第33章
これはどこの教会ですか
2002年4月28日,ヒンクレー大管長がメキシコのヌエボレオン州モンテレーで主の宮を奉献したとき,メキシコ北東部の聖徒たちは歓喜しました。この神殿は教会の110番目の稼働中の神殿であり,この3年の間にメキシコで奉献された11番目の神殿でした。ヒンクレー大管長が思い描いたとおり,1998年に教会が新しい神殿のデザインを使用し始めてから58の神殿が奉献され,至る所に祝福と奇跡が広がっていました。神殿に参入するために数日かけて移動していた聖徒たちは,今では数時間で,それどころか分単位で到着できるようになりました。
神殿建設の急速な発展による恩恵を最初に受けた聖徒たちの中に,教会のメキシコ入植地の人々がいました。彼らの孤立した状態こそが,新しい神殿のデザインをもたらした霊感の源でした。1999年3月に奉献されたチワワ州コロニアフアレス神殿は,約630平方メートルという教会で最も小規模の神殿でしたが,すぐに地域社会における灯台的存在となりました。
近くのヌエボカサスグランデスで教会に出席していたベルタ・チャベスは,神殿会長会の顧問から新しい神殿の儀式執行者になるよう招かれたとき,うれしく思いました。主の宮で奉仕することは,1987年にアリゾナ州メサ神殿で自身のエンダウメントを受けてからの夢でした。今,その夢がかなったのです。
「それはすばらしい,すてきなサプライズでした。わたしは飛び跳ね,喜びに涙し,主の宮で奉仕するというこのすばらしい機会を与えてくださった主に感謝しました」と,ベルタは回想します。
大西洋の向こう側では,マリレナ・クレトリー・プレテル・ブストが,ポルトガルの家から最近奉献されたスペイン・マドリード神殿に向けて旅していました。1年前に,彼女の101歳の祖母が亡くなりました。マリレナは祖母の身代わりに儀式を受けるのが待ちきれませんでした。
主の宮で,マリレナは祖母のためにバプテスマを受けるときに何か特別なものを感じるのではと期待していましたが,何も感じませんでした。確認やエンダウメントの儀式の間も何も感じませんでした。最初,この何も感じない状態に,マリレナは不安になりました。それでも祖母をその両親と結び固める用意ができ,結び固めの部屋の聖壇でひざまずいたときには,神殿の儀式ができたことをただうれしく思いました。
そして結び固め執行者が話し始めると,マリレナは体中に衝撃が駆け巡るのを感じました。感じたものを正確に言い表すことはできませんでしたが,祖母が霊界で喜んでいると確信しました。
一方ボリビアでは,2000年4月にコチャバンバ神殿が奉献されて以降,この国にいる10万人の聖徒たちの多くが参入に備えていました。強い家族こそ教会員が神殿に参入するための備えになると信じ,コチャバンバのステーク扶助協会会長であったマリア・メルカウ・デ・アキノは,夫婦の関係を強め,女性たちに自分の持つ価値にもっと気づいてもらうことを目的とした集会を計画しました。
同じステークで,アントニオ・アヤビリとグロリア・アヤビリは,新しい神殿によって自分たちの家族が強められていくのが分かりました。「福音と神殿の祝福の中で生活している現在,子供を育てることはそれほど難しいことでなくなりました。わたしたちの家庭では,天国を垣間見ることができます」とアントニオは証しました。
日本の福岡にある主の宮も,人々の人生を変えていました。福岡ステーク会長の山下和彦が,日本の大阪で開かれた世界万博でモルモンパビリオンを訪れた後,教会に加わってから,30年以上がたっていました。救いの計画を信じる信仰が,和彦に導きを与え続けていました。彼と妻の田鶴子は1980年に東京神殿で結び固められ,二人には6人の子供がいました。
奉献された福岡神殿は西日本の教会におる霊的力の中心になりました。オープンハウスの間,和彦は多くの聖徒たちが熱意をもって,主の宮を見に来るように家族や友人たちを招いていたことを知り,うれしく思いました。群れから離れていた何名かの聖徒たちも戻って来ました。神殿の否定しようのない影響力によって,彼らの信仰に再び火がともったのです。奉献式の間,日の栄えの部屋に座りながら,和彦は完全な平安を感じていました。主がそこにおられること,そして日本の聖徒たちを愛しておられることを強く感じました。ヒンクレー大管長の方を見たとき,和彦は預言者の目に涙を見ました。
メキシコのモンテレーにできた新しい神殿は,すぐに祝福をもたらしました。ロマン・ロドリゲスとノーマ・ロドリゲスは,神殿のオープンハウスに参加した後に教会に加わりました。当時,彼らは結婚生活15年目を,盛大な式によって新たに歩み始めようと考えていました。しかしその計画をどうしても正しいと感じることができず,促しを受けたノーマは神に導きを祈り求めたのでした。
翌年,ノーマとロマンは3人の子供たちとともに再びモンテレー神殿を訪れました。彼らはもはやお金をかけた盛大な結婚式をしたいとは思いませんでした。結び固めの力が持つ美しい,永遠の約束により,彼らはずっと求めていた結婚式を見いだしたのです。
2002年4月に中央扶助協会会長会の第二顧問に召されたとき,アン・ピングリーは末日聖徒の女性たちの読み書きの能力について懸念していました。1995年から1998年にかけて,彼女と夫のジョージは,ナイジェリア・ポートハーコート伝道部の伝道部指導者を務めました。そのときに出会った女性たちの多くが字を読むことができず,そのことが彼女たちにとって教会での奉仕を難しいものとしていたのです。
1970年代から80年代に教会が発展途上国で成長するにつれて,人々に読み方を教えることが教会の使命の一部となっていました。1992年,中央扶助協会会長のイレイン・L・ジャックは,識字能力の向上を会長会のおもな取り組みの一つとして,読み方を教え,教会員たちが聖文を研究し,家族を教え,自分自身を向上させるのを奨励する,「福音リテラシーの取り組み」を創設するに至りました。
アンは伝道前にジャック会長の管理会で奉仕しており,ナイジェリアに到着すると,宣教師や地元の聖徒たちとともに福音を適切に理解して実践する能力の促進のために働きました。また扶助協会中央管理会とユタ州の芸術家の助けにより,シンプルな訓練用ポスターと小冊子が完成し,読むことに困難を抱えていた伝道部内の女性たちの助けとなりました。これらの資料を使うにつれて,アンは自信と理解力を持って召しを果たす女性がどんどん増えていくのを目にしました。
中央扶助協会会長会としての1年目に,アンは扶助協会の識字プロジェクトの担当になりました。研究によれば,発展途上国の女性は男性に比べて教育の機会が少なく,それが低い識字率につながっていることが示されていました。また,聖徒たちは読み方を知っている方が,教会にとどまり,定期的に集会に出席する傾向が強いことを示す証拠もありました。アンとともに,中央扶助協会会長のボニー・D・パーキンと第一顧問のキャスリーン・ヒューズは,扶助協会の会員が読み方を学ぶのを助けることで,教会で効果的に奉仕し,家族を強め,より良い仕事を見つけ,イエス・キリストに対するより確固とした証を得られるように彼女たちを強めることができると確信していました。
パーキン会長の下で,扶助協会管理会は福音リテラシーの取り組みを引き続き強調しました。また,聖徒たちに,教会教育システムが開発した識字能力向上のためのテキストであるYe Shall Have My Words(『わたしの言葉を手に入れるであろう』)を使うよう勧めました。アンと同じように,管理会は多くの教会員が,彼らには何の落ち度もないのに,教会に多くある手引きやレッスンのテキストを読めない,または理解できないために,召しを果たすうえで苦労していることを理解していました。
会長会がこの問題について話し合う中で,アンは自分がナイジェリアで使っていたような簡素化された訓練用小冊子を世界中で使えないだろうかと言いました。パーキン会長は,扶助協会中央管理会でも,識字率が低い地域の会員たちを助けるために同様のパンフレットを開発するべきだと思いました。
この実現に向けて,中央管理会はともに協力して奉仕する人物として,アンがナイジェリアで出会った末日聖徒,フローレンス・チャクウラーを推薦しました。夫であり,地域幹部七十人であるクリストファー・N・チャクウラーが教会本部で訓練を受けている間,フローレンスはソルトレーク・シティーを訪れていました。看護師を職業とするフローレンスは,貧困の中で育っており,教会の歴史がまだ浅い場所で生活するのがどのようなものかを理解していました。
大管長会はこの推薦を承認し,パーキン会長はフローレンスに,識字委員会とともに働く割り当てを与えました。間もなく,彼女は管理会のほかのメンバーとともに,簡素化された訓練用パンフレットの開発に取り組んでいました。
アンは,識字の業が前進するのを見て,大きな喜びに包まれました。「あっという間の出来事だわ。一体どうなってるのか分からないくらいに」と彼女は思いました。
フィリピンでは,セブ・ソレスタが,家に戻れたことに感謝していました。彼の不在は妻のマリダンと3人の息子たちにとって重い負担となっていました。今,家族は毎日をともに過ごし,セブは祝福を感じていました。息子たちと顔と顔を合わせて話し,教会に活発であるように励まし,伝道への備えを助けることができました。
セブが戻ったとき,マリダンはイロイロ市の複数のステークのための,教会の広報コーディネーターとして奉仕していました。この召しにおいて,彼女はコミュニティーと政府のリーダーたちに教会について知ってもらう手助けをしました。また,教会と宗教団体や奉仕団体が連携して,眼科検診や献血などのプロジェクトを支援するようにしました。一方,セブはイロイロ北ステークで高等評議員になりました。
そのころ,大管長会は依然として,教会の出席率が低い地域の聖徒たちについて懸念していました。フィリピンには50万人近い聖徒がいましたが,定期的に集会に出席しているのは約20パーセントだけでした。この懸念を背景として,ヒンクレー大管長はダリン・H・オークス長老をフィリピン地域会長として,またジェフリー・R・ホランド長老を,同様の問題を抱えていたチリ地域の会長として奉仕するよう召しました。二人の使徒たちは,1年間の任期で,2002年8月に奉仕を始めました。
フィリピンで,オークス長老と顧問たちは定期的に,ステークや伝道部,地域の指導者たちと会いました。マニラでの特別訓練集会で,オークス長老は,救いの計画,神の戒め,そして現代の預言者の教えに基づいた「福音の文化」を受け入れることの重要性について話しました。オークス長老は福音の文化の要素が,地元の文化のここかしこに見られることを観察していました。しかし地元の文化には,イエス・キリストの教えと調和しない面もありました。
オークス長老はこう教えました。「わたしたちがバプテスマのときに交わす聖約は,変化した生活を送ることを約束するものです。福音の戒めや聖約,文化と相反する,現存する文化的な慣習や行いのすべての要素を変えなくてはなりません。」
オークス長老は,福音の文化は,純潔,神殿結婚,正直,自立,結婚関係における平等のパートナーシップを促進することで家族と個人を強めるものであると強調しました。そして指導者たちに,救い主の教義を教えることと,主を信じる信仰を築くことを,聖徒たちの間の最優先事項とするように促しました。また,伝道活動と,再活発化の取り組みや定期的な青少年の活動のバランスを取ることにより,ワードを強くするようにも助言しました。
この訓練の後,セブをはじめとするイロイロ北ステークの指導者たちはワードのビショップリックたちに,群れに連れ戻す家族を特定するように言いました。指導者たちは,両親が教会に戻って来れば,彼らはきっと子供たちも一緒に連れて来るだろうと信じていました。そうして子供たちは教会で将来の宣教師や指導者となるでしょう。
10代の子供たちを持つ父親として,セブは特に青少年について懸念していました。アロン神権定員会と若い女性のクラスがあまり活発でないことが,地域の大きな問題でした。フィリピンでアロン神権の3つの定員会がすべて機能しているワードや支部は10パーセントもありませんでした。そしてほとんどのユニットでは平日の青少年の活動が行われていませんでした。
イロイロ北ステークはこの問題に取り組み,たとえ一人か二人しかいなくても定期的に青少年のクラスを開くよう,ワードに奨励しました。どんなに規模が小さくても機能しているクラスや定員会があれば,若い女性や若い男性は日曜日の集会や平日の活動に友人を招くことができます。
セブは,友情を育み,良い模範を見つけることができる教会の活動に,青少年が参加する必要があると信じていました。地元の指導者たちが活動に必要な費用を賄う十分な予算がないとの懸念を表したとき,セブやほかのステーク指導者たちは,かまわずに活動を計画するように言いました。もしさらに資金が必要であれば,ステークが提供することができました。
セブはオークス長老から学んだことを当てはめてステークの聖徒たちに仕えながら,教会と家庭での自分の責任について深く思い巡らしました。福音の文化について話すときオークス長老は,セブがしていたような長期間家族を離れて働くことに対し,フィリピンの聖徒たちに忠告をしました。フィリピンでは海外で働く以外にほとんど選択肢がない人もいましたが,セブは自分と家族はイロイロ市で幸せに暮らし,必要な収入を得られることを知っていました。
彼にとっては,どれほど物質的な利益があったとしても,それは家族と長く離れていたことの埋め合わせにはなりませんでした。
2003年4月,14歳のブレーク・マッケオンは,17歳の兄ウェイドと一緒に,オーストラリアのシドニー郊外にあるボウカムヒルズのステークセンターに到着しました。普段,ステークセンターは穏やかで静かな場所でした。しかし今日は,駐車場には大きなテントが設置され,敷地はニューサウスウェールズ中のステークから集まった青少年で埋め尽くされていました。彼らは,現在オーストラリアでは,Time for Youth(「青少年のための時間」)または「TFY」として知られる,EFYカンファレンスに参加するためにやって来たのでした。
ブリスベンでのEFYが成功を収めた後,地域会長会はオーストラリアとニュージーランドのステークに,自分たちのイベントを企画するように奨励しました。2002年,メアリー・マッケナと委員会はブリスベンで,そして2003年にはニュージーランドで,TFYを企画しました。ボウカムヒルズでのTFYは,ブリスベン以外にオーストラリアで初めて開かれたものでした。
ブレークは教会で育ってきたものの,これほど多くの末日聖徒の青少年が一つの場所に集まっているのを見たことがありませんでした。ブレークとウェイドは,ボウカムヒルズステークセンターから車で約45分ほどの所にあるペンリスから来ていました。彼らのワードには強い青少年のグループがありましたが,オーストラリアでは末日聖徒は人口の0.5パーセントしかいないので,青少年の活動にはステーク規模であっても数十人以上が出席することはほとんどありませんでした。ブレークの高校では,彼と兄のほかには二人しか教会員がいませんでした。
TFYが始まると,ブレークとウェイドは滅多に顔を合わせることがありませんでした。EFYに倣って,イベントの参加者はヤングシングルアダルトのカウンセラーに率いられる小さな班に分かれました。これらの班で,青少年たちは順々に様々な活動に参加していきました。また奉仕プロジェクトに参加し,ディボーショナルや話を聞き,歌を教わり,聖文を研究し,タレントショーで歓声を送り合い,ダンスに参加しました。
カンファレンスのテーマは「わたしたちは信じる」で,その年のセミナリーのコースであった教義と聖約に焦点が当てられました。話者やカウンセラーたちはこのテーマを用いながら,霊的な経験を分かち合い,参加者たちにキリストのもとに来て,祈り,日記をつけ,福音のそのほかの基本に従って生活するように勧めました。証会も,青少年が救い主とその回復された福音に対する証を仲間に分かち合う機会となりました。
教会では,ブレークは集会中にじっとしていられないことがよくありましたが,それでも両親から授かった良い信仰の礎を携えてTFYにやって来ました。ブレークとウェイドは末日聖徒の3世であり,彼らの両親と祖父母はいつも信仰と奉仕のすばらしい模範でした。
若い男性のプログラムも彼を強めてきました。執事として,ブレークは定員会会長に召されました。ビショップは彼に,定員会のほかの11人の少年の中から2人の顧問と書記を選ぶように言いました。導きを求めて祈った後,翌週ブレークは3人の名前を持ってビショップのもとへ行きました。ビショップが自分のリストをブレークに見せると,そこには同じ3人の少年の名前がありました。ビショップは3人の名前を違う順番で書いていましたが,ブレークのリストと一致するように自分のリストを修正しました。この経験により,ブレークは祈りと,指導者としての自分の能力について自信を得ることができました。
ブレークはあまり社交的な方ではありませんでしたが,TFYでほかのワードやステークからの新しい友人を作ることを楽しく感じました。毎日の終わりに,ブレークとウェイドは家に帰ってよく休み,翌日朝早くカンファレンスに戻って行きました。
二人ともTFYでの3日間が自分にどんな影響を与えたか気づいていませんでしたが,母親は変化を目にしていました。楽しい活動やゲームの最中にも,TFYは青少年たちに新しい環境で御霊を感じる機会を与えていました。帰って来たブレークとウェイドは,もっと聖文に心を向けるようになり,自分の証に少し自信が増していました。
2004年1月10日の午後,ジョルジュ・A・ボネはヒンクレー大管長とラッセル・M・ネルソン長老,そして数千人の西アフリカの聖徒たちとともに,ガーナのアクラにあるスポーツスタジアムに集まりました。預言者は,新しい神殿を奉献するためにこの町に来ていました。しかし奉献式の前に,ヒンクレー大管長はガーナのステークと地方部の子供たちと青少年たちに,喜びあふれる音楽とダンスによる文化の祭典を開いてこの出来事を祝うように頼んでいました。大管長は,神殿の奉献に際してそのような祭典を開くことは,若い人々にとって忘れられない思い出となり,教会が楽しみになると信じていました。
開会の祈りの後,美しい壁画で飾られた大きなステージで,色とりどりの衣装に身を包んだグループがパフォーマンスをしました。歌を歌った演者もいました。アドワやクパンロゴといったガーナのダンスを踊る人や,太鼓や竹笛を使って伝統音楽を演奏する人もいました。
その午後のハイライトは,宣教師たちがステージに上がり,宣教師の賛歌である「われらは天の王に」を歌ったときでした。さらに,850人の初等協会の子供たちが皆,白い衣装を着て舞台に上がり,宣教師と一緒に「神の子です」を歌いました。
翌朝,ジョルジュは感謝の気持ちで目覚めました。奉献の日がとうとうやって来たのです。9時に,ジョルジュはヒンクレー大管長とネルソン長老とともに,日の栄えの部屋で奉献式の最初のセッションに参加しました。セッションは,ヒンクレー大管長による定礎式で始まりました。その後,神殿メイトロンと神殿会長が話し,それからネルソン長老と,凍結の間ガーナの聖徒たちを導いた,現在は地域幹部七十人のエマニュエル・キッシ長老が続きました。
キッシ長老は話の中で,会衆の中にいたジョセフ・ウィリアム・ビリー・ジョンソンに賛辞を贈りました。また,ガーナでの教会の急速な成長を可能にした,初期の聖徒たちのことも話しました。
セッションの終わりが近づき,ヒンクレー大管長が,神殿の建設における主の助けについてへりくだって話しました。「主はわたしたちの祈りを聞いてくださいました」と大管長は証しました。「主は皆さんの祈りを聞かれました。主は多くの人々の祈りを聞かれ,今,完成した神殿が建っています。」
そして預言者は建物を奉献しました。「わたしたちの間にある兄弟愛に感謝します。わたしたちを結びつける,神聖な聖約を交わしたあなたの息子や娘として,肌の色も生まれた土地もわたしたちを引き離すことはできません」とヒンクレー大管長は祈りました。「この国と隣接する国々であなたの業が広がりますように。」
その日,3回目の奉献式セッションで,ヒンクレー大管長はジョルジュに話をするように求めました。驚きながらも,ジョルジュは説教壇に向かいました。「わたしたちの神は奇跡の神であられることを,皆さんに知ってほしいと思います」と彼は証しました。「信仰によって奇跡が起こります。そしてほんとうに多くの人が,この大いなる日が実現するために,祈りやほかの礼拝の形を通して信仰を働かせてきました。」
「わたしは,西アフリカに奉献された神殿があることは,イエス・キリストの贖罪とすべてのことの回復以来の最も重要な出来事の一つではないかと考えています」とジョルジュは続けました。「すでに亡くなった何百万人ものアフリカ人が,今日わたしたちとともに喜んでいます。」
奉献式の後,ジョルジュはヒンクレー大管長,ネルソン長老,キッシ長老,そのほかの人々とともに,ジェリー・ローリングスの後任のガーナ大統領である,ジョン・クフォーを訪ねました。2001年初めの就任以来,クフォー大統領とその政権は,神殿の建設の間,協力と支援を提供してくれました。2002年には,クフォー大統領は教会についてさらに学ぶためにソルトレーク・シティーで大管長会を訪問し,ガーナでの人道支援や宗教的な貢献に対して末日聖徒に感謝しました。大統領はまた,アクラでの最近の神殿オープンハウスにも出席し,建物のツアーに参加しました。大統領はそこで見たものに感銘を受けました。
「あなたがたの教会は,ガーナで市民権を得ています」と,この時クフォー大統領はヒンクレー大管長に言いました。
2004年6月,アンジェラ・ピーターソンはワシントンD.C.の近くで,安全点検と排ガス検査を受けるために車の中で待っていました。彼女の前には何台も車が続いており,駐車場の周りに蛇行して列を成しています。これはしばらく時間がかかるだろうと彼女は思いました。
アンジェラは車をアイドリング状態にする代わりにエンジンを止め,窓を開けて夏の午後のそよ風を楽しみました。待っている間,持って来ていた「家族—世界への宣言」を取り出しました。数週間前,ステーク会長がアンジェラの所属するヤングシングルアダルトワードの会員に対して,この宣言を暗記するように招き,そうすることで祝福を受けると約束しました。アンジェラはその約束を信じ,宣言を覚えようと熱心に努力していました。
1995年9月に中央扶助協会集会で発表されてから9年の間に,家族の宣言は家族に関する教会のメッセージの中心を成すものとなりました。親たちはその原則に沿って家庭を整え,教会員は額に入れて壁に掛け,ブリガム・ヤング大学にはその1ページの文書だけについてのコースがありました。ヒンクレー大管長が宣言を紹介したときには10代だったアンジェラは,ステーク会長の招きを受けるまで,宣言を読んだことがあるかどうかも怪しい状態でした。
高校卒業後,アンジェラはカナダのアルバータ州スターリングという小さい故郷の町から,大学に行くためにユタ州ローガンに移りました。大学卒業後は,ソルトレーク・シティーにある教会の広報部でインターンとして働き,その後,ワシントンD.C.にある国際関係および政府関係の部署でフルタイムの仕事を得ました。博物館やモニュメント,官庁が立ち並ぶ首都の通りは,若いころに過ごしたほこりっぽい道とはまったく違うものでした。
列の先頭になり,整備工が車を点検する間,アンジェラは待合室に行きました。点検は思っていたよりも時間がかかり,待っている間にほかの客が入って来ては出て行くのを見て,だんだん心配になってきました。車に何か不具合があったのでしょうか。修理に幾らかかるでしょうか。
何時間にも思えた待ち時間の後,やっと整備工がやって来て,車は検査に合格したと告げました。
ほっとして料金を支払い,建物を出ましたが,なぜそんなに時間がかかったのか分からないままでした。車に行くと,整備工が彼女を待っていました。
「車の点検にとても時間がかかってしまって,申し訳ありませんでした」と彼は言いました。
整備工はアンジェラに,車の助手席にあった家族の宣言に引き付けられたことを話しました。その家族についてのメッセージに感動し,何度も読み返していたのです。
「これはどこの教会ですか。家族についてのこの文書は何ですか。わたしも一枚もらえますか」と,整備工はアンジェラに尋ねました。「使徒によって書かれたとあります。これはイエスの時代と同じように,現在も地上に使徒がいるということなのですか。教えてください,とても知りたいのです。」
アンジェラは驚いて,考えをまとめました。「イエス・キリストの時代と同じように,現在も地上に使徒と預言者がいます」と,彼女は整備工に言いました。そして,ジョセフ・スミスと福音の回復について簡単に説明しました。アンジェラは彼に自分の家族の宣言とモルモン書を渡しました。
整備工は,宣教師に伝えてもらうために自分の名前と電話番号をアンジェラに教えました。アンジェラは自動車整備工場から家まで運転する間,涙をまばたきでこらえながら,宣言を助手席に置いて行ったことに感謝しました。