第38章
現実で,計り知れない
2011年2月,マルコ・ビリャビセンシオとクラウディア・ビリャビセンシオは,ソルトレーク・シティーの教会機関誌編集者ジョシュア・パーキーから電子メールを受け取って驚きました。その前の年,ジョシュアは世界各地の聖徒たちについてさらに多くの記事を機関誌に掲載する取り組みの一環として,エクアドルのエル・コカを訪れていました。数日間,ジョシュアはビリャビセンシオ夫妻や支部のほかの会員たちとともに過ごし,教会の集会とセミナリーのクラスに出席して,町と住民の写真を撮影しました。
ジョシュアの訪問当時,エル・コカ支部は組織されてわずか1年だったにもかかわらず,会員数は28人から83人に増えていました。この成長は,すべての人が必要とされ,愛されていると感じられるように助けようとする支部の努力によるものだと,マルコは考えていました。「すべての新しい改宗者は,神の善い言葉による養いと,友人と,責任を必要としているというヒンクレー大管長の勧告を,わたしたちは実践しようと努めています」とマルコはジョシュアに話しました。支部の若い女性会長として奉仕を続けていたクラウディアも同じ意見でした。「初めて教会に来た人の印象に残るのは,どのように迎えられたかです。ですからわたしたちは若い女性に,一人一人が主にとってどれほど大切な存在なのかを教えています。」
会員の多くが,胸の熱くなるようなストーリーや証をジョシュアに分かち合ってくれました。支部の扶助協会会長のロウルデス・チェンチェは,彼女と会長会が支部の女性たちに奉仕することで得た喜びについて語りました。彼女はこう言いました。「姉妹たちが問題を抱えているとき,わたしたちはそばに行きます。独りではないこと,イエス・キリストと支部の助けがあることを知ってもらいます。」
さて,ジョシュアはビリャビセンシオ夫妻への電子メールで,教会機関誌のために短い動画を作っているのだが,と説明しました。それは初等協会の子供たち向けの新しいオンライン動画シリーズに入るものでした。「特別な子供(One in a Million)」というこのシリーズでは,世界各地の子供たちが自分の生活について話し,証を述べます。ある動画ではウクライナに住む少年が,トーマス・S・モンソン大管長に招かれてキーウの新しい神殿の隅石にモルタルを塗ったときのことを話しています。別の動画ではジャマイカの少女が,学校で良い模範になろうと努めていることについて話しています。
動画は1本あたり1分半ほどの長さなのですが,ジョシュアはマルコとクラウディアに,6歳の息子サイールの出演を許可してもらえないか打診してきたのです。サイールにとって,引っ越しで親族や初等協会のクラスの仲間たちから離れたのはつらいことでした。しかしこの1年の間に教会に来る子供たちが増え,サイールはまた初等協会に出席できるようになっていました。クラウディアは,動画が息子にとって自分の神聖な本質を思い起こす良い機会となるだろうと考えました。
ジョシュアはサイールに好きな遊びや食べ物,教会の賛美歌について質問を送り,クラウディアとマルコはその答えの準備を手伝いました。サイールはクラウディアと一緒に録音することを喜び,クラウディアも息子と過ごした時間をかけがえのないものだと感じました。
彼らは音声ファイルをジョシュアに送り,その音声が,以前ジョシュアがエル・コカを訪れたときに撮影した写真と組み合わされました。しばらくして,完成した動画がオンラインで視聴可能になると,ビリャビセンシオ家族は居間のパソコンの前に座ってそれを見ました。サイールはどんな動画に仕上がったのかとても楽しみでした。
まず,家族の写真が映されました。それからサイールが小さな声で,スペイン語で話します。「ぼくはサイール。エクアドルに住んでいます。」エル・コカの写真が数枚画面に現れ,サイールが町にいる色鮮やかな鳥や動物,そして好きな食べ物やスポーツについて話します。また,エル・コカに引っ越してきたのは支部が設立される前だったことについても話しました。サイールは次のように話しました。「ぼくたちが通える教会はありませんでした。すぐにほかの家族が引っ越してきて,バプテスマを受ける人が増えました。
会員はみんな宣教師です。今では,初等協会に友達がたくさんいます。世界中のほかの子供たちと同じように,イエス様と天のお父様についての歌を歌っています。『神の子です』を歌うのが好きです。」
息子と一緒に座っていたクラウディアにとって,福音のおかげで自分たち家族がどれほど幸せになれたかを世界中の人に見てもらえるなんて,まるで夢のようでした。この動画を通して,神がエル・コカのような場所を見守っておられて,自分やマルコやサイールや,支部のほかの聖徒たちのような人々を通じて業を行われることを思い出すことができました。
クラウディアはこの動画が,サイールにとって,自分が初等協会のような大きくて重要な組織の一員であり,子供でも主に仕えることができるということを思い起こすきっかけとなってほしいと願いました。
2011年2月末,エマ・エルナンデスは父親に卒業式への招待状を手渡しました。その6年前,エマの父親は学業の妨げになるという理由で,エマと夫エクトール・ダビドとの結婚に反対しました。しかし,永代教育基金による経済的支援のおかげで,エマはホンジュラスの名門大学でマーケティングの学位を取得することができたのです。
父親はエマのことを喜び,彼女も父親を誇りに思いました。父親はだいぶ前に,娘の結婚について考えを変えていました。結婚式までの間,エマは父親の心が和らぐよう祈りました。母親も,エクトール・ダビドが娘に似合いの相手であることを夫が理解できるよう助けました。さらに,少し前,熱心な長老定員会会長によるミニスタリングの努力と,キリストのもとに来て主と聖約を交わしたいという本人の強い願いにより,父親は長年離れていた教会に戻っていました。
エマは父親が教会に戻ったことを喜びました。エマと母親は,彼の心が変わって,家族で一緒に主の宮に行くことができるように,長い間祈っていたのです。その祈りは,2010年4月1日の朝にこたえられました。その朝,永遠にわたって結び固められるために,エマと家族の大部分がグアテマラシティー神殿に到着しました。空は澄み,植えられたばかりの花々が神殿の庭を飾る中,エマは父親と母親と姉と一緒に神殿に入りました。
結び固めの部屋に入り,聖壇にひざまずいている両親を見たとき,エマは御霊を感じました。手を取って互いの目を見つめ合う二人は,平安と愛に包まれていました。儀式の後,日の栄えの部屋で,家族は抱き合い,喜びの涙を流しました。エマの父親は感情を表に出さない人でしたが,その抱擁から彼の気持ちを感じ取ることができました。
結び固めから1年がたち,エマとエクトール・ダビドは家庭を築いて常に教会で奉仕しながら,二人とも教育上の目標を達成していました。エマはマーケティングに対する情熱を見いだし,その職業に就くための知識とツールを身につけていました。エクトール・ダビドは金融の学位を取得し,二人ともに家族を養うためにより良い収入を得られるようになりました。何より重要なことは,エマが在学中に成長し,困難を乗り越えて主に頼る方法を学んだことです。
初めのころは,エマは学業に圧倒されました。家族には学位を取得するのに必要な資金がないのではないかと思った時期もありました。しかし,永代教育基金のおかげでその心配はなくなり,家族のサポートが彼女に夢を追い求める力を与え,モチベーションを維持することができたのです。主への感謝の気持ちが増し,エマとエクトール・ダビドは教会での奉仕を,救い主に感謝と愛を示す機会と見なして取り組みました。エマは受けた教育を生かして,永代教育基金のローンを返済しようと意気込み,将来的にさらに大きな成功を収められると確信していました。
2011年3月4日,エマの卒業の日に,今度は卒業式のために家族が大学の体育館に再び集まりました。エマと彼女の同級生は,そろいの黒い角帽とガウンを身に着けて,リハーサルのために早めに到着しました。家族が到着すると,エマはエクトール・ダビドとオスカル・ダビドだけでなく,母親と父親とそのほかの親族も来ているのを見て喜びました。
一列に並んだ大学関係者の前を握手をしながら進んで行き,最後に卒業証書を受け取ったとき,エマは主が与えてくださった数々の祝福に感謝しました。式が終わると,まず父親がエマを抱き締めました。「おめでとう,娘よ」と言う父親は,まるでその肩から重荷が取り去られたかのように見えました。エマは父親がとても心穏やかな様子であるのを見て,うれしく思いました。
それから,彼女はエクトール・ダビドと抱き合ってキスし,最後まで学業を支えてくれた夫に感謝し,
抱き合ったまま,「ありがとう。あなたがいなかったらできなかったわ」と言いました。
2011年4月2日の朝,トーマス・S・モンソン大管長はカンファレンスセンターの説教壇に立ち,教会の年次総大会に集まった何千人もの聖徒たちを見渡しました。そして大きな笑顔でこう言いました。「この建物を設計したとき,わたしたちはこの会場が満席になることは絶対にないだろうと思っていました。しかし今,この会場を見てください。」
大管長になって3年目の総大会でした。この召しによって,モンソン大管長は多くの人には想像もつかないほど多忙な日々を送っていました。今や1,400万人を超える世界中の聖徒たちに大管長は深く感謝していました。「福音に対する皆さんの信仰と献身,互いへの愛と関心,ワードや支部,ステークや地方部における皆さんの奉仕に感謝しています」と大管長は述べました。
それは,末日聖徒にとって心躍るような時代でした。その半世紀前,デビッド・O・マッケイ大管長は,特にアメリカ合衆国における教会の評判の良さを喜んでいましたが,当時でさえ,教会はほとんどの人にとってあまり知られていませんでした。しかし,もはやそうではありません。何十年にもわたる広範な伝道活動,効果的な広報の取り組み,大小様々な人道支援プロジェクト,そして個々の聖徒たちの謙遜な日々の行いにより,教会は世界の多くの地域でよく知られた存在になっていたのです。
また,最近,教会はメディアの大きな注目を集めるようになりました。2002年の冬季オリンピック期間中の教会に関する報道は,それに続く注目の嵐の前触れとなりました。2002年オリンピック組織委員会の委員長を務めた著名な末日聖徒の政治家ミット・ロムニーが,アメリカ合衆国大統領選挙への出馬を表明したのです。2008年には党の指名を勝ち取ることができませんでしたが,多くの人が2012年に再出馬するだろうと予測していました。
そのため,教会に対する国民の関心は高いままだったのです。様々な末日聖徒が立法府の議員やビジネスリーダーとしてニュースに採り上げられました。テレビのリアリティー番組に出演する人たちや,プロスポーツの分野で活躍する人たちもいました。ロックスターやクラシック音楽家として有名になる人たちもいました。また,ベストセラー小説を書いた人たちもいて,その中には映画化され大ヒットした作品もありました。
教会と会員への関心は高まっていきましたが,それはだれもが回復された福音を受け入れたいと望んでいるという意味ではありませんでした。教会を誤解したり,その教えに反対したりする人たちも大勢いました。実際,モンソン大管長とほかの指導者たちは,社会が長年にわたりクリスチャンの価値観や教会の教えや慣習から離れつつあることを懸念していました。その傾向が最も顕著に表れたのが,結婚に関する信条でした。
近年,レズビアン,ゲイ,バイセクシュアル,トランスジェンダー,クイア(LGBTQ)の人々が,同性婚の権利を求めて陳情活動を行ってきました。教会やほかの宗教関連組織は,男女間の結婚は神によって定められたものであることを明言し,これらの方策に反対しました。
最も知られた例として,2008年11月にカリフォルニア州で,結婚を男性と女性の間のものと法的に定義する州憲法修正案の是非を問う住民投票が挙げられます。教会はほかの宗教グループとともに,この修正案を支持し,そのための資金集めを行いました。ソルトレーク・シティーの教会指導者はまた,カリフォルニア州の会員に対し,この修正案を積極的に支持し推進するよう奨励しました。
修正案は僅差で可決されたものの,教会はこの投票に果たした役割についてかなりの批判を受け,神殿の外で抗議活動を行う人々もいました。
モンソン大管長とほかの教会指導者は,引き続き結婚の教義と教会の標準を守るという立場を変えず,宗教の自由と,結婚を男女間の神聖な結びつきと定義してそれを教える自由について語りました。また,ローマカトリック教会など,同じ信条を持つほかの団体との架け橋を架けるよう努めました。
さらに,LGBTQコミュニティーとの共通点を見つけることにますます力を注ぎました。結婚と同性愛者の権利に関する議論が続く中,教会指導者は末日聖徒に対して,意見の不一致が生じても愛と敬意を示し,LGBTQの人々へのいじめを非難するよう奨励しました。2009年11月,教会はソルトレーク・シティーの市会議員たちとともに,性的志向に関係なく,すべての人に対する公平な住宅権を与えることを支持しました。教会指導者はまた,しばしば議論の渦中に巻き込まれていると感じるLGBTQの教会員に対して,より良いリソースを提供し,思いやりを促すよう努めました。そのような開発中のリソースには,聖徒たちとその家族が経験や証を分かち合う記事や動画を掲載した新しい教会のウェブサイトも含まれていました。
動画の一つでは,女性に引かれる自分と折り合いをつけようと苦しんだ末日聖徒スザンヌ・バウザーのストーリーが語られています。彼女は教会に通い続けましたが,時折心が二つに引き裂かれるように感じることがありました。やがて,ともに歩んでくれた友人や家族の助けにより,彼女はより心安らぐ境地に達することができました。「これはわたしの一部だ。これからもそうだろう。わたしはそれでいい。それでもわたしは幸せになれる。それでも救い主とともに生きていくことができる。」彼女はそう悟ったのです。彼女が時々感じる心の隙間を,主の愛が満たしました。
また彼女には,喜んで耳を傾けてくれる教会の指導者たちがいて,それが大きな助けになりました。彼女はこう回想します。「わたしには,とにかく学ぼうという意欲のある神権指導者たちがいました。」
2011年4月の総大会の閉会に当たり,モンソン大管長は聖徒たちに,救い主が教えておられるように自分たちの光を輝かせるよう求めました。大管長は次のように言いました。「わたしたちが自分の住む国において善い市民となり,それぞれの地域社会において善い隣人となれますように。 同じ信仰の者だけでなく,信仰を異にする者にも手を差し伸べられますように。どのような場所に行っても,どのようなことをしても,正直さと高潔さの模範となれますように。」
モンソン大管長とほかの教会指導者たちは,言葉と行いにおいてキリストに従う者となることの大切さを理解し,強調しました。最近のメディアの注目は,多くの人々が教会について聞いたことがあるけれども,その信仰と中核をなすメッセージに対する認識は大きく異なることを示していました。多くの人々にとって,教会は依然として謎に包まれた存在だったのです。
教会指導者はこの状況を変えなければならないことを理解していました。末日聖徒はイエス・キリストに従う者たちであるということについて,いかなる疑念もあってはならないのです。
2011年8月17日,シルビア・オールレッドとジェフ・オールレッドはエルサルバドルのサンサルバドルに飛びました。シルビアが生まれ育ったこの町で,4日後に主の宮が奉献されるのです。この神殿の建設は彼女が中央扶助協会会長会に召されて間もなく発表されたのですが,シルビアが新たな責任の都合で鍬入れ式に出席することはかないませんでした。しかし今,大管長会からの招きで,その奉献式に参加する機会を得たのです。彼女とジェフは大喜びしました。
シルビアはそれまで,中央扶助協会会長会で4年間奉仕してきました。その間,信仰と家族と扶助というテーマが,この組織のすべての取り組みの指針となっていました。会長会は様々な場所を訪問し,改訂版『教会指導手引き』を使って,どのように啓示を受け,教会の評議会で務めを果たし,助けの必要な人々に仕え,そのほかの責任を果たすのかについて,地元の扶助協会の指導者たちを訓練しました。シルビア自身も,5つの大陸の20か国の扶助協会の姉妹たちを訪問してきました。
会長会はまた,管理会のメンバーと協力して,世界中で新たに召された指導者にすぐに訓練を提供する動画を作成しました。これらの動画は,扶助協会のウェブサイトから視聴することができ,教会のウェブサイトに用意されたオンラインリソースの新シリーズ「指導者訓練ライブラリー」にも収められました。
家庭訪問を強化することも,彼女たちの業のもう一つの重点事項でした。長年,教会機関誌には簡潔な家庭訪問のレッスンが掲載されてきました。今ではレッスンとともに,姉妹たちがよりよく教えられるように追加のヒントやリソースも合わせて載せられるようになりました。シルビアの監督の下に,管理会のメンバーは若い女性から扶助協会への移行を支援する方法も模索しました。各地を巡りながら,シルビアはしばしば地元の扶助協会と若い女性の指導者たちと話し合い,組織間の交流によって両者の隔たりを縮めることができると勧めました。また,扶助協会の姉妹たちに,新たに加わった会員に手を差し伸べ,若い女性たちの良い相談相手となる方法を見つけるように勧めました。
ボイド・K・パッカー会長から受け取った歴史記録によって霊感を受けた扶助協会は,大管長会から割り当てを受けて,書籍『わたしの王国の娘—扶助協会の歴史と業』を出版する準備をしていました。この本は,イラストや写真が豊富に掲載され,あらゆる読者に適した簡潔な文体で書かれています。また,23の言語にも翻訳されて教会の女性たちに配布されました。会長会は,この本を通して姉妹たちが過去から学び,キリストの弟子としての自分たちの霊的な受け継ぎをより良く理解し,神によって定められた扶助協会の使命を受け入れることができるよう期待しました。
サンサルバドル神殿の奉献式の前日,シルビアとジェフは神殿内を見て回り,美しく彫られた木材,エルサルバドルの国花であるユッカを刻んだ装飾的なガラスと真鍮の備品など,華麗な細部に目を見張りました。シルビアは,玄関の近く,推薦状デスクの後ろに救い主の絵があるのに気づきました。救い主は二人の子供たちに腕を回しておられます。8歳か9歳くらいの,中央アメリカ出身の子供のように見えます。背景はエルサルバドルの植生に似て緑豊かです。救い主が御自分のすべての子供たちに抱いておられる愛に圧倒され,シルビアは涙を流しました。
翌日の奉献式では,シルビアは過去に思いをはせずにはいられませんでした。これまで世界中を旅してきましたが,彼女はエルサルバドルにおける最初の教会員の一人だったので,故郷で教会が発展している様子を見るのは胸に迫るものがありました。
日の栄えの部屋に座って,彼女は座席を埋めた地元の会員たちを見回しました。その多くは年配で,彼女と同じく教会がエルサルバドルにやって来たばかりのときにバプテスマを受けた人々でした。しばしば貧困と逆境に見舞われながら,聖約を忠実に守り続けてきた人々です。彼らの中には,神殿が開館したら儀式執行者となる人もいるでしょう。彼らが長年この神殿のために祈ってきたことを,彼女は知っていました。
1959年に10代だったシルビアが教会に入ったとき,最寄りの神殿は4日かけて行かなければならないアリゾナ州メサにありました。今やエルサルバドルには10万人の聖徒たちがいます。教会はこの地で,若いころのシルビアには想像もできなかったような方法で繁栄してきたのです。
自分が話す番になり,シルビアは立ち上がりました。彼女は英語を流ちょうに話しますが,考え,祈り,聖霊を求めるときの言語は依然としてスペイン語でした。この奉献式では母語で話をするので,自分の最も深い感情までもはるかに容易に伝えることができます。シルビアは主の宮にいる人々だけでなく,それぞれの集会所で奉献式の模様を視聴しているこの神殿地区の何千人もの聖徒たちに向けても話すのです。
彼女は次のように言いました。「今日,わたしの心は幸福と感謝でいっぱいです。神殿でわたしたちに約束される祝福は現実で,計り知れないことを証します。神殿は主の宮です。主御自身がそれを聖別されたのです。主の目と主の心が永久にここにあることでしょう。」
6週間後の2011年10月2日,コンゴ民主共和国ルプタの集会所では,ガソリン発電機が音を立てて稼働し始めました。中では,ウィリー・ビネネとリリー・ビネネを含む約200人の聖徒たちが礼拝堂のテレビの前に着席しようとしていました。間もなく,教会の第181回半期総大会の日曜午後の放送が,フランス語の通訳音声で始まります。この大会はフランス語を含め,51の言語で世界中の聖徒たちに提供されるのです。ルプタの教会員がシオンのステークの会員として楽しむことになる初めての総大会でした。
その3か月前にルプタステークが組織されたことは,教会がこの町で急速に成長していることを知っている人々にとっては驚きではありませんでした。ビネネ家族が神殿で結び固められた2008年には,ルプタには1,200人余りの末日聖徒が住んでいました。当時,その地で奉仕する専任宣教師はいませんでした。しかし,次の3年間,ウィリーとほかの教会指導者たちは,忠実な支部宣教師とともに努力し,地方部の聖徒の数を倍増させたのです。教会がきれいな水を町にもたらすプロジェクトを支援したことが一役買ったのは間違いありません。地方部からは,コンゴ民主共和国のほかの地域,アフリカ,そして世界へと,34人の専任宣教師を送り出してもいました。
それでも,七十人のポール・E・コーリカー長老とアルフレッド・キョング長老によって新しいステークの会長に召されたとき,ウィリーは驚きました。ルプタの教会には幾人かの経験豊富な神権指導者がおり,そのだれもがステーク会長を務める能力を備えていたからです。だれかほかの人が導く番ではないだろうか。
ステークが組織された6月26日,ウィリーはコーリカー長老とキョング長老がステークの15人の若い女性と男性に伝道の召しを渡す手伝いをしました。その後,ウィリーは皆と一緒に笑顔で写真に収まりました。20年前,民族紛争と流血により彼は故郷を追われ,主のために専任宣教師となる機会を奪われました。しかし,長年ルプタで献身的に教会で奉仕することで,次の世代の聖徒たちに,自分が得られなかった機会を与える助けができたのです。
総大会の放送が始まると,ウィリーはくつろいで話者の話に耳を傾けました。普段はモンソン大管長が大会の最初の部会で最初の話者を務めますが,健康上の理由でカンファレンスセンターへの到着が遅れていました。しかし,中間の賛美歌の後,大管長は説教壇に立って明るい声であいさつし,聖徒たちを大会へ歓迎しました。
「多忙を極めていると,時は瞬く間に過ぎていきます。この6か月間も,実に忙しいものでした。」
モンソン大管長は,エルサルバドルの神殿の奉献とアメリカ合衆国南部のアトランタの神殿の再奉献について話しました。「兄弟姉妹,神殿の建設は妨げられることなく続きます。今日,幾つかの新しい神殿を発表できる特権があることに感謝しています」と大管長は言いました。
ウィリーは注意深く耳を傾けました。最近,ルプタの教会指導者たちは神殿のことを考えていました。実際,この町で開かれた最初のステーク大会では,多くの話が聖徒たちを主の宮への参入に備えることに重点を置いたものでした。ビネネ家族を除けば,ルプタでこれまでにヨハネスブルグ神殿に行くことができた聖徒はほんの数名だけでした。コンゴ民主共和国では,パスポートの取得は比較的容易でしたが,南アフリカへの渡航ビザはそうではありませんでした。このため,コンゴ民主共和国の多くの聖徒たちは,ビザを取得して神殿に参入する前にパスポートが失効するのではないかと心配しながら待たなければならなかったのです。
最初にモンソン大管長が発表した神殿は,ユタ州プロボ市で二番目の神殿でした。少し前,プロボの歴史あるタバナクルで火事があり,外壁を除くほとんどの部分が焼け落ちてしまいました。そこで教会はこの建物を再建し,主の宮として用いることにしたのです。
「さらに,以下の場所に新しい神殿が建設されることをお知らせできることをうれしく思います」とモンソン大管長は続けました。「コロンビア・バランキージャ,南アフリカ・ダーバン,コンゴ民主共和国・キンシャサ,……」
「キンシャサ」という言葉を耳にした瞬間,ウィリーも周りの人たちも全員が立ち上がり,歓声を上げました。この知らせに,彼らは心底驚きました。もうすぐ,コンゴの聖徒たちは渡航ビザやパスポートの期限切れを心配しなくても済むようになるのです。預言者の簡潔な発表が,すべてを変えました。
これまで教会がコンゴ民主共和国に神殿を建設する計画があるといううわさも気配もまったくありませんでした。あったのは希望だけでした。いつか主が御自分の家をこの地に建ててくださるという希望です。