「以下のことをはっきり申し上げることができます。わたし,デリア・リードは,1836年にミズーリへ移り住みました。そこに到着して間もなく夫は亡くなり,わたしには7人の幼い子供が残されました。……住民とモルモンの間で争いが生じたとき,わたしは教会のほかの人々とともに,やむなく州を去ることになりました。……わたしは財産の大半を犠牲にせざるを得ず,〔また〕家族はばらばらになり,わたしは見知らぬ人々の中で日々の収入を得なければなりませんでした。」(Delia Reed,Mormon Redress Petitions: Documents of the 1833–1838 Missouri Conflict,ed. Clark V. Johnson [1992], 523で引用)。
「あまりにも多くの人が,教会について事実とかけ離れた理解をしています。教会について聞く情報のほとんどが,論争が元で書かれたニュースメディアによるものだからです。論争ばかりに目が行くと,末日聖徒イエス・キリスト教会についての人々の認識が否定的なものになってしまいます。」(“Sharing the Gospel Using the Internet,”Ensign, July 2008, 62)
福音を伝え,回復のメッセージを簡潔で明瞭な言葉で説明するため,インターネット上の会話に参加していただけないでしょうか。……そのためには,言うまでもなく,福音の基本的な原則を理解しておく必要があります。福音の真理について明快で正しい証を提供できることが不可欠です。」(“Sharing the Gospel Using the Internet”61, 62)
「クラーク将軍が,軍隊を率いてコールドウェル郡にやって来ました。わたしはファーウェストから約2マイルほどのガド・ルール氏の家の近くに住んでいました。クラーク将軍の隊の多くはエール氏の家にやって来て,2日ほど滞在し,かなりの量の財産を破壊しました。彼らは家の床を踏み破り,鶏や豚を殺し,干し草の山に火を放って,……焼失させたのです。彼らは自分たちの馬に与えるためにエール氏からトウモロコシを奪いました。10エーカー(約4万平方メートル)の敷地を荒らしまくったと思います。……彼らが銃で撃ち殺した豚の中には,そのまま地面に放置されて腐ってしまったものもありました。わたしはまた,何人かの兵士がサイラス・ダニエル氏の家に入って略奪するのを見ました。彼らがベッドを1台,それに寝具類,衣類を持ち去るのを見ました。」(Mary K. Miles, Mormon Redress Petitions: Documents of the 1833–1838 Missouri Conflicted. Clark V. Johnson [1992], 496–97で引用:句読点,大文字,綴りは標準化)
教会に関する情報の中には,いかに説得力のあるものであっても,断じて真実ではないものがあります。1985年,フロリダのわたしのオフィスに一人の同僚が入って来ました。“Christian Courage: The Price of Discipleship”(「モルモン教のルーツをたたく」)という記事を掲載したTime(『タイム』)誌を持っていました。そこには最近発見された,マーティン・ハリスが書いたとされる手紙について書かれており,モルモン書の金版の発見についてジョセフ・スミスが記していることとは異なる内容でした。
わたしたちそれぞれの個人的な証は,歴史的事実の組み合わせや蓄積にではなく,御霊の証に基づいています。それを基にしていれば,歴史的事実が変わってもわたしたちの証は決して揺るぎません。天の御父はわたしたちに理性を与えてくださっており,わたしたちはそれを最大限に用いるように期待されています。しかし,御父は慰め主も与えてくださり,慰め主はわたしたちを真理に導き,慰め主の力によってわたしたちはすべてのことの真理を知ることができると言われました。それは,ふさわしい生活をし,進んでそれに頼ろうとする末日聖徒にとって,究極のガイドなのです。」(”“Reading Church History,” Symposium Speeches[symposium on the Doctrine and Covenants and Church history, Aug. 14–16, 1985], 4, 5で引用)
「当初,バン・ビューレンは預言者の訴えに無関心でした。しかし,会談が進むにつれて,大統領は自分の立場を見直すことを約束し,『苦難を受けていることでモルモンに同情を感じました。』〔History of the Church, 4:40〕
バン・ビューレン大統領を訪問した後,預言者とエライアス・ヒグビーは2か月間東部に滞在し,二人の訴えを快く支援しようとする上院議員と下院議員から支援を取り付けようとしました〔History of the Church, 4:40, 43–44参照〕。二人は1840年に再びバン・ビューレン大統領に会いました。このころまでに,バン・ビューレンは,教会に対して抱いていた同情の気持ちを失っていました。預言者によれば,大統領は二人に横柄に対応し,こう言いました。『あなたがたの申し立てはもっともです。しかし,わたしがあなたがたのためにしてあげられることは何もありません。……あなたがたの味方をしたら,ミズーリの票を失います。』〔History of the Church4:80]” (Arnold K. Garr, “Joseph Smith: Campaign for President of the United States,”Ensign, Feb. 2009, 49で引用)