インスティテュート
「わたしの民にとって旗となる」


「わたしの民にとって旗となる」

ブリガム・ヤング大学のモルモン書シンポジウムにおいて宗教指導者に行った説教,1994年 8月9日,13-15より抜粋

第三ニーファイの驚くべき記述に少しも触れずに,キリストに関するモルモン書の記述を語ることはできません。そこには非常に胸躍る事柄がたくさん記されています。きっと皆さんがよく御存じであろう洞察を1つ紹介します。

ニーファイ人を訪れられた1日目の終わりに,救い主は民が疲れていることに気づくと同時に,少しの間彼らのもとを離れなければならないことを告げて,次のように言われました。「明日のために心が備えられるように……〔し〕なさい。わたしはもう一度あなたがたのところに来るであろう。」(3ニーファイ17:3)そして,何か軽い理由のために去るのではないことを強調するため,主は御自身の任務について語られました。「しかし,わたしは今は父のみもとに帰り,またイスラエルの行方の知れない部族にもわたし自身を現そう。彼らは父にとっては行方知れずではない。父は彼らを導いた先を御存じだからである。」(3ニーファイ17:4)その時,主が差し迫った責任を果たさねばならなかったことは明白です。

ところが,主が群衆を見回されると,彼らの目に涙があふれ,もう少しとどまってほしいと懇願する目で主をじっと見つめていました。民への憐れみで心を動かされた主は,無言で民の願いを受け入れられます。そして,彼らの中の病気の者,足の不自由な者,目の見えない者,重い皮膚病にかかっている者,体のまひしている者,耳の聞こえない者を連れて来るように命じられました。その人々の信仰と御父の御心に応じて,御自身の手によって全員を癒すためでした。これはきっと奇跡にあふれた感動的な場面に違いありませんでしたが,その後の子供たちとの驚くべき経験に比べれば単なる前置きに過ぎません。主は子供たちを御覧になって涙を流され,一人一人を祝福されました。天使が……聖なる火の中にいるような有様で天から降って来て,子供たちを囲み,栄光と威光を表しながら恵みを施しました。

この霊的に荘厳な場面の次に,聖餐の儀式がそのあらゆる神聖な意味とともに制定されました。

こうして力強い教えが,驚くべき宣言が,神の御子御自身の口から発せられました。第三ニーファイ11章から第三ニーファイ18章までが一日目に関する記述で,群衆の一人一人が主の肉体の傷跡に触れ,神殿で教えを聞き,聖約について学び,火のような天使の現れを見ました。その日の最後を飾ったのは,聖餐の制定でした。

その後,次の勧告が与えられます。これは,比類のないすばらしい教えに満ちた一日の中でも,最もすばらしい教えだと思います。主の晩餐が行われたこの日の絶頂に,わたしたちはすばらしい教えを受けます。それはとても簡潔で,明快な命令です。主はニーファイ人の十二弟子にこう言われます。

「わたしはあなたがたに言う。あなたがたは悪魔に誘惑されないように,また悪魔に捕らえられないように,常に目を覚ましていて祈らなくてはならない。

わたしがあなたがたの中で祈ったように,あなたがたもわたしの教会で,悔い改めてわたしの名によってバプテスマを受けるわたしの民の中で祈りなさい。見よ,わたしは光である。わたしはあなたがたのために模範を示した。」3ニーファイ18:15-16;強調付加)

主はその後,十二弟子から群衆に向き直ってこう言われました。「見よ,まことに,まことに,あなたがたに言う。あなたがたは誘惑に陥らないように,常に目を覚ましていて祈らなければならない。サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを願っているからである。」(3ニーファイ18:18;強調付加)それから全員に,家族の中で祈るように,教会の求道者のために祈るように勧められます。わたしたちが幅広く様々な事柄のために祈るべきであるという偉大で包括的な勧告をお与えになり,次のように言われました。「あなたがたの光を掲げて,世の人々に輝き渡るようにしなさい。見よ,あなたがたの掲げる光とは,わたしである。すなわち,わたしが行うのをあなたがたが見た,その行いである。見よ,あなたがたはわたしが父に祈るのを見た。皆,目の当たりに見ている。」3ニーファイ18:24;強調付加)

彼らはキリストが祈られるのを実際に見ていました。

「イエスは……御父に祈られた。イエスが祈られた事柄を書き記すことはできないが,イエスの祈りを聞いた群衆はそのことを証した。

彼らは次のように証した。『わたしたちはイエスが御父に話されるのを見聞きしたが,それは目がまだ見たこともなく,耳がまだ聞いたこともないほど,大いなる驚くべきことであった。

わたしたちはイエスが話されるのを見聞きしたが,それはどんな舌も語ることができず,どんな人も書き記すことができず,人々の心が想像できないほど,大いなる驚くべきことであった。またわたしたちは,イエスがわたしたちのために御父に祈ってくださるのを聞いたが,そのときにわたしたちの心に満ちた喜びは,だれも想像することができない。』」(3ニーファイ17:15-17;強調付加)

救い主が祈られるのを聞くことがどういう感じなのか,わたしはまったく想像がつきません。しかし,それ以上に,救い主の祈りを見た人々が「どんな舌も語ることができず,どんな人も書き記すことができず,人々の心が想像できないほど,大いなる驚くべきことであった」と言ったのはどういうことか,まったく分かりません。祈りを聞くこともすごいことですが,見ることはまるで別のことに違いありません。

人々は実際に何を見たのでしょうか。残念ながら,何があったかは書き記すことはできませんが,それはその日,主が民の前で示された偉大で完全な最後の模範だったと言えば十分でしょう。すなわち,聖餐の後,最も貴い出来事として,十二弟子のため,そして十字架を背負って御自身に従う他の人々のためにお与えになった勧告でした。彼らは祈る必要があります。常に祈る必要があるのです。

個人や家族で祈らねばなりません。自分たちの中の,最も新しい会員や最年少の子供,最高齢の老人のために祈らねばなりません。世の中にあって,まだ真理を持っていない人々のためにも祈らねばなりません。自分に敵対する人々や自分を利用し迫害する人々も含めて,すべての人のために祈らねばなりません。それが彼らの掲げるべき光です。これこそ,天の御父に信仰をささげるという証です。

祈りは,無名のゼノスが教えたように,最も簡潔で力強い礼拝の形です(アルマ33:3参照)。祈り「述べても述べずも」「魂の見えぬ望み」です。(『賛美歌』 83番)「あなたがたの光を掲げて,世の人々に輝き渡るようにしなさい。見よ,あなたがたの掲げる光とは,わたしである。すなわち,わたしが行うのをあなたがたが見た,その行いである。見よ,あなたがたはわたしが父に祈るのを見た。皆,目の当たりに見ている。」(3ニーファイ18:24;強調付加)

祈られるキリストこそ,わたしたちが人々に指し示すべき模範です。へりくだられるキリスト。霊的な交わりを持たれるキリスト。御父に頼られるキリスト。ほかの人々に祝福がもたらされるように祈り求められるキリスト。天の力を呼び求められるキリスト。祈りを通して御父と一つとなられるキリスト(わたしたちもその方法を通して御父と一つとなることができます)。

皆さんが主の生涯の様々な場面について生徒たちに教える際は,必ず祈られるキリストについて教えるようにしてください。生徒の手に聖典を持たせることと合わせて,祈り以上に,彼らが生きる困難な世界において,そしてこれから彼らが直面するますます破滅的な時代において,皆さんが与えることのできる確実な助けはありません。御父の導きと支えと守りを求めるキリストの模範-光を彼らの前に掲げてください。天の御父に従い,ひざまずき,困難を受け入れ,御父の御心に従順になるキリストの模範を見せてください。これこそ,わたしたちが世に示すべき模範,生徒に示すべき模範です。すなわち,口で言い表すことのできない祈りをささげるキリストの姿です。

キリストがニーファイ人の群衆に与えた次の約束を生徒たちに与えてください。「与えられると信じて,わたしの名によって父に求めるものは,正当であれば,見よ,何でもあなたがたに与えられる。」(3ニーファイ18:20

今夜,わたしが最後に申し上げる証は,聖典の歴史の中で最も孤独を味わったモロナイの証です。モロナイは孤独な境地の中で,3つの証を述べています。3度にわたって救い主と,彼が最後の筆者となったメシヤを証する書物について最後の宣言をしました。最初の証は,父親の書の終わり,すなわちモルモン書の8章と9章を構成する箇所にあります。連続するその2章でキリストについて書かれたある聖句は,標準聖典の他のどの聖句よりも,わたしが人生の窮地に直面していたときに最も力強い劇的な祝福をもたらしました。ほかに理由がなくても,そのたった一つの経験によって,わたしは永遠にモロナイを愛し続けるでしょう。もちろん,ほかにもたくさんの理由はありますが。

モロナイの2つ目の証はエテル書にあります。ヤレドの兄弟の並はずれた,無比の経験の後に彼が書いた言葉にあります。エテル書第3章の全28節には,それを保存したモロナイのおかげで,この世の人が経験した中で,最も特別な驚くべき方法でキリストにまみえたことが書かれています。たぐいまれな信仰を持つ人にもたらされた,前代未聞の啓示であるにも関わらず,それを受けた預言者の名前さえ明かされないとは,何と謙遜さを教える教訓でしょう。うぬぼれや自己中心的な考えであふれ返っている世の中に対し,何と驚くべき無言の宣言でしょう。

モロナイの3つ目で最後の証は,彼自身の書にあります。キリストへの信仰と希望と慈愛を強調し,キリストが教えたこの3つの偉大な徳,キリストの教えを包括するこの3つの原則によってわたしたちが清められるようにとの願いを込めて書かれています。「神の〔息子・娘〕となれるように,熱意を込めて御父に祈りなさい。また,御子が御自身を現わされるときに,……御子に似た者となれるように,……さらにわたしたちが清められて清い御子と同じようになれるよう,熱意を込めて御父に祈りなさい。アーメン。」(モロナイ7:48;強調付加)

今年,皆さんと皆さんが教える生徒に宛てたわたしの願いは,モロナイの祈りです。モロナイの父親が教えたように,わたしたちの信仰と希望と慈愛によってもたらされる清さ,すなわちキリストの清さを得られるように願っています。主が来られるとき,わたしたちが主をありのままで見て,主に似た者となれますように。主と同じように清められますように。

「キリストのもとに来て,あらゆる善い賜物を得るように,また……清くないものに触れないように ……。

まことに,キリストのもとに来て,キリストによって完全になりなさい。 ……

さらにあなたがたは,神の恵みによりキリストによって完全になり,神の力を否定しなければ,神の恵みによりキリストによって聖められる。それはキリストの血が流されたことによるものである。キリストの血が流されたのは,あなたがたの罪の赦しのために御父が聖約されたことによるものであり,それによってあなたがたは染みのない清い者となるのである。」(モロナイ10:30,32-33

わたしたちの宗教のかなめ石であり,この世で最も正確な書物の巻末に,孤独な筆者が記した願いは,清くないものに触れないことでした。その願いとは,聖なる者となり,染みのない状態になること,つまり清くなることでした。この清さは,わたしたちの悲哀を負って悲しみを担われた小羊,わたしたちの背きのために刺し貫かれ,わたしたちの罪悪のために傷つけられた小羊,侮られ苦しめられはしてもわたしたちに尊ばれることはなかった小羊の血を通してのみ与えられます(モーサヤ14章参照)。

しかし,わたしたちが主に負わせたすべての苦しみにも関わらず,そして主が負う必要のない鞭打ちを受けられたにも関わらず,そしてわたしたちの罪と愚かさが緋のようであっても,「雪のように白くなる」ことができます(イザヤ1:18参照)。

「『この白い衣を身にまとっている人々は,だれか。また,どこからきたのか。』

…… 『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって,その衣を小羊の血で洗い,それを白くしたのである。』」(黙示7:13-14

小羊の血を通して清さがもたらされること,それこそがモルモン書に込められた願いです。わたしも,皆さんの助けにより生徒たちが清さを求められるようにと祈っています。それが神の聖約であり,キリストの使命です。そして,わたしたちの特権であり,義務であり,身に余る機会です。