福音に関する疑問の答えを見いだす
主はすべての教会員に,こう勧めておられます。「研究によって,また信仰によって学問を求めなさい。」(教義と聖約88:118)この勧めは,わたしたちが教会の教えや教会が行っていることについて疑問や懸念事項のあるときに,特に当てはまります。救い主は簡潔にこのように教えられました。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)
概要
主はすべての教会員に,こう勧めておられます。「研究によって,また信仰によって学問を求めなさい。」(教義と聖約88:118)この勧めは,特にわたしたちが教会の教えや教会が行っていることについて疑問や懸念事項のあるときに当てはまります。ジョセフ・スミスは,信仰を持って質問することにより啓示とさらに大いなる真理の知識が与えられることを,人生の早い時期に学びました。救い主は簡潔にこのように教えられました。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)
教会の指導者たちは,折に触れて,わたしたちの疑問の答えとなる情報を提供してくれます。しかし,指導者がわたしたちのあらゆる質問に答えることは現実的ではありませんし,不可能です。研究と信仰により学問を求める方法を理解するときに,わたしたちはさらに自立し,自分自身の疑問に対して,神から霊感された答えを探し,懸念事項を解決しつつ忠実であり続けることができます。ボイド・K・パッカー会長はこのように教えました。「霊的な自立は,教会を支える力です。……もしわたしたちが皆さんのあらゆる疑問に速やかに答え,皆さんのあらゆる問題に多くの解決方法を提示してしまえば,最終的に皆さんを強めるどころか弱めてしまうでしょう。」
研究と信仰によって学問を求める
福音学習には正式な学校教育は必要ではありませんが,筋道を立て,頭を使って考えることが求められます。主は「熱心に求め」ることをわたしたちに期待しておられます。真理を探求する際,わたしたちは情報を読んで分析し,その情報の信頼性を量りにかけ,時間を取って意識的に深く考えます。ほかの人の推測をうのみにするのではなく自分の頭でもよく考え,的確な状況判断の下で言葉と事実を捉えることができるよう努力するのです。自分の知識は完璧ではないにしても深まっている,ということを常に念頭に置きながら,識別し,よく考えます。
わたしたちの視野と知識は限られているため,信仰を持って努力するときにのみ霊的な真理を見いだすことができます。信仰には,精神的,霊的な努力が伴わなければならず,その根本には否定的な疑念ではなく前向きな望みがあります。わたしたちは,語る言葉により,また受けている真理に従って行動することにより,自分の信仰を表現します。そうするときに,信仰が育ち,御霊と経験によって,さらに大きな知識が与えられます。信仰から生まれた希望は魂の錨となり,確信を持って堅実に学び続けることができるようにしてくれます。
祈りと聖霊の導きに頼りつつ信仰を強める際,以下の原則は,さらに自分の力で研究と信仰によって学べるようになるための助けとなります。
疑問や懸念事項のあるときに,恥ずかしく思ったり,ふさわしくないと感じたりしない。
ほとんどの人は,時折,疑問や不安を持つものです。「日々の生活で信仰の試しを逃れることはまずできません」とトーマス・S・モンソン大管長は述べています。ディーター・F・ウークトドルフ管長もこのように教えています。「福音についてまじめな疑問を抱いているために恥ずかしいと思ったり,自分はふさわしくないと感じたりする人がいるかもしれませんが,その必要はありません。尋ねることは弱さの現れではなく,成長の兆しなのです。」
ただし,覚えておいていただきたいのは,疑問は疑いと同義ではないということです。信仰と疑いは硬貨の表と裏です。主と預言者は疑うよう勧めてはいません。その反対です。聖典の中で,疑いは肯定的なものとして述べられてはいません。トーマス・S・モンソン大管長はこのように教えています。「疑いによって信仰が鼓舞されること〔は〕ありません。」主が断固として「疑ってはならない」とされるのはこのためです。疑いは主を信じる信仰に影響を及ぼす恐れがあることを,主は御存じです。救い主はこのように教えておられます。「何も疑わないでわたしの名を信じる者に,わたしは自分の言葉が確かであることを証明する。」キリストを信じない人に対して,モロナイはこのように戒めました。「疑ってはならない。信じなさい。」
疑問や懸念事項があっても恥ずかしく思ったりふさわしくないと感じたりするべきではありませんが,疑問は主の御心にかなったときに解決すること,また忍耐が求められる場合があることを心に留めて,疑問を解決しようと努力するべきです。疑いの先に信仰はありませんが,研究と信仰によって学ぼうとするならば,知識が増し,信仰が強くなります。
御霊によってすでに真実だと知っていることに忠実であり続ける。
教会の教えや教会で行われていることのある側面について疑問や懸念事項があるならば,すでに得ている証を脇に置かずに答えを求めてください。パウロは賢明にも「確信しているところ」にとどまるようにとテモテに勧告しました。ダリン・H・オークス管長はこのように教えています。「一部の福音の原則やこれから行われる行事について確信が持てないときに通常いちばん良いのは,知っていることに従って行動し,ほんとうに必要になったときに愛に満ちた天の御父が知識を与えてくださると信じることです。」
疑いから生じる信仰などというものは存在しません。使徒ペテロは信仰によって水の上を歩きましたが,恐れと疑いのためによろめき,沈み始めました。回復の初期のころの指導者と会員は,「疑いと不安の存在するところに信仰は存在しないし,存在できない」と教えられました。
ジェフリー・R・ホランド長老もこのように主張しています。「恐れや疑いがあるとき,困難なときには,たとえ小さくてもすでに得ている土台にしがみついてください。……問題が発生したときに,なかなか解決しないときに,すでに知っていることに固くしがみついて,新たな知識を得るまで,強くあってください。……信仰の大きさや,知識の深さは問題ではありません。それよりも,すでに持っている信仰とすでに知っている知識に忠実であることの方が大切です。」
教会の歴史上の出来事やほかの会員との嫌な経験に悩んでいる人々に向けて,デビッド・A・ベドナー長老はこのように助言しました。「特にそのような出来事に悩む人々に対して望むのは,彼らが自分にこう問うことです。『わたしは,すべての関連情報を知っているわけではない歴史的な出来事のために,あるいはほかの教会員とのぎこちない経験のために,回復された真理をすべて脇に置いたり失ったりしようというのだろうか。』賢明な判断を下すために,イエス・キリストの福音全体,すなわち時満ちる神権時代に明らかにされたすべての真理について考えてください。」ニール・L・アンダーセン長老は簡潔に次のように述べています。「まだ理解していないことがあるからといって,真実だと分かっていることを捨ててはいけません。」
救いの計画という永遠の観点から疑問について考える。
主はイザヤを通してこのように説明されました。「天が地よりも高いように,わが道は,あなたがたの道よりも高く,わが思いは,あなたがたの思いよりも高い。」使徒パウロも,信仰は「人の知恵によらないで,神の力によるもの」だと教えています。
ダリン・H・オークス長老はこのように教えています。「『わたしたちはどこから来たのか。なぜここにいるのか。死んだらどこに行くのだろう。』このような質問に,イエス・キリストの福音は答えを与えてくれます。預言者たちはその答えを救いの計画とか『偉大な幸福の計画』などと呼んでいます(アルマ42:8)。わたしたちは,永遠にわたるこの道路地図を霊感によって理解し,この世の旅路の道しるべとして生かすことができます。」
ボイド・K・パッカー会長はこのように説明しました。「現在教会内で,堕胎やその他の問題,だれが神権を持ち,だれが持たないかというような難しい問題に遭遇します。その大半は,背景知識としてこの計画を幾らか知らなければ答えることができません。」疑問や不安があったら,救いの計画に照らして解決しようとするべきです。そうすることにより,永遠の観点から物事を見ることができます。
このように自問するとよいでしょう—この問題や教えは,救いの計画の中にどう当てはまるだろうか。わたしの現世での幸福と永遠の救いにどのような影響を及ぼすだろうか。聖文や生ける預言者はこのことについて何と教えているだろうか。
真心からの祈りを通して懸念事項を解決しようと努める。
あざけったり懐疑的になったりするのではなく,真心からの祈りをもって神に近づくようにと,預言者は教えています。ニーファイは,疑問や疑いに悩まされていた兄弟たちに,主の言葉を伝えました。「もしあなたがたが心をかたくなにせず,わたしの戒めを熱心に守りながら,答えを与えられると信じて信仰をもってわたしに求めれば,これらのことは必ずあなたがたに明らかにされる。」研究することは懸念事項を解決する良い方法ですが,真理を探求する際に神の戒めを守ろうと努力し,自分の疑問について祈りの中で神に尋ねないかぎり,効果はありません。
使徒ヤコブは,疑問の答えを得る方法について説明しました。真理を探求する人々に対して,信仰の試しがあるかもしれないことを認識し,忍耐し,「神に願い求める」よう勧告したのです。わたしたちは,「疑わないで,信仰をもって」天の情報源から答えを求めます。言い換えると,疑いとあざけりと懐疑性に満ちた否定的な姿勢からではなく,前向きな期待を持ち,希望に満ちて,探求を始めるべきなのです。
ディーター・F・ウークトドルフ管長はこのように証しました。「神は皆さんのことを心にかけておられます。皆さん一人一人の質問に耳を傾け,こたえてくださいます。祈りの答えは,神御自身の方法で,神御自身の時に与えられます。 だからこそ,主の御声を聞けるようになる必要があるのです。」
教会全体のための啓示は主の選ばれた指導者を通してのみもたらされ,個人の会員を通しては授けられないことを心に留めておくことも,大切です。オリバー・カウドリへの啓示の中で,主はこのように言われました。「わたしの僕ジョセフ・スミス・ジュニアのほかに,だれもこの教会で戒めと啓示を受けるために任命される者はいない。」ジョセフ・スミスはあるときこのように教えました。「教会のいかなる会員であっても,あるいはいかなる人であっても,自分よりも高い権能を持つ人々のために指示を受けることは,神の摂理に反します。ですから,それらに心を向けるのは不適切であることが分かるはずです。」
救い主を中心とした生活を送る。
ヒラマンは父親として二人の息子たち,ニーファイとリーハイに,救い主という土台の上に生活を築き,困難を経験しても倒れることがないようにしなさいと言いました。「あなたたちは,神の御子でありキリストである贖い主の岩の上に基を築かなければならないことを覚えておきなさい。そうすれば,悪魔が大風を,まことに旋風の中に悪魔の矢を送るときにも,まことに悪魔の雹と大嵐があなたたちを打つときにも,それが不幸と無窮の苦悩の淵にあなたたちを引きずり落とすことはない。なぜならば,あなたたちは堅固な基であるその岩の上に建てられており,人はその基の上に築くならば,倒れることなどあり得ないからである。」
ハワード・W・ハンター大管長はあるとき,生徒たちに一つのことを覚えておくよう懇願しました。「わたしたちの生活と信仰がイエス・キリストと回復された福音を中心としたものであるなら,物事がいつまでも悪い方へ進むということは決してあり得ません。他方,わたしたちの生活が救い主とその教えを中心としたものでないなら,他のことがうまくいっても,それは決して長続きしません。」
リチャード・G・スコット長老は次のように教えました。「わたしたちがこの死すべき世に来たのは,試されることによって成長するためです。……イエス・キリストの贖罪のおかげで,人は困難な問題を堪え忍ぶことができます〔2ニーファイ2:2参照〕。 積極的に主のもとに行くなら,わたしたちはあらゆる誘惑と苦悩,そして直面するあらゆる困難な問題を堪え忍ぶことができます。」
わたしたちは,常に主を覚え,日々祈り,神の言葉を研究してそれについて深く考え,主の戒めに従い,家族や人々に奉仕することにより救い主を生活の中心に据えることができます。
神の言葉を度々研究する。
定期的な,さらには日々の福音の研究は,いつでも証を強めてくれます。特に,疑問や懸念事項や疑いに悩んでいるときにはそうです。ニーファイはレーマンとレムエルに告げました。「だれでも神の言葉に聞き従って,それにしっかりつかまる者は,決して滅びることがなく,また敵対する者の誘惑や火の矢も,彼らを打ち破って盲目とし,滅びに至らせることはない。」
救い主は初期の使徒たちに,「だれでもわたしの言葉を大切に蓄える者は,惑わされることがない」と教えました。ヘンリー・B・アイリング管長はこのように説明しています。「聖文の言葉を読むだけでなく,研究することによって神の言葉を大切に蓄えるのです。文章全体の上っ面を急いで読むよりも, 短い章句について深く考えながら読む方がはるかに養いを受けることができます。聖霊が神の御言葉をわたしたちに大切に蓄えさせてくださるからです。」
神の言葉は,「わが足のともしび,わが道の光」であるだけでなく,懸念事項や不安をかき立てるような疑問に自分の証が脅かされているときに,わたしたちに養いを与えてくれます。クエンティン・L・クック長老はこのように教えました。「神の御言葉は正しいことを行おうという気持ちを呼び覚ましますし,傷ついた心を癒し,怒りや落胆を静めます。」
エズラ・タフト・ベンソン大管長は次のように教えています。「聖文や生ける預言者の言葉,そして個人の啓示の中に見いだされる神の言葉には,聖徒を強め,御霊で守る力があります。その結果,聖徒たちは悪に立ち向かい,善を固く守って,人生に喜びを見いだすことができるのです。」
主の油注がれた僕,すなわち預言者に従う。
救い主は今日の主の教会を導く預言者と使徒を選ばれました。主は預言者と使徒を信頼し,その言葉を尊ばれます。「主なるわたしが語ったことは,わたしが語ったのであって,わたしは言い逃れをしない。たとえ天地が過ぎ去っても,わたしの言葉は過ぎ去ることがなく,すべて成就する。わたし自身の声によろうと,わたしの僕たちの声によろうと,それは同じである。」1830年4月6日,すなわち教会が正式に組織された日,主は聖徒たちに,預言者ジョセフ・スミスについてこう述べられました。「あなたがたは忍耐と信仰を尽くして,あたかもわたし自身の口から出ているかのように,彼の言葉を受け入れなければならない。」この原則は,今日に至るまでのすべての預言者に当てはまります。
ニール・L・アンダーセン長老はこのように教えています。「報道されるニュースの信ぴょう性を疑うのは差し支えありせんが,神の預言者の証は絶対に疑う必要のないものです。」なぜなら,預言者は決してわたしたちを誤った道に導くことはないからです。トーマス・S・モンソン大管長は自信を持ってこのように宣言しました。「預言者に従うとき,皆さんは安全な領域にいるのです。」この原則について,M・ラッセル・バラード長老はこのように約束しました。「わたしたちはこう尋ねます。『常に頼れる,明確で,正しく,偏見のない声はないものか。』『今日の混乱した世にあって,歩むべき道をいつもはっきりと教えてくれる声はないものだろうか』と。その答えは,『はい,あります』です。それは,生ける預言者と使徒たちの声です。……皆さんに約束します。単純なことですが,真実です。生ける預言者と使徒の言葉に耳を傾け,その勧告に従うなら,皆さんは道に迷うことはないでしょう。」
御霊の声を認識してそれに従うようになる。
聖霊の促しを知り,それに従うときに,今日の文化に蔓延している詭弁に欺かれることはありません。イエスは新約の時代の使徒たちが「助け主,すなわち聖霊」を受けたときに,助け主は「すべてのこと」を教え,救い主の教えを「ことごとく思い出させる」と使徒たちに告げられました。救い主はさらに,聖霊は「あらゆる真理」に導いてくださると教えられました。
ヘンリー・B・アイリング管長は,わたしたちが絶えず聖霊の影響を受ける必要がある理由について述べました。
「聖霊は悪への抵抗力を増してくださるうえに,真実と誤りを識別する能力も与えてくださいます。最も大切な真理について確証を与えるのは,神の啓示だけです。人間の論理や五感に頼るだけでは不十分です。わたしたちが生きている現代は,聡明な人ですら巧妙なうそと真理を識別するのに苦労する時代なのです。……誤りや偽りに出くわす可能性は常にあるので,疑念に惑わされないようにするためには,常に真理の御霊の影響を受ける必要があります。」
真理は少しずつ学ぶものであるため,早計に結論を下すのは避けるようにする。
救い主は,御自身は,一度に少しずつという方法で教えると明確に説明されています。
「わたしはここにも少し,そこにも少しと,教えに教え,訓戒に訓戒を加えて,それを人の子らに与えよう。わたしの訓戒を聴き,わたしの勧めに耳を貸す者は,知恵を得るので幸いである。わたしは受け入れる者にさらに多く与え,『もう十分である』と言う者からは,彼らが持っているものさえも取り上げる。」
ジョセフ・スミスも,真理が一度に少しずつもたらされる理由を教えています。「すべての知識を一度に示されて得るのではなく,一時に少しずつ得るところに知恵があります。そうすれば理解することができます。」
バプテスマのヨハネは,イエスはすべてのことを理解されるようになるまで,少しずつ学ばれたと証しました。
「また,わたしヨハネは,彼が最初から完全は受けず,恵みに恵みを加えられたのを見た。
彼は最初から完全は受けず,恵みに恵みを受け続け,ついに完全を受けられた。
このようにして,彼は神の子と呼ばれた。彼は最初から完全は受けられなかったからである。」
救い主の模範に従って,わたしたちも未知のことを少しずつ学び,早計に結論を下すのではなく,忍耐を働かせるようにしましょう。早計に下した結論は正しくない場合があり,不要な疑問や疑いの元になることもあるのです。
聖文はわたしたちに,「真理の知識……において,成長」するよう教えています。ジョセフ・スミスは,真理の知識において成長することについて,良い視点を与えています。
「はしごを登るときは,一番下から始めて,一段ずつ登って行かなければなりません。そしてついには,一番上の段にたどり着くのです。福音の原則も同じです。第一のものから始めなければならず,昇栄に関するすべての原則を学ぶまで続けていくのです。しかし,それらを学び終えるには,幕のかなたへ行ってからもかなりの時間を要するでしょう。すべてがこの世で理解されるのではありません。救いと昇栄について学ぶことは,墓の向こうにおいても大きな仕事となるでしょう。」
ヤコブは,主の知識は深く,「主の道を知り尽くすことは,とても人にできることではない」と教えました。ヤコブは,神の道については,啓示を通して知ることができると指摘しています。「それゆえ同胞よ,神の啓示を侮ってはならない。」啓示は,教えに教えを加えて真理の知識を身につけるための鍵です。
信頼のおける,権威ある情報源を調べ,それぞれの情報源を準備した人々の動機を考える。
以前はほとんどの人が知ることのできなかった情報が,インターネットを使うとほぼだれでも入手できるようになりました。ディーター・F・ウークトドルフ管長は次のように述べました。
「世界の歴史上,今ほど簡単に多くの情報に接することができるようになった時代はありません。しかし,その情報の中には真実のものも,偽っているものもあり,その多くは一部が真実だという程度です。その結果,世界の歴史上,今ほど真理と偽りを正しく識別する方法を知ることが大切になってきた時代はありません。」
福音学習に欠かせない技能は,信頼できる,権威ある情報源を識別し,その情報源を準備した人の動機を推測する能力です。すべての情報源が等しく信頼に足ると見なすのは賢明ではありません。インターネット上にある情報は,特にそうです。疑問が湧くよう仕向けている人々については,その人たちの知識だけでなく動機と意図に対しても,問題意識を持つべきです。また,その人たちの論調と,その人たちが目指している成果についても考えるべきです。それは信仰を築くものでしょうか。それとも弱めるものでしょうか。「あなたがたはその実によって彼らを見わける」のです。
D・トッド・クリストファーソン長老はこのように説明しました。「一部の宗教では,神学者が聖職者と同等の教える権限があると主張し,教義に関する事柄について意見を戦わせることがあります。中世の公会議やそこで出された宣言に頼る人もいれば,使徒が世を去った後の神学者による推論や,聖書の解釈学や注釈を重要視する人もいます。わたしたちは,理解を深めるための学問は重要だと考えています。しかし今日の教会において,キリストの教義を確立したり教義的な逸脱を正したりする際には,昔と同様に,主から使徒の権能を授かった人々が受ける神の啓示によって行われます。」
ハロルド・B・リー大管長は,信頼のおける情報源を見分ける方法を提案しています。「将来もたらされるこれらの多くの書物を読むときにわたしがどうするか申し上げましょう(そして,現在は,読むときにこれまで以上に識別力が求められるときだと思います)。ある手法を提案しましょう。これらの書物を読むときに,書き手がだれであろうと,記録を最後までよく読み,その教えていることが,わたしたちに与えられている啓示と完全に一致していれば事実として受け入れます。しかし,想像力により,聖典によって完全に証明されていない推測や憶測に陥っている場合には,余白に著者の名前を書き込みます。この部分はその人の考えです。個人の考えと,聖文の後ろ盾のある事柄とを見分けてください。」
以下は,研究と信仰により学ぶために活用するとよい,信頼のおける情報源の例です。
部分的でしかない真理と背景の欠落を見抜けるようになる。
どんな歴史上の出来事でも,それを取り巻く状況が必ずしも完全に正確に記録されているとはかぎらず,著者による解釈が入り込んでいるのが常です。そのため,ある程度の主観と偏見の入り混じった情報が提示されている可能性があることを心に留めておくことが大切です。ニール・A・マックスウェル長老はかつて次のように述べました。 「教会について,離反者の目から見た研究だけにこだわる人がいます。」
残念なことに,一部の人は,真実でないことを教え,実際は誤っていることをもっともらしく提示することがあります。コリホルは悪魔に欺かれてこのように告白しました。「わたしは悪魔の言葉を教えてきました。わたしは,悪魔の言葉が肉の思いに快いので,それを教えてきたのです。また,わたしはそれを教えてついに大きな成功を収めたので,自分でもそれが真実だとまったく信じるようになりました。」
ラッセル・M・ネルソン大管長は,真理が適切な状況に照らして提示されず,誤った印象を与えたときのことを,次のように語っています。
「面白い経験を思い出しました。ジョージア州アトランタにある国立疾病対策センターで,合衆国政府のコンサルタントを務めていたときのことです。あるとき,会議が終わって空港へ行くタクシーを待つ間,わたしは芝生に寝転びました。寒さの厳しい1月のユタに戻る前に,少しだけ温かな日差しを楽しみたかったのです。後になって,郵便で1枚の写真が送られてきました。芝生でくつろぐわたしの姿を望遠レンズで撮影したものでした。写真の下には『対策センターで働く政府のコンサルタント』という見出しがありました。写真にも見出しにも間違いはありません。しかし,誤った印象を拡散する意図で,真実が利用されていたのです。そうです,真理はうそをつくためにも利用されるのです。」
ジョセフ・F・スミス〔大管長〕は簡潔にこのように述べています。「真理の断片を取って,それが全体であるかのように扱うのはきわめて愚かなことです。」
疑問や懸念事項のある人を助ける
教会の歴史や教義,行いについて疑問や懸念事項のある子供や友人から助けを求められることがあるかもしれません。その人が懸念事項を解決できるよう助ける際には,次の原則と指針を心に留めるとよいでしょう。
思いやりを示す。
救い主は,疑うペテロに思いやりを示されました。マタイは,ペテロが海に沈んだときに「イエスはすぐに手を伸ばし,彼をつかまえ〔られた〕」と記録しています。救い主と同じように,あなたもすぐに思いやりを示し,疑問を持っている人や疑っている人を助けるために最善の努力をすることができます。愛と信頼を示しましょう。疑問や懸念事項があることは罪ではないことを伝えてください。心から祈り,聖文や末日聖徒イエス・キリスト教会の預言者の教えについて深く考え,聖霊の促しに耳を傾けることを通して懸念事項を解決できることを教えてください。
じっくりと話を聞く。
懸念事項や悩みの説明によく耳を傾けてください。真心からの疑問や問題を,重要ではない,取るに足りない,不健全である,あるいは罪深い,としてはねつけてはいけません。福音の回復が,ジョセフ・スミスが真心から質問を尋ねたことをきっかけに始まったことを忘れないでください。これは,「慰めの要る者を慰める」ために,御霊の導きに従い,これらの人を高め,強める機会なのです。
信仰を強める。
主はこのようにおっしゃいました。「また,すべてが信仰を持っているわけではないので,あなたがたは知恵の言葉を熱心に求め,互いに教え合いなさい。まことに,最良の書物から知恵の言葉を探し求め,研究によって,また信仰によって学問を求めなさい。」
疑問や懸念事項のある人々に,神からの霊感を求めて日々祈り,特にモルモン書をはじめとする聖典を研究し,預言者と使徒の話を読み,教会に出席し,人に奉仕し続けるよう勧めてください。その人が知っている誤った情報を明らかにし,その人が信仰を築ける堅固な基を持てるように助けてください。
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「宿題にたくさん時間を取られています。教会の活動,家庭の夕べに参加する時間や,聖文研究を行う時間はどのようにして作ればよいでしょうか。」『リアホナ』2017年2月号
マーガレット・ウィルデン「祈りがこたえられないと感じるときに尋ねる 5 つの質問」『リアホナ』2017年1月号