第28章
主の道
「お亡くなりになった。」
ゴードン・B・ヒンクレー管長は,電話でそう言いながら,茫然自失の状態にありました。電話の相手は妻のマージョリーです。泣いているのが聞こえます。この日が決して来ないようにと彼らは祈ってきました。
1995年3月3日のことでした。その日の朝早く,ヒンクレー管長はハワード・W・ハンター大管長が自宅で亡くなったことを知らされました。ハンター大管長はがんの治療を受けていて,健康状態が急速に悪化していました。それでも,知らせを聞いたヒンクレー管長はショックを受けました。ヒンクレー管長とトーマス・S・モンソン管長は,すぐに預言者のアパートを訪れ,イニッシ・ハンター姉妹を慰めました。それから,別の部屋に行き,必要な電話をかけ始めました。
マージョリーとの通話を終えると,ヒンクレー管長は深い悲しみを感じました。ハンター大管長とは30年以上にわたってともに主に仕えてきました。今,思いやりと知恵のある親しい友人を失ったのです。また,預言者の死去によって,ヒンクレー管長は先任使徒となり,それは教会を導く務めがその肩にかかることを意味していました。思いがけず,孤独を感じました。
「わたしにできるのは主に祈り,助けを懇願することだけだ」と,ヒンクレー管長は思いました。
5日後,ヒンクレー管長はソルトレークタバナクルでのハンター大管長の葬儀を管理しました。そしてヒンクレー管長は参列者に話しました。「ハンター大管長の現世での生涯は,個人のキャリアよりも使命の遂行を追い求めるものでした。 大管長は先頭に立ってイエス・キリストの福音の教えを力強く宣言し,教会の業を前進させてきました。」
9か月間の在職期間は歴代大管長の中で最も短いものでしたが,ハンター大管長はその間に多くを成し遂げました。大管長会は,東南アジアのラオスにおける食料不足,東アフリカのルワンダにおける内戦,そしてアメリカ合衆国南部における洪水と火事に苦しむ人々に,人道支援物資を送ってきました。健康状態が思わしくなかったために移動が制限されながらも,ハンター大管長はアメリカ合衆国の二つの町(フロリダ州オーランドとユタ州バウンティフル)で神殿を奉献しました。1994年12月11日には,教会の2,000番目のステークを組織するために,メキシコシティーを訪れました。
しかし,使徒として残した最大の遺産の一つは,宗教を問わない,すべての人への愛でした。ハンター大管長は聖地との深い霊的なつながりを持っていました。亡くなる前,そのころには十二使徒定員会の会員となっていたジェフリー・R・ホランド長老とともに,最後にもう一度エルサレムを訪問する計画を立てていました。健康状態の悪化により行くことができなくなり,大管長は悲しんでいました。
ハンター大管長の葬儀の翌日の3月9日,ヒンクレー管長は早くに目が覚め,再び眠りに就くことができませんでした。新たな責任の重みと,下さなければならない決断の重圧がのしかかっていたのです。
断食をして,ソルトレーク神殿で一人で時間を過ごすことにしました。大管長会と十二使徒定員会が毎週集まる4階の部屋の鍵をしっかり閉めると,そこで靴を脱ぎ,白い神殿用の上履きを履いて,聖文を読みました。
そのうちに,壁に掛かっている3枚の救い主の絵に目が行きました。その中の1枚は十字架の刑を描いたもので,ヒンクレー管長は自分を贖うために救い主が払われた犠牲について深く考えました。主の預言者として負う途方もなく大きな責任について再び考え,自分は不十分だという思いに包まれて涙を流しました。
次に,北側の壁に掛かっているジョセフ・スミスの絵に注意を向けました。右手には,東側の壁に沿って,ブリガム・ヤングからハワード・W・ハンターまで歴代の大管長の肖像画が並んでいます。ヒンクレー管長は順番に一つずつ肖像画を眺めました。ヒーバー・J・グラント以降の大管長の一人一人を個人的に知っていました。彼らは大きな信頼を寄せてくれ,ヒンクレー管長は彼らを愛していました。そして,それらの肖像画を眺めていると,彼らがまるで生き返ったかのように思われました。彼らの視線を感じ,自分のことを無言で励まし,必ず助けると約束してくれているように感じたのです。恐れる必要はありませんでした。
ヒンクレー管長はひざまずき,主に質問をし,そして御霊の力によって,それらに関する主の言葉を受けました。ヒンクレー管長の心と思いは平安と確信に満ち,自分にその務めを推し進める意志があることが分かりました。
すでに,第一顧問にトーマス・S・モンソンを召すことを決めていました。そして,第二顧問にジェームズ・E・ファウストを召すようにという印象を受けました。ひざまずいたまま,この選択についての確認を祈り求めると,温かい気持ちで心が満たされました。
後に,この日のことを振り返ったとき,ヒンクレー管長は自分の新しい召しについてより前向きに感じることができました。そして日記に記しています。「主から期待されることを行えるよう,主がこれまでわたしを訓練してくださってきたと願っている。 主に完全に忠誠を尽くし,必ず主の導きを求めていくつもりだ。」
このころ,ダリウス・グレーとマリー・テーラーは定期的にユタ州立刑務所を訪れ,フリードマン銀行の記録から系図のための情報を抄出している何百人もの受刑者に会っていました。
ボランティアたちは,刑務所の礼拝所に隣接する家族歴史センターで作業をしていました。そこに行くために,ダリウスとマリーは重い金属製のゲートや鍵のかかった扉,守衛が並ぶ廊下を幾つも通らなければなりません。初めてマリーに連れられて訪れたときには,ダリウスは少し緊張しました。受刑者に囲まれるエリアでは特にそうでした。しかし,数週おきに刑務所に通っており,この環境にも慣れてきました。
抄出プロジェクトが始まったころ,系図の探求は大きな変化を経験していました。ファイルの入った戸棚や印刷された索引に代わって,急速にコンピューターが使われるようになり,データの収集やその閲覧がより効率化されていたのです。1970年代と80年代,教会は神殿・家族歴史活動に新しいテクノロジーを導入し始めました。そして1990年代初頭までに,教会は刑務所内のセンターも含む地元の家族歴史センターの利用者が,より簡単に神殿儀式のための名前を提出することができるコンピュータープログラム「テンプルレディー」を開発しました。
受刑者たちが作業していた家族歴史センターには,壁際に幾つかのマイクロフィルムリーダーがありました。マリーは家族歴史図書館に働きかけて,フリードマン銀行のマイクロフィルムの写しを入手して刑務所に置くことができるようにしました。ボランティアたちはその情報をこのプロジェクトのために用意されたフォームに抄出した後,フォームを隣の部屋に持って行き,情報をコンピューター上のデータベースに入力します。マリーの監督の下に,ボランティアたちは一つ一つの記録を何度もチェックしました。2人のボランティアが同じ情報をそれぞれ別々に抄出し,3人目のボランティアがそれを元の文書と比較して,情報が正しく写されていることを確認します。
刑務所の家族歴史センターの責任者は終身刑に服していました。彼は作業が進み続けるように,うまく組織化していました。ダリウスはボランティアたちの熱意と,細心の注意を払って作業する姿に心を打たれました。刑務所の職員も,銀行の記録に取り組む受刑者たちはほかの受刑者たちとの間で問題を起こすことがないことを喜んで報告しました。
このプロジェクトは,宗教上の信条を問わず,すべての資格のある受刑者が参加可能でした。ボランティアと一緒に奉仕するとき,ダリウスとマリーはこのプロジェクトの持つ霊的な性質を強調しました。教会で育った受刑者たちは,家族を永遠に結ぶ業における系図の役割を理解していました。彼らの中には,刑務所を出る見込みのない人たちもいましたが,ほかの人々を霊の刑務所から解放するために働くことに喜びを見いだしていました。ダリウスとマリーは刑務所での集会をいつも祈りで始め,プロジェクトに取り組むときには自分の方法で祈るようにボランティアたちに勧めました。
時々,受刑者がダリウスのところにやって来て,神権の祝福を頼むことがありました。ダリウスはいつでもそれに応じました。あらゆる種類の犯罪に手を染めてきた彼らにミニスタリングを行っていると,彼らもまた神の子供たちなのだと確かに知ることができ,胸を打たれました。
当時,教会は神殿に家族の名前を提出するよう会員に推奨していましたが,会員は親族以外の名前を提出することも可能でした。受刑者たちはフリードマン銀行のプロジェクトから見つけた名前について神殿の儀式を行えるようにするために,「テンプルレディー」を定期的に使用しました。この作業を助けるために,マリーは最初期の黒人の末日聖徒の一人である,エライジャ・エイブルの名前を付けた神殿の「家族ファイル」を作りました。このファイルはアメリカ合衆国と南アフリカのすべての神殿参入者が利用することができました。フリードマン銀行の記録に載っていただれかのために儀式を行うことを希望する参入者は,ただ神殿に行き,その家族ファイルから名前を要請するだけでよいのです。
ある晩,ダリウスとマリーは数名の友人とともに,フリードマン銀行の記録から見つけた家族の結び固めを行うために,ユタ州サウスジョーダンにあるジョーダンリバー神殿に行きました。20人ほどの団体でしたが,それでも神殿でほかの人たちに助けてもらう必要がありました。その晩ずっと,生前奴隷制によって残酷に引き離された家族の結び固めを行いました。
神殿に行く前,ダリウスとマリーはその参入について受刑者に話していました。ダリウスがジョーダンリバー神殿を選んだのは,彼の最寄りの神殿だったからでしたが,それはたまたま刑務所から最も近い神殿でもありました。
その晩,プロジェクトに取り組んでいる数名の受刑者が,刑務所の隅の窓のところに集まりました。小さな窓ですが,そこからソルトレーク盆地を眺めることができ,ジョーダンリバー神殿も見えます。
ボランティアたちは自ら神殿に行くことはできませんでしたが,ダリウスとマリーが神聖な業を行うのを静かに応援しました。
大管長としての最初の1年間,ゴードン・B・ヒンクレーはアジアの教会を遠くから注視していました。香港神殿の建設が1994年1月に始まり,ヒンクレー大管長はその進捗について定期的に報告を受けていました。また,アジア地域の指導者に助言し,神殿の奉献に関連する行事の計画を助けました。
ヒンクレー大管長はこの地域における教会の発展を非常に喜んでいました。1955年以来,アジアの教会は会員数が1,000人から約60万人近くまで成長していました。日本,韓国,台湾,フィリピンはそれぞれ自分たちの神殿を持ち,強さの拠点となっていました。タイ,モンゴル,カンボジア,インド,そして再びベトナムでも,教会は成長し始めています。アジア全域で,次の世代の若い忠実な末日聖徒たちが違いを生み出していました。
台湾では,クワンリン・「アン」・リウ(劉冠伶)が最近,台北第一女子高等学校を卒業しました。学校では,4,000人以上の生徒の中でただ一人の末日聖徒でした。台湾の多くの学生と同じように,アンはきついスケジュールをこなしていました。午前6時の少し前に起きて6時半のバスに乗り,次の9時間を学校で過ごしました。夕食後は教室でさらに数時間勉強し,夜8時のバスで帰宅します。
それでも,夜眠りに就く前に,アンは聖文を読む時間を取っていました。ますます多くの教会指導者が,末日聖徒の礼拝の不可欠な一部として,毎日の聖文研究を強調していたのです。アンは祈りと聖文研究が,やる気を失うことなく,学校でよりよく学ぶための助けになると感じていました。日曜日には,クラスメートの多くは学校の勉強をしますが,彼女は台北では教会の定例集会の前に開かれているセミナリーのクラスに出席しました。また,ワードのピアニストとしても奉仕しました。
「聖餐会に行って話を聞くなら,わたしの生活は常により前向きで幸せなものになる」と,アンははっきり理解しました。
モンゴルでは,21歳のソヨルマ・ウルトナサンが,首都ウランバートルにある支部で若い女性たちを教えていました。支部の数百人の会員のうち,ほとんどが会員になって1年未満の10代か20代の兄弟姉妹でした。,ソヨルマ自身も数か月前にバプテスマを受けたばかりでしたが,熱意に満ちあふれていました。10代のころ,1年の間に両親が相次いで亡くなり,残されたソヨルマは神への怒りを抱えていました。
彼女はこう回想しています。「わたしは『二つの顔』を持っていました。表向きは幸せで外向的,でも心の中は惨めで内気でした。」心の痛みを和らげるために,パーティーに行き,飲酒に頼りました。
状況が変わり始めたのは,教会について学んでいたある友人から聖餐会に招かれたときでした。最初の日曜日,ソヨルマはこれまでに経験したことのない平安と帰属意識を感じました。すぐに,イエス・キリストを通じて新しい人になれることを学びました。救いの計画について聞いたとき,彼女は号泣しました。
「自分は正しい場所にいるのだと分かりました」とソヨルマは振り返ります。間もなく,彼女はモンゴル出身の最初の宣教師の一人となりました。
一方,タイでは,聖徒たちは神殿の重要性を理解し,神殿に行くために様々な犠牲を払っていました。1990年,約200人のタイの聖徒たちが,マニラにある主の宮に参入するために飛行機でフィリピンへ行きました。旅費は高額だったため,多くの聖徒たちが航空券を購入するために1年以上かけて貯金しました。
タイ中部にあるコーンケン地方部の会長として,クリアンクライ・ピタクポンはそのような日常的な犠牲を直接見ていました。地方部の会員の多くは貧しく,定職や定期的な収入がない人々は食べていくのがやっとでした。それでも彼らは教会で活発に奉仕し,徒歩や自転車,バスで長距離を移動しなければならないときも集会に出席しました。
クリアンクライはこう回想しています。「マニラへの空の旅は,タイの教会歴史において画期的な出来事でした。 皆が一生懸命働いて旅費を貯めました。」彼の10歳の娘さえも,家族が旅費を払うのを助けるために料理用の木炭を売りました。ついに,クリアンクライと妻のムクダハン,そして子供たちは神殿への旅を実現しました。そしてそこでの経験は,それまでの苦労と犠牲に十分見合うものでした。
そしてクリアンクライは証してます。 「神殿でともに結び固められたことで,わたしたち家族に特別な霊がもたらされました。今では16歳の息子が伝道に出たいと望んでいるだけでなく,下の娘二人も同じ望みを持っています。」
1995年8月9日の夕方,59歳のセリア・アヤラ・デ・クルスは扶助協会の活動に歩いて行くことにしました。集会の時間に間に合うように行きたいのですが,教会まで車で送ると約束してくれていた人が現れなかったのです。幸い,集会所は家から歩いてわずか8分のところにありました。すぐに出れば,数分の余裕を持って教会に着けます。活動はキルト作りのクラスで,セリアは教えることになっていました。
セリアはカリブ海にあるプエルトリコ南部の沿岸の町ポンセに住んでいました。1960年代以来,宣教師たちがカリブ海地域で,特にプエルトリコと,後にドミニカ共和国でも奉仕しており,これら両国の聖徒の数は今や数万人に達しています。回復された福音はほかの島国や地域でも根付いており,様々な文化や宗教,言語,民族の人々に届いていました。そのころにはカリブ海全域の都市や町や村に聖徒たちがいました。
集会に出かけるとき,セリアは5ドル札一枚と,プレゼント用に包んだモルモン書をハンドバッグに入れていました。エズラ・タフト・ベンソン大管長が聖徒たちに改めてモルモン書に焦点を当てるよう呼びかけて以来,彼女やほかの教会員たちはこの書物を人々と分かち合う機会を探していたのです。教会の「モルモン書寄贈プログラム—家族から家族へ」では,聖徒たちはモルモン書を贈る前にその中に自分の証を書くよう奨励されていました。当初,末日聖徒は自分でモルモン書を購入しなければなりませんでしたが,1990年に,教会は世界のだれにでも無料でモルモン書を提供できるよう,寄付基金を設立しました。
16年前に教会に入って以来,セリアはモルモン書を何度も読んできました。そして,同僚が結婚生活に問題を抱えていると聞いて,セリアはモルモン書が助けになると確信しました。本をプレゼント用の箱に入れ,素敵な包装紙で包み,リボンをかけました。箱の中には,自分の住所とモルモン書についての証を書いたはがきも入れていました。その晩,教会にその本を持って行き,扶助協会の姉妹たちにモルモン書をどのように人々と分かち合えるかを示そうと考えていました。
集会所の近くまで来ると,セリアは近道をして公園の後ろを通ることにしました。門を通っていたとき,ナイフを持った背の高い若い男性が彼女に飛びかかりました。男性に強く押されて,セリアは湿った雑草の上にあおむけに倒れました。
「あなたは主の僕を襲っているのですよ」とセリアは男性に言いました。
若い男性は無言でした。最初,セリアは自分は殺されるのではないかと思いました。しかし,男性は彼女のハンドバッグをひったくると中をひっかきまわし,5ドル札とプレゼント用に包んだモルモン書を見つけました。セリアはおだやかな気持ちに包まれました。若い男性が自分を傷つけるつもりはないと分かったのです。
「主よ」と彼女は声に出さずに祈りました。「もしこれが,この少年が福音に改宗するためにあなたがお選びになった方法であるなら,彼はわたしを殺さないでしょう。」
ナイフを握ったまま,若い男性は紙幣とモルモン書を取り,夜の街へ走り去りました。
そのころ,大西洋の向こう側では,ウィリー・ビネネが依然としてザイールのルプタで家族とともに暮らしていました。それはルブンバシで電子工学を学んでいたころに思い描いていたものとは異なる生活でした。ルプタは農業のコミュニティーであり,故郷のコルウェジの近くで民族紛争が続くかぎり,彼と家族はルプタにとどまって農作業をすることになるでしょう。
幸い,ウィリーは少年のころに父親から農作業の仕方を教わっていたため,豆やトウモロコシ,キャッサバ,ピーナッツの栽培の基本はすでに知っていました。しかし,最初の豆の収穫があるまで,家族には食べるものがほとんどありませんでした。彼らは生きていくために耕し,わずかな余剰の農作物があればそれを売って塩や油,石けん,そして幾らかの肉を買いました。
安全を求めてコルウェジを逃れた聖徒たちのうち,約50人がルプタに落ち着いていました。村に支部はありませんでしたが,彼らは毎週,礼拝のために広い家屋に集まりました。前コルウェジ地方部会長を含め,数人の男性が神権を持っていましたが,自分たちに聖餐会を開く権能は与えられていないと感じていました。代わりに,日曜学校のクラスを開いて,それぞれの長老が交代で集会を導きました。
この時期,ウィリーと仲間の聖徒たちは,キンシャサにある伝道本部と連絡を取ろうと何度も試みましたが,うまく行きませんでした。それでも,聖徒たちは収入があればいつも什分の一を取っておき,権能を持つ教会指導者に渡すことができる時を待ちました。
1995年のある日,ウィリーの家族は以前住んでいた家を売るために,ウィリーをコルウェジに帰らせることを決めました。コルウェジでは地方部会長に会えると知っていたので,ルプタの聖徒たちは什分の一を納める絶好の機会だと考えました。封筒にお金を入れ,ウィリーと,一緒に旅するもう一人の教会員に渡して,二人を送り出しました。
コルウェジまでの4日間の鉄道の旅の間,ウィリーは什分の一の封筒が入ったかばんを服の下に隠していました。ウィリーと同行者は旅の間,緊張し,恐れを感じていました。彼らは列車で眠り,下車するのはフフやほかの食物を駅で買うときだけでした。また,依然としてカサイ族に敵対的なコルウェジに入るのも不安でした。しかし二人は,真鍮の版を取りに行ったニーファイの話に慰めを見いだしました。主が自分たちと什分の一を守ってくださると信頼しました。
ついにコルウェジに着くと,地方部会長の自宅を探し出しました。会長は家に滞在するよう招いてくれました。数日後,ザイール・キンシャサ伝道部の新しい指導者であるロベルト・タベラとジェニーン・タベラがコルウェジに来たため,地方部会長はウィリーと同行者を彼らに紹介しました。
「この二人はコルウェジ支部の会員でした」と地方部会長は説明しました。「ここでの出来事のために,ルプタに移ったのです。今,戻って来ています。あなたに会いたかったそうです。」
「詳しく聞かせてください」とタベラ会長は言いました。「ルプタから来たのですか?」
ウィリーは会長に,ここまでの長い旅について話しました。それから,什分の一の封筒を取り出して,「これはルプタにいる会員たちの什分の一です」と言いました。「どこへ持って行けばよいか分からず,取っておいたのです。」
一言も発することなく,タベラ会長とタベラ姉妹は泣き出しました。「何という信仰でしょう」と,伝道部会長は声を震わせ,やっとのことで言いました。
喜びと平安がウィリーを包みました。神は什分の一を納めたルプタの聖徒たちを祝福してくださるとウィリーは確信しました。タベラ会長は彼らに忍耐強くあるように助言し,「向こうに戻ったら,わたしが皆さんを愛していることを伝えてください。皆さんは永遠の御父によって祝福されるでしょう。このような信仰は見たことがありません。」と言いました。
タベラ会長はできるだけ早く顧問の一人をルプタに送ると約束しました。「どのくらいかかるかは分かりませんが,顧問が行きます。」
強盗に襲われて間もなく,セリア・アヤラ・デ・クルスが郵便受けを確認すると,差出人の名前がない1枚の手紙が入っていました。「赦してください,どうか赦してください。あなたを襲ったことをどれほど後悔しているか,あなたはお分かりにならないでしょう。」と書いてあります。
セリアは読み続けました。若い男性は盗んだモルモン書がどのように自分の人生を変えたかについて書いていました。プレゼント用に包装された本を見たとき,最初は売ってお金にできると考えました。しかし,それから本を開き,セリアが同僚のために書いた証を読みました。「あの本に書いてあったあなたのメッセージを読んで,涙があふれました。水曜日の夜以来,読むのをやめられずにいます。」と,男性はセリアに述べていました。
若い男性が特に心を動かされたのは,リーハイの物語でした。「あの神の人が見た夢に,心が揺さぶられました。あなたと出会えたことを神に感謝しています。」と書いていました。神が自分の盗みを赦されるかどうかは分からないけれども,セリアが赦してくれることを願っているとも書いていました。「あなたの5ドルをお返しします。とても使うことなどできません。」紙幣が手紙に同封されていました。
男性はまた,教会についてもっと知りたいという希望を表明していました。「いずれまたお会いすると思いますが,そのときにはわたしだとお気づきにならないでしょう。そのころにはあなたの兄弟になっているからです」と男性は書いていました。「わたしはあなたの町の者ではありませんが,わたしの住んでいるこの場所で主を見いだし,あなたの集っている教会に行かなくてはなりません。」
セリアは腰を下ろしました。強盗に遭って以来,あの若い男性のために祈り続けていました。「もし神が望まれるなら,あの少年が改宗しますように。」と彼女は言いました。
数か月後,新たな年が始まりました。世界中の教会の日曜学校で,1年にわたるモルモン書の研究が始まりました。聖徒たちの研究を助けるため,Church News(『チャーチニューズ』)はその年の最初の号でモルモン書の特集を組みました。特集には,モルモン書に記されているイエス・キリストについての教えの概要や,この書物で述べられている民や出来事について読者が理解するのを助ける様々な表や記事,そして日曜学校のレッスンを補うモルモン書の短いビデオ9本が収められた新しいビデオカセットに関する情報が含まれていました。セリアの許可を得て,新聞の最後のページには彼女の経験を紹介する短い記事が,若い男性からの手紙全文も含めて掲載されました。
1996年2月,セリアはその若い男性からもう一通手紙を受け取りました。彼はあのときの強盗をひどく恥じていたために,相変わらず名前を明かそうとはしませんでした。しかし,『チャーチニューズ』に掲載された記事を見て,自分は元気にしており,生き方を変えようと努力していることを,セリアに知らせたいと思ったのでした。男性はしばしば彼女とモルモン書について考えていました。「これが真実の書物であると知っています」と彼は書いていました。実際,彼は教会に入り,神権を受けていたのです。「わたしは主のために働いています」と手紙にはありました。
彼は神殿の近くに住んでいて,少し前に神殿を訪れてみたとのことでした。建物の中には入りませんでしたが,そこで御霊を強く感じ,それが主の家であることを知ったそうです。
その若い男性は手紙にセリアの「信仰の兄弟」と署名し,彼女と彼女の家族への愛を記していました。主には自分に対する御心がおありであることを,彼は知っていました。