第35章
手に手を取って
2006年の初頭,ウィリー・ビネネは電子工学の訓練を再開するためにコンゴ民主共和国の首都キンシャサに引っ越すつもりでいました。首都から約1,500キロ離れたルプタという村で13年間農夫として働いてきました。
支部宣教師として奉仕していたときにバプテスマを施した,リリーという名前の若い女性と結婚しています。子供が二人いますが,過去2年間,リリーと子供たちはキンシャサにいて,ウィリーは学校に戻るのに必要なお金をためていました。
3月26日,伝道部会長のウィリアム・メイコックがルプタで最初の地方部を組織し,ウィリーを地方部会長に召しました。ウィリーは,自信はありませんでしたが,引っ越すのをやめて召しを受けました。間もなく,リリーと子供たちもルプタに戻り,ウィリーは家族とともに,この新しい責任に取り組み始めました。
ウィリーはアフリカで教会を導く召しを受け入れた多くの聖徒の一人にすぎません。ガーナとナイジェリアに初めて専任宣教師がやって来て30年近くがたち,教会はアフリカ全土に20万人以上の会員を持つまでに成長していました。そのころ,コンゴ民主共和国,ケニア,コンゴ共和国,ガーナ,コートジボワール,リベリア,マダガスカル,ナイジェリア,南アフリカ,ジンバブエにステークがあります。救い主と主の回復された教会の教えにしっかりと根差した,力強い地元の指導者たちが常に必要とされていました。
ノルベール・オウンレウという名のコートジボワール人が教会に入ったのは,大学生だった1995年のことです。2年後,コートジボワールで最初のステークが組織されると,ノルベールはビショップになりました。その3年後にステークが分割されると,ステーク会長になりました。5年後,彼と妻のバレリーは,新しくできたコートジボワール・アビジャン伝道部の伝道部指導者として召されました。
同じころ,以前は放送ジャーナリストでありラジオDJでもあったアビゲイル・イトゥマは,ナイジェリアのラゴスにあるワードで扶助協会会長として奉仕していました。外向的でひょうきんなアビゲイルは,周りの人たちを皆笑顔にするのが好きでした。ワードでは教会に来なくなる女性が増えていたため,アビゲイルは来なくなった女性に戻って来てもらうことを自分の使命と考えました。その働きかけによって教会に戻ってきた女性の一人を自分の第二顧問に召すと,間もなく二人は姉妹たちと会ったり,彼女たちを教会に招いたりして,長い時間をともに過ごすようになりました。
アビゲイルは,人とのつながりには力があると信じていました。日曜日には,彼女と顧問たちは家庭訪問について何度も何度も教えました。最初,だれもそのプログラムを前向きに受け止めてくれないようでしたが,アビゲイルが根気強く説得を続けるうちに,やがて,互いに仕え合う姉妹たちが増えていき,扶助協会の集会の出席率が上がり始めました。
そのころケニアには,ジョセフ・シターティとグラディス・シターティという,教会での奉仕とイエス・キリストへの献身で広く知られている夫婦がいました。1986年3月にバプテスマを受ける前は,あまり宗教に熱心な家族ではありませんでした。時折地元のキリスト教会に顔を出していましたが,霊的に養われたと感じたことは一度もありません。ジョセフはしばしば,日曜日に仕事やゴルフをしていました。
しかし回復された福音を受け入れると,すべてが変わりました。教会では良い気持ちを感じましたし,教会が自分たちの生活の中心になるにつれて,家族で一緒に過ごす時間が増えていきました。ジョセフは長年にわたって支部会長や地方部会長として奉仕し,その働きのおかげもあって,教会は1991年にケニアで公式に認可されました。2001年にケニア・ナイロビステークが組織されると,彼はその会長に召されました。3年後の2004年4月には,地域幹部七十人になりました。一方グラディスは,支部の扶助協会会長や,日曜学校,初等協会,若い女性,扶助協会,そしてセミナリーの教師として奉仕しました。
1991年,シターティ家族は南アフリカ・ヨハネスブルグ神殿に行き,この世と永遠にわたって結び固められた最初のケニア人家族となりました。
ジョセフは後に,次のように回想しています。「自分たちが経験してきたことを振り返ると,わたしたち皆にとってきわめて明らかなのは,人は神殿で結び固められて初めて,イエス・キリストの福音のほんとうの意味を理解することができるようになるということでした。」
オーストラリアのシドニーでは,18歳のブレーク・マッケオンが高校の卒業を目前に控え,卒業後の計画を立てる必要に迫られていました。もし大学に進学すれば,1年を越える休学は許可されません。19歳になったら2年間の伝道に出るつもりだったため,卒業後は多くの同級生のように大学に行くのではなく,季節限定の仕事に就くことに決めました。
ブレークは自宅近くのプールでライフガードをした経験があり,その仕事が気に入っていました。そのころシドニーで人気のボンダイビーチのライフカードたちを追った新しいリアリティーテレビ番組「ボンダイレスキュー」を見て,海のライフガードになることを考えるようになりました。ボンダイビーチは自宅から約65キロも離れた場所にあったにもかかわらず,そこでの1週間の「職業体験」プログラムに参加することにしました。プログラムでは,この仕事で担う日々の任務の手ほどきを受けました。また,ビーチでのライフガードを志望する人に課される体力テストも受けました。
きついテストでしたが,ブレークにはそれを受ける準備ができていました。執事だったころ,ステークの若い男性たちとマウンテンバイクでサイクリングに行ってから,運動に興味を持つようになっていたのです。20世紀初頭,教会は若い男性プログラムの一部としてスカウト活動を採用していましたが,アメリカ合衆国とカナダ以外の国で行われることはあまり多くはありませんでした。オーストラリアでは,地元のユニットの約3分の1がスカウト活動に参加していました。ブレークのステークはスカウト活動をするステークではありませんでした。そのような場合,指導者たちは教会が若い男性の活動の計画用に準備した特別なガイドに従いました。
若い男性をマウンテンバイクでのサイクリングに引率した指導者,マット・グリーンは,水泳,自転車,ランニングを連続して行うスポーツであるトライアスロンの手ほどきも,ブレークにしました。マットの指導のもとで,ブレークは自制心と集中力を身につけました。ボンダイビーチで体力テストを受けたとき,ブレークの何年にもわたる訓練と競技経験が役に立ちました。彼は良い成績を収め,ライフガード訓練生として採用されました。
高校を卒業すると,ブレークは平日は毎日ビーチで働きました。この仕事に就いたからといって,必ず「ボンダイレスキュー」に出演できるというわけではありませんが,すぐに番組のプロデューサーの指示を受けたカメラクルーが,ブレークが装備の使い方を学んだり,人々を助けたり,ビーチのルールを守るよう促したりする様子をカメラに撮りました。また,ブレークが初めて海で人を救助した瞬間もカメラに収めました。
ブレークはこの仕事が好きでした。スタッフの中で唯一の教会員だったブレークは,ほかのライフガードに対してややおじけづいていました。彼らの生活や価値観が自分と大きく異なっていたからです。それでも,自分の標準を彼らに合わせて下げるよう圧力を感じたことは一度もありませんでした。
2007年の初めに,ブレークとほかのライフガードたちは,危険な水域で,もがいている男性がいるという通報を受けて出動しました。45分間捜索しましたが,おぼれた人やおぼれかけている人は見当たらず,ビーチにいた2万5,000人のだれからも友人や家族が行方不明だという通報はありませんでした。最終的に,もがいていたという人物がだれであれ,その人が安全に岸に戻っていることを願いつつ,ライフガードたちは捜索をやめました。
2時間後,一人の若い男性が監視塔にいるブレークのところにやって来ました。父親が見つからないと言います。「少しここにいてください」とブレークは若い男性に言うと,ほかのライフガードに伝えに行きました。
チームはレスキューサーフボードやジェットスキーで,急いで海へ向かいました。さらに,警察のヘリコプターに上空からのパトロールを要請しました。その間,ブレークは若い男性とその母親に付き添い,行方不明の男性について質問しました。ブレークは平静な口調で話しましたが,彼らの夫であり父親である男性は亡くなっているのではないかと心配でした。
辺りが暗くなるころ,波の下に人が倒れているのを,救助隊の一人が発見しました。一人のライフガードが海に潜って,その男性を岸に引き上げました。蘇生を試みましたが,遅すぎました。
ブレークはその知らせを聞いて動揺しました。ビーチはしっかり監視されていたのに,なぜ自分を含むライフガードたちは男性を見逃したのだろうか。ブレークはそれまで,死についてよく考えたことはまったくなく,身近な人を亡くしたこともありませんでした。ところが,死が突然,非常に現実的なものに感じられるようになったのです。
その晩,遅い時間に仕事を終えたブレークは,目撃したばかりの悲劇の不条理さについて考えながら,救いの計画について深く考えました。それまでずっと,死で人の存在が終わるのではないこと,イエス・キリストによってすべての人が復活することが可能になるということを教わってきました。
それからの数週間,これらの原則を信じる信仰がブレークに慰めを与えました。
2007年3月31日,聖徒たちは新しい中央扶助協会会長会として,ジュリー・B・ベック,シルビア・H・オールレッド,バーバラ・トンプソンを支持しました。当時,シルビアはドミニカ共和国の宣教師訓練センターの所長である夫のジェフとともに奉仕していました。カリブ海地域で宣教師たちの中で奉仕するのは楽しいことでしたが,教会の女性たちとともに働く機会が来るのを楽しみにしていました。この新たな召しによって,彼女は中央扶助協会会長会で奉仕する初のラテンアメリカ出身者となりました。
その少し後,十二使徒定員会会長代理のボイド・K・パッカーが新しい会長会を自分の執務室に招きました。やって来た姉妹たちに,パッカー会長は,棚に並んだバインダーの列を見せました。「このバインダーは,15年ほど前からあります」とパッカー会長は説明しました。
バインダーの中身は,1,000ページを超える扶助協会の歴史でした。数十年前,若い使徒だったパッカー会長は扶助協会の中央幹部アドバイザーを務め,この組織と,当時の会長ベル・スパッフォードに対して深い感嘆の念を抱くようになりました。後に,パッカー会長は執筆家のルシル・テートとエレイン・ハリスに,個人で利用するための扶助協会の歴史を編さんするよう依頼しました。この執筆家たちの書いた記録が,バインダーにまとめられていたのです。
「これはわたし個人の写しです。あなたがたに差し上げます」とパッカー会長は新しい会長会に言いました。
ボニー・D・パーキン会長の下で,扶助協会中央管理会は『聖約の女性たち—扶助協会の物語』(Women of Covenant: The Story of Relief Society)というタイトルの長大な歴史書を研究していました。この本は1992年に扶助協会の創立150周年を記念して出版されたものです。そのとき,ベック会長と顧問たちはバインダーに収められた歴史を読むべきだと感じ,手分けして1巻ずつ順番に研究しました。読み進めるにつれて,彼女たちは自分たちの組織について明確なビジョンと目的が持てるようになったのでした。
姉妹たちは,扶助協会はもともとは神権の権能によって設立されたことを理解しました。その活動と努力は時とともに変化し,その時々の会長会は病院を設立したり,社会福祉活動や識字率向上などの奉仕に注力したりしてきました。しかし,イエス・キリストの福音を説き明かし,困っている人々を助ける機会を女性たちに提供することが,常にこの組織の中心にあったのです。
それでも,扶助協会が日曜日に出席する単なるクラスの一つになってしまっているのではないかと,会長会は懸念しました。平日に行われる扶助協会の集会と活動が,特に教会とその会員がよく確立されている場所では,しばしば奉仕をすることや福音を教えることとほとんど関係のない社交行事になっていたのです。多くの会員は,扶助協会の霊感に満ちた始まりやその豊かな歴史を知りません。若い女性たちは特に,この組織にあまり熱意を示しません。教会の女性たちは,扶助協会の姉妹であるという事実に力と価値を見いだす必要があると,会長会は確信しました。
会長会は過去と現在の扶助協会について話し合いながら,世界中の教会の姉妹同士のきずなを強めるために必要な,この組織の中心的なメッセージと目的について考えました。会長会のメンバーは皆,アメリカ合衆国以外の国で暮らしたことがあり,言語や文化,経験の違いを超えて扶助協会の会員を一致させ,鼓舞することのできる明確で簡潔なメッセージを考え出す必要があることを知っていました。
会長会は協力して,扶助協会の3つの目的を決めました。第1に,個人の義と信仰を増し加えること,第2に,家族と家庭を強めること,第3に,困っている人々を見つけ出して助けることです。彼女たちは今後あらゆる機会に,「信仰,家族,扶助」を促進しようと決意しました。
会長会に与えられた最初の割り当ての一つは,『教会指導手引き』の扶助協会の項を改訂することでした。前任の中央扶助協会会長会も十分理解していたことですが,手引きの複雑な言葉は読みにくく難解だと感じている会員が少なからずいたのです。ベック会長の会長会は,そこに記載された指針の中には,ユタ州の教会員には良くても全世界の聖徒たちには適さないものもあると思いました。当時のほかの教会指導者と同様に,彼女たちは教会員が地元の必要や状況に柔軟に合わせることのできる,読みやすい手引きを作ろうと考えていました。
現行の手引きでは,扶助協会に20ページ以上が割かれていました。ベック会長はそれよりずっと短くて簡単なものにしたいと思いました。信仰,家族,扶助を土台として,会長会は4ページの文書の草案を作り,改訂作業を監督していた使徒のダリン・H・オークス長老に提出しました。オークス長老はこの草案を高く評価しましたが,指示をもっとたくさん入れるよう勧めました。そこで12ページに増やしたものを提出すると,承認されました。
手引きは扶助協会の数あるプロジェクトの一つにすぎませんでした。改訂作業を手伝いながら,シルビアは訓練と家庭訪問,そして新会員の姉妹が扶助協会に溶け込めるようにする方法を考える委員会で働きました。また,世界中の多くの国を訪れて扶助協会の姉妹たちと会い,彼女たちの必要にこたえました。
彼女と会長会のほかのメンバーは,すべての人が扶助協会のビジョンをつかめるように助けようと決意していました。
2007年5月,アルゼンチンのブエノスアイレスに住む末日聖徒のシルビナ・モーセンは悩んでいました。過去数年間,シルビナはうつと重度の精神疾患と診断された姉を支えていました。その間シルビナは,近い親族を亡くし,3人目の子供を出産し,ワードの扶助協会会長として奉仕していました。夫のデビッドは仕事で昇進を目指し,さらなる教育を受け,そして教会で奉仕していました。スケジュールが合わないため,平日は夫と顔を合わせることがほとんどありませんでした。
そして,シルビナは朝,ベッドから出るのも大変になってきており,気がつくととんでもないミスを犯していることが多くなってきていました。まず,スーパーマーケットへ車で向かっていると,突然自分がどこにいるのか思い出せなくなったのです。別の日には,息子のニコラスを学校に迎えに行って,うっかり別の子供の手を取ってしまいました。あるときは,日を間違えて娘をパーティーに送り届けてしまいました。
シルビナが医師にこれらの出来事について話すと,それはうつの症状だと言われました。治療を受け,教職を休み,薬を服用するよう勧められました。
この忠告を受け入れるのはシルビナにとって抵抗がありました。姉を世話した経験から,精神疾患は複雑で,だれにも治すことのできない遺伝的要因から生じる場合もあることを,シルビナは知っていました。それでも自分は強い人間,困難を経験している人を助ける人間だといつも考えてきました。困難を経験する側になるとは思っていなかったのです。しばらくの間,この診断についてほとんどの人には話さずにいました。
シルビナが姉と自分の精神病についてさらに考えていると,似たような症状で苦しんでいる人たちがほかにもいることに気がつきました。しかし,だれもそのことについて話しません。教会には,精神病で悩んでいるために,教会の集会に出席することができずにいる女性がいました。地元の指導者に助けを求めても,神に近づき,神を信頼することで問題は解決すると言われるそうです。
自分自身の経験から,シルビナはそれがこの女性の問題の部分的な解決策でしかないことを知っていたため,彼女に専門家の助けを受けるよう勧めました。数か月後,シルビナはその女性がその助言を受け入れ,回復しつつあることを知りました。
教会は近年,精神疾患についてより率直に話すようになっており,苦しむ人に思いやりをもって対応するよう聖徒たちに勧めていました。また,メンタルヘルスに関する様々なリソースも提供していました。現在ファミリーサービスと呼ばれている扶助協会社会福祉部は,長年にわたり,聖徒たちにカウンセリングその他のメンタルヘルスに関する支援を提供してきました。ファミリーサービスが稼働しているのはアメリカ合衆国とカナダ,オーストラリア,ニュージーランド,イギリス,日本だけでしたが,アルゼンチンを含むさらに多くの国にも広げられる予定でした。チリなどの南アメリカの福祉サービスセンターの中には,訓練を受けたセラピストによるカウンセリングを提供してる所もありました。教会はまた,自然災害時の精神衛生関連の支援も提供していました。例えば,インド洋で起きた津波の後,LDSファミリーサービスは被災地域で人々が死別やトラウマに対処できるよう支援する訓練を実施しました。
医師の助言に従うと,シルビナの精神状態は良くなりました。セラピーと休息,投薬に加えて,彼女は運動と音楽が精神衛生に良いことを知りました。生活のバランスを取る方法も探しました。家では,夫と一緒に過ごす時間を増やしましたし,時々仕事の後に神殿で合流して,二人でエンダウメントのセッションに参加することもありました。ただ一緒に食料品店に行くだけのこともありました。
シルビナは,家族の宣言を読むと以前よりも励まされるようになりました。この宣言には,神の霊の息子や娘は前世で神の計画を受け入れ,その計画によって神の子供たちは「永遠の命を受け継ぐ者」としての神聖な行く末に向かって進歩することができるようになった,という教えが書かれています。この真理を知っていたおかげで,困難に直面しても目的と進むべき方向が分かり,正しい観点から物事を見ることができました。
教会では,扶助協会会長会の顧問たちによく頼って自分の義務を果たすようになりました。救い主に頼ると,主を信じる信仰が自分にとって新たな意味を持つようになってきました。毎週日曜日には,聖餐の祈りによく耳を傾けるようになり,聖餐の時間が,聖餐の儀式についてもっと深く考える機会になりました。ある晩,デビッドはシルビナに神権の祝福を授けました。その中で,頭脳が必要な機能を果たすようになると約束されました。友人たちも彼女のために祈り,弟は神殿の祈りの名簿に彼女の名前を載せました。
これらの経験を通して,シルビナは霊的に成長しました。救い主が自分の苦しみを完全に御存じであることを知りました。困難に独りで対処する必要はないのです。
友人と家族,そして主がそばにいて,治癒の過程で支えてくれました。
2007年6月,エクトール・ダビド・エルナンデスは疲れ切って学校から帰宅しました。妻のエマとともに腰を下ろして,授業中に眠ってしまったと話す彼の目の下には,濃い影がありました。
エマとエクトール・ダビドがグアテマラシティー神殿で結び固められてから,1年半が過ぎていました。彼らは二人ともホンジュラスの自宅に近い公立大学で授業を受けています。仕事と学校と結婚生活のバランスを取りながら,幼い息子オスカル・ダビドの世話もしていました。
彼らが通う大学では学期ごとに選べるコースが限られているため,卒業には長い期間を要します。さらに子供が生まれたばかりで寝不足のことも多く,学業に支障をきたしていました。
エクトール・ダビドは隣に座っているエマに,受け取ったばかりの成績についても話しました。
「あまり良くなかったんだ」と彼は肩を落として言いました。
エマは,何かを変える必要があると悟りました。様々な選択肢について話し合ううちに,エマは永代教育基金のことを考えました。教会が提供するこの奨学金プログラムは以前から彼女の頭の中にありましたが,彼女も夫も,自分たちで何とかしたいと思っていました。それでも,彼らは計画を変更するべきだと感じました。
「あなたは私立の大学に行って,永代教育基金を利用するのはどうかしら」とエマは提案しました。
エクトール・ダビドは自分たちが通っている大学で,会計学のプログラムを修了することを夢見ていました。しかし,エマが言った私立大学にも,経済学を専攻できる似たようなコースがあります。それにその大学は3学期制で,取れる授業が多く,卒業も早くできます。その間,永代教育基金はその大学の高い学費を支払う助けになるでしょう。
「分かった」とエクトール・ダビドは同意しました。しかし彼は,エマにも永代教育基金を利用して学業の目標を達成してほしいと思いました。「二人で勉強しよう。ぼくは勉強する。君も勉強するんだ」と彼は言いました。
「いいわ」とエマは言い,その計画に心を躍らせました。
それから,二人は一緒に永代教育基金の奨学金を申し込み,私立大学に入学しました。エマは銀行での仕事を思い切って辞め,家でオスカル・ダビドと一緒に過ごす時間を増やすことにしました。
永代教育基金を利用する人は,将来の雇用に備えるためのコースに参加することを求められます。そのクラスでは,参加者が理想のキャリアとそれに備える方法を発見できるようにするためのリソースを提供していました。
エマの課題の一つは,自分の才能と関心を書き出すことでした。彼女は自分には創造性があって,事業の広告に関心がある,と書きました。それから,マーケティングとグラフィックデザインの分野で働いている人たちから話を聴きました。そのような面談の後,エマは専攻を経営管理からマーケティングと広告に変えることに決めました。
この二つの分野についてはそれほどよく知りませんでしたが,私立大学でマーケティングの初回の授業に出席したとき,この授業は自分のためになることが分かりました。
永代教育基金からの経済的な支援があっても,子育てをしながら大学に通うのは大変でした。彼女とエクトール・ダビドは相変わらず寝不足で,色々な役割を何とかこなしていました。エマは時々,学業を中断して,卒業を先延ばしにするべきだろうかと悩むことがありました。
しかし,つらくなってくると,彼女とエクトール・ダビドは,こういうモットーを言い合いました。「今がその時だ。」
2008年1月12日,ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,ソルトレーク・シティー墓地で妻マージョリーの墓の前に立っていました。彼女が亡くなってから4年近くたっていました。ヒンクレー姉妹はガーナ・アクラ神殿の奉献式から戻る機内で具合が悪くなり,数か月後の2004年4月6日に亡くなりました。
大管長とヒンクレー姉妹はともに世界中を巡り,聖徒たちに仕え,一緒に過ごすことを喜びとしていました。大管長は妻を亡くして非常に落胆していました。教会での務めと家族のおかげで,かろうじて孤独に押しつぶされることなく過ごしていました。
ヒンクレー大管長は毎週墓を訪れて花を手向け,66年間の結婚生活に思いをはせるようにしていました。墓参りが多すぎると人に思われるかもしれないと懸念しましたが,それでも足を運びました。
「彼女はわたしのすべてであり,もっとも大切な人でした」と,あるときヒンクレー大管長は回想しています。「わたしにできるせめてものことは,毎週美しい花を手向けてその気持ちを表すことです。」
今回は,墓石には先週置いた花輪がまだあったので,ヒンクレー大管長はもうしばらくそれをそのままにしておくことにしました。
それから間もなく,預言者は腰を下ろして,自分の葬式に関する希望を述べ,書き取ってもらいました。97歳だったヒンクレー大管長は,教会史上最高齢の大管長でした。数年前にがんの手術を受けて成功しましたが,がんは転移していました。自分に残された時間がわずかであることを知っていました。
「わたしは妻と同じように,桜材の棺で埋葬されることを希望します」と,ヒンクレー大管長は書き取ってもらいました。葬式の会場にはカンファレンスセンターを指定し,巨大なホールに空席があってもかまわないとしました。
「わたしはその鍬入れを行い,奉献をしました。だからそこでわたしの葬儀を行うのがふさわしいと思うのです」と大管長は説明しました。
ヒンクレー大管長は長時間の葬儀は望みませんでした。『教会指導手引き』の勧めに従って90分を超えないように,と言いました。葬儀の司会には,長期にわたって自分の第一顧問を務めてきたトーマス・S・モンソン管長を指名しました。また,自らが何年も前に歌詞を書いた賛美歌である「贖いの主」をタバナクル合唱団に歌ってほしいとリクエストしました。
贖いの主,
神生きて,
われ恵む
苦しみと死とに,勝利せし王よ
葬儀に関する指示の最後に,預言者はヒンクレー姉妹のことを話しました。大管長は自分たちの結婚の聖約が来るべき世でも続くことを,何の疑いもなく確信していました。彼女の横に埋葬されたい,それが最後の願いでした。
「こうしてわたしは自らを主の御手に委ねます。そして愛する永遠の伴侶とともに,手に手を取って不死不滅と永遠の命の道を歩むのです」と,ヒンクレー大管長は締めくくりました。