2022
神はわたしたちを愛して下さった
2022年5月


9:58

神はわたしたちを愛して下さった

神はわたしたちをとても愛しておられるので,その独り子を送ってくださいました。わたしたちを裁くためではなく,わたしたちを救うためです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)わたしが初めてこの聖句に目を留めたのは,教会でも家庭の夕べでもなく,テレビでスポーツの試合を観戦しているときでした。どのチャンネルの,どの試合を見ても,観客の少なくとも一人が「ヨハネ3:16」と書かれたボードを手に持っていたのです。

わたしは17節も同じくらい大好きになりました。「神が御子を世につかわされたのは,世をさばくためではなく,御子によって,この世が救われるためである。」

神は,御自身の肉における独り子であられるイエス・キリストを,わたしたち一人一人のための犠牲として遣わされました。これは神がわたしたちを愛し,わたしたち一人一人がみもとへ戻るための計画を用意してくださったからです。

しかしこの計画は包括的なものでもなく,うまくいくときもあればそうでないときもあるといった類のものでもありません。わたしたちの思い,名前,そして御自身がわたしたちに何を必要としておられるかを御存じである,愛のある天の御父によって作られた,個人的なものなのです。なぜそう信じているのでしょうか。聖文にそのように書かれているからです。

モーセは天の御父が「わたしの子モーセよ」(モーセ1:6参照。7,40節も参照)と語られるのを,繰り返し耳にしました。アブラハムは自分が神の子であり,その使命のため,生まれる前に選ばれていたことを知りました(アブラハム3:12,23参照)。エステルは自分の民を救うため,神の御手によって重要な地位に置かれました(エステル4章参照)。そしてナアマンが癒されるよう,神は僕の若い女性を生ける預言者の証人とされました(列王下5:1-15参照)。

中でもわたしが好きなのは,イエスを見ようと木に登った背が低い善良な男性です。救い主は彼がそこにいるのを御存じで,足を止め,枝を見上げて,こう言われました。「ザアカイよ,……下りてきなさい。」(ルカ19:5)そして,森に入って,神の計画が個人的なものであると知った14歳の少年を忘れるわけにはいきません。「〔ジョセフよ,〕これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさい……。」(ジョセフ・スミス—歴史1:17

兄弟姉妹の皆さん,天の御父の計画,救い主の使命,御二方の業と栄光の対象は,わたしたちなのです。わたしたち一人一人が,個人として,御二方の業であり栄光なのです。

わたしにとって,旧約聖書ほどこの事実をはっきりと描いている聖典はありません。次々と続く章の中で,天の御父とエホバがどれほど密接にわたしたちの生活とかかわっておられるかの例が見つかります。

わたしたちは最近,ヤコブの愛する息子であるヨセフについて学んできました。若くして主の恵みを受けたヨセフは,兄弟たちの手によって壮絶な経験をしましたが,2週間前,ヨセフが兄弟を赦したことについてわたしたちの多くが心を動かされました。『わたしに従ってきなさい』にはこう書かれています。「多くの点で,ヨセフの生涯はイエス・キリストの生涯に似ています。主に大きな苦しみをもたらしたのはわたしたちの罪ですが,救い主は赦しを与えてくださり,飢饉よりはるかに悪い運命からわたしたち全員を救い出してくださいます。赦される必要があろうと,赦す必要があろうと―わたしたちは皆,ある時点で赦し赦される必要があるわけですが―ヨセフの模範は,癒しと和解のまことの源であられる救い主にわたしたちの目を向けてくれます。」1

わたしが大好きな,ここで得られる学びの一つは,ヨセフの兄弟であるユダにまつわるものです。ユダは,神のヨセフに対する計画の一端を担っていました。ヨセフが兄弟たちに虐げられたとき,ユダはヨセフを殺さずに奴隷として売るよう,彼らを説得しました(創世37:26-27参照)。

何年も後,ユダと兄弟たちは末の弟ベニヤミンをエジプトへ連れて行く必要がありました。彼らの父はそれを拒みましたが,ユダが,ベニヤミンを家へ連れて帰るとヤコブに約束したのです。

エジプトで,ユダは試されることになります。若いベニヤミンは無実の罪でとがめられ,ユダは約束を守るため,身代わりに投獄されることを申し出ました。彼は言いました。「この子供を連れずに,どうしてわたしは父のもとに上り行くことができましょう。」(創世44:33-34参照)ユダは,約束どおりベニヤミンを安全に帰すと固く決意していたのです。ユダがベニヤミンに対して抱いていたような気持ちを,皆さんは感じたことはありますか。

両親は子供に対して,宣教師は仕える人々に対して,初等協会や青少年の指導者は教え愛する人々に対して同様に感じるのではないでしょうか。

あなたが何者であるかや状況にかかわらず,同様に感じているだれかがいます。あなたと一緒に御父のみもとに帰りたいと願う人がいるのです。

決して諦めずにわたしたちのために心から祈り,わたしたちが天の御父のみもとへ戻るにふさわしくなれるよう,教え助け続けてくれる人々に,わたしは感謝しています。

愛する友人の一人は最近,新型コロナウイルス感染症のために233日間入院していました。この入院の間に,彼は亡くなった父親の訪れを受け,孫たちへのメッセージを託されました。幕の向こう側にいてもなお,この善良な祖父は孫たちが天の家へ戻る助けをしたいと願っていたのです。

ネルソン大管長の呼びかけを世界中で耳にし,自分たちの人生での「ベニヤミン」とも呼べる人々を思い起こし始めているキリストの弟子が増えています。若い男性と若い女性は,主の青少年の大隊に進んで携わっています。個人と家族は,ミニスタリングの精神,つまり愛し,分かち合い,友人と隣人にキリストのもとへ来るよう招く心をもって,手を差し伸べています。青少年と成人は,神殿を満たし,亡くなった家族の名前を見つけ,身代わりの儀式を受けることで,聖約を覚え守るよう努力しています。

天の御父のわたしたちに対する個人的な計画は,御父のもとへ戻れるように人々を助けることがなぜ含まれるのでしょうか。なぜならそれが,わたしたちがイエス・キリストのようになる方法だからです。ユダとベニヤミンの物語は,究極的に救い主がわたしたちのためにささげられた犠牲について教えています。贖いを通して,主はわたしたちが天へ戻れるよう御自分の命をささげられたのです。ユダの言葉には救い主の愛が示されています。「〔あなた〕を連れずに,どうしてわたしは父のもとに〔戻る〕ことができましょう。」(創世44:34参照)イスラエルの集合を助ける一員として,これはわたしたちの言葉ともなり得ます。

旧約聖書には,天の御父の計画を顕著に示す奇跡と優しい憐れみが散りばめられています。列王紀下の4章には,神の時に従って起こる重要な出来事を強調するために,「ある日」という言葉が3度繰り返されています。神にとって,ささいなことなど存在しないのです。

わたしの新しい友人ポールは,この真理について証してくれています。ポールは,時に暴力的で宗教が常に許されない家庭で育ちました。ドイツの軍用基地にある学校に通っている間,彼は霊的な光を持っているように見える二人の姉妹に気づきました。そのことを尋ねると,彼女たちが末日聖徒イエス・キリスト教会に所属していることを知りました。

間もなく,ポールは宣教師と会うようになり教会に招かれました。次の日曜日,彼がバスを降りると白いシャツにネクタイをした二人の男性が目に留まりました。彼らに教会の長老たちかと尋ねると,そうだと答えたので,ポールは彼らについて行きました。

集会の間,牧師は人々に証するよう招き,証が終わる度にドラム奏者がドラムを鳴らして敬意を表し,人々は一斉に「アーメン」と叫んでいました。

牧師がポールを指名したとき,彼は立ち上がり言いました。「わたしはジョセフ・スミスが預言者であり,モルモン書が真実だと知っています。」ドラムの音もアーメンと言う声も聞こえませんでした。ポールはようやく自分が違う教会に来ていたことを知りました。間もなくポールは,正しい場所にたどり着き,バプテスマを受けました。

バプテスマの日,見知らぬ会員がポールに言いました。「あなたはわたしの命を救ってくれました。」数週間前,この男性は別の教会を見てみようと決め,あのドラムとアーメンの聞こえる集会に参加したのです。ポールがジョセフ・スミスとモルモン書について証するのを聞いた彼は,神が自分を御存じで,自分の悩みを認識しておられ,自分のための計画をお持ちであると気づきました。ポールとこの男性にとって,それはまさに「ある日」に起きた出来事でした!

わたしたちもまた,天の御父がわたしたち一人一人に個人的な計画を用意されていることを知っています。神が愛する御子を遣わされたので,わたしたちに必要な奇跡が,神の計画を成就するために必要な「ある日に起こる」のです。

今年,旧約聖書から神の計画についてより多くを学ぶことができると証します。この神聖な書物は不確かな時における預言者の役割と,混乱と争いの世における神の御手について教えています。 またわたしたちが,長く預言されてきた,輝かしい主の再臨を待ち望んでいるように,救い主の来臨を忠実に待ち望んだ,謙遜な信者たちについての書物でもあります。

その日まで,わたしたちの人生のすべての側面における神の計画を,肉体の目では見ることができないかもしれません(教義と聖約58:3参照)。しかしわたしたちは,ニーファイが理解できないことに直面したときの返答を思い出すことができます。彼はすべてのことの意味は知りませんでしたが,神が子供たちを愛しておられることは知っていました(1ニーファイ11:17参照)。

この美しい安息日の朝に,わたしの証をお伝えします。わたしたちがこれらを心に記すことで,わたしたちの魂を平安,希望,そして永遠の喜びで満たすことができますように。神はわたしたちを裁くためではなく救うため,その独り子を賜ったほどに,わたしたちを愛してくださいました。イエス・キリストの御名により,アーメン。