでに,ビリーはジョージ・アルバート・スミスに至るまで末日のすべての預言者に会いました。
福音を分かち合うことにもっと多くの時間をささげたいという望みから,やがてビリーは仕事を辞めて,アクラの南西にある都市ケープコーストへ引っ越しました。そこで農業を営み,新たに信者のグループを組織しようと考えていたのです。ビリーの妻はその計画に反対だったため,一緒に引っ越さずにビリーと離婚し,彼のもとに4人の幼い子供が残されました。
ビリーは打ちのめされましたが,母マチルダの支えがありました。マチルダもまた,ビリーが仕事を辞めて家族とケープコーストへ移ることと,すでにほかの多くの教会が存在する都市でビリーが成功できるのだろうかと疑念を抱いていました。しかし,ビリーはマチルダにとって唯一の存命の子供であり,彼女はビリーに頼って暮らしていたため,一緒に行きました。
マチルダは息子と同じ教えを信じるようになりました。ビリーが初めて新しい信仰について話したとき,マチルダはまじめに受け取りませんでしたが,この信仰によって息子と彼の教えた人々が変わっていく様子を見て,息子は何か特別なものを見いだしたのだと悟りました。マチルダは,教会がガーナにできれば,自分もほかの多くの人も祝福を受けるだろうと思っていましたし,そう考えると勇気が湧いてきました。
家族がケープコーストに落ち着くと,マチルダはビリーが新たな信徒のグループを組織する間,ビリーの子供たちの世話をしました。また,息子の精神的な支えとなって息子を励まし,グループを強めるために可能なときは手を貸しました。
「状況がどうあろうと,未来がどうあろうと,わたしは教会のために正直に戦う備えができています」と,マチルダはきっぱりと言いました。
スタン・ブロンソンとアルバムを発売した後で,ソンジュク児童養護施設の歌手たちは定期的に軍事基地で歌ったり,アメリカと韓国のテレビ番組に出演したりするようになりました。韓国の大統領と合衆国の大使を含め,皆がこの幼い少女たちの合唱団のファンになったようでした。
ファン・グンオクはスタンとこの歌手たちと楽しく働きました。また,この合唱団は,少女たちに良い効果をもたらしました。一つには,合唱に参加するために宿題を時間どおりに終わらせなければなりませんでした。しかしそれ以上に,グンオクは少女たちが歌うことで自尊心を持つようになったのを見て嬉しくなりました。合唱団の名声が高まる中,彼女とスタンは少女たちを励まし続け,練習や公演,レコーディングの度に優しく導きました。
彼らは現在と将来にわたってこの養護施設の少女たちを助けたいと思っていました。前年の休暇中に,クリスマスに少女一人一人に新しいコートか人形を買ってあげたらどうかと,スタンは故郷の人々に相談していました。それから韓国語を話す友人に,サンタクロースの格好をしてプレゼントを届けてくれるよう頼みました。その後,スタンとグンオクはアメリカ合衆国の人々に,少女たちのために毎月経済的援助をしてくれるように頼むことを考えました。
スタンは軍を除隊すると,ユタ州で非営利組織を立ち上げました。また,ファイヤサイドで話し,コンサートを行い,アルバムを売って,少女たちのことと,彼女たちが経済的援助を必要としていることを多くの人に知ってもらおうとしました。しかし,この組織が韓国で活動を始めるには,まず政府の許可を得る必要がありました。当時,韓国政府は国内で外国の組織が社会事業を行うことを制限していたのです。幸運にも,グンオクは合唱団の人気と政府関係の人脈を利用して,スタンの組織の国内での活動の許可を取ることができました。
非営利組織を立ち上げているころ,スタンは『テンダーアップルズ』(Tender Apples〔「柔らかなリンゴたち」の意〕)という題名の,危険にさらされた子供たちを助けた末日聖徒の女性についての霊感あふれる本を読みました。スタンとグンオクはこの題名が気に入ったため,スタンが著者に連絡すると,本の著者は彼らの新しい組織を「テンダーアップルズ財団」と呼ぶことに同意してくれました。グンオクはソウルの2階建ての自宅の一室をこの非営利組織の韓国事務所に変え,スタンは韓国滞在中はそこで仕事をしました。間もなく,合唱団の名前も「テンダーアップルズ」に変わりました。
ある日,数人の少女たちがくすくす笑いながらスタンのところに辞書を持ってやって来ました。アメリカ軍基地内の末日聖徒の集会で歌ったことがあったので,彼女たちはスタンが教会員であるのを知っていました。しかし大半の韓国人同様,まだ教会やその教えについてあまり知りませんでした。辞書で「モルモン」を引いてみたところ,「奇妙なことをする人々」と説明されていたのです。
「それじゃあ」とスタンは少女たちに尋ねました,「わたしは奇妙だと思うかい?」
「そんなことない」と彼女たちは答えました。
「ファンさんは奇妙な人だと思う?」
少女たちは息をのみました。自分たちの院長も「モルモン」だとはだれも知らなかったのです。
スタンはその出来事をグンオクに話しました。グンオクは自分が教会員であることを養護施設のプロテスタントの支援者たちが知るのも時間の問題であることを知り,彼らがどのような態度に出るか,覚悟しました。
長く待つ必要はありませんでした。グンオクが末日聖徒であり,養護施設の少女たちの一部が教会に関心を持つようになっていることを知った支援者たちは,グンオクに決断を迫りました。教会を離れるか,辞職するかのどちらかです。グンオクにとっては,選択の余地はまったくありませんでした。
彼女は荷物をまとめて,養護施設を去りました。グンオクを慕うようになっていた年長の少女たちは,わずかな荷物を持って彼女の後を追いました。少女たちが玄関先に現れたとき,グンオクは彼女たちを養う方法を探さなければならないこと思いました。
ユタ州では,トルーマン・マドセンが,教会の起源を研究している委員会に良い知らせが届くのをひたすら待っていました。1968年の夏の間ずっと,アメリカ合衆国東部の研究旅行で得た最新の成果が歴史家たちから送られてきていました。大管長会からの資金援助のおかげで,彼らは図書館や記録を徹底的に調べ,歴史的文書を発見して重要な日付や事実を確認することができました。
「ほんとうにすばらしい夏でした!」とトルーマンは言いました。最初の示現に関するウェスリー・ウォルターズの主張に反論する備えが,末日聖徒の歴史家たちにできたとトルーマンは確信しました。
その夏の最も重要な発見の一つは,1820年にジョセフ・スミスの家の近くで宗教復興運動があったことを示す有力な証拠でした。ブリガム・ヤング大学の歴史学と宗教学の教授であるミルトン・バックマンは,ジョセフ・スミスが特定の場所は明らかにせずに一般的な言葉で宗教上の騒ぎについて語っていることに注目しました。ミルトンはそこから,ウェスリー・ウォルターズは研究の焦点をパルマイラに狭く絞り過ぎていたのだと確信するようになりました。ニューヨーク西部にある歴史的資料を何週間もかけてくまなく調べた後,ミルトンは宗教熱の「サイクロン」が実際に1819年と1820年にパルマイラ付近の地域を通過していたことを発見しました。これは預言者ジョセフ・スミスが最初の示現についての1838年の記録で述べていることと一致します。
それから数か月かけて,トルーマンを始めとする歴史家たちは研究の成果についての論文を書き上げました。トルーマンはすべての研究をまとめてブリガム・ヤング大学が発行する学術誌『BYUスタディーズ』(BYU Studies)で発表したいと考えていました。
その一方で,ヒュー・ニブレーはメトロポリタン美術館から入手したパピルスの断片の研究を続けていました。教会がこのパピルスを入手したとき,多くの人がアブラハム書とその翻訳について何が明らかになるかをしきりに知りたがりました。1世紀以上の間,一部の人々はアブラハム書とともに出版された3つの「模写」に対するジョセフ・スミスの解釈に疑いを投げかけていました。パピルスにあった図を複製したこれらの模写は,一般的なエジプトの葬送の巻き物に見られる図像と酷似しており,アブラハムやその時代との関連はなさそうに思われたのです。
初期の分析と翻訳では,このパピルスの断片はアブラハムの時代から数世紀後の葬送文書であることが確認されており,教会もヒューもこの調査結果に異議を唱えてはいませんでした。それでもヒューは,研究を進めることでパピルスと預言者の翻訳について,さらに多くのことが明らかになると信じていました。1968年と1969年に発表された数十本の論文の中で,ヒューは古代の文化と言語に関する知識を用いて,アブラハム書と古代エジプトの宗教や文化との関連について幾つかの理論を発展させました。例えば,アブラハム書の真実性を示す最も強力な証拠の一部は,ジョセフ・スミスが何も知らなかったであろうと思われる,ほかの古代の神殿文書やアブラハムについての何千年も前の言い伝えとの類似性であると指摘しました。ヒューの論文はまた,神権,神殿の儀式,救いの計画に対するアブラハム書の力強い洞察を裏付けるものとなりました。
1969年春,トルーマンの委員会が行った研究が『BYUスタディーズ』に発表されました。研究誌のその号では,最初の示現に関する最新の情報が提供され,ジョセフ・スミスの証に対する確固とした歴史的裏付けが示されました。委員会の二人のメンバー,レオナルド・アーリントンとジェームズ・アレンは,初期の教会歴史に関して出版された既存の論文と書籍をまとめました。ミルトン・バックマンは,パルマイラ近郊での宗教活動に関する自身の研究についての論文を執筆しました。そして,教会歴史家事務局の記録保管員であるディーン・ジェシーは,ジョセフ・スミスの最初の示現の記録についての論文を書きました。そのほかの論文も,同様のトピックを扱うものでした。信仰を擁護することにおける価値以外にも,トルーマンはこれらの論文が,回復の歴史をさらによく理解するために聖徒たちが協力することの大切さを示すものになると確信していました。歴史家にとって大いに役立つ手紙や日記その他の文書を持っている教会員はたくさんいると,トルーマンは指摘しました。
「資料を収集し,研究し,解釈するという,1人の知性あるいは100人の知性をもってしても膨大過ぎる,きわめて重要な作業が存在します。わたしたち全員が参加しなければならないのです」と,トルーマンは『BYUスタディーズ』の当該号の序文に書いています。
一方,ドイツ民主共和国では,ヘンリー・ブルクハルトが自分の見守っている聖徒たちに対する幾つかの変更を監督していました。モンソン長老がゲルリッツを訪れた後,大管長会は東ドイツの主要都市であるドレスデンに伝道部を設立し,ヘンリーを伝道部会長に召しました。その少し後,モンソン長老は東ドイツを再訪し,伝道部を組織し,ヘンリーを大祭司の職に聖任し,その新たな召しに任命しました。
ヘンリーの妻インゲは,ヘンリーとともに奉仕するよう召されました。ブルクハルト夫妻と出会ってからというもの,モンソン長老は,二人が週に数時間しか顔を合わせられない状況にあることに,心を痛めていたのです。「あなたのしていることはよくありません」とモンソン長老はヘンリーに言いました。インゲは,同じ伝道部指導者として,定期的に国中を夫と一緒に回り,時には伝道本部で務めを果たすようになりました。
しかしヘンリーは問題に遭遇しそうな場合には一人で移動することを望みました。政府は依然として聖徒たちの活動を監視していましたが,東ドイツ人であるヘンリーが伝道部会長に召されて以来,教会への疑いは薄れていました。聖徒たちが予定外の集会を開いたり,教会の資料を印刷やガリ版印刷したり,不注意な行動を取ったりしないかぎり,当局は彼らに干渉することはありませんでした。聖餐会を開いたり,ホームティーチングに行ったり,扶助協会や日曜学校,神権会や初等協会の集会のために集まったりすることは自由に行うことができたのです。
ヘンリーは注意を怠らないようにしていました。東ドイツの多くの聖徒が,教会全体とのつながりが絶たれるのではないかと心配しており,印刷された教会の資料をもっと手に入れることを切望していました。時々,賛美歌集や聖典などの印刷物を聖徒が大量に輸入することを政府が認めることもありました。しかし通常は,教会員は手持ちの資料で間に合わせるしかありませんでした。教会の資料の印刷とガリ版印刷に対する制限に対応して,ヘンリーは信頼できる人々にボランティアでタイプライターとカーボン紙を用いて手引きを複写するよう要請しました。
これは違法ではなかったので,ヘンリーは,そのようにして手引きを作ることとそれを配布することには何の問題もないと思っていました。しかし実行に移すとなると,やはり不安でした。信教の自由を制限する法律は常に明文化されていたわけではなく,国全体で等しく執行されているわけでもなかったのです。ヘンリーは,シュタージ(秘密警察)の警官は何の理由もなく自分を逮捕できることをよく知っていました。間が悪くほかの国の教会資料を持っているところを,間違った見方をする警官に見つかれば,大きな問題に発展する恐れがあったのです。
東ドイツの状況は理想的ではありませんでしたが,教会は前進を続けました。驚くべきことに,1968年には47人がバプテスマを受けました。モンソン長老がドレスデン伝道部を設立したときには,47の支部と7の地方部に4,641人の東ドイツ人の聖徒がいました。聖徒たちは集会に出席し,ホームティーチングを行い,可能なときには教会の活動を行っていましたし,「系図週間」を開催して神殿活動のために1万4,000人の名前を提出したこともありました。
自分の新たな召しについて深く考えながら,ヘンリーは必要とされるあらゆることを家族とともに献身的に行う決意を固めました。彼は日記に,「教会を築き上げるために力を尽くして働くことが,今わたしたちのなすべき務めだ。インゲとともに,すべての務めに精通し,同時にわたし自身の弱さに打ち勝てれば幸いだ」と日記に記しています。