教会歴史
第37章:答えはきっと与えられる


第37章

答えはきっと与えられる

画像
水道の蛇口をひねる手

「どう思う?」

マルコ・ビリャビセンシオが妻のクラウディアに投げかけた質問は,しばらく返事のないまま宙を漂っていました。マルコが勤めていたエクアドルのマチャラにある通信会社は,エクアドル東部のアマゾンの熱帯雨林にある小さな町,プエルト・フランシスコ・デ・オレリャーナに新しく事務所を開設するチャンスを彼に与えようとしていたのです。

マルコは昇進も意味するその仕事に興味がありましたが,クラウディアの意見を聞かずに決めたくはありませんでした。その仕事を受けた場合,ビリャビセンシオ夫妻と4歳の息子サイールは640キロ以上離れた場所に引っ越さなければなりません。

マルコと同様,クラウディアも大都市で育っており,熱帯雨林への引っ越しは大きな変化です。しかし彼女はマルコを支えていましたし,彼に出世してほしかったのです。また,農村部へ移住するのもいいと思っていました。家族の結束が強くなると思ったのです。

それでも,彼女とマルコはプエルト・フランシスコ・デ・オレリャーナについて同じ疑問を抱いていました。「そこに教会はあるのだろうか?」彼らは二人とも帰還宣教師であり,教会は彼らにとって大切なものでした。息子には,初等協会に出席し,福音を学び,霊的な経験をすることのできる場所で育ってほしいと思っていました。エクアドルには20万人近い末日聖徒がいましたが,その大部分は首都キトや,1999年に主の宮が奉献されたグアヤキルといった主要な町の近くに住んでいました。

そのような町と比べると,地元ではエル・コカの名で知られているプエルト・フランシスコ・デ・オレリャーナは,数年前に石油が発見されてから急速に発展しているとはいえ,小さな町でした。教会のウェブサイトにある「集会所を探す」機能を使い,クラウディアは町の近くのワードや支部を検索しました。検索結果は0件でしたが,それから少しして,マルコとクラウディアの友人が,仕事のためにその町に移った数人の教会員について教えてくれました。

それを聞いて,夫婦は安心しました。会社からの提案について祈った後,彼らはその仕事を引き受けることに決めました。

ビリャビセンシオ家族は2009年2月にエル・コカに到着しました。町は密林の中にありましたが,驚いたことに,周囲の世界から切り離されている感じはしませんでした。どこを見ても,人々が仕事で行き来しています。

大家は,彼らが教会員であることを知ると,会員たちが集まって一緒に聖文を読んでいる場所を知っている,と教えてくれました。「彼らに家を貸したんです」と大家は言います。

そのグループは毎週日曜日の朝9時に集まって賛美歌を歌い,『リアホナ』を読み,聖文を研究していました。また,エクアドル・キト伝道部のティモシー・スローン会長に連絡を取ると,会長は二人の宣教師を送って,グループを訪問できるようにしてくれました。ただし,宣教師たちは4時間もかかる場所に住んでおり,エル・コカに頻繁に来ることはできませんでした。

マルコとクラウディアとサイールは,毎週日曜日の集会に出席するようになりました。初めのうち,サイールは初等協会があればいいのにと思いました。ほかの子供たちはいったいどこにいるのでしょうか。マルコとクラウディアも以前の生活が恋しくなりましたが,主の務めに没頭することで,あまり以前の生活に未練を感じなくなりました。

宣教師たちが町に来たときには,マルコは宣教師の協力を得てもっとたくさん会員を見つけられるようにしました。「長老たち,町を歩き回ってください」と言ったのです。宣教師の姿を見れば,会員はどこに行けば地元にいるほかの会員たちと会えるのかを宣教師に聞きに来るだろうと考えたのです。

少しずつ,町に住んでいる教会員たちが集会のことを知り,グループに加わるようになりました。グループが大きくなると,マルコがその指導者になりました。宣教師たちも毎週来るようになり,人々を教え,さらに多くの教会員を見つけました。間もなく,エル・コカの聖徒たちは教会の基本的なユニット・プログラムを行う許可を得ました。

そしてこの許可とともに,聖餐式を行う許可が与えられたのです。


アンジェラ・ピーターソン・ファレンタインは,夫との間に自然に子供を授かるのはきわめて難しいことを知ると,母親に電話しました。「どうすればいいのか分からないの。このような経験をした人をだれも知らないから」とアンジェラは言いました。彼女はおびえていました。

母親は話に耳を傾けた後,中央若い女性会長だったアーデス・キャップを覚えているかと尋ねました。「キャップ夫妻は子供に恵まれなかったけれど」と,母親はアンジェラに思い起こさせました。「キャップ姉妹は不妊と向き合いながら,それに人生を支配されないすばらしい模範となっているわ。」

「不妊をつまずきの石にしてはだめよ」と母親は続けました。「恐らく,母親の務めや家族の教義について理解を深めることが必要になるのではないかしら。そうでないと,あなたはこの先一生,その問題にぶつかり続けるでしょうから。」

そして,こう言いました。「あなたとジョンがなぜこの経験をしなければならないのか,それがどのくらいの期間続くのかは分からないけれど,踏みとどまって,そこから学ぶように主から求められている事柄を理解しようと努めるなら,答えはきっと与えられるでしょう。」

アンジェラは母親の愛と支えを感じることができました。養子縁組や体外受精など,親になるための別の道を探りながら,ジョンとともにその後も試練に遭いましたが,いつもアンジェラはこのときの母親の言葉を心に留めました。LDSファミリーサービスとニュージーランドの国家プログラムを通じた養子縁組について調べると,養子を迎えることができる可能性は非常に低いことが分かりました。

アンジェラは次々に失望を経験する中で,支えを求めて祈りと断食と,神殿での礼拝に頼りました。しばしば救い主について考え,試練を堪え忍べるように主が助けてくださっていることを確信していました。しかし,主がこれらの試練をただ取り去ってくださればよいのにと望んでいる自分にも気づきました。そのようなときには,ジョンが慰めてくれました。ジョンはすべてがうまくいくという信仰を持っていました。

アンジェラは今でも,壁に掛けられた「家族—世界への宣言」に目が行きました。その教えを,いつも愛してきました。でも不妊が判明してからというもの,「増えよ,地に満ちよ,という神の子供たちに対する神の戒め」という言葉を読むと,しばしば胸が痛くなりました。自然に子供を授かることができないのですから,自分とジョンが戒めに背いているわけではないことは,理解していました。それでも,不妊治療を始めたときですら,アンジェラは自分たちは十分努力しているだろうかと自問するのでした。

このころ,彼らはニュージーランドのベイ・オブ・プレンティ地方の大きな町タウランガに移り,アンジェラはステーク若い女性会長に召されました。この新しい召しに,彼女はおじけづきました。自分は30代前半でしたから,ほかの指導者に指示を出すには若すぎると感じたのです。それと同時に,若い女性たちと良い関係を築くには年を取りすぎているのではないかという不安も,感じていました。彼女たちをどう導けばよいかを知るために祈りました。

すると間もなく,アンジェラは予期しなかったような形で彼女たちと良い関係を築くことができるようになりました。彼女は若い女性たちの親よりも若いわけですが,若い女性たちの多くが彼女を尊敬し,その助言を真剣に受け止めてくれました。そのため,母親たちにはできないような方法で若い女性たちを励まし,助けることができたのです。自分の子供がいない彼女は,若い女性たちのために多くの時間を割くことができ,彼女たちが必要としている,信頼できる大人からの助言を与えることができました。

ファレンタイン夫妻はまた,ワードやステークのほかの家族を支えることにも喜びを見いだしました。しばしばバーベキューや屋外での映画の夕べ,そして家庭の夕べを行いました。総大会のときには,中央若い女性集会の放送を視聴しにステークセンターに行く前に,若い女性たちを招いてクレープを振る舞いました。クリスマスの時期に家族と遠く離れているのはつらいことであったため,夫妻はクリスマスイブに,南アフリカとニウエ島からの移民たちを招いてパーティーを開きました。これらの活動により,彼らの家にはいつも多くの子供たちが集まり,アンジェラとジョンは彼らとその親たちと一緒に過ごす時間が大好きでした。

ある日,額に入れて壁に飾られた家族の宣言の前を通り過ぎたとき,アンジェラはその冒頭の言葉が目に入りました。「わたしたち,末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長会と十二使徒評議会は,……厳粛に宣言します。」

「わたしはこのことをほんとうに信じているだろうか」と彼女は自問しました。「これが預言者と使徒の述べている言葉だと,ほんとうに信じているだろうか。」これまで経験してきた事柄を通して,家族の宣言に対する彼女の解釈や理解は変わってきました。それでも,彼女は預言者と使徒がイエス・キリストについて特別な証を述べていることを知っており,彼らの言葉を信じていました。

アンジェラは母親になる道には様々なものがあることを理解し始めており,自分とジョンには永遠において親となる機会があるという信仰を持っていました。これが分かったおかげで,救いの計画の中で結婚や家族が果たす役割の大切さを理解できるようになったのです。

彼女は家族の宣言がワシントンD.C.で出会った整備工や中東の役人にどのような霊感や感銘を与えたかを思い起こしました。この宣言が教えている真理には力があり,彼女の生活にとって大切なもので,彼女はその真理を信じていました。


一方,エクアドルのエル・コカでは,マルコ・ビリャビセンシオが通信事務所をテキパキと開設していましたが,その運営は日々難題の連続でした。従業員たちはこの業界の知識がなく,顧客の要望に十分にこたえるにはまず訓練が必要でした。さらに,顧客を見つけるという問題がありました。事務所は開設したばかりだったため,マルコと彼の率いるチームは人と会い,仕事を獲得することに多くの時間を費やしました。彼らは懸命に働き,事務所は成長していきました。

マルコは忙しくても,家族と教会のための時間を取っていました。日曜日午前の聖餐会に来る人は,月を追うごとに増えていました。主の御霊が,多くの人をキリストの回復された福音に備えていました。多くの人が,神と神の愛について知りたいと強く望んでいました。

宣教師たちは週に何度もやって来るようになっており,人々を教え,教会に招いていました。マルコとクラウディアは,自分たちのグループが支部になるのにどれほどの時間がかかるだろうかと考えました。

ビリャビセンシオ家族がエル・コカにやって来てから7か月後,伝道部会長のティモシー・スローンが町を訪れました。マルコは地元の教会のグループを導いていたので,スローン会長はエル・コカを見て回る際に,聖徒たちを紹介してほしいと彼に頼みました。

午前中の残りの時間いっぱい,そして午後になっても,マルコは伝道部会長に町を案内して回りました。スローン会長は,特にメルキゼデク神権者に会いたがっており,そのうちの数人と面接をしました。いろいろな場所に移動しながら,会長はマルコに彼の家族や仕事,教会での経験について尋ねました。

一日の終わりに,スローン会長はマルコに話をしたいと言いました。二人は聖徒たちが集会のために使用している家屋に行き,空いている部屋を見つけました。そこでスローン会長は,自分はエル・コカで支部会長を見つけられるようにずっと祈ってきたのだと打ち明けました。「あなたがその人であると感じました」と会長は言いました。「この主の召しを受け入れますか?」

「はい」とマルコは答えました。

翌日の2009年9月6日,スローン会長はオレリャーナ支部を組織し,マルコをその会長に任命しました。1週間後,キトにある教会のエリアオフィスから椅子と黒板,机,そのほか支部の集会所のための物品が送られてきました。

支部には,若い女性会長として奉仕するクラウディアを含め,多くの新しい指導者がいました。指導者の大半は教会での経験がほとんどなかったため,マルコは訓練を最優先事項と決めました。支部の指導者たちには,キリストのような愛と奉仕の模範となってもらいたいと思いました。手元にあるすべてのリソース,すべての教会の手引きとビデオを利用して,新しい指導者たちが自分の責任について学べるようにしました。エル・コカでは携帯電話が普及し始めていたので,マルコは週の間,支部の会員たちに電話したりメッセージを送ったりして,支部の業務を行い,活動を計画し,仲間の聖徒たちの必要にこたえました。

支部が教会から受け取った品物の中には,インターネットにアクセスできるデスクトップパソコンもありました。教会は,地元の指導者と書記が什分の一や出席,そのほかのデータを正確かつ安全に記録し,報告することができるようにするために,「会員・指導者サービス(MLS)」と呼ばれるコンピュータープログラムを開発していました。マルコはテクノロジー業界での経験からコンピューターに詳しく,すぐにソフトの使い方を覚えました。しかしエル・コカではコンピューターは珍しかったため,一部の新しい指導者には使い方を教えなければなりませんでした。幸い,御霊が彼らを導き,また彼らは熱心に学んですぐにこのテクノロジーに慣れました。

支部評議会集会では,マルコとほかの指導者たちは,自分たちが世話をしている人々を助ける方法について自由に意見を述べ合いました。評議会は,支部の全員がイエス・キリストについての証を育む必要があることを理解していました。支部の集会と活動では,マルコとほかの指導者たちは頻繁にキリストについて語り,訪問者や新会員が主の愛を感じ,主のもとに来ることができる環境を作りました。

支部が組織されてから1か月後,教会はその半期総大会を,ラジオ,テレビ,衛星放送,インターネットで配信しました。これらのチャンネルは世界の大部分の地域で視聴可能でしたが,エル・コカ支部にはまだ衛星テレビも,総大会のストリーミング配信に十分対応できるインターネット接続もありませんでした。しかし間もなく,キトにある教会のオフィスから総大会を録画したスペイン語版DVDが支部に送られてきました。

総大会を生で視聴する経験を再現しようと,マルコと支部の指導者たちは,週末に録画を部会ごとに分けて放送することに決めました。集会所に椅子とテレビとスピーカーを設置し,会員一人一人に特別な招待状を出しました。クラウディアは,来てくれた人たちを歓迎する係になりました。

最初の部会の日,聖徒たちは日曜日の服装でやって来ました。総大会になじみのある人もいれば,どういうものなのかまったく知らない人もいました。皆が話者の話に注意深く耳を傾け,タバナクル合唱団の歌声を楽しんでいると,御霊が部屋を満たしました。

新しい会員の多くは,この教会は小さくて,この地域にしかないと思っていました。しかし総大会を視聴して,自分たちが世界規模の組織の一員であることを理解したのでした。自分たちと同じように,ほかにも百万人もの聖徒たちが,主の業を進めるために力を合わせて働いているのです。


2010年の初め,カリブ海諸島には17万人を超える教会員がいました。この聖徒たちの3分の2が住んでいたドミニカ共和国には,18のステークと3つの伝道部がありました。1998年,教会はカリブ海地域の宣教師たちを育成するために,ドミニカ共和国の首都サントドミンゴに宣教師訓練センターを開設しました。2年後の2000年9月,カリブ海地域初の主の宮であるサントドミンゴ神殿を奉献するために,ヒンクレー大管長がこの町を訪れました。

1978年に末日聖徒の宣教師がドミニカ共和国に到着したとき,空港で彼らを出迎えたのは十数人の教会員だけであり,それが国内にいる聖徒のすべてでした。その中にはロドルフォ・ボーデンとノエミ・ボーデンがいました。ボーデン夫妻と子供たちの何人かは,その3か月前に友人のジョン・ラプリーとナンシー・ラプリー,エディー・アンパロとメルセデス・アンパロを通じて教会に加わっていました。その後の年月,ロドルフォとノエミは教会で忠実に奉仕しました。

同様の方法で,回復された福音はほかのカリブ海諸国にも広がっていきました。ドミニカ共和国の西にある島国ジャマイカでは,末日聖徒の宣教師たちが1850年代から福音を宣べ伝えていました。しかし,教会がその地で確立されたのは,ジャマイカ生まれの改宗者ビクター・ニュージェント,ベルナ・ニュージェント夫妻が1970年代に興味を持ってからのことでした。ある日,ビクターとベルナはアメリカ人の同僚ポール・シュメイルからモルモン書をもらいました。また,ポールから教会の映画『幸福の探求』とそのメッセージを紹介され,さらにポールのキリストのような模範が,ビクターに霊感を与えたのです。

1974年1月20日,ニュージェント家族がバプテスマを受けました。4年後,スペンサー・W・キンボール大管長が受けた啓示により,ニュージェント家族やほかのアフリカ系黒人の人々に対して神権の完全な祝福を受けるための門戸が開かれた後,ニュージェント家族はソルトレーク神殿で結び固められました。

同じく1978年に,別のアメリカ人の末日聖徒グレッグ・ヤングが,バルバドスで友人のジョン・ネイム,ジューン・ネイム夫妻にバプテスマを施しました。それから1年余りたつと,バルバドスに最初の支部が組織され,ジョンは支部会長に,ジューンは扶助協会会長になりました。後に,バルバドスは西インド諸島伝道部の本部としての役目を果たすようになり,福音はここからグレナダ,グアドループ,セントルシア,マルティニーク,セントビンセント,フランス領ギアナ,シントマールテン,そのほかの近隣の国々に広がっていきました。

一方ハイチでは,チリ生まれのハイチ人,アレクサンドレ・モアラが親戚から教会について聞きました。この親戚は,フロリダ州の宣教師からモルモン書やそのほかの教会の出版物を受け取っていました。預言者ジョセフ・スミスの証を読んだ後,アレクサンドレは自分用にモルモン書を取り寄せ,その書物が真実であるという証を得ました。ハイチにはまだ教会がなかったため,彼はフロリダ州へ飛び,そこで伝道部会長と会い,1977年7月にバプテスマを受けました。それからポルトープランスの故郷に戻り,人々に福音を教えました。1年後,伝道部会長がハイチを訪れ,アレクサンドレの友人22名にバプテスマを施しました。

ハイチの教会は,この国をしばしば襲った社会的および政治的騒乱にもかかわらず,その後成長を続けました。2009年の終わりには,二つのステークと二つの地方部があり,約1万6,000人の聖徒たちがいました。2010年1月12日,大地震がハイチを襲い,家々が倒壊し,42人の末日聖徒を含む20万人以上が犠牲になったとき,彼らの強靭さが試されました。

地震発生時,ソリン・サンテラスはポルトープランスの集会所でビショップと会っているところでした。夫のオルガンは,地元のホテルで働いていました。二人はベビーシッターが3人の幼い子供の世話をしている自宅アパートに急いで戻りました。建物はがれきの山でした。

「天のお父様」とオルガンは祈りました。「もし御心にかなうことでしたら,一人だけでも,子供を生かしてください。どうかわたしたちをお助けください。」

10時間にわたって,子供たちを見つけられるよう神に懇願しつつ,オルガンは友人や救助隊員と一緒にがれきを掘って探しました。ある時点で,オルガンはいちばん年上の子である5歳のガンチが,お気に入りの歌である「神の子です」を歌っているのを耳にしました。その歌声を頼りに,救助隊員がガンチときょうだいたち,そしてベビーシッターを救出しました。

次の数週間,教会は地元の指導者や人道支援団体を助けて,医師の派遣や,テント,食料,車椅子,医薬品,そのほかの必要物資の提供を支援しました。また,集会所を開放して,被災して住む場所を失った多くの人々に避難所として提供しました。後に,教会は人々が仕事を探したり,新たなビジネスを始めたりするのも支援しました。

救助された後,ガンチ・サンテラスは大けがの治療のためにフロリダ州の病院に搬送されました。フロリダ州では,地元の教会員がサンテラス家族を支援するためにやって来て,おもちゃや食料,おむつ,そのほかの物資を届けてくれました。彼らの親切心に,オルガンは涙を流しました。

「教会にとても感謝しています」と彼は言いました。


2010年9月,コンゴ民主共和国のルプタの住民たちは,教会が出資するきれいな水を引くパイプラインの敷設をほぼ完了していました。ジャーナリストの取材に答えて,地方部会長のウィリー・ビネネはパイプラインの重要性を強調しました。

「電気がなくても人は生きられます。しかし,きれいな水がないことは,耐え難いほどの重荷です」と彼は言いました。

記者が気づいたかどうかは別にして,ウィリーはこれまでの人生経験から語っていました。電気工学を専攻する学生であるウィリーは,電気のない町であるルプタに住むことは決して望んでいませんでした。そんな彼の計画は変わりましたが,ウィリーは電気がない生活でもうまくやっていました。それどころか,かなりの成功を収めていました。しかし彼と家族,そしてこの地域に住むすべての家族が,水を媒介とする病気に非常に苦しめられていました。教会では自分たちを守るために,聖餐式のためにきれいなボトル入り飲料水を購入するという犠牲さえ払っていました。

今,あと少しの作業で,ルプタの人々の生活は大きく変わろうとしていました。プロジェクトの開始以来,町と周辺のすべての地区がパイプラインの作業日を割り当てられていました。その日には,プロジェクトを管理する組織であるADIRからのトラックが,ボランティアを乗せるために早くからその地区に到着し,彼らを作業現場まで運びました。

地方部会長として,ウィリーは模範となる指導者になりたいと思いました。自分の地区の労働割り当て日が来ると,彼は看護の仕事を脇に置いて,掘る作業を始めるのでした。ルプタと水源の間には,何キロにもわたって丘や谷があります。パイプラインの動力源は重力なので,ボランティアたちは水がうまく流れるように正しく溝を掘り,パイプを埋めなければなりません。

ウィリーとボランティアたちは,すべて手で掘りました。溝は幅が約45センチ,深さが約1メートルでなければなりません。地面が砂地で作業がはかどる場所もあれば,木の根と岩が絡まっていて,作業に骨が折れる場所もありました。ボランティアたちは,山火事や害虫の巣のために作業の進行が遅れることのないようにと祈るだけでした。作業がはかどった日には,150メートル近くの溝を掘ることができました。

ルプタ地方部の聖徒たちは,通常の地区ごとの割り当てに加えて,特別シフトでも働きました。そのような日には,教会の男性たちが通常のボランティアに加わって溝を掘り,扶助協会の女性たちが働く人々の食事を準備しました。

聖徒たちが献身的にプロジェクトに参加したことで,人々が彼らの信仰についてより深く知るようになりました。地域の人々は,教会はその会員だけではなく,より広くコミュニティーの世話をする組織なのだと思うようになりました。

2010年11月にパイプラインの建設が終わると,水が来るのを見るために多くの人がルプタにやって来ました。パイプから運ばれて来た水をためるために,高床式の巨大なタンクが町に建造されていました。しかし,ほんとうにタンクがいっぱいになるほどの水がパイプラインで運ばれてくるのだろうかと疑問に思っている人々もいました。ウィリー自身も半信半疑だったのです。

そのとき水門が開き,皆がタンクに流れ込む水の轟音を耳にしました。大きな喜びが人々の間に広がりました。それぞれに複数の蛇口が付いた何十もの小さなコンクリートの給水所で,ルプタ中の人々にきれいな水を供給することが可能になったのです。

完成を記念して,町では祝賀会が開かれました。ルプタと近隣の村から1万5,000人が集まりました。来賓の中には,政府と部族の要人,ADIRの職員,そして教会のアフリカ南東地域会長会の一員がいました。貯水タンクの一つには,水色の文字でこう書かれた横断幕が張られていました。

ありがとう,教会

ありがとう,ADIR

飲み水を与えてくれて

来賓が到着して,特別に建てられたガゼボ(西洋風のあずまや)に着席すると,若い末日聖徒たちの聖歌隊が賛美歌を歌いました。

皆が席に着き,群衆のざわめきが静まると,ウィリーはマイクを持ち,教会の地元の代表として聴衆に語りました。「イエスが多くの奇跡を行われたように,今日ルプタに水が通ったこともまた奇跡です。」彼は群衆に,教会がコミュニティー全体のためにパイプラインに出資したことと,これをすべての人に有効に利用してほしいことを話しました。

そして,なぜ教会がルプタのような場所に関心を持ったのだろうかという問いに対して,彼は簡単な答えを与えました。

「わたしたちは皆,天の御父の子供です。すべての人に善を行わなければなりません」と彼は言いました。

  1. Villavicencio and Villavicencio, Oral History Interview [May 2023], 2–3, 8; Villavicencio, Oral History Interview, 1–3; Deseret News 2010 Church Almanac, 474–75.テーマ:「Ecuador(エクアドル)

  2. Villavicencio, Oral History Interview, 1–5; Villavicencio and Villavicencio, Email Interview [Aug. 2023]; Presiding Bishopric to General Authorities and others, June 11, 2004, Quorum of the Twelve Apostles, Written Communications Collection, CHL;ジョシュア・J・パーキー「御言葉に飢え渇くエクアドルの人々」『リアホナ』2012年2月号,26-31;Villavicencio, Email Interview.

  3. Villavicencio, Email Interview;ジョシュア・J・パーキー「御言葉に飢え渇くエクアドルの人々」『リアホナ』2012年2月号,26-31;Villavicencio, Oral History Interview, 4–7.

  4. Villavicencio, Oral History Interview, 6–7, 9–10; Villavicencio and Villavicencio, Oral History Interview [May 2023], 2–3.

  5. Villavicencio, Oral History Interview, 5–7, 10;『手引き—第1部』 90,93

  6. Fallentine, Recollections, 7–8; Fallentine and Fallentine, Email Interview, 3; Angela Fallentine, Oral History Interview [Jan. 2023], 5.Quotations edited for readability; “have always been” in original changed to “she has always been,” and “learn from it and answers will come” changed to “learn from it, answers will come.”

  7. Fallentine, Recollections, 6–7; Angela Fallentine, Oral History Interview [Jan. 2023], 7; Angela Fallentine, Oral History Interview [Feb. 2023], 7, 13; Angela Fallentine to James Perry, Email, Nov. 6, 2023, Angela Fallentine and John Fallentine, Oral History Interviews, CHL.テーマ:「Social Services(社会福祉)

  8. Fallentine, Recollections, 8–9; Angela Fallentine, Oral History Interview [Feb. 2023], 5–7; Fallentine and Fallentine, Email Interview, 3;「家族—世界への宣言

  9. Angela Fallentine, Oral History Interview [Feb. 2023], 8–11; Angela Fallentine, Oral History Interview [Jan. 2023], 3–5; Fallentine and Fallentine, Email Interview, 1–2; Angela Fallentine, Oral History Interview [Sept. 2023], 22–25; Angela Fallentine to James Perry, Email, Nov. 6, 2023, Angela Fallentine and John Fallentine, Oral History Interviews, CHL.

  10. 家族—世界への宣言」;Fallentine, Recollections, 8–11; Angela Fallentine, Oral History Interview [Feb. 2023], 11; シェリー・L・デュー「わたしたちは皆,母親ではないでしょうか」『リアホナ』2002年1月号,112-114。引用文は読みやすさのために編集済み。原文の2か所の“did”は“do”に,原文の“were”は“are”に変更

  11. Villavicencio and Villavicencio, Oral History Interview [May 2023], 2.

  12. Villavicencio and Villavicencio, Email Interview [July 2023]; Villavicencio, Oral History Interview, 10–11, 19; Sloan, Oral History Interview, 19–20, 23; Villavicencio and Villavicencio, Email Interview [Aug. 2023].

  13. Villavicencio, Oral History Interview, 11, 17; Villavicencio and Villavicencio, Email Interview [July 2023]; Villavicencio and Villavicencio, Email Interview [Aug. 2023].テーマ:「ワードとステーク

  14. Villavicencio, Oral History Interview, 21–24; Villavicencio and Villavicencio, Oral History Interview [May 2023], 20, 36.

  15. Villavicencio and Villavicencio, Oral History Interview [May 2023], 3–4, 30–31; Villavicencio and Villavicencio, Oral History Interview [July 2023], 1; “Training for Clerks,” Church News, Feb. 11, 2006, 10; “Policies and Guidelines for Computers Used by Clerks for Church Record Keeping,” in Priesthood Executive Council, Minutes, Aug. 18, 2009; Sloan, Oral History Interview, 29.

  16. Villavicencio, Oral History Interview, 23–24; Villavicencio and Villavicencio, Oral History Interview [May 2023], 2, 5, 36;トーマス・S・モンソン「大会へようこそ」『リアホナ』2009年11月号,4;First Presidency to General Authorities and others, Aug. 20, 2009, First Presidency, Circular Letters, CHL; Villavicencio and Villavicencio, Email Interview [July 2023]; Villavicencio and Villavicencio, Email Interview [Aug. 2023]; Priesthood Executive Council, Minutes, Jan. 14, 2009.テーマ:「Broadcast Media(放送メディア)」;「Information Age(情報化時代)

  17. Villavicencio and Villavicencio, Email Interview [July 2023]; Villavicencio and Villavicencio, Oral History Interview [May 2023], 5–6; Villavicencio and Villavicencio, Email Interview [Aug. 2023].テーマ:「General Conference(総大会)

  18. Deseret News 2011 Church Almanac, 163, 184, 475–77; Hinckley, Journal, Sept. 16–17, 2000; Mortensen, Witnessing the Hand of the Lord in the Dominican Republic, 275.テーマ:「Dominican Republic(ドミニカ共和国)

  19. Rappleye and Rappleye, Oral History Interview, 6, 8, 11–15; Bodden, Oral History Interview, 2–4; William B. Smart, “2 Families Bring Gospel to a Nation,” Church News, July 11, 1981, 12; Mortensen, Witnessing the Hand of the Lord in the Dominican Republic, 23–36, 41–43.

  20. 『聖徒たち』第2巻,第10章;Edwin O. Haroldsen, “Jamaica Branch Sees Chain of Baptisms,” Church News, Aug. 28, 1976, 14; Wanda Kenton Smith, “Jamaica: Lush Isle of Friendly People,” Church News, Jan. 29, 1984, 14; Nugent and Nugent, Oral History Interview, 7–9, 11–13, 18; Nugent, Oral History Interview, 4–6, 13–14.テーマ:「Jamaica(ジャマイカ)

  21. Millett, “History of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints in the Caribbean,” 136–38; “Barbados,” Global Histories, ChurchofJesusChrist.org/study/history/global-histories.テーマ:「Barbados(バルバドス)

  22. Alexandre Mourra, Testimony, Mar. 1981, CHL; Millett, “History of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints in the Caribbean,” 125–31; “Merchant Seeking Truth Opened Way for Church,” Church News, May 3, 2003, 10.テーマ:「Haiti(ハイチ)

  23. LaRene Porter Gaunt, “Bringing Hope to Haiti,” Ensign, June 2000, 39; Deseret News 2011 Church Almanac, 12, 501–2; Erikson and others, “Political Forces and Actors,” 67–74; Bailey, Humanitarian Crises, 5; Haiti Port-au-Prince Mission, Annual Historical Reports, 2010, [1].

  24. Jennifer Samuels, “Family Reunited in Miami after Trauma in Haiti,” Church News, Jan. 30, 2010, 6;ニール・L・アンダーセン「キリストはわたしをどう思われるか」『リアホナ』2012年5月号,113-114;Nathan Waite, Olghen Saintelus Interview Notes, May 1, 2024, copy in editors’ possession.

  25. Deseret News 2011 Church Almanac, 12;ローレン・アレン「ハイチの教会員,福音に堅く立ち,前進する」および「教会の援助」『リアホナ』2010年5月号,138-139;“Haiti Report,” 4.テーマ:「福祉プログラム

  26. Jennifer Samuels, “Family Reunited in Miami after Trauma in Haiti,” Church News, Jan. 30, 2010, 6.

  27. Howard Collett, “A Prayer for Clean Water,” Church News, Sept. 11, 2010, 7, 10.

  28. Willy Binene, Oral History Interview [May 22, 2020], [7]–[9]; Howard Collett, “A Prayer for Clean Water,” Church News, Sept. 11, 2010, 7, 9; Binene and Binene, Oral History Interview [June 2023].

  29. Binene and Binene, Oral History Interview [June 2023]; Sarah Jane Weaver, “Clean Water: An Answer to Villagers’ Prayers,” Church News, May 3, 2008, 4–5; Howard Collett, “A Prayer for Clean Water,” Church News, Sept. 11, 2010, 8–10.

  30. Willy Binene, Oral History Interview [May 22, 2020], [8]; Howard Collett, “A Prayer for Clean Water,” Church News, Sept. 11, 2010, 10; Farrell and Barlow, “Celebration of Clean Water in Luputa”; Binene and Binene, Oral History Interview [June 2023].

  31. Africa Southeast Area, Annual Historical Reports, 2010, 40–41; Farrell and Barlow, “Celebration of Clean Water in Luputa”; Willy Binene, Oral History Interview [Dec. 2023]; Binene and Binene, Oral History Interview [June 2023].Quotation edited for readability; “had performed” in original changed to “performed.”テーマ:「Democratic Republic of the Congo(コンゴ民主共和国)