2022
末日における勇敢な弟子
2022年5月


10:18

末日における勇敢な弟子

この終わりの時に,引け目を感じることなく自信を持ち,気弱にならずに雄々しくなり,恐れずに信仰をもって主の光を掲げましょう。

道徳的な選択の自由は,神が御自分の子供たち一人一人に与えてくださった貴い賜物です。1わたしたちは,「すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも,あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由」2です。神はわたしたちに善を行うよう強制されることはなさいませんし,悪魔も,わたしたちに悪を行うよう強いることはできません3現世は神とサタンの戦いだと考える人がいるかもしれませんが,救い主が一言語ると「サタンは黙り,消え去ります。……試されるのは〔わたしたちの〕力であり,神の力ではありません。」4

したがって,結局わたしたちは,生涯にわたって自分のまいた種を自分で刈り取るのです。5では,わたしたちの思いと望み,言葉,行いの総計は,救い主,主の選ばれた僕,回復された主の教会に対する愛について何を語っていることになるでしょうか。交わしたバプテスマと神権,神殿の聖約は,世の誉れやソーシャルメディアでの「いいね」の数よりも大きな意味があるでしょうか。主と主の戒めに対するわたしたちの愛は,この世のどのような人や物に対する愛よりも強いでしょうか。

サタンとサタンに従う者たちは,キリストと主の預言者たちの業を損なわせようと常に躍起になっています。救い主の戒めは,完全に無視されているのではないにしても,今日世の多くの人から意味がないとされています。「不都合な」真理を教える神の使者は,取り合ってもらえないことが多いのです。救い主御自身でさえ,「食をむさぼる者,大酒を飲む者」6と呼ばれ,世情を乱し,民を分断していると非難されました。弱く,ずる賢い人々は,「どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと」7しましたし,初期のキリスト教徒のイエスの「宗派」は「いたるところで反対」8されていました。

救い主と初期の時代に救い主に従っていた人々は,教会の内と外から深刻な反対に遭っていました。今のわたしたちと同じです。今日,この世的な人たちから面と向かって,またはオンラインで指をさされ,あざけり笑われることなく,雄々しく信仰生活を送ることはほぼ不可能です。確信をもって救い主に従うことには大きな報いがありますが,時には,「飲み食いし,楽しみなさい」9という考え方の人たちの攻撃の的になるかもしれません。そのような人たちは,神はわたしたちを非常に愛しているので,小さな罪は正当化してくださるという幻想に捕らわれており,キリストを信じる信仰と従順,悔い改めの大切さを理解しようとしません。

「〔主御〕自身の声によろうと,〔主の〕僕たちの声によろうと」,10救い主は,今の時代について,「人々が健全な教に耐えられなくなり,耳ざわりのよい話をしてもらおうとして,自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め,」多くの人が「真理からは耳をそむけて,作り話の方にそれていく時が来るであろう」11と言われなかったでしょうか。彼らが「人間のいましめを教えとして教,無意味にわたしを拝んでいる」12ことを嘆かれなかったでしょうか。「あなたがた自身の中からも,いろいろ曲ったことを言って,弟子たちを自分の方に,ひっぱり込もうとする者らが起るであろう」13と警告されなかったでしょうか。「悪を呼んで善といい,善を呼んで悪といい,」14「家の者が,その人の敵となる」15ことを予見されなかったでしょうか。

では,わたしたちはどうでしょうか。わたしたちはおじけづいたり,怖がったりすべきでしょうか。わたしたちは自分の宗教をこっそりと隠して生きるべきでしょうか。もちろん,そうではありません。キリストを信じる信仰があれば,人の非難やののしりを恐れる必要はありません。16救い主が舵を取り,生ける預言者がわたしたちを導き,わたしたちを導いてくださるのですから,「だれがわたしたちに敵し得〔る〕」17でしょうか。この終わりの時に,言い訳がましくならずに自信を持ち,気弱にならずに雄々しくなり,恐れずに信仰をもって主の光を掲げましょう。18

救い主ははっきりとこう言っておられます。「だから人の前でわたしを受けいれる者を,わたしもまた,……わたしの父の前で受けいれるであろう。しかし,人の前でわたしを拒む者を,わたしも……わたしの父の前で拒むであろう。」19

ですから,戒めをお与えにならない神の方がよいと言う人もいるでしょうが,「神が何も要求しないとしたら,そのような神は存在しないも同然」20だと,D・トッド・クリストファーソン長老の言葉を使って大胆に証しようではありませんか。

従う戒めを選り好みする人もいるでしょうが,「神の口から出る一つ一つの言葉に従って生き」21なさいという救い主の招きを,喜んで受け入れましょう。

多くの人は,「〔わたしたちの〕心が望むことを何でも行〔う〕」22ことを主も主の教会も容認していると信じていますが,「多数に従って悪をおこな〔う〕」23のは間違いだと,雄々しく宣言しようではありませんか。「神が間違っていると宣言することを群衆が正しいとすることはでき〔ない〕」24からです。

「おお,覚えておきなさい。……神の戒めがどれほど厳しいか〔しかし自由を与えてくれるものであるかを〕覚えておきなさい。」25それをはっきりと教えることは,時に不寛容な行為と見なされることがあります。ですから,自分とは異なる宗教を信じている神の子供を愛することは可能であるだけでなく,不可欠なことであることを,敬意をもって示しましょう。

主の御心に添わない信条や行動を支持することなく人々を受け入れ,尊重することは,可能です。同調と社会的望ましさのために,真理を犠牲にする必要はありません。

シオンとバビロンは相いれないのです。「だれも,ふたりの主人に兼ね仕えることはでき〔ません。〕」26「わたしを主よ,主よ,と呼びながら,なぜわたしの言うことを行わないのか」27という心を刺し貫く救い主の問いを覚えておきましょう。

心の底から進んで従順になり,主への愛を示しましょう。

弟子としての務めとこの世との板挟みになっているならば,愛に満ちた救い主が,「招き,憐れみの御腕を〔皆さんに〕伸べて,『悔い改めよ。そうすれば,わたしはあなたがたを受け入れよう』と言われ」28ていることを思い出してください。

イエス・キリストは,「今から再びおいでになる時までの間に,最も力強い業を幾つかなされるでしょう」29とラッセル・M・ネルソン大管長は教えました。しかし,「主の道を選ぶ人は,迫害を堪え忍ぶでしょう」30とも教えています。「御名のために恥を加えられるに足る者とされ〔る〕」31ことは,「神の声を何よりも優先させ〔る〕」32際,時にわたしたちの宿命となることもあるでしょう。

救い主は,「わたしにつまずかない者は,さいわいである」33と言われました。聖文のほかの場所からは,「〔主の〕おきてを愛する者には大いなる平安があり,何ものも彼らをつまずかすことはでき〔ない34ことが分かります。「何ものも」です!では,こう自問してみましょう。「わたしはしばらくは堪え忍んでいるけれども,御言葉のために困難や迫害が起こってくると,すぐつまずいてしまうのではないだろうか。35わたしはイエス・キリストとその僕の岩の上に堅く建てられているだろうか。」

道徳的相対主義者たちは,真理とは単なる社会的構成概念であり,道徳的に絶対的なものはないと主張します。彼らが言っていることの真の意味は,罪というものはなく,36「人がすることはどんなことも決して罪にならない」37ということであり,サタンが太鼓判を押している哲学です。ですから,羊の衣を着たおおかみに気をつけましょう。彼らは,いつも人をたぶらかそうとしていて,「知的疑問を〔自らの〕過ちの言い訳に〔使う〕人たち」です38

キリストの勇敢な弟子になりたいと心から望むなら,そうなるための道を見いだすでしょう。その道を歩まなければ,サタンが魅力的なほかの道を見せてきます。しかし,忠実な弟子として,「自分の信じることについて言い訳したり,真実と分かっていることを撤回したりする必要はありません。」39

最後に,わたしの後ろに座っておられる15人の神の僕について申し上げます。この世的な人々は,「先見者にむかって『見るな』と言い,預言者にむかっては『……預言するな……』」40と言いますが,忠実な者は「上からの数々の祝福を,また少なからぬ戒めを,さらに時にかなった数々の啓示を冠として与えられる」41のです。

この神の僕たちが,預言者の宣言する神の言葉に不満を抱く人々からの避雷針にしばしばなることは,驚きではありません。そのような預言者を拒む人々は,「聖書の預言はすべて,自分勝手に解釈すべきでな〔く,〕」人間の意志から出たものでもなく,「人々が聖霊に感じ,神によって語ったものだ」42ということを理解していません。

パウロのように,この神の僕たちは,「主のあかしをすること……を,……恥ずかしく思っては〔おらず,〕」教えている教義が彼らの教義ではなく,彼らを召した御方の教義であるという点で,彼らは「主の囚人」43なのです。ペテロのように,彼らは「自分の見たこと聞いたことを,語らないわけにはいかない」44のです。大管長会と十二使徒定員会の方たちが,神とその子供たちを愛し,神から愛されている善良で正直な方たちであることを証します。わたしたちは彼らの言葉を,「忍耐と信仰を尽くして,」あたかも主御自身の口から出ているかのように受け入れなければなりません。「これらのことを行えば,地獄の門も〔わたしたち〕に打ち勝つことはないからであ」り,「そして,主なる神は〔わたしたち〕の前から闇の力を追い払〔う〕」45でしょう。

「いかなる汚れた者の手も,この業の発展を止めることはできません。」46この道は,皆さんやわたしがいてもいなくても勝利を得て進むのですから,「あなたがたの仕える者を,きょう,選」47んでください。大きく広々とした建物から発せられるサタンの大音響にだまされたり,おびえたりしないでください。彼らが必死でがなり立てても,打ち砕かれた心と悔いる霊に語りかける静かな細い声の静かな力にかなうはずがありません。

キリストが生きておられ,わたしたちの救い主,贖い主であられ,大管長会と十二使徒定員会を通して御自分の教会を導き,わたしたちが「様々な教の風に吹きまわされたり,もてあそばれたりすることがな〔い〕」48ようにしてくださることを証します。

ネルソン大管長はこう教えています。「イエス・キリストのまことの弟子は,自分の立場を明確にし,率直に語り,世の人々と一線を画すことにためらいを感じません。臆することなく,献身的で勇気があります。」49

兄弟姉妹の皆さん,この良い日に良き者となりましょう!イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。