第29章
一つの大きな家族
1996年初頭,フィリピンでは,イロイロステーク扶助協会会長のマリダン・ナバ・ソレスタが,ステーク会長のビルヒリオ・ガルシアから良い知らせを受けました。その数か月前,マリダンは中央扶助協会会長会に手紙を書き,イレイン・L・ジャック会長の第一顧問であるチエコ・岡崎の訪問を要請していました。岡崎姉妹が総大会で行った信仰を高める説教に霊を鼓舞されたマリダンは,岡崎姉妹の話を直接聞くことがステークの姉妹たちの益になると確信したのです。そして今,岡崎姉妹が自分たちのステークを訪問する割り当てを受けたことを,ガルシア会長から知らされたのでした。
そのころ,教会はアメリカ合衆国外の聖徒の数が合衆国内の聖徒の数を上回るという,重要な節目を迎えたところでした。マリダンと夫のセブは,どちらも10年以上前に教会に加わっていました。二人は1984年にマニラ神殿で結び固められ,7歳,9歳,10歳になる3人の息子がいました。マリダンが扶助協会会長に召されてからの5年間で,フィリピンの教会員数は8万人以上増加していました。会員総数が36万人のフィリピンは,アメリカ合衆国,メキシコ,ブラジル,チリに次いで,世界で5番目に多くの末日聖徒がいる国になっていました。
アメリカ合衆国以外の国の出身の中央幹部も着実に増えていました。七十人第一および第二定員会には,すでにアルゼンチン出身のアンヘル・アブレア,ブラジル出身のヘリオ・ダローチャ・カマルゴとエルベシオ・マーティンズ,チリ出身のエドアルド・アヤラ,グアテマラ出身のカーロス・H・アマードー,メキシコ出身のオラシオ・A・テノリオ,日本出身の菊地良彦,韓国出身のハン・インサン(韓仁相),フィリピン出身のアウグスト・A・リムといった会員が含まれていました。1995年,大管長会は地区代表の役職に代えて地域幹部という役割を設け,世界各地で地元のユニットを支える神権指導者の人数を増やしました。ハワイで生まれ育った岡崎姉妹は,教会の中央会長会で奉仕する初のアジア系聖徒でした。
イロイロ市で,マリダンは教会の発展をその目で見ていました。そのころには彼女のステークには8つのワードと6つの支部があり,すべてのユニットを訪問することは彼女やほかのステーク指導者にとってさらに難しくなっていました。マリダンは製薬会社を所有し,経営していたため,非常に多忙でした。それでも,自分に託されている女性たちに仕えようと最善を尽くしました。多くの新しい改宗者が力強い会員へと成長していましたが,フィリピンには教会の集会に出席するのをやめてしまった聖徒たちも多くいました。そのような会員を訪問すると,マリダンと話をしたがらない人たちもいれば,訪問を受け入れ,彼女が示した関心に感謝する人たちもいました。
マリダンはこれらの女性たちと話しながら,仲間の教会員に対して腹を立てている人たちがいることに気づきました。また,信仰を失った人たちや,改宗する前の生活に戻っている人たちもいました。ある女性たちは,フィリピンの教会で用いられているおもな言語である英語とタガログ語が分からないために,集会を楽しんだり,そこから多くを得たりすることができずにいました。教会はフィリピンで使われている200近い言語や方言で資料を利用できるように取り組んでいましたが,コミュニケーションは教会員の間の主要な問題でした。
岡崎姉妹は1996年2月24日の朝にイロイロ市に到着しました。マリダンとガルシア会長は,岡崎姉妹とアウグスト・A・リム長老,ミルナ・リム姉妹を空港で出迎えた歓迎委員会の一員でした。
その日の残りの時間,マリダンと彼女のステークの会員たちは岡崎姉妹とリム長老から教えを受けました。最初のレッスンで,岡崎姉妹は教義と聖約第107章を使って,教会における自分の義務を学び,果たすことの大切さを強調しました。その晩,岡崎姉妹はステークの全会員を前に,天の御父からの祝福を求めることについて話しました。
「愛する姉妹と兄弟の皆さん,わたしたちは心の望みを求めることができます。信仰と確信を持って,求めることができます。愛にあふれた御父はわたしたちに耳を傾けてくださると,わたしたちは知っています。御父は可能なときにはわたしたちの望むものを喜んで与えてくださいます。」
翌日は日曜日で,岡崎姉妹はイロイロシティーワードの集会に出席しました。その間,岡崎姉妹は扶助協会の姉妹たちが彼女の教えを理解できるように,姉妹たちの母語で助言を与えるようマリダンに指示し,励ましました。その午後出発する前に,岡崎姉妹はマリダンに,リーダーシップについての1冊の本を贈りました。
数か月後,マリダンとフィリピン人聖徒たちは,また別の教会指導者に会う機会を得ました。ゴードン・B・ヒンクレー大管長です。就任以来,ヒンクレー大管長は世界中を旅して聖徒たちのもとを訪れていました。フィリピンでは,マニラとセブシティーを訪れました。
マニラに滞在中,ヒンクレー大管長は地元のテレビ局で教会についての質問に答えました。一つの質問は,大管長会と十二使徒定員会が当時発表した宣言である,「家族—世界への宣言」についてでした。長年,教会の指導者は結婚と家族についての伝統的な教えが世界中で変わりつつあることに懸念を抱いていました。宣言では,男女の間の結婚は神によって定められたものであり,家族は神の救いの計画に不可欠であることが断言されました。命の神聖さが支持され,すべての人は天の両親から愛されている息子や娘であり,神の形に創造されていて,神の属性と神聖な行く末を持っていることが宣言されています。また,親たちに対して,子供たちを愛し,義をもって育て,夫婦は対等のパートナーとして協力し,「信仰と祈り,悔い改め,赦し,尊敬,愛,思いやり,労働,健全な娯楽活動」に基づいて家庭を確立するよう求めています。
ヒンクレー大管長はフィリピンでのインタビューで説明しました。「家族は神によって定められた組織です。神はわたしたちの永遠の御父であられ,わたしたちは人種や肌の色,そのほかのいかなることにもかかわらず,神の子供です。わたしたちは皆,御父の子供なのです。わたしたちは神の家族の一員です。」
後に,コロシアムを埋めた3万5,000人の聖徒たちに対して,ヒンクレー大管長は,なぜフィリピンではこれほど急速に教会が成長しているのかと人々から尋ねられることがあると述べました。
「その答えはシンプルです。この教会は錨です。価値観の揺らぐ世界における真理の確かな錨です」と大管長は言いました。
そして次のように続けました。「教会に加わり,その教えにしっかりつかまるすべての男女は,より良い生活を送り,より幸福な男性や女性になり,その心に主と主の道への大きな愛を抱くようになるのです。」
1996年3月のある晩,ベロニカ・コントレラスは夫のフェリシンドとともに,チリのサンティアゴにある自分たちのワードの建物の外に立っていました。彼らは5人の子供たちのためにより良い教育の機会を求めて,チリ南部のはるかに小さな町パンギプリから首都に移ってきたところでした。それによって,彼らはチリ・サンティアゴ神殿により近い場所に住み,確立されたセミナリーのクラスや青少年の活動が提供される,ステークに所属することにもなります。日曜日ではありませんでしたが,夫婦は集会所でほかの教会員に会えるのではないかと思いました。しかし到着すると,玄関は閉まっていました。周りにはだれもいませんでした。
同じ週,夫婦は自転車に乗った一組の宣教師を呼び止めて,自分たち家族がビショップに連絡を取れるよう助けてほしいと頼みました。間もなく,ビショップがコントレラス家族を訪れて,ワードに歓迎してくれました。しかしビショップの訪問は,教会での最初の日曜日に彼らを待ち受けている事柄に一家を備えるものとはなりませんでした。
パンギプリでは,聖徒たちは集会所を自分の家のように扱い,よく掃除をして,きれいに保っていました。しかし,サンティアゴの集会所に足を踏み入れたベロニカは驚きました。床や壁に,靴の跡や,廊下を走る子供たちの自転車のタイヤの跡が付いていたのです。ワードには記録上700人以上の会員が在籍していましたが,聖餐会の間,ほとんどの席は空席でした。
悲しいことに,コントレラス夫妻が新しいワードで発見した問題は,チリに特有のものではありませんでした。南アメリカ全域で,改宗者のバプテスマの数は1980年代から1990年代の始めにかけて急速に増加し,何十ものステークが作られました。しかし,世界中で多くの新会員が,バプテスマ後も回復された福音に献身し続けることに苦労していたのです。
教会の指導者たちは,最近加わった改宗者の定着について以前から懸念を抱いており,この問題に様々な方法で対処しようとしてきました。1986年には,地元における七十人の神権の職がなくなり,地元の長老定員会が強化されました。また,宣教師たちも,新会員に対するフェローシップにより多くの時間を割くよう奨励され,教会は最近の改宗者が適応するのを助けるために,新会員のための6つのレッスンを作りました。けれども,このレッスンを受けない人が大勢いました。そして,このサンティアゴのワードのようなユニットは,しばしば仕事量の多さに圧倒されていました。ワードの聖徒たちの総数と比べて,あまりに少数の会員しか集会に出席していなかったのです。
コントレラス家族の新しいビショップは善良で忠実な人でしたが,働きを分担する顧問はいませんでした。また,仕事に長い時間を費やさなければならなかったため,平日に会員と会えないこともしばしばでした。ベロニカとフェリシンドはビショップと会ったとき,必要なときにはいつでも奉仕して助けたいと申し出ました。すぐに,いちばん年長の娘がワードでオルガンを弾くようになり,息子たちはほかの若い男性たちと一緒に奉仕するようになりました。フェリシンドは,家族歴史と神殿の業を手助けし,ステーク高等評議会で奉仕し始めました。一方,ベロニカはワード扶助協会会長に召されました。
ほかの人々も奉仕に加わりました。しかし,それでもワードがより良く機能するように助けるには,なすべきことがまだたくさんありました。
1992年10月に香港神殿が発表されると,ノラ・クート・ジュエ(葛肇媛)は歓喜しました。彼女が南部極東伝道部で奉仕してから30年以上の月日がたっていました。その間,ノラはアメリカ合衆国に移住し,レイモンド・ジュエと言う名前の中国系アメリカ人と結婚し,4人の子供を育てました。しかし,香港における教会の初期の中国人改宗者としての経験を忘れることは決してありませんでした。子供たちが寝るときには,そのころの話を聞かせていました。
レイモンドは家族皆で神殿の奉献に行くべきだと思いました。
「いいえ」とノラは言いました。「お金がかかりすぎるわ。」
しかしレイモンドは主張を変えませんでした。「行くべきだよ。」
家族は資金を貯め始めました。子供たちはすでに成人していて,主の宮が母親にとってどれほど大切なものであるかを知っていました。1963年にアメリカ合衆国に移住したとき,ノラはまずハワイに立ち寄って,ライエの神殿で自身のエンダウメントを受けました。後に,レイモンドとロサンゼルス神殿で結び固められ,それから間もなく,カリフォルニア州サンフランシスコ・ベイエリアにある彼らの家の近くに,オークランド神殿が奉献されました。やがてノラとレイモンドはその神殿の神殿ワーカーとなり,ノラは標準中国語,広東語,ミャオ語,そのほかの言語で神殿の儀式を執行する機会を得ました。
香港神殿が1996年5月に完成すると,教会は2週間にわたってオープンハウスを行いました。ノラと家族は神殿が奉献される3日前の5月23日の夕方に香港に到着しました。空港から出ると,ノラは温かい湿った空気に包まれるのを感じながら,
それからの数日間,ノラは家族を連れて香港の町を案内しました。長女のローリンも香港で伝道していたため,彼らはその地域を一緒に再び訪れて楽しい時間を過ごしました。かつて知っていた通りや建物をノラが子供たちに見せていると,子供たちの心の中に幼いころに聞いた物語がよみがえりました。真っ先に子供たちを連れて行った場所の一つは神殿で,それはノラが若い女性のころに多くの時間を過ごした古い伝道本部があった場所に建てられていました。その場所がこれほど神聖な目的に捧げられたのを見て,ノラはこの上なく幸せでした。
5月26日日曜日の朝,一家はノラの伝道部会長であったグラント・ヒートンと,南部極東伝道部でかつて宣教師として奉仕したほかの人々とともに,特別な聖餐会に出席しました。集会の間,ヒートン会長と宣教師たちが証を述べました。ノラの番になると,彼女は立ち上がり証をしました。「わたしの中で御霊が燃えています。わたしはこの地とこの伝道部の産物です。そのことに感謝しています。」
翌朝,ノラと家族は香港神殿の日の栄えの部屋で一緒に座りました。トーマス・S・モンソン管長が集会を開会し,十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老が話をしている間,ノラの顔は輝き,ほほえんでいました。人生が一巡して元の場所に戻って来たように感じました。その42年前,彼女はハロルド・B・リー長老に,香港に再び教会を送ってもらえるよう嘆願しました。当時,この町にはほんの少数の聖徒たちしかいませんでした。今では香港には主の宮があり,ノラはそこに夫と子供たちとともにいるのです。
集会の最後に,トーマス・S・モンソン管長が奉献の祈りを読み上げました。「あなたの教会はこの地で成長し,たくさんのあなたの息子や娘の人生を祝福してきました。福音を受け入れ,あなたと交わした聖約に忠実であり続けてきたすべての人々のことを,あなたに感謝いたします。この聖なる神殿が奉献されたことで,この地域におけるあなたの教会は今,完全に成熟しました。」
「主のみたまは火のごと燃え」を皆で歌っていると,ノラの頬を涙が伝いました。閉会の祈りが終わると,彼女は夫と子供たちを集めて抱き締めました。心が満たされていました。
その晩,一家はかつての伝道部のリユニオンに出席しました。少し遅れて到着すると,皆はすでに部屋で談笑しています。ノラが入っていくと人々は話すのをやめ,一人一人が称賛と敬意を込めてノラにあいさつするのを,家族は畏敬の念を抱いて見ていました。
ノラが古い友人たちと話していると,一人の年配の男性がノラの肩をたたきました。「わたしを覚えていますか」と男性は尋ねました。
ノラは彼を見て,すぐに分かったという表情をしました。幼い少女のころに出会った最初の宣教師の一人,ハロルド・スミスでした。ノラは子供たちにハロルドを紹介しました。
「わたしは大した働きもできなかったように思いますが」とハロルドは言いました。ノラが自分を覚えていたことが信じられませんでした。
「自分を救ってくれた人のことは忘れないものです」とノラは言いました。
1997年5月,ザイール政府は長年の戦闘状態と政治的混乱の後に崩壊しました。30年以上にわたって国を支配したモブツ・セセ・セコ大統領は死の床にあり,今や体制の崩壊を止める力はありませんでした。ザイールの東の隣国ルワンダから,内戦を逃れて亡命した反政府勢力を追って軍隊が国境を越えて入って来ました。ほかの東アフリカ諸国もすぐにこれに続き,最終的にはほかのグループと手を結んで,弱体化した大統領を追放し,新しい指導者を立てると,国名をコンゴ民主共和国(DRC)に変えました。
教会は紛争が猛威を振るう間も,この地域で活動を続けました。コンゴ民主共和国には約6,000人の聖徒たちがいました。キンシャサ伝道部は5つの国を担当し,17人の専任宣教師がいました。1996年7月,この地域から数組の夫婦が2,800キロを旅して,南アフリカ・ヨハネスブルグ神殿で神殿の祝福を受けました。数か月後の11月3日,教会の指導者たちはキンシャサステークを組織しました。コンゴ民主共和国で最初のステークであり,アフリカで最初のフランス語ステークでした。また,伝道部には5つの地方部と26の支部がありました。
ルプタでは,そのころには27歳になったウィリー・ビネネが,国内の騒乱にもかかわらず,依然として伝道に出たいと望んでいました。しかし,その希望を伝道部会長会の顧問であるンタムブエ・カブウィカに伝えると,失望するような知らせを聞きました。
「兄弟」とカブウィカ会長は切り出しました。「年齢制限は25歳までです。あなたを伝道に召すことはできません。」それから,慰めの言葉としてこう続けました。「あなたはまだ若いです。学校に行けますし,結婚もできます。」
しかし,ウィリーは慰めを感じませんでした。失望でいっぱいでした。年齢のために伝道に出られないなんて不公平に思えました。自分に起こってきたことを考えれば,例外を設けてくれてもよいのではないだろうか。そもそも主はなぜ伝道に出たいという気持ちを自分に与えられたのだろうかと疑問に思いました。その促しに従うために,教育とキャリアを先延ばしにしてきたのです。何のためだったのでしょう。
「このことに心を悩ませてはいけない」と,ウィリーは最終的に自分に言い聞かせました。「神を責めることなどできないのだ。」今いる場所にとどまり,主から求められることをすべて行おうと決意しました。
その後,1997年7月,ルプタの聖徒たちは正式に支部に組織されました。財政担当書記と支部宣教師に召されたウィリーは,自分が住んでいる場所で教会を確立するよう,主は自分を備えてこられたのだと理解しました。「そうだ,自分の伝道地はここなんだ」とウィリーは言いました。
ルプタ支部のほかの数人の聖徒たちも,支部宣教師に召されました。週に3日は,ウィリーは作物の世話をしました。それ以外の日は,家から家へと訪問し,人々に福音について話しました。その後,たった1本のズボンを翌日のために洗濯するのでした。ウィリーはなぜ自分がこれほど熱心に福音を宣べ伝えているのかよく分かりませんでした。空腹のまま出かけなければならないときは特にそうでした。しかし,自分が福音を愛していることを知っており,同胞に,そしていつの日か先祖にも,自分が受けている祝福を受けてほしいと望んでいました。
その業には困難が伴いました。支部宣教師を脅す人たちや,宣教師を避けるようほかの人々に警告する人たちがいました。数人の村人が集まってモルモン書を破壊することさえありました。「モルモン書を焼き払えば,教会も消えてなくなるだろう」と彼らは言いました。
それでも,ウィリーは主が彼の努力を通じて奇跡を行われるのを見ました。あるとき,彼と同僚がある家のドアをノックすると,開いたドアから悪臭が漂ってきました。中から,自分たちを呼ぶ小さな声が聞こえました。「どうぞ」とその声は言いました。「わたしは病気です。」
ウィリーと同僚は家に入るのをためらいましたが,それでも足を踏み入れると,衰弱した様子の男性がいました。「祈ってもいいでしょうか」とウィリーたちは尋ねました。
男性が同意したので,彼らは祈りをささげ,病気が治るように男性を祝福しました。「明日また来ます」と二人は男性に言いました。
翌日,ウィリーたちは男性が家の外にいるのを見ました。「あなたがたは神の人です」と彼は言いました。二人が祈ってから,体調が好転したのです。男性は喜びで跳び上がりたい気持ちでした。
その男性はまだ教会に入る準備はできていませんでしたが,準備のできている人たちもいました。毎週,ウィリーとほかの宣教師たちは,聖徒たちと一緒に礼拝することを望む人々と会い,時には家族全員と会いました。土曜日には,最も多いときで30人にバプテスマを施しました。
1997年6月5日,ゴードン・B・ヒンクレー大管長はメキシコのコロニアフアレスで,大きなイベント用テントの下の説教壇に立っていました。その前には,約6,000人の人々が座っていました。大管長は聴衆に向かって冗談を言いました。「教会には皆さんのことを少し気の毒に思っている人たちがいます。皆さんはだれからも遠く離れてしまっているようですから。」
1880年代にアメリカ合衆国政府が多妻結婚を厳しく取り締まっていた時期にアメリカ合衆国からやって来た教会員たちは,コロニアフアレスやほかのメキシコ北部の町に定住しました。これらの町は乾燥したチワワ砂漠にあり,ほかの主要な町からは約300キロも離れています。彼らの地域にある教会が運営する学校,フアレスアカデミーが創立100周年を迎えようとしており,ヒンクレー大管長はその記念のために訪問していました。
ヒンクレー大管長はコロニアフアレスの聖徒たちの歴史を知っており,信仰を保ってきた彼らの決意をたたえました。そしてこのように言いました。「困難と苦悩の時にも,皆さんは互いに助け合ってきました。ほかに頼るべき人がいなかったからです。そうして,一つの大きな家族になったのです。」
翌日,ヒンクレー大管長は学校の卒業式で話をし,新しく改築されたアカデミーの建物を再奉献しました。その後,コロニアフアレスステークの会長であるメレディス・ロムニーが,車で北に300キロのところにあるテキサス州エルパソの空港まで大管長を送りました。
エルパソへの道はでこぼこ道でした。最初,ヒンクレー大管長はロムニー会長と話をして時間を過ごしました。しかし,しばらくすると会話は途切れ,ヒンクレー大管長はコロニアフアレスの聖徒たちと,彼らが主の宮に参入するために必要な長距離の旅に,静かに思いをはせました。「この人たちを助けるために何ができるだろうか」と大管長は考えました。
この問いは,世界中の聖徒たちに関係するものでした。12を超える神殿が当時計画されているか建設中で,教会員の85パーセントが,間もなく自分の住む地から500キロ以内に神殿を持つようになります。例えばブラジル北部では,以前は数千キロを旅してサンパウロの神殿に参入していた聖徒たちにとって,ブラジル北東部の沿岸都市レシフェにできた新しい神殿ははるかに近いのです。サンパウロの北約90キロにある町カンピーナスに新たに建設が発表された神殿も,ブラジルの60万人の聖徒たちにとって神殿の祝福をより受けやすいものとするでしょう。すぐに,ポルトアレグレ,マナウス,クリティーバ,ブラジリア,ベロオリゾンテ,リオデジャネイロといった町でも神殿が必要になるでしょう。
しかしヒンクレー大管長は,さらに多くの聖徒たちにとって神殿をもっと身近なものにしたいと思っていました。教会員が回復されたキリストの福音に忠実であり続けるのを助けるうえで,主の宮が重要な役割を果たすと,大管長は確信していました。そのころ,預言者は新しい改宗者のうち,1年後に教会に出席し,参加している人はわずか20パーセントであることを知りました。この驚くべき数字は大管長と顧問たちを悩ませ,5月に,大管長会はすべての教会員に手紙を送りました。
「わたしたちは,イエス・キリストの福音の証を受けたけれども,聖徒たちの間の親しい交わりがもたらす,支えとなる温かさを感じることができていないあらゆる年代の多くの兄弟姉妹について深く懸念しています」と,手紙には書かれていました。「あまりに多くの人が,神権がもたらす祝福と神殿の聖約の約束を受けられずにいます。」
そして,「すべての新会員は,3つのものを必要としています」と手紙は続きました。「友達と,責任と,そして福音研究を通じた霊的な養いです。」
コロニアフアレスでは,教会には地元の聖徒たちにこのような支援を提供するために必要なものがほとんどすべてそろっていることに,ヒンクレー大管長は気づきました。ただ一つ欠けているのが主の宮です。同じことが,世界中の遠隔地にあるステークに当てはまりました。しかし,神殿を利用し,維持する聖徒の数が十分ではない場所に神殿を建設することを正当とするのは難しいことでした。
大管長は神殿のランドリーや食堂にかかる高額の費用について考えました。どちらも,神殿参入者にとって便利なサービスを提供しています。しかし,参入者が自分の神殿用の衣服を持参し,食事もほかの場所で取るのはどうでしょうか。
長年,ヒンクレー大管長は世界各地により多くの神殿を建てるために,一部の神殿の設計を変更することについて考えてきました。すでに,教会はライエやサンパウロ,フライブルク,香港といった場所で,神殿の設計を地元の聖徒たちの必要に合わせたものにしていました。バプテスマ室と,確認,イニシャトリー,エンダウメント,結び固めのための部屋という,必要最小限のものだけを備えた神殿を建ててはどうでしょうか。もし教会がそのようにしたなら,主の宮を至る所に建てることができ,もっと多くの聖徒たちにとって神聖な聖約と儀式がより身近なものになります。
後にヒンクレー大管長は,自分が思い描いているような種類の神殿の簡単な見取り図をスケッチしました。霊感がはっきりと,力強く訪れました。ソルトレーク・シティーに着くと,スケッチをモンソン管長とファウスト管長に見せ,二人はその案に賛同しました。十二使徒定員会もこの考えを支持しました。
最後に,ヒンクレー大管長はスケッチを教会建築士のところに持って行きました。建築士はスケッチを検討しました。