1838年10月30日,撲滅令が出されてから3日しかたたないうちに,ハウンズミルと呼ばれるモルモンの定住地に約240人の男たちがやって来たのでした。女性や子供たちは林の中に逃れ,男性は鍛冶屋に集まって身を守ろうとしました。聖徒たちの指導者の一人,デビッド・エバンズは帽子を振りかざし,平和に解決するように求めました。暴徒たちは100丁にも及ぶライフルでそれにこたえ,ほとんどが鍛冶屋をねらい撃ちしました。暴徒たちは女性や老人,子供でさえも視界に入る者すべてを容赦なく銃撃したのです。アマンダ・スミスは二人の幼い娘の手をつかみ,メアリー・ステッドウェルとともに水車池越しに道を走って逃げました。アマンダはそのときのことをこう回想しています。「子連れの女たちが逃げようとしているのに,あの鬼たちは弾丸を雨あられと浴びせ,わたしたちを殺そうとしたのです。」(Andrew Jenson, The Historical Record, July 1886, 84で引用)。
暴徒たちは鍛冶屋に入り,アマンダ・スミスの10歳の息子,サーディアス・スミスがふいごの下に隠れているのを見つけ,殺してしまいました。その男は後にこう語っています。「しらみの卵はやがてしらみになる。あの子も生きていたならモルモンになっていただろう。」(Jenson, The Historical Record, Dec. 1888, 673で引用。James B. Allen and Glen M. Leonard, The Story of the Latter-day Saints[1976], 127–28も参照)。サーディアスの弟で7歳になるアルマ・スミスは,父と兄の死を目撃し,自分もお尻を撃たれました。彼は暴徒に見つかることなく,後に祈りと信仰により奇跡的に回復しました。少数の男女,子供が川向こうの丘に逃れたものの,少なくとも17人が殺され,13人が負傷しました。(『時満ちる時代の教会歴史』〔教会教育システム手引き〕201,203参照。History of the Church, 3:183–186も参照)これらの暴徒たちの犯罪に関して,ミズーリ州の裁判所や連邦政府により,法の裁きを受けた者は一人もいませんでした。
「皆さんは人生の中で最も惨めな状況,つまり最悪の状況やかつて経験したことのないほどの逆境に直面し,苦痛を伴う理不尽な状況に堪えているときに,神聖で啓示のような深い教えを主から受ける経験をすることでしょう」(“Lessons from Liberty Jail,”Ensign, Sept. 2009, 28)。
「悲しみのただ中に,この世のどんな慰めにも勝る平安を見いだしたのです。わたしは神の御霊に満たされ,次のような預言の賜物を授かりました。『息子たちのことで思い煩う必要はない。彼らが敵から危害を受けることはないからである。……』これでわたしは心安らかになり,息子たちを慰める準備ができたのです。子供たちには自分に明らかにされたことを話し,それによって彼らは慰められました。」(History of Joseph Smith by His Mother, ed. Preston Nibley [1958], 291)