第13章
朽ちることのない知識
1971年5月初旬,ダリウス・グレイはユタ大学のマリオット図書館に足を踏み入れました。図書館のコピーセンターに勤務していた友人のユージーン・オールが,彼とラフィン・ブリッジフォースを招待していたのです。そのころ,彼らは黒人の末日聖徒が直面している困難について話し合いたいと思っていました。なすべきことを知ろうと,それぞれが断食と祈りを続けていました。
ダリウスは友人たちと落ち合うと,空いている自習室を見つけ,そこで話し合いを始めました。彼らの懸念の多くは,教会の神権と神殿の制限に関するものでした。教会の初期に一部の黒人男性が神権を持っていたのはなぜでしょうか。そして,いつになれば黒人男性は再び神権を持つことができるようになるのでしょうか。
これらの疑問について話し合ううちに,さらに多くの疑問が生じました。彼らは黒人の聖徒たちがこの制限を理解して教会に活発であり続けることに苦労しているのを知っていました。彼らがもっと頻繁に集会に出席できるように助けるために,何ができるでしょうか。教会が特に黒人の会員のための支部を組織することは可能でしょうか。
そして,若い世代の黒人の聖徒たちについてはどうでしょうか。ラフィンとユージーンは父親として,この制限に関する子供たちの質問にどう答えればよいかを知りたいと切望していました。
疑問を書き留めてから,彼らはひざまずき,ラフィンが祈りをささげて主の導きを願い求めました。祈り終えると,彼らは自分たちの疑問を直接ジョセフ・フィールディング・スミス大管長をはじめとする教会の上級の指導者のところへ持って行くべきだという強い印象を受けました。しかし,どうしたらそのような面会を設定できるでしょうか。
ユージーンは説得力があり,活力に満ちていることを知っていたダリウスとラフィンは,「指導者に連絡を取ってみてもらえないか」とユージーンに言いました。3人を代表して話すのに最適な人物はユージーンだったのです。
数日後,ユージーンは教会執務ビルで,スミス大管長の秘書であるアーサー・ヘイコックと会いました。「どのようなことでも,わたしが解決して差し上げます」と,アーサーはユージーンに言いました。
「では,わたしの目下の最大の願いは,預言者にお会いしたいということです」と,ユージーンは言いました。ユージーンはアーサーに,ダリウスとラフィンとともに書き出した質問事項を見せました。「黒人たちは教会において誇りを持ち,重要な存在となり,活発でありたいと望んでいます。単なる傍観者でいたくないと思っています」と,ユージーンは言いました。
アーサーは質問を読み,もっともな事柄が挙げられていることを認めました。「これを中央幹部のところへ持って行き,彼らがどのような決定を下すか見ましょう」と,アーサーは言いました。
その後,教会本部から何の知らせもなかったため,ユージーンは3週間後に再び教会執務ビルを訪れました。するとアーサーから,スミス大管長が使徒のゴードン・B・ヒンクレー,トーマス・S・モンソン,ボイド・K・パッカーを選んで,ユージーンと話をするよう指示したと聞かされました。会合は6月9日に設定されました。
その日が来ると,ダリウス,ユージーン,ラフィンは,ヒンクレー長老の執務室で3人の使徒と会いました。教会指導者たちは,ラフィンとは数年来の知り合いでした。また,KSLでの仕事の関係でダリウスのことも知っていました。ユージーンとは使徒たちはだれも個人的に面識はありませんでした。
「わたしたちと家族と同胞が抱えている問題に対して,わたしたちは深刻な懸念を抱いています」と,ダリウスと友人たちは使徒たちに言いました。ラフィンは,自分の息子たちが成長して,アロン神権を持つことができないと知り,教会への関心を失っていることを話しました。息子たちがもう教会に出席していないことで,彼は苦しんでいました。
会合の間,質問の大半をしたのはユージーンでした。
「初等協会でほかの子供たちが父親にバプテスマを施してもらうと言っているときに,バプテスマを施してもらえるかと子供から聞かれたら,わたしたちは何と言えばよいのでしょうか。」
「わたしたちは神権会に出席できるのでしょうか。」
ヒンクレー長老,モンソン長老,パッカー長老は共感をもって耳を傾け,これらの疑問やそのほかの質問について話し合うために,ラフィン,ダリウス,ユージーンの3人と再び会うことに同意しました。会合が終わると,使徒たちは教会は黒人の会員のためにもっと多くのことをする必要があることを認めました。
「わたしたちには信仰があります。証があります」と,3人の友人は使徒たちに訴えました。「神権の有無にかかわらず,福音の祝福がわたしたち黒人に対してより積極的に与えられるよう望みます。」
そのころ日本の東京で,山下和彦は毎週末,バスケットボールの試合に参加していました。末日聖徒の宣教師とともに学ぶ時間はほとんどありませんでした。長老たちは万国博覧会の後間もなく,彼の家を訪問し始めました。彼は宣教師たちと会うのが好きでした。長老たちはアメリカ人で,和彦は外国人と話すのが楽しかったのです。しかし,長老たちと約束をしても後でキャンセルすることが頻繁にありました。
彼の生活の中で,宗教は決して優先事項ではありませんでした。仏教徒である両親は墓参りをして祖先を敬っていましたが,一家は祈ることも,瞑想することも,自分たちの信仰の教えを学ぶこともありませんでした。仏教は和彦が受け継いだ伝統ではありましたが,彼の生き方に大きな影響を与えてはいませんでした。
これとは対照的に,宣教師たちが代表する教会では,週に数回集会があり,会員に対して聖文を研究して戒めを守るよう励ましていました。末日聖徒となることは,単に長い時間をささげることにとどまらず,生活を大きく変えることでした。
それでも,和彦は宣教師のメッセージに感銘を受けました。ジョセフ・スミスの最初の示現について学んだとき,彼は驚嘆しました。それについて何の疑問も持たず,すぐに信じました。もっと教会のための時間があれば,そのメッセージをさらに真剣に受け止めていたかもしれません。
ある日,和彦は宣教師たちのアパートに立ち寄り,約束に関して十分に気を配ることができていなかったことを謝りました。すると宣教師の一人が,「山下兄弟,すみません。わたしはもうすぐ国に帰るのです」と,言いました。その長老の伝道は終わりに近づいていたのです。
その知らせに和彦は驚き,悲しくなりました。そして,長老たちの時間を二度と無駄にするまいと決心しました。「もっとよく勉強しよう。モルモン書を読もう」と,和彦は自分に言い聞かせました。
和彦は宣教師と定期的に会い,教会に通い,回復された福音についてもっと学ぶようになりました。木曜日の晩には相互発達協会(MIA)の活動に楽しく参加し,地元の聖徒たちと親しくなりました。
それは日本の教会にとって胸躍る時期でした。第二次世界大戦終結からの25年間で,日本の会員数は数百人から1万2,000人以上に増えていました。教会が急速な成長を遂げていたブラジルやほかの国々と同様,日本にも教会の翻訳と配送を担う事務所がありました。中央幹部が日本を定期的に訪問する一方で,日々の教会の働きは地元の指導者によって監督されていました。当時日本には4つの伝道部があり,東京にはステークがありました。また,程なくして教会は大学生向けの宗教教育インスティテュートを開設し,若い聖徒たちは家庭学習セミナリープログラムに登録することになります。
日本ではまだ末日聖徒はあまり知られていませんでしたが,1970年の万国博覧会で教会がパビリオンを出展したことにより,認知度は高まっていました。毎日何万人もの人々が展示館を訪れ,その数は5年前のニューヨーク万国博覧会の教会パビリオンの訪問者数をはるかに上回りました。万博が終わるころには,65万人以上がパビリオンで来場者カードに感想を記入し,多くの人々が宣教師の訪問を希望しました。そして5万部ものモルモン書が売れました。
和彦は宣教師と学んでいましたが,彼らが教える事柄の大半はよく分かりませんでした。しかし彼らの生活と良い模範は神からのメッセージのようであり,もっと彼らのようになれたらと思いました。宣教師に教えてもらったとおりに初めて個人の祈りをささげたとき,自分の周りに主がおられるのを感じました。そして宣教師からバプテスマを受けるよう招かれると,それを受け入れました。
和彦がバプテスマを受けたのは,1971年7月17日でした。支部にバプテスマフォントがなかったため,宣教師たちは集会所の台所に,廃材と大きなビニールシートを使ってフォントを作りました。あまり深さはありませんでしたが,彼を沈めるのにちょうど十分な水が入りました。
その後,長老の一人が同じ日にバプテスマを受けた女性の確認を行っていると,その声は感極まって途切れ,祝福の途中で止まってしまいました。どうしたのだろうかと和彦が目を開けると,宣教師の顔に涙が伝い落ちるのが見えました。
その瞬間,和彦は部屋にいるすべての人に対するその宣教師の愛,そして神の愛を感じることができました。
十二使徒定員会会長代理となったスペンサー・W・キンボール長老は,これまで以上に多忙でした。朝早くから,夜の10時半や11時まで働くことも度々でした。時には真夜中に目を覚まして仕事をすることもありました。日々の生活の忙しさを緩和しようと,小さなことから習慣を変えようとしましたが,どこを切り詰めればよいか分からず苦労していました。
間もなく,のどの左側に鋭い痛みを感じるようになりました。初めは痛みは出たり収まったりしていましたが,やがて首とのどが常に痛むようになりました。頻繁に胸の痛みも経験し,軽い活動でも疲れるようになりました。運動をしても状態は改善しませんでした。すぐに妻のカミラは,夫の呼吸が以前より苦しそうになっていることに気づきました。
1971年9月,キンボール長老は自分の症状についてラッセル・M・ネルソン医師に個人的に相談しました。ネルソン医師は新たに召された日曜学校の中央会長で,高名な心臓外科医でした。ネルソン医師は注意深く耳を傾け,すぐに専門医の診察を受けるようキンボール長老に勧めました。
その後間もなく,キンボール長老は医師のアーネスト・ウィルキンソンの診察を受けました。彼は心臓の専門医で,ブリガム・ヤング大学の前学長の息子でした。ウィルキンソン医師はキンボール長老の以前の検査の報告書を見直し,さらに検査をしました。医師が結果を確認しているとき,使徒は彼が心配そうな様子であることに気づきました。「率直に話してください」と,キンボール長老は言いました。
「大動脈弁狭窄症です」と,ウィルキンソン医師は答え,キンボール長老の心臓からの血液を送る大動脈の弁が硬くなり狭まっていると説明しました。この問題を抱えた弁を通じて血液を送ろうとすることで負担がかかり,心臓が疲弊していたのです。
キンボール長老は,自分はあとどのくらい生きられるかと尋ねました。医師はあと1年から2年くらいだろうと答え,ただしそれ以前に突然亡くなる可能性もあると付け加えました。手術で寿命を延ばすことは可能でしたが,キンボール長老の年齢では,手術に耐えられる可能性はわずか50パーセントでした。
この知らせは衝撃的でした。キンボール長老にとって,死は常に何か漠然とした遠くにあるものでした。しかし今,世界の終わりが,あるいは終わりの始まりがやって来たように感じられました。
翌日,キンボール長老は大管長会と同僚の使徒たちとの集会のためにソルトレーク神殿まで歩いて行きました。集会の間,死が迫っているかもしれないのに,十分に奉仕する強さを求めて祈っている自分に気づきました。
やがて集会が終わり,出席者が神殿を去り始めました。キンボール長老はほかの使徒たちが2,3人ずつに分かれて歩いているのを見て,暗い考えが浮かんできました。恐らくこの同じ人たちが,間もなく自分の棺の付添人として2,3人ずつで歩くことになるのだろう,と。
キンボール長老は,主が自分を癒すことがおできになると知っていました。しかしどうして主がそうなさる必要があるだろうか,と使徒は思いました。主はほかの,もっとふさわしい人たちを十二使徒定員会で奉仕するよう召すことがおできになるのだから。
「わたしが去っても,たくさんのろうそくの1本を吹き消す程度の波紋が生じるにすぎない」と,キンボール長老は物思いにふけりました。
同じころのある日,ラフィン・ブリッジフォース,ダリウス・グレイ,ユージーン・オールは,ゴードン・B・ヒンクレーの執務室に招かれていました。
6月以来,この3人はヒンクレー長老,モンソン長老,パッカー長老と数週間ごとに会っていました。神権と神殿の制限に関する難しい課題が話し合いのおもな内容でしたが,ラフィンはいつでも部屋に穏やかな雰囲気をもたらしました。
実際,評議を重ねるほど,彼らは互いを愛し尊敬するようになっていきました。ダリウスは,スミス大管長が自分たちの懸念を重要なものと受け止め,3人の使徒をそれに当たらせてくれたことに感銘を受けていました。会合を続ける間,主が彼らとともにいてくださり,彼らはしばしば互いの肩に顔をうずめて涙を流しました。
その日,会合の冒頭でヒンクレー長老が良い知らせを告げました。「祈りと熟慮の末,スミス大管長と十二使徒定員会の兄弟たちは,教会の黒人の会員のためのサポートグループを設立するようにという導きを受けました。」
ダリウスとユージーンとラフィンが預言者にあてた質問リストの中で,黒人の聖徒のための支部の組織を提案して以来,教会指導者たちはそのようなグループを組織することについて話し合っていたのです。ヒンクレー長老は,このグループはソルトレーク・シティーのリバティーステークの一部として活動することになると説明しました。グループの会員は,引き続き自分の所属するワードで聖餐会と日曜学校に出席しますが,一方で独自の扶助協会,MIA,初等協会を持ちます。その目的は,黒人の聖徒たち,特に教会の中に居場所を見いだすのに苦しんでいる若人にコミュニティーを提供し,手を差し伸べることにありました。
使徒たちはラフィンをグループの会長として召し,ラフィンは第一顧問としてダリウスを,第二顧問としてユージーンを推薦しました。ヒンクレー長老は二人に召しを伝え,二人は受け入れました。
それから間もない1971年10月19日,ダリウスはソルトレーク・シティーの集会所の壇上に座っていました。火曜日の晩でしたが,礼拝堂は教会に出席するときの服装をした人々でいっぱいでした。黒人の顔も幾つか見えましたが,ほとんどは白人でした。
皆,黒人の末日聖徒のために初めて公式に設けられる教会の組織の始まりを目にしようと集まっていました。このグループを,ダリウスとラフィンとユージーンはジェネシスグループと名付けることに決めていました〔訳注—ジェネシス(Genesis)は「起源」や「創始」の意。また,旧約聖書の最初の書の名前(「創世記」)でもある〕。集会の司会を務めたヒンクレー長老は,グループとその目的を紹介しました。その後,ラフィン・ブリッジフォースがグループの会長として,グループの役員について賛意の表明を求めました。その中には扶助協会会長のルシル・バンクヘッドも含まれていました。その後,ブリッジフォース会長は証を述べました。
「御存じのように,ジェネシスとは始まりを意味します。これは始まりなのです」と,彼は言いました。そして回復された福音への愛と,教会の指導者と集まったすべての人々への感謝を表しました。そしてこのように証しました。「主はわたしたちの味方です。わたしたちは成功を収めるでしょう。このグループを成功させるために,わたしはこれまでになかったほど努力する所存です。」
ブリッジフォース会長が着席すると,ヒンクレー長老はダリウスに証を述べるよう招いて彼を驚かせました。ダリウスは説教壇に向かい,言いました。「今晩,わたしは何も言う予定はありませんでした。おこがましい気持ちです。」
会衆の中に,7年前に自分に福音を紹介してくれたフェリックス家の人たちを見つけました。「彼らはわたしのことをほうっておくこともできましたが,そうはしませんでした。福音を耳にする機会があったのは,わたしにとって重要なことでした。彼らは粘り強く伝えてくれました」と,ダリウスは集まっていた人々に語りました。
そして長い沈黙の後,このように言いました。「わたしは聖餐会や断食証会で,神権を持つ人々が立ち,自分は福音が真実であると信じていると述べるのを幾度となく聞いてきました。」
そしてこの時,自分も証を述べたいとダリウスは思い,次のように宣言しました。「わたしは福音が真実であると知っています。それは朽ちることのない知識です。」
ベネメリトの中等学校をクラスのトップの成績で卒業した後,イザベル・サンタナは故郷であるメキシコ北部のシウダードオブレゴンに戻りました。イザベルは自分がこれからどうしたいのか確信が持てずにいました。ベネメリトに戻り,大学進学を目指す3年制の予備校に入ることもできました。しかしイザベルは,家にとどまって,地元の公立の大学進学予備校に通うことを真剣に考えていました。
イザベルの父親は学校について彼女が自分で決めることに満足していました。しかし母親は,イザベルが地元の過激な学生運動に巻き込まれることを心配して,オブレゴンの学校に通うことには反対でした。
「ここにいたら,あの子も周りの皆と同じように革命家になってしまう」と思ったのです。
心を決めかねていたイザベルは,公民の教師であり,ベネメリトの大学進学準備学校の校長であるアグリコル・ロザーノに助言を求めました。アグリコルは,ベネメリトに戻って入学試験を受けるようイザベルに勧めました。
「すぐにいらっしゃい。あなたの居場所はここにあります」と,アグリコルは言いました。
イザベルはメキシコシティーに戻り,試験に合格し,入学を許可されました。しかし,イザベルは自分が正しい選択をしたのか確信が持てずにいました。適性テストの結果,社会福祉事業に向いていると言われた後はなおさらでした。その仕事にはまったく関心がなかったのです。
「帰ります。進学予備校にいたいと思わないのです」と,ある日,信頼する相談相手であるエフライン・ビラロボスに言いました。
「いや,いや,待ちなさい。あなたがいるべき場所はここです」と,エフラインは言いました。エフラインはイザベルに,ベネメリトの教員養成学校で学んでみるよう勧めました。3年制の養成学校では,大学進学に備えるだけでなく,教会がメキシコで運営している学校で教えるための準備もすることができました。つまり,コースを修了するとすぐに職に就くことが可能なのです。
エフラインに説得されて,イザベルは学校を変えました。
そして,すぐに授業と教師たちが好きになりました。1年目は一般教養の授業とともに,教授法,教育心理学,教育史の授業も受講しました。彼女の受けた訓練は子供たちを教育するためのもので,教師養成学校の最終学年では,メキシコ北東部の町モンテレイにある教会が運営する小学校で1週間教えました。イザベルはそれまで強い養育本能を感じたことがなく,自分は子供たちとかかわるための忍耐力を欠いているのではないかと心配でしたが,無事に1週間を終えました。
教師養成学校にいる間に,イザベルはメキシコの西海岸出身で最近北メキシコ伝道部で奉仕したばかりの若者,フアン・マチュカと親しくなりました。一部のクラスメートからは,カップルだと言ってからかわれましたが,イザベルは笑って,フアンとはまったく結婚する気はないと言いました。「彼は友達だから。友達とは結婚しないわ」と,イザベルは力説しました。
しかし卒業後,二人はともにベネメリトでセミナリーとインスティテュートの教師として雇われました。同じ教室を使い,そのうちに映画に行くなど,もっと多くの時間を一緒に過ごすようになりました。1972年の初め,二人がイザベルの家の居間で雑談していたとき,フアンが突然,「ぼくと結婚してくれませんか」と尋ねました。
二人は5月の夏休みに市民結婚をしました。数週間後,ほかの教会員たちと一緒に1,400マイル(約2,200キロメートル)を旅してアリゾナ州メサ神殿に行き,神殿の祝福を受けました。プラスチックの座席で,エアコンもない3日間のバスの旅は暑く息苦しいものでした。
しかし,それだけの価値はありました。メサ神殿はスペイン語で儀式を提供した最初の神殿で,当時はメキシコや中央アメリカの教会員にとって最も近い神殿でした。これらの聖徒たちにとって,神殿への旅は長く,多大な犠牲を必要とするものでした。彼らはしばしばメサのステークが主催するラテンアメリカの教会員の年次大会に参加するために旅をしました。これらの大会は数日続き,参加者に帰属意識と霊的なコミュニティーという祝福をもたらしました。
イザベルとフアンは神殿に到着すると,自身のエンダウメントを受け,それからこの世と永遠における結び固めを受けました。神殿で礼拝していると,神殿が人生に対する見方を豊かにし,イエス・キリストの福音に対する決意を深めてくれるのを感じました。
1972年初頭までに,ガーナのケープコーストとその周辺におけるビリー・ジョンソンの会衆は数百人の忠実な会員を集めていました。その中で最も献身的な人の一人がビリーの母親,マチルダでした。ビリーがケープコーストにやって来て間もなくグループに加わったジェイコブとリリー・アンドーケソンとその子供たちも熱心な会員であり,友人でした。
会衆が大きくなってくると,ビリーはココア豆の倉庫として使われていた古い建物を見つけました。今ではその場所は長椅子と,幾つかの小さな椅子とテーブル,説教壇,そして壁際に置かれた長いベンチ席でいっぱいでした。ケープコーストの周辺に住む人々の一部は,ビリーと彼に従う人たちが老朽化した建物で集まっていることをあざけり,彼らを「ココアの倉の教会」と呼びました。しかし,屋根が雨漏りして,濡れないように皆が1か所に固まるか傘を差さなければならないときでさえも,増え続ける信者たちはそこに集まることをいといませんでした。
ビリーはこの質素な建物を心地よく快適な場所にするために最善を尽くしました。二つの観音開きのドアの間に,「末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン)」と書かれた巨大な看板を掛けました。一つの壁には十字架上のキリストの絵が美しく描かれ,別の壁には両腕を上げた救い主の絵と,その頭上には「わたしのもとに来なさい」という言葉が記されました。ジョセフ・スミスやタバナクル合唱団,教会に関連するそのほかの様々な場面を明るい空色で描いた絵が,壁のあちこちを飾っていました。
リリー・アンドーケソンは建物をきれいに保っていました。朝早くやって来て,集会のために準備をしました。リリーは娘のシャーロットに,自分はここで天使たちを見たので,天使たちのためにきれいな場所を用意したいのだと話しました。
ビリーの会衆は週に3回,朝と夕方に礼拝のために集まり,賛美歌を歌い,ダンスをし,手拍子を打ち,祈り,賛美の声を上げ,説教をしました。時々,ビリーは幼い息子ブリガムを肩に乗せて教えを説きました。
教えを説く際には,ビリーは13の信仰箇条など,教会の資料を読んで学んだ原則を教え,末日聖徒の開拓者のストーリーを分かち合いました。しかし何よりも,モルモン書から教えることが大好きでした。
ビリーはいつの日か教会本部から宣教師がやって来ると信じていましたが,それを待つ間に信者たちの心が離れてしまうのではないかと危惧していました。末日聖徒は黒人を好まず,宣教師を派遣することは決してないだろうという,教会に批判的な人々の言葉を聞いて,グループを去った人々もいたのです。
時折,ビリーの疲れを知らない宣教が地元当局とのトラブルを招くこともありました。末日聖徒イエス・キリスト教会が地上における唯一のまことの教会であると証したために,偽りを広めていると非難されたのです。
あるとき,警察に逮捕されたビリーは,署に連れて行かれる前に辺りを見回し,同行してくれそうな人を求めて,知っている顔はないかと探しました。始めはだれも見つかりませんでした。しかしその後,集まっていた人々の中に,家族ぐるみの友人であるジェームズ・エウドジーという若者がいるのに気づきました。
ジェームズは泣きながらビリーに近づいて来ました。彼はビリーの会衆の一員ではありませんでしたが,ビリーの体に手を置くと,「ソフォ」と呼びました。ファンテ語で司祭という意味です。「心配しないでください。わたしが一緒に行きます」と,ジェームズはビリーに言いました。
警察署に連れて行かれるとビリーは,すぐにジェームズと警察官たちと宗教について話し始めました。警察官のうち4人はビリーのメッセージに引き付けられ,彼の言葉を信じました。警察署長もビリーに友好的になり,間もなく警官たちは彼とジェームズを釈放しました。その後,警察署長は毎週金曜日の朝にケープコースト警察で福音のレッスンを教えるようビリーを招きました。
一方ジェームズは,ビリーと集会所で会う夢を見ました。ビリーからひざまずくように言われ,そのようにすると,屋根を通して光が差してきました。ジェームズが目を閉じても,光はなお彼を照らしていました。そのとき,ゆっくりと自分の名前を呼ぶ声が聞こえました。
「わたしはわたしの教会をガーナにもたらしたいと思っている」と,主が言われました。主はジェームズに,ビリーに加わるように促されました。「あなたがビリーを助けるならば,わたしはあなたを祝福し,ガーナを祝福しよう。」