第34章
どんな状況にも対応する強さ
2004年10月15日の朝,アン・ピングリーはチリのサンティアゴで飛行機から降り立ちました。中央扶助協会会長会第二顧問として,地元の聖徒たちに会い,扶助協会指導者と神権指導者を訓練するためにやって来たのです。
集会では,アンは扶助協会管理会の識字委員会によって開発された,簡素化された訓練用小冊子を用いることを計画していました。小冊子は20数ページあり,カラー写真や,『教会指導手引き』からの簡単な原則が載っていました。アンは扶助協会指導者と神権指導者が互いを尊重し,ともに働くことを学ぶための助けとして,教会の福祉に関するこの小冊子を使いたいと思っていました。
アメリカ合衆国を出発する前,アンはチリ地域会長会のカール・B・プラット長老からメールを受け取りました。教会はそのころ,チリに2か所の福祉リソースセンターを開いたところで,それぞれにビショップの倉と職業支援センター,そしてカウンセリングオフィスがありました。福祉のリソースを分配する際,ビショップは扶助協会会長とともに働くことになっています。しかしチリのビショップたちはそうしていませんでした。
プラット長老とチリ地域会長のフランシスコ・J・ビニャス長老とのサンティアゴでの初回の会合で,アンはその問題についてさらに多くのことを知りました。チリの多くの聖徒たちは読むのが苦手であり,そのため,手引きを調べるよりも慣習に従って指導しているのだと,ビニャス長老は説明しました。世界の多くの場所と同じように,チリでは性差別が根強く,ステーク会長やビショップの中には扶助協会の指導者たちと相談しない人たちがいました。
「あなたには,その方法を教えていただきたいのです。手引きにある原則を学ぶことによって導くのだということを教えてください」とビニャス長老は言いました。
それからの1週間,アンは何百人もの聖徒たちと話しました。多くの人が,ジェフリー・R・ホランド長老がチリの地域会長として奉仕してくれたことへの感謝の気持ちを述べました。ホランド長老とオークス長老はそれぞれの地域で1年間奉仕するように召されていましたが,大管長会は二人の割り当てを1年延長し,地元の指導者たちを助け,聖徒たちを強めるための時間をさらに与えました。
チリの会員の定着率と集会の出席率が低いことに焦点を当て,ホランド長老は人々を教会に連れ戻すために宣教師や一般の聖徒たちと密接に協力しました。ワードや支部が弱い地域の神権指導者の負担を軽くするために,ホランド長老は教会の多くのユニットを再組織し,チリのステーク数を115から75に減らしました。
ホランド長老はまた,地域の日曜日の集会を短くして3時間から2時間15分とし,聖徒たちがキリストの福音を研究し,家族とともに過ごし,苦しんでいる会員を訪問し,召しを果たすための時間をさらに得られるようにしました。チリの教会は依然として会員の定着に関して困難を抱えていましたが,多くの聖徒たちは将来を楽観的に考えていました。
扶助協会指導者と神権指導者の集会で,アンは,彼らは主の業における協力者同士であることを思い起こさせました。「兄弟の皆さん,どうか大管長会と十二使徒の模範に倣ってください。女性たちの声に耳を傾けてください。福祉委員会集会やワード評議会集会,毎月の管理人の職の会合で彼女たちが有益な情報を分かち合うとき,その賢明な意見に耳を傾けてください」とアンは強く促しました。
アンはまた扶助協会指導者に対して,神権指導者との話し合いのために用意をするよう促しました。「準備をして評議会集会に参加し,有意義な違いをもたらしてください。それはただ課題や問題を特定するだけでなく,解決法やアイデアを携えて行くという意味です。」
福祉について話すときには,アンはプロジェクターと簡素化された福祉の小冊子を使って,ワード福祉委員会集会を行う方法や,助けが必要な家庭の訪問を実施する方法を指導者たちに教えました。アンは,扶助協会会長はビショップの要請のもとにそうした家庭の訪問を行う責任があることを強調しました。
「会長は姉妹の家庭を訪問します。そうしてその姉妹の必要を判断することができます。注意深く耳を傾けるとき,必要を満たす方法を提案できるように御霊が助けてくれます。家庭を訪問した後,会長はビショップまたは支部会長のもとに戻り,分かったことを報告します」と,小冊子は教えていました。
アンは,この集会に参加している神権指導者のほとんどが心を開いて,福祉に関して扶助協会とともに働く明確な方法を知りたいと切望していると感じました。そして扶助協会会長たちは特に,この訓練に感謝しているようでした。ある集会の後,一人の女性がアンのところにやって来て言いました。「わたしは悩んでいました。でも今はどうすればいいのか分かります。」
後で,アンは出会った人々のことを思い巡らしました。彼らの善良な生活と主の業に対する献身に霊が鼓舞されました。
「学んだすべてのこと,特にこの国で目にしたすべてのことに感謝しています。彼らは教会を築くために自分たちにできることを行おうと懸命に努力しています」と,アンは扶助協会中央管理会に報告しました。
一方,地球の反対側では,インド・バンガロール伝道部のアルウィン・キルバートと仲間の宣教師たちが,新しい伝道部指導者のブレント・ボーナムとロビン・ボーナムを奉仕の地に歓迎していました。
ボーナム夫妻はユタ州から到着したばかりでした。ユタ州で,彼らは『わたしの福音を宣べ伝えなさい』と呼ばれる新しい宣教師ガイドの訓練を受けていました。このガイドは,宣教師が出会う人々の必要に合わせて,御霊の導きにより救い主の福音を柔軟に教えることができるように考案されたものでした。
アルウィンは『わたしの福音を宣べ伝えなさい』について学ぶにつれて,実際に使うのがとても楽しみになりました。アルウィンは2001年3月に,故郷のインドのコインバトールで教会に加わり,宣教師プログラムに恩義を感じていました。バプテスマの数か月後に祖母が亡くなったときは,宣教師が教えてくれた救いの計画に慰めを見いだしました。教会の国際機関誌である『リアホナ』で伝道の業についての記事を読み,自分も伝道に出ることを決意しました。
末日聖徒の宣教師が初めてインドにやって来たのは1850年代で,それ以来,この国には常に少数の聖徒たちが暮らしていました。しかしこの地で教会が成長し始めたのは,20世紀の最後の数十年のことでした。1980年代に,教会指導者はシンガポール伝道部からインドの様々な地域にシニア宣教師を派遣しました。これらの宣教師と地元の聖徒たちの努力により,教会は根付いていきました。この国に住む10億人以上の人々のうち,末日聖徒はわずか5,400人余りでした。
成長は長年にわたってゆっくりとしたものでした。インド・バンガロール伝道部が設立されて3年後の1996年,政府は国内で働く外国人宣教師の数に制限を設けました。インドではほとんどの人がヒンズー教徒かイスラム教徒であり,キリスト教徒,シーク教徒,仏教徒,ジャイナ教徒,バハーイー教徒,パルシー教徒などは少数派でした。アルウィンたち宣教師が救い主とその教会について教えるとき,レッスンに出てくる基本的な原則は多くの人にとってなじみのないものでした。
アルウィンは,『わたしの福音を宣べ伝えなさい』が福音のメッセージを,どんな背景や信条を持つ人であろうと,すべての人に対してその人に合わせて教えられるように宣教師を助けてくれるものだと確信しました。40年以上の間,宣教師のレッスンは具体的な言葉が用意された6つのレッスンで構成されていました。それに対して,『わたしの福音を宣べ伝えなさい』では,より教える相手に合わせたレッスンができるように,宣教師は福音の原則を学ぶことに焦点を当てるよう求められました。
新しいカリキュラムでは,回復,救いの計画,イエス・キリストの福音,戒め,福音の律法と儀式についての,5つのレッスンが宣教師に提供されました。ガイドのほかの章では,モルモン書の役割や,御霊を認識すること,キリストのような特質を伸ばすことなどの重要な原則について,宣教師はさらに学ぶことができました。
最初のレッスンに,「御父の計画の中心となっているのは,イエス・キリストの贖いです」という重要な一節があります。「贖いにより,わたしたちは罪の重荷から解放され,信仰と試練に立ち向かう強さ養うことができるのです。」
それからの数か月間,ボーナム会長とボーナム姉妹は,伝道部が『わたしの福音を宣べ伝えなさい』に切り替えるための準備をしました。2004年8月のゾーン大会で,彼らは宣教師たちに向けて,新しいカリキュラムにある原則の一つ,時間を賢明に使うことについて話しました。翌日,アルウィンはこの変更について家族に手紙を書きました。「導入されたこのシステムはインドだけではなく,全世界を対象とするものです。宣教師たちはこれまで以上に自由が与えられ,また同時に責任も与えられています」とアルウィンは伝えました。
9月,ボーナム会長はアルウィンをインド南東部の沿岸の町,チェンナイのゾーンリーダーに召しました。ゾーン集会で,アルウィンは『わたしの福音を宣べ伝えなさい』を使って宣教師たちを訓練し,彼らが福音を分かち合う新しい方法に慣れるのを助けました。
間もなく,チェンナイでは伝道の業が加速しました。アルウィンと同僚たちは,メアリーという女性とその孫息子のユバラジに出会いました。この家族は,ユバラジが地元の末日聖徒によって運営されている学校に入学したことで,回復された福音に興味を持つようになりました。宣教師が『わたしの福音を宣べ伝えなさい』からのレッスンを教えると,メアリーは数年前に亡くなった夫と結び固められることに特別な興味を示しました。宣教師たちは,家族がメアリーにとって大切なものであることが分かったので,家族が永遠のものであることに焦点を当ててメッセージを伝えるようにしました。アルウィンと同僚たちがバプテスマを受けるようメアリーとユバラジを招くと,彼らは受け入れました。
彼らのバプテスマの日,ほかにも5人の人がバプテスマを受けました。
2004年12月26日日曜日,スタンレー・ワンは香港で教会の集会中に席を外して電話に出ました。ヒンクレー大管長が香港神殿の用地を選定するのを手助けしてから,10年以上がたっていました。今はアジアで地域幹部七十人を務め,また地域における教会の福祉マネージャーとして働いていました。
電話は,教会の人道支援ディレクターであるギャリー・フレークからでした。その声を聞くと,緊急事態のようでした。ギャリーはインドネシアで起きた津波について知りたがっていました。
スタンレーはギャリーが何の話をしているのか分かりませんでした。電話を切ると,インドネシアの教会のオフィスに電話しました。津波についてオフィスの人はだれもよく知らないようでしたが,ニュースが出始めていました。
その日の早朝,インドネシアのスマトラ島西海岸沖のインド洋で大地震が起きていました。震動の力は海を渡って放射状に広がり,非常に高い海水の壁を陸地に向けて押し進めました。インドネシア,インド,スリランカ,マレーシア,タイで,山のように巨大な波が町や村を襲い,道路が冠水し,家屋や建物が倒壊しました。行方不明者や死者の人数は不明でした。
事の重大さを理解すると,スタンレーとギャリーは状況を把握するためにスリランカのコロンボで会うことにしました。その島には数名の宣教師と約850人の教会員がいました。しかしインドネシアやインドとは違い,スリランカには教会の管理事務所はなく,地元の教会職員もいませんでした。
スタンレーはすぐに空港へ向かいました。真夜中近くにスリランカに到着すると,島は記者や慈善団体,友人や家族を捜す人々で埋め尽くされていました。予約していたホテルの部屋は彼よりも高額を支払った客に取られてしまっていたため,現地の宣教師を探し出して,彼らの住居の床で寝ました。
翌日,ギャリー・フレークがアメリカ合衆国から到着し,その日の午前中,ギャリーとスタンレーは支部の指導者や会員たちと会合を持ちました。その後,島中を移動して,被害状況を把握しました。
スリランカの東沿岸部がいちばんの被害を受けていました。見たところはすべて,家もビルも崩壊していました。道路は混乱から逃れようとする車や人でいっぱいでした。電車やバスは運行を中止していました。兵士が生存者を捜す中,家を失った何千人もの人々ががれきの山のそばに座っていました。
ここ数年,教会は世界各地で災害支援をしており,コソボ,シエラレオネ,アフガニスタンの戦争難民や,ベネズエラとモザンビークでの洪水被害者,エルサルバドルやトルコ,コロンビア,台湾の地震の生存者を助けてきました。その時東南アジアでは,教会は津波の被災地で使用する医療品を数パレット分用意していました。教会の人道支援基金を使って,スタンレーとギャリーは緊急用医療品や食料など,地元の指導者が被災者に分配できる物資を追加購入しました。また教会員たちに,衛生キットなどの救援物資を用意するのに地元の集会所を使うよう指示しました。
スリランカで数日過ごした後,スタンレーとギャリーはインドネシアへと向かいました。インドネシアでは,ギャリーが以前一緒に働いたことがある,この国の国民福祉担当調整大臣と会いました。
「最も必要なものは何ですか」とギャリーは尋ねました。
「犠牲者のための遺体袋です」と大臣は答えました。
スタンレーとギャリーは北京の知り合いに連絡し,1日に1万の遺体袋を発送できる会社を見つけました。次に,スタンレーとギャリーはインドネシアへの輸送を手配しました。
遺体袋が届くのを待つ一方で,教会はテントや防水シート,医療キット,古着を津波被災者に提供しました。またイスラム教の救援組織と連携し,63トン以上の追加物資を届けました。
しかし,なすべきことはまだたくさんありました。スタンレーとギャリーは,行く先々で助けを必要としている人々に出会いました。スリランカとインドネシアでは数千人が亡くなったと報告されていました。インドとタイでもさらに数千人が亡くなりました。
インドのチェンナイを地震が襲ったとき,アルウィン・キルバートはベッドに横になってシャワーの順番を待っていました。その前の夜,彼と仲間の宣教師たちは支部のクリスマスの活動に参加して疲れ切っていました。ベッドが揺れ始めたとき,アルウィンは同僚がいたずらをしているのだと思いました。
「どうしてわたしのベッドを揺らしてるんだい。もう目は覚めているよ」とアルウィンは大きな声で言いました。
すると同僚のレバンス・ネラベルが部屋に入って来ました。「ちょっと揺れたね」と彼は言いました。「地震だ。」
南インドでは地震は珍しいことでしたが,宣教師たちはさほど気にしませんでした。しかし,その日の午前中に教会に着いたとき,アルウィンは何かがおかしいと感じました。聖餐会が始まった後,支部会長のソン・ヤンは壇上から不意に席を外し,礼拝堂から出て行きました。沿岸部の津波についての連絡で,携帯がずっと鳴りやまなかったのです。彼は海辺の近くにある自分の家を確認し,被災した聖徒たちの必要を把握するために建物を出ました。
その日,アルウィンと同僚たちは何が起こったのかを見るために海岸へ向かいました。警官が傍観者を近づけないためにバリケードを設置し,馬に乗って周辺を巡回しています。海岸沿いでは,1キロ以上も内陸に押し寄せた水から,人々が遺体を引き上げています。海岸沿いの低地の漁村は壊滅的な被害を受け,多くの漁師が船や道具を失っていました。チェンナイの南約300キロの町,ナーガパッティナムでは,広範囲に及ぶ被害がありました。
翌朝,アルウィンと同僚たちはチェンナイ第一支部の集会所に行き,市内の二つの支部が組織した奉仕プロジェクトを手伝いました。一晩かけて,教会は約650キロ近く離れた町からトラック何台分もの物資を運んでいました。それからの2日間,宣教師たちと会員たちは衣類や寝具,衛生用品,食器などが入った救援キットを作り,仕分けしました。
12月28日火曜日,アルウィンと同僚たちは自分たちの伝道部会長であるボーナム会長に会いました。津波が襲って以来,インドの末日聖徒たちは教会が提供した物品を被災した人々に配っていました。何百もの衛生キットやそのほかの物資をトラックに積み込んだ後,宣教師たちはボーナム会長に同行して,それらをインド赤十字社の事務所に届けました。
事務所で,出迎えた男性が彼らの名札に気づきました。「ああ,教会の方ですね。何を持って来てくださったのですか」と男性は言いました。
宣教師たちは,ランタンと衛生キット,そして数トンの衣類があると答えました。職員は寄付に感激し,トラックを施設に入れるように言いました。
中では,大量に積まれた衣類の周りに人々が群がっていました。マスクと手袋をした作業員たちがその山を分類し,衣服が清潔で良い状態であることを確認していました。様々な宗教や団体の人たちも物資を降ろしていました。アルウィンとほかの宣教師たちは数時間かけてトラックから荷物を降ろし,必要な場所に物資を運びました。
アルウィンは様々なグループの人たちを見て,皆が隣人への愛のゆえに協力して働いている様子に感銘を受けました。
2005年5月,エマ・アコスタとボーイフレンドのエクトル・ダビド・エルナンデスは,交際して6か月がたっていました。エマは19歳で,エクトルはグアテマラシティーでの伝道から最近帰還したところでした。二人は深く愛し合っており,結婚について話し始めていました。しかし彼らが暮らしていたホンジュラスのテグシガルパでは,若い男女は数年間交際し,大学での勉強を終えるまで結婚しないのが普通でした。
エマはそのころ公立大学に入学したところで,学位を取ろうと決意していました。その1年前,教会の中央若い女性集会で,ヒンクレー大管長は若い女性たちに自分の学業について真剣に考えるよう促しました。「可能な限りの教育を受ける必要があります。訓練こそチャンスへの鍵です」と大管長は言いました。
エクトル・ダビドも大学に行く計画を立てていました。エクトルとエマは,結婚や子育てに伴う経済的責任のために学校を中退した既婚の学生をたくさん知っていました。それでも,二人は結婚を先延ばしにしないようにという御霊の促しを感じました。
ある日,エマはエクトル・ダビドに,グアテマラシティー神殿へのワード団体参入の話をしました。エマは神殿に行ったことがなく,行きたいと思っていました。
「一緒に行って,主がこの関係に望んでおられることを尋ねてみるのはどうかな」とエクトル・ダビドは提案しました。何年もの間,教会指導者は若い人々に対して,コートシップや結婚に関する質問について主の導きを求めるように促していました。エマとエクトル・ダビドは個人の啓示を受けるために主の宮に行く必要はありませんでしたが,神殿は導きを求めるときに主と主の御霊を近くに感じることができる聖なる場所でした。
グアテマラシティーへは,テグシガルパから14時間かかりました。神殿での1日目の午前中,エマとエクトル・ダビドは死者のためのバプテスマを行いました。更衣室から出たエマは,エクトル・ダビドが白い服を着て,バプテスマフォントのそばで自分を待っているのを見つけました。そしてエクトルによってバプテスマを施されたとき,彼と結婚するべきだという個人的な証を得ました。
その後,エクトル・ダビドはエンダウメントのセッションを終え,神殿の敷地の庭でエマと落ち合いました。そして彼女の手を取り,抱き締めました。彼もまた答えを受けていたのです。「主がぼくたちとともにいてくださると感じるんだ。この先どんな状況が訪れようと,主が強さを与えてくださるよ」とエクトルは言いました。
数週間後,エマが家族の食料品店で働いていたとき,エクトル・ダビドから電話がありました。エクトルは,エマとの結婚について,彼女の父親と話したところだと言いました。話はうまく進みませんでした。エマの父親は末日聖徒でしたが,教会にはしばらく行っていませんでした。娘がなぜもう結婚したいのか,理解ができませんでした。
電話の後,エマは父親が店に入って来るのを見ましたが,その顔は真剣でした。父親は婚約を祝福してくれましたが,明らかに落胆していました。エマが学位を得られないのではないかと心配していました。
「もし結婚するのであれば,仕事を探した方がいいだろう。もうここには働きに来てほしくないんだ」と父親は言いました。
どこで仕事を見つければよいか分からず,エマはテグシガルパにある教会の職業支援センターに行きました。2002年に開設されたこのセンターは,聖徒たちがより良い仕事を見つけるのを助けるために世界各地に設けられた数百のセンターの一つでした。センターの指導員は地元の帰還宣教師たちです。彼らはヒンクレー大管長が2001年に発表した永代教育基金について話してくれましたが,エマは今のところ学費のためのローンには興味がありませんでした。また,就職面接のためのヒントを教えてくれ,履歴書の作成も手伝ってくれました。これらのスキルを身につけて,エマは間もなく銀行での仕事を見つけました。
結婚式の日が近づくにつれて,エマは気持ちが落ち込んでいきました。父親は結婚式の費用を援助することに同意してくれましたが,父親をはじめとする親族は結婚への反対を口にしていました。
彼らに賛成してもらえていないことが,エマに重くのしかかりました。ある日,エマはリビングで一人ひざまずいて祈りました。「これはあなたがわたしたちに望まれたことです。わたしは従順でいようと努力しています」と彼女は天の御父に言いました。
すると突然,救い主が水の上を歩かれた話が思い浮かびました。ペテロがイエスのもとへ行こうとしますが,恐れを感じたときに沈んだことを思い出しました。ペテロのように,エマは自分もおぼれているように感じました。
しかしその後,平安な気持ちに包まれました。「娘よ,あなたは嵐に意識を向けている。ただわたしを見なさい。 わたしに思いを向け,わたしがすでにあなたの心に授けたものに集中しなさい」と,主の声がエマに告げました。
エマは,主がペテロの手を取ったように,自分の手を取ってくださっているかのように感じました。
2005年9月下旬,アンジェラ・ピーターソンは中東からの高官の訪問に備えて,その月ずっと忙しく働いていました。ワシントンD.C.の事務所での国際関係および政治関係の新しい仕事の一部として,彼女は重要な訪問者のために徒歩でのツアーや夕食,文化イベントなどを計画するように頼まれることがありました。
高官が到着し,アンジェラと話をするうちに,二人は自分たちには幾つかの共通点があることが分かりました。二人とも農村部で育ち,二人とも家族と信仰を大切にしていました。高官はイスラム教の信条でアルコールを飲まず,アンジェラも飲まないことに感心しました。
アンジェラは高官の滞在に向けてたくさんのイベントを計画していましたが,数日がたって,彼がこう言いました。「もうワシントンは全部見たと思います。ほかに何か見せてもらえるものはありますか。何か違うものはありませんか。」
あるイメージがアンジェラの頭にぱっと浮かびました。ワシントンD.C.神殿です。アンジェラはちゅうちょしました。自分にとって神聖な場所に高官を連れて行くのは果たして適切だろうかと思ったのです。それでも,神殿のイメージが頭から消えません。
「実はまだ一つお見せしていない場所があるんです。わたしにとってワシントンD.C.で最も大切な場所です」と,アンジェラは高官に言いました。
高官はぜひ行きたいとのことで,アンジェラは手配を始めました。神殿の訪問者センターのディレクターであるジェス・L・クリステンセン長老に電話をすると,高官のために公式のプライベートツアーができるように数時間閉館してもらえることになりました。
翌日,アンジェラは高官を迎えに行き,神殿までの美しい,曲がりくねった道を車で走りました。1時間近いドライブの間,高官は教会について次々に質問し,アンジェラは考えや言葉が完全に明瞭に浮かんでくるのを感じました。高官は注意深く耳を傾け,最初の示現やモルモン書,現代の預言者,教会の世界規模の人道支援,そして什分の一の律法に興味を持ったようでした。
アンジェラが最後のカーブを曲がったころには夕方になっており,主の宮は沈んでいく太陽に明るく照らされていました。神殿の敷地を進んでいくと,訪問者センターの「クリスタス像」がはっきりと見えました。クリステンセン長老がツアーを行いました。多くの言語に翻訳されたモルモン書が展示されていて,その中には高官の母語であるアラビア語もありました。
ツアーの終わりに,クリステンセン長老はヒンクレー大管長が家族の大切さについて証しているビデオを上映しました。テレビの横には,額に入れられた「家族—世界への宣言」がありました。高官はそれを静かに読み,うなずきました。
「これはわたしが信じていることです。これはわたしの国の人々が信じていることです」と高官は言いました。
町へ戻る車の中で,高官はアンジェラに,教会が家族を強調していることに感銘を受け,ほかの宗教が自分の宗教と同じように家族を大切にしていると知ることができてうれしいと言いました。高官のワシントン訪問の最終日,アンジェラは彼にその宣言を一枚渡しました。
「あなたの国の方々に何か意味があると思うものを差し上げたかったのです」とアンジェラは説明しました。