善悪を判断する方法と,福音とモルモン書についての証を得る方法について教える。
以下の聖句を読み,内容について深く考え,祈る。
モロナイ7:1-19 。モルモンは善悪を判断する方法を説く(その言葉はモルモンの息子モロナイによって記録されていたことに注目する)。
モロナイ7:20-48 。モルモンは,キリストへの信仰は奇跡が行われる力であると説く。またモルモンは,信仰と希望と慈愛の重要性を説く。
モロナイ8章 。モロナイへの手紙でモルモンは,救いを得る条件を述べ,幼い子供たちはキリストの贖いによって救われていると説く。
モロナイ10章 。モロナイは信仰をもって尋ねる人々には,聖霊によってすべての真理の証がもたらされると説く。彼は霊的な賜物について述べ,あらゆる人にキリストのもとへ来るように勧めた。
そのほかの読書課題--『聖句ガイド』「光,キリストの光」 の項,212-213
適切であれば,以下の活動または教師が考えた活動をレッスンの始めに行う。
以下の物語を話す。
1910年2月のある寒い日,プロテスタントの牧師,ビンチェンツォ・デ・フランチェスカは,風雨にさらされて表題のページもない宗教書を見つけた。彼は好奇心からその本を新聞紙で包んで持ち帰った。家に戻ると,彼は汚れを落としてその本を読んだ。「わたしは幾度も読み返していくうちに,この書物が贖い主の第5の福音書であるという確信を強めていきました」と彼は語った。
彼が見つけた本はモルモン書だった。彼はそれを読んだとき,モロナイ書第10章4節 の勧めに従った。「その日の終わりに,わたしは自分の部屋に鍵をかけ,その本を手に持ってひざまずき,モロナイ書の10章を読んでみました。それからわたしは,その書物が神からのものなのか,真実の正しい書物なのか,また伝道の際に四福音書とともにその中の教えを伝えてよいものかどうかを,御子イエス・キリストの御名によって永遠の父なる神に祈ったのです。
わたしは海から吹いてくる風のように自分の体が冷えていくのを感じました。そして心臓の鼓動が早まり,この上ない貴重なものを見いだしたうれしさで心は慰められ,筆舌に尽くし難い喜びに満たされました。わたしは,神がわたしの祈りにこたえてくださったこと,またこの書物はわたしにとって,またその御言葉を聞く人々にとって最も大いなる祝福となるという確信を得たのです。」
そのときビンチェンツォ・デ・フランチェスカが得た証は,多くの困難な経験を克服する力となって彼を助けた。彼はモルモン書を使って教えたので,牧師の職から追放された。彼がその本の名前と出版している教会の名前を知ったのは1930年のことだった。戦争とほかの政治的問題のために,彼がバプテスマを受けることができたのは,それからさらに21年後のことであった。そのような艱難の中にあっても,彼はモルモン書の真実性について強い証を持ち続けた(「わたしにはその本を焼くことはできません」『聖徒の道』1988年7月号,15-18参照)。
本課は,モルモン書の最後の章について述べていることを指摘する。その記述には,わたしたちがモルモン書の真実性について,個人的な証を得る方法についても書かれている。
クラスの生徒の必要に最も適した聖句,質問,そのほかの資料を祈りの気持ちで選ぶ。選んだ聖句を日常生活でどのように応用できるかを話し合う。聖句で述べられている原則に関連した適切な経験を分かち合うよう生徒に勧める。
モロナイ7:1-19 について話し合う。生徒たちに選んだ箇所を声に出して読んでもらう。モロナイ7章 には,モルモンの息子モロナイが記録した,モルモンの言葉が載っていることを指摘する。
モルモンは教会員について「キリストに穏やかに従〔う者たち〕」である,と言っています(モロナイ7:3 )。モルモンは何に基づいて教会員をこのように判断したのでしょうか(モロナイ7:4-5 参照)。わたしたちはどうすれば「キリストに穏やかに従〔う者たち〕」となれるでしょうか。
善いことを行う動機の大切さついて,モルモンはどのように教えていますか(モロナイ7:6-9 参照)。「真心」からささげ物や祈りをするとはどういう意味でしょうか。善いことを行おうとするわたしたちの動機を純粋なものとするには,どうすればよいと思いますか。
モルモンは,わたしたちが善と悪を判別する方法について,何と教えましたか(モロナイ7:12-19 参照)。
黒板に,「 は神を愛して仕えるように招いていますか。 は神に霊感されていますか」と書く。生徒に,ある思いや行いが善か悪かを判断するときは,この質問をしてみるように勧める(自分たちを悪の方へ導くものかどうかと判断するよりは,神の方へ導くものかどうかと判断する方が容易であることを指摘するとよい。サタンが人を陥れる手口は,たとえ善いことではなくても,まったく悪いとも言えず,「それほど悪くはない」という程度にすぎない,と人々の心に働きかけることである。神のところへ導かないものはすべて,わたしたちを神から遠ざけるものであることを強調する)。
モルモンは人々に「あなたがたは悪いものを神から出たと思わないように,あるいは善いもの……を,悪魔から出たと思わないように気をつけ」るよう警告しました(モロナイ7:14 。2ニーファイ15:20 も参照)。今日このような現象が起こっている様子を,あなたはどのように目にしていますか(生徒の答えを黒板の「善のごとく悪が現れ,悪のように善が現れる」と表題を書いた下に列挙するとよい)。
わたしたちが悪から善を判断できるようにどのような力が与えられてきましたか(モロナイ7:16,18-19 参照)。
「キリストの御霊」あるいは「キリストの光」とは,「イエス・キリストによって人類に与えられたものであり,人々が向上し,気高く,忍耐強くなるよう影響する力である。」(Bible Dictionary, “Light of Christ,” 725)それはすべての人々に与えられて,人が真理を見いだし聖霊を受けられるように備えさせることができる。それには,わたしたちが善と悪を識別するのを助ける役割があるので,キリストの光はわたしたちの良心と呼ばれることがある。
どのようにしてキリストの光は,あなたが悪と善を識別する助けとなってきましたか。どうすれば,キリストの光の導きをさらに受けやすくなることができますか。
モロナイ7:20-48 から選んだ箇所を読んで話し合う。
モロナイは「どのようにすればあなたがたは,善いものをことごとく手にできるのであろうか」と尋ねました(モロナイ7:20 )。その質問に彼はどのように答えましたか(モロナイ7:21-26 参照。「善いものはすべてキリストから来る」,そしてわたしたちは主への信仰を行使することによってそれらを「手に」することができる)。
生徒に信仰によって自分たちやほかの人々へもたらされた祝福について考えてもらう。適切なら,その例を発表してもらう。
信仰と奇跡にはどのような関係があるでしょうか(モロナイ7:28-30,35-38 参照)。なぜ奇跡に先駆けて信仰が必要なのでしょうか(モロナイ7:37 参照。エテル12:12,18 および以下の引用も参照)。なぜ奇跡だけでは,信仰の強固な基盤を築けないのでしょうか。
ブリガム・ヤング大管長は次のように述べている。「奇跡すなわち神の力の超自然的な現れは,信仰を持たない人々のために与えられるのではない。そのような奇跡は,聖徒に慰めを与え,神を愛し,畏れ,仕える人々の信仰を強めて確かなものとするために与えられる。」(Discourses of Brigham Young , ジョン・A ・ウイッツォー〔1941年〕341)
希望とは何でしょうか。信仰と希望の間にはどんな関係があるでしょうかモロナイ7:40-42 参照)。
ブルース・R ・マッコンキー長老はこう教えている。「啓示で用いられているように,『希望』とは,将来神の王国で永遠の救いを得たいという,忠実な人々の願望である。……信仰と希望は切り離すことができない。まず希望を持つことにより,信仰を得ることができる。そして,信仰があるがゆえに,救いが得られるまでその希望が増し加わるのである。」(Mormon Doctrine , 第2版〔1966年〕365-366)
信仰や希望に先駆けてどのような特質が必要でしょうか(モロナイ7:43 参照)。まことの信仰と希望を持つために,なぜ人は「柔和で心のへりくだった」状態でなければならないのでしょうか。
モルモンはわたしたちに,信仰と希望に加え,慈愛を持たねばならないと教えました。慈愛とは何でしょうか(モロナイ7:46-47 参照)。慈愛の特質は何でしょうか(モロナイ7:45 参照。生徒の答えを黒板に列挙するとよい)。あなたの人生で,どのような経験を通して「慈愛はいつまでも絶えることがない」と確認しましたか。
信仰と希望をどのようにして強めることができますか。わたしたちはどのようにしてキリストの純粋な愛で自分自身を満たすことができますか。わたしたちはなぜ信仰,希望,慈愛を持つように努めねばならないのでしょうか(モロナイ10:20-21 参照)。
モロナイ8章 から選んだ箇所を読んで話し合う。この章にはモルモンが息子モロナイへあてた手紙が掲載されていることを教える。
なぜ幼い子供たちにはバプテスマが必要ないのでしょうか(モロナイ8:8-9,11,19-20 参照。幼い子供たちについてのモルモンの教えは,「律法を持たないすべての者」〔モロナイ8:22 〕にも適用され,福音の戒めや儀式を精神的に理解できない人々についても言及している)。なぜ幼い子供たちへのバプテスマは「神をあざける行為」なのでしょうか(モロナイ8:20,22-23 参照)。
幼い子供たちは潔白で罪を犯すことができないので救われています。わたしたちの中で罪を犯した者は,キリストの贖いによる救いを,どのようにして得ることができるでしょうか(モロナイ8:10,24-26 参照)。
モロナイ10章 から選んだ箇所を読んで話し合う。
モルモン書の最後の章であるモロナイ10章 には,モロナイの結びの言葉が載っています。この章はだれにあてたものですか(モロナイ10:1 参照)。モロナイは「勧めとして〔の〕少しの言葉」で結んでいます(モロナイ10:2 )。勧めるという言葉は何を意味していますか(忠告,または強く主張すること)。生徒に,その章に素早く目を通して,モロナイが読者に行うように勧めていることを判断するよう伝える(以下に答えを列挙する。生徒に勧告している聖句を読んでもらうとよい)。
「主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし」(3節 )
「これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問う」(4節 )
「神の力を否定しない」(7節 )
「神の賜物……を否定しない」(8節 )
「あらゆる善い賜物はキリストから来るということを覚えておくように」(18節 )
「キリストは昨日も,今日も,とこしえに変わらない……ことを覚えておきなさい」(19節 )
「〔モロナイが書いた〕これらのことを覚えておくように」(27節 )
「キリストのもとに来〔る〕」(30節 )
生徒たちにモルモン書が神の言葉であるという証を得たかどうか考えてもらう。わたしたちが霊的な事柄への証を得るために聖霊はどのような役割を果たされますか(モロナイ10:4-5 参照)。わたしたちはなぜ知性だけで証を得ることができないのでしょうか(1コリント2:11 ;アルマ26:21-22 ;モロナイ10:6-7 参照)。
モロナイは「神の力を否定しない」ように勧めています(モロナイ10:7 )。どのようなことで,わたしたちは時々神の力を否定することになりかねないのでしょうか(生徒の答えを聞くほかに,以下の文を読むとよい)。
ジェフリー・R ・ホランド長老は次のように教えている。
「救い主は次のように言われました。『わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。……あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。』(ヨハネ14:27 )
皆さんに申し上げます。これはほとんど万人が背いている救い主の戒めの一つではないでしょうか。これは,ほかの戒めには忠実な末日聖徒たちにも言えることです。そして,わたしはさらに,この招きに対してわたしたちが抵抗することほど主の憐れみに満ちた心を悲しませるものはないように思うのです。わたしは一人の親として,次のように言うことができます。もしわたしの子供たちのだれかが,人生のどこかで深刻な悩みや悲しみに遭遇し,または不従順に陥るようなことがあれば,わたしはさぞ心配することでしょう。しかし,そのようなときにその子がわたしの助けを信頼できない,あるいは自分の関心事などわたしにとって重要ではない,またはわたしの保護では安全ではないと思っていると感じるならば,その方がわたしに計り知れないほどの挫折感をもたらすことでしょう。同様に,御自分の民がその保護に確信を持たなかったり,その御手の中に安心感を得なかったり,その命令を信頼しなかったりするのを御覧になるとき,世の救い主がその愛ある心をどれほど深く痛められるかを正しく認識できる人などだれもいないと,わたしは確信しています。」(“Come unto Me,” Ensign , 1998年4月号,19)
モロナイは霊的な賜物について何と教えていますかモロナイ10:8-19 参照)。なぜわたしたちそれぞれは異なった賜物を受けるのでしょうか(教義と聖約46:11-12 参照)。
モルモン書のメッセージを深く考えるとき,あなたは何を学び,感じてきましたか(生徒たちが自分たちの考えを発表したくないようであれば,この質問について静かに考えてもらう。)
キリストのもとに来て」というモロナイの勧告は,モルモン書全体のメッセージをどのように言い表していますか(モロナイ10:30,32 )。今年のモルモン書の学習は,あなたをキリストのもとへ導くうえで,具体的にどのような助けとなりましたか。
本課で話し合われた事柄が真実であることを,御霊に導かれるままに証する。生徒にも同様に証してもらう。
生徒がモルモン書の学習を続けるのを励ますために,以下の説教を伝えてもよい。
ゴードン・B ・ヒンクレー大管長は次のように述べている。「すべての男性と女性へ……そしてモルモン書を繰り返し読み返せる年齢に今年成長するすべての少年と少女へ強く申し上げたいと思います……イエスがキリストであり,生ける神の生ける御子であられるという揺るぎない確信を,わたしたちの個人の生活の中で強めることが,最も偉大で大切なことなのです……それがこの注目すべきすばらしい本がもたらされた目的なのです。」(Church News , 1996年5月4日,2)
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように述べている。「教会員で,モルモン書を真剣かつ慎重に読んだことのない人は,神の前において認められることは決してないでしょう。」(Conference Report ,1961年10月,18)
エズラ・タフト・ベンソン大管長は次のように述べている。「現在,日曜学校やセミナリーでは4年ごとに,モルモン書について教えています。しかし,個人や家族のモルモン書の学習まで4年に1度のペースにしてしまってはいけません。モルモン書は『その教えを守ることにより,ほかのどの書物にも増して神に近づくことができる』(History of the Church , 4:461)書物であり,わたしたちは毎日この書物を読まなければなりません。」(「モルモン書で洪水のごとく地を満たす」『聖徒の道』1989年2月号,4)
ベンソン大管長は次のようにも述べている。「末日聖徒はすべて,生涯この書物を学び続けるべきである。」(「モルモン書は神の御言葉」『聖徒の道』1975年8月号,368)