第37課
「わたしは来る者をだれでも受け入れよう」
目的
サムエルの預言の成就と,救い主のもとに来る者に用意されている祝福を理解するできるようにする。
準備
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以下の聖句を読み,内容について深く考え,祈る。
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3ニーファイ8章。キリストの死の際に大きな破壊がアメリカ大陸に起きる。多くの町が破壊される。
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3ニーファイ9-10章。生き残った者たちは,主に立ち返り,悔い改め,改宗するよう招く主の声を聞く。
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3ニーファイ11章。復活した救い主が天から降り民を教えられる。
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「ニーファイ人に御姿を現されたキリスト」(『福音の視覚資料セット』315)および「西半球で福音を教えるイエス」(『福音の視覚資料セット』316)の絵があれば,レッスンで使用できるよう準備する。
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クラスが始まる前に,164ページにある表を黒板に書いておく。
レッスンの展開
聖句を使った話し合いと応用
クラスの生徒の必要に最も適した聖句,質問,そのほかの資料を祈りの気持ちで選ぶ。選んだ聖句を日常生活でどのように応用できるかを話し合う。聖句で述べられている原則に関連した適切な経験を分かち合うよう生徒に勧める。
1.イエスの死の際に大きな破壊がアメリカ大陸で起きる。
3ニーファイ8章について話し合う。生徒たちに選んだ箇所を声に出して読んでもらう。レーマン人サムエルはイエスの十字架の刑の際に起きるであろう恐ろしい破壊について預言していたことを思い出してもらう(ヒラマン14:20-27)。イエスの降誕のしるしから33年の後,民はサムエルの言葉の成就を「大きな期待をもって待ち望むようになった。」(3ニーファイ8:3)
黒板に書いておいた表に生徒の注意を向ける。
生徒たちに「サムエルの預言」の下に挙げられている箇所と,「成就」の下に挙げられているものからそれに該当する箇所を,それぞれ読んでもらう。
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破壊がやんだとき,地は深い暗闇に覆われました(3ニーファイ8:19-23)。まったくの暗闇が救い主の死のしるしにふさわしいのはなぜでしょうか(3ニーファイ9:18参照。ヨハネ8:12;教義と聖約11:28も参照)。救い主はあなたの生活にどのように光をもたらされましたか。
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破壊から生き残った人々の反応はどうでしたか(3ニーファイ8:23-25参照)。彼らの経験について読むことは,再臨に備えるうえでどのように役立つでしょうか。
2.生き残った者たちは,主に立ち返るよう招く主の声を聞く。
3ニーファイ9-10章から選んだ箇所を読んで話し合う。
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破壊の後,生き残ったニーファイ人は,それぞれの町がどのように滅ぼされたかを述べておられるキリストの声を聞いた(3ニーファイ9:1-12)。主は破壊の原因は何であると言われましたか(3ニーファイ9:12参照。2節から12節において主がこの理由を何度繰り返されているかを指摘してもよい)。生き残った者たちに対して,主はどのような招きをなさいましたか(3ニーファイ9:13-14参照。14節では「来る」という言葉が3回使われていることを指摘してもよい。以下の引用も参照する)。今日この招きに応じるために,わたしたちは何をしなければならないでしょうか。
ジェフリー・R・ホランド長老は次のように述べている。「〔主は〕愛を込めて『わたしについてきなさい』とおっしゃるのです。どこへ行くにしても,まず来て,わたしのすることを御覧なさい。わたしがどこで,どのように時間を使うかを御覧なさい。わたしに学びなさい。わたしとともに歩き,語り,そして信じなさい。わたしの祈りに耳を傾けなさい。そうすれば,あなた自身の祈りに対する答えを見いだすことでしょう。神があなたがたの魂に休みを与えてくださるでしょう。わたしに従ってきなさい。」(「主は,飢えている者を良いもので飽かせなさいます」『聖徒の道』1998年1月号,73)
ここで,またはレッスンの最後に,「主に来たれ」(『賛美歌』67番)を生徒たちに歌ってもらうか,あるいは歌詞を読んでもらってもよい。
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イエスは,モーセの律法は主によって成就され,主はこの後犠牲と燔祭を受け入れないことを宣言されました(3ニーファイ9:17,19)。主はわたしたちにどのような犠牲をささげるように言われましたか(3ニーファイ9:20参照)。「打ち砕かれた心と悔いる霊」をささげるとはどういう意味でしょうか(以下の引用を参照)。この犠牲をささげる者に,主は何を約束されましたか(3ニーファイ9:20参照)。
大管長会の一員であったJ・ルーベン・クラーク・ジュニア管長は次のように述べている。「キリストとともにもたらされた新しい聖約において,罪人は,何かほかの生き物の血をささげることによらず,自分の生活の中から犠牲をささげなければならない。自分の罪を捨て,悔い改め,自分自身で犠牲を払わなければならないのである。」(Behold the Lamb of God〔1962年〕107)
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イエスはだれのために御自身の命を捨てたと言われましたか(3ニーファイ9:22参照)。救い主のもとへ来るためには,子供のどのような特質が必要でしょうか(モーサヤ3:19参照)。
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イエスが破壊の規模を伝え,信じる者の贖いを約束された後,何時間にも及ぶ沈黙がありました。イエスは再び語ったとき,御自分の民を集めることへの望みを説明するためにどのような比喩を用いられましたか(3ニーファイ10:4-6参照。イエスはこの比喩を3度用いたが,各節において微妙に変えておられることを指摘する)。主はなぜわたしたちを集めることを望んでおられるのでしょうか(以下の引用を参照)。わたしたちはこの集合に対してどのような援助ができるでしょうか(教義と聖約4:1-7参照)。
預言者ジョセフ・スミスは次のように教えている。「世界のあらゆる時代において神の民を集めることの目的は何であったか。……そのおもな目的は,主のために宮を建て,そこで主がその民に主の宮の儀式と主の王国の栄光を明らかにし,人々に救いの道を教えられるようにすることである。……末日に神がその民を集められるのも,これと同じ目的のためである。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith,ジョセフ・フィールディング・スミス〔1976年〕307-8)
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民に悔い改め,御自分のもとへ来るよう招いた後,キリストは民に語るのをやめられました。3日間の嘆きが過ぎ去りました。その後,暗闇は消え去り,騒々しい音と破壊はやみ,人々の悲しみは喜びに変わりました(3ニーファイ10:9-10)。人々はなぜ命を助けられたのですか(3ニーファイ10:12-13参照)。彼らはどのような祝福を受けましたか(3ニーファイ10:18-19参照)。
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この話を読むわたしたちに対して,モルモンはどのような勧告をしていますか(3ニーファイ10:14参照)。
3.イエス・キリストが天から降り,民に教えられる
3ニーファイ11章から選んだ箇所を読んで話し合う。民はバウンティフルの神殿の周りに集まり,すでに起こった変化に驚き,「すでにその死にかかわるしるしが現れたイエス・キリストについても語り合っていた」ことを説明する(3ニーファイ11:1-2)。
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民はすでに起きた事柄について話し合っていたとき,父なる神の声を聞きました。それはどのような声でしたか(3ニーファイ11:3参照)。民はその声を何回聞いた後に理解しましたか(3ニーファイ11:4-6参照)。
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民はどのようにしてその声を最終的に理解することができましたか(3ニーファイ11:5参照)。「耳を開いてそれを聞」いたとはどういう意味だと思いますか(3ニーファイ11:5)。わたしたちは自分たちへの神の言葉をよりよく聞いて理解するために,何ができるでしょうか。
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父なる神は救い主をどのように紹介されましたか(生徒の一人に3ニーファイ11:7を声に出して読んでもらう)。救い主は御自身をどのように紹介されましたか(生徒の一人に3ニーファイ11:8-11を声に出して読んでもらう。「ニーファイ人に御姿を現されたキリスト」の絵があればここで見せる)。
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イエスは群集に対してどのように招かれましたか(3ニーファイ11:13-15;参照。3ニーファイ17:25も参照。ここでは群集の人数は2,500人であったと述べられている。「西半球で福音を教えるイエス」の絵があればここで見せる)。ここでの救い主の愛の模範から何が学べるでしょうか。
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ニーファイやそのほかの者たちにバプテスマを施す権能を授けた後,救い主はバプテスマについて何を教えられましたか(3ニーファイ11:21-27参照)。バプテスマを施す権能を持つ者から正しい方法でバプテスマを受けることは,なぜ重要なのでしょうか。
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イエスは,バプテスマまたは主の教義のそのほかのいかなる点に関しても,民の中に「決して論争があってはならない」とお教えになりました(3ニーファイ11:22,28)。福音の教義についての論争はなぜ危険なのでしょうか(3ニーファイ11:29;教義と聖約10:62-63参照)。真の教義において一致するにはどうすればよいでしょうか。
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救い主は御自分の教義として,何を教えられましたか(3ニーファイ11:30-38参照。答えには,天父とイエス・キリストを信じること,悔い改めて幼子のようになること,聖霊を受けることが含まれるべきである)。主は御自分の教義の上に建てる者に対して何を約束されましたか(3ニーファイ11:39参照)。
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これらの言葉を「地の果てまで」(3ニーファイ11:41)宣言するようにという救い主の指示にさらに完全に従うにはどうすればよいでしょうか。
教えるためのそのほかのアイデア
以下の資料はレッスンの概要を補足するためのものである。これをレッスンに取り入れてもよい。