「人々が御業を研究するのを,あるいは信仰を受け入れるのを妨げようとして,多くの偽りの記事やうそ,愚かな作り話が新聞に掲載されたり,流布されたりした。」(in History of the Church,1:158)
こういった否定的な報道の中には,様々な理由から教会を去った人々によって始まったものがありました。例えば,1831年9月に,エズラ・ブースという元教会員は,人々が教会に加わらないように説得しようとし,教会への批判を詳しく述べた9つの書簡を公表しました。(Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, vol. 1 of the Documents series of The Joseph Smith Papers [2013], 203–4。『時満ちる時代の教会歴史生徒用資料』第2版〔教会教育システム手引き〕,113-115も参照。)これらの書簡によって,教会に対する敵意が増大しました。このような影響によって生じた迫害は,特に預言者やその他の教会指導者に対して,時に暴力化しました。
1832年3月24日の夜に起きたあるひどい事件では,25人から30人の暴徒が,ジョセフ・スミスとエマ・スミスが滞在していたオハイオ州ハイラムのジョン・ジョンソンの家を襲撃しました。暴徒たちはジョセフ・スミスを取り押さえ,夜の闇の中に引きずり出しました。そしてジョセフの首を絞め,着ていた物をはぎ取り,酸の入った瓶を無理やり口に押し込みました。このとき歯が1本欠けてしまい,その後,話をするときには息漏れがするようになってしまいました。それから暴徒たちはジョセフの体にタールを塗り,鳥の羽根をつけました。ジョセフは幾らか体力が回復すると,家に戻りました。ジョセフが家にたどり着くと,エマはタールに覆われたジョセフを見て失神してしまいました。タールが血のように見えたからです。ジョセフの友人たちが一晩かけてタールを落としてくれました。翌日の日曜日,ジョセフは説教をしましたが,聴衆の中には暴徒の仲間が数人いました。説教の後,ジョセフは3人にバプテスマを施しました(History of the Church, 1:261–65参照)。
この襲撃の苦闘と混乱の間,ジョンソン家のドアは開け放されたままでした。その結果,すでにはしかにかかっていたジョセフの息子であるジョセフ・マードック・スミスは「ひどい風邪」を引き,5日後に亡くなりました。同じ夜,シドニー・リグドンは自宅から足をつかんで引きずり出されました。彼の頭部は凍ったでこぼこの道によってひどく傷つき,数日間意識がもうろうとしていました(History of the Church, 1:265参照)。
ハールバットは,シドニー・リグドンがスポールディングの原稿をひそかに入手し,『モルモン書』を作製するためにジョセフ・スミスとともに盗用したと主張しました。しかし,『モルモン書』の信ぴょう性を失わせようとするこの企ては,まったく事実無根のものでした。スポールディングの原稿が見つかったとき,調査からは,主張されていた『モルモン書』との類似点どころか,二つの書物の類似性さえも見つかりませんでした。そのうえ,シドニー・リグドンは『モルモン書』が出版されてからかなり時間がたつまで,ジョセフ・スミスに会ったことがなかったのです。オリバー・カウドリは,ハールバットの告発が虚偽のものであったことを次のように立証しています。「『わたしは〔モルモン書が〕翻訳された金版〔に〕……この手で触れました。またわたしは解訳器も見ました。モルモン書は真実です。シドニー・リグドンが書いたものでも,スポールディング氏が書いたものでもありません。わたし自身が預言者の口から出るままに記したのです。』〔Reuben Miller, journal, 1848–1849, Family and Church History Department Archives, 21 Oct. 1848; punctuation and spelling modernized.〕」(ジェームズ・E・ファウスト「何か大きな事」『リアホナ』2002年1月,54で引用)
オハイオに住んでいた人々の中には,教会員の数が急激に増加したため,投票者集団を組織して政治的な力を持つことを心配して,ジョセフ・スミスと『モルモン書』を中傷するようフィラスタス・ハールバットにお金を払った人々がいました。ジョセフ・スミスはある手紙で次のように嘆き悲しみました。教会員は「みだらで不純な行いが原因で教会から除名されたハールバット博士という名の男性のために,ひどい迫害に苦しんでいました。彼は,わたしたちを悩ませるために見事な方法でうそをつき,人々は彼の後に従ってモルモニズムを破壊するために彼にお金を渡しています。これが,目下わたしたちの生活を非常に脅かしているのです。」(“Letter to William W. Phelps and Others, 18 August 1833,” 3。josephsmithpapers.org参照。spelling standardized)