預言者ジョセフ・スミスは,「教会のこの幼年期に,何らかの点でわたしたちの救いにかかわっているあらゆる事柄について,主の言葉を頂きたいという切なる願いがあった」と書いています(History,1838–1856 [Manuscript History of the Church], volume A-1, 146, josephsmithpapers.org)。主は,この切なる願いにこたえて,憐れみ深く,繰り返し啓示を通して答えられました。
預言者ジョセフ・スミスは,教会の設立からわずか18か月後にオハイオ州ハイラムの大会において,主がそれまでに与えられた啓示を編さんして世に送り出すことを長老たちに提案します。そうすることによって,啓示が教会のすべての会員に行きわたり,伝道活動の一助になります。この大会に参加していた教会員は,この啓示は「全地の富に値するもの」であると宣言しました(Minute Book 2, 18, josephsmithpapers.org)。その後間もなく,この啓示は『戒めの書』と呼ばれる書物にまとめられて出版されました。後に,その啓示は,その後さらに与えられた啓示を加えて『教義と聖約』として出版されます。
高価な真珠には,族長アブラハムの書いた記録も収められています。1835年,マイケル・チャンドラーという人物が,エジプトのテーベで発見された4体のミイラと多くの古代パピルスの巻物を持って,オハイオ州カートランドを訪れました。パピルスの巻物を調べた預言者ジョセフ・スミスは,「幾つかの文字すなわち象形文字」を翻訳して,「その巻物の一つにはアブラハムが書いたものが,もう一つにはエジプトのヨセフの書いたものがあった」と宣言しました(History, 1838–1856, volume B-1 [1 September 1834–2 November 1838], 596)。預言者ジョセフは,ミイラとパピルスの巻物2巻,多数のパピルスの断片を教会員の助力を得て購入し,神の賜物と力によってアブラハムの書物の一部を翻訳した後に,教会の新聞「タイムズ・アンド・シーズンズ」(Times and Seasons)紙上で,アブラハム書として初めて発表しました。
批判的に見る人たちは,パピルスの年代を測定してアブラハム書の真ぴょう性に疑問を投げかけようとします。しかし,パピルスの断片は,アブラハム書が真実であるかどうかに関して言えば,アブラハムの時代に書かれたものである必要はないのです。古文書は,写しとして,あるいは写しの写しとして受け継がれることが少なくありません。例えば,聖書の現存最古の写本は,原典の数世紀後に作られたものです(see John Gee,A Guide to the Joseph Smith Papyri [2000], 23–25, scholarsarchive.byu.edu; Kerry Muhlestein, “Egyptian Papyri and the Book of Abraham: Some Questions and Answers; Kerry Muhlestein, ,” Religious Educatorvol. 11, no. 1 [2010], 91–108)。
パピルスの断片の一つには,アブラハム書の模写一となっている図画の一部が含まれています。ある人々は,この図画の横に書かれている文章が,ジョセフ・スミス訳アブラハム書の本文の基になったと推測しています。しかし,エジプトのパピルスにある図画は,その内容を説明している文章からやや離れた位置に見つかることが珍しくありません。証人は,パピルスの「長い巻物」もしくは多数の「巻物」を含め,「パピルスに記された大量の記録」について述べています(see John Gee,An Introduction to the Book of Abraham[2017], 5)。預言者ジョセフ・スミスが翻訳していたいた部分のパピルスは,後に廃棄されてしまった可能性があります。したがって,翻訳の過程でジョセフがどの部分のパピルスを用いていたのかは分からないのです。