インスティテュート
福音に関する疑問の答えを見いだす


福音に関する疑問の答えを見いだす

1980年ごろの公開書簡。末日聖徒イエス・キリスト教会歴史部記録保管庫所蔵

誠心誠意真理を求めている皆さんへ

拝啓

教会の教義や儀式,慣行,歴史について尋ねる手紙が,わたしの元に山のように届きます。毎年数千もの質問が寄せられています。最近,210個の主要な質問と,重要性の低い質問が数え切れないほど書かれた1通の手紙が届きました。この1通の手紙に含まれる質問に答えるだけでも,何百ページも要するでしょう。返事を書かないまま積み上げられた手紙の厚みは,しばしば15センチから20センチにも及びます。時には手紙を読むことさえできずに何週間もたってしまうこともあります。もちろん,返事を書けないことは言うまでもありません。

思慮深い人ならば,わたしが受ける質問に答えるために,起きている時間を全てささげて研究し取り組んだとしても,全てに答えることはできないことに気づくでしょう。しかし,もっと重要なことは,たとえそのようなことができたとしても,そうすることは正しいことでもなければ,問題を提起する人にとって最良の方法でもないということです。その代わりに,福音に関する質問の答えを求める人々に,次のことを提案したいと思います。

1.光と真理を求める。

教会内外のあらゆる人は,その教派や党派,宗派にかかわらず,光と真理を求める義務を負っています。キリストの光は,全ての人に与えられる賜物です。それは,世に来る全ての人を照らし,真理を求めるようにというその促しに従う人は知識と理解を得,福音と,救いをもたらす福音の真理に導かれます。

教会の会員はそれに加え,自然の法則と救いの教義のどちらも理解する義務を負っています。教会員は聖霊の賜物を持っています。それは,忠実さに応じて神会のこの御一方を常に伴侶とする権利です。聖霊は啓示を与えてくださいます。「そして聖霊の力によって,あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。」(モロナイ10:5)あらゆる意味において,究極的には,あらゆる分野の確かな真理の知識を得る唯一の完全かつ絶対的な方法は,神の聖なる御霊から個人的な啓示を受けることです。この天与の恵みは,戒めを守り聖霊を伴侶とする人々にのみ与えられます。御霊は清くない宮には住まわれないことを忘れないでください。

2.聖文を調べる

重要な教義に関するほとんどの疑問の答えは,標準聖典もしくは預言者ジョセフ・スミスの説教とジョセフ・スミスが記したものの中にあります。答えがこれらの中にない場合,その疑問はおそらく救いに必要ではなく,現在のわたしたちの霊的な能力では到底理解し得ないということです。わたしたちが既に受けている真理を信じ,理解し,その真理に調和した生活を送るときに,新しい啓示が与えられるでしょう。

福音の知識を究める方法は,まずモルモン書を研究し,モルモン書について深く考え,祈り,それから他の聖典についても同じことを繰り返すことです。モルモン書には,聖書や,現在わたしたちに与えられているその他の啓示を理解できるよう主が世に与えてくださった御言葉が含まれています。わたしたちは,全ての聖文を調べるよう命じられています。すなわち,主の御言葉を大切に蓄えて欺かれないようにし,聖文の泉から心ゆくまで水を飲み,知識に対する渇きを潤すのです。

パウロは,聖文には「キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を……与え」る力があると述べています(2テモテ3:15)。聖文は,教会と律法に基づく管理者,すなわち地上で主の業を管理するよう神から召された人の元にわたしたちを導いてくれます。聖文から答えを得ることは,そのことに関して誰かが述べた言葉から答えを得ることよりも,わたしたちにとってはるかに良いことです。確かに,使徒や預言者が標準聖典に記した事柄を理解するために,霊感を受けた解説者を必要とすることもしばしばあるでしょう。しかし,聖文の意味について語られる説明の多くは,正確さの点で劣り,教化する力もいささか弱いのも事実です。

誰かの手によって濁された水ではなく,聖文の泉から直接水を飲めるならば,わたしたちははるかに優位な立場に立つでしょう。教会が認める標準聖典に収められた聖文を最初に記した預言者たちに勝る洞察を持つ人は一人としていないからです。わたしは適切な聖典の注解を否定しているわけではありません。その価値を知っており,評価していますし,自分でも注解書を何冊も書いてきました。ただ,注解を読む能力があるならば,自分で注解を加えたほうがはるかによいと申し上げたいのです。聖文を自分で研究することは,神聖かつ厳粛なことであり,それは救いをもたらします。わたしたちはこのように自分自身を訓練するべきです。

3.真の教義は標準聖典と調和する

標準聖典は聖文であり,わたしたちの行く手を導いてくれます。それは,主の思いであり,御心であり,主の声です。主はこれまでに聖典の内容に反したことを啓示されたことはありませんし,現在も将来も,そのようなことは決してなさいません。人は霊感の霊により語る限り,神が既に明らかにされている真理と一致しない教義を教えることはありません。

ジョセフ・フィールディング・スミス大管長の次の言葉は,あらゆる人が福音を学ぶうえで常に指針となるでしょう。「筆記されたものであるか,口述されたものであるかを問わず,わたしたちは主の啓示と矛盾するものを受け入れることはできない。わたしが語る言葉,あるいはいかなる教会員が教えることであっても,啓示と一致しないことを受け入れる必要はないのである。このことをはっきりと理解していただきたい。わたしたちはいろいろな人々の教えを測るものさし,あるいははかりとして四大標準聖典を受け入れている。

中央幹部が書いた書物であっても,それが標準聖典で明らかにされている教えと一致しなければ,標準的な教えとして受け入れることはできない。

書籍の内容については,各々その著者が責任を負うのであって,教会は責任を負わない。もしわたし,ジョセフ・フィールディング・スミスが啓示にそぐわない事柄を書いた場合,全教会員はそれを拒否する責任がある。明らかにされた主の御言葉と完全に一致した事柄を書いた場合しか,受け入れられないのである。」(Doctrines of Salvation, ブルース・ R・マッコンキー編,全3巻〔1954-1956年〕,第3巻,203-204。ブルース・ R・マッコンキー,Mormon Doctrine, 第2版〔1966年〕, 609でも引用)

4.聖典と預言者の言葉との調和を求める

全地におけるあらゆる分野のあらゆる真理は永遠にわたり,その他全ての真理とまったく完全に調和します。真理は常にそれ自身と調和するのです。主の言葉は真理であり,互いに矛盾する聖文は存在しません。また,霊感を受けた誰かの言葉が,霊感を受けた他の人の言葉と矛盾することもありません。パウロとヤコブが信仰と行いについて異なる見解を持つことはありませんでしたし,アルマが復活について語ったことは皆,教義と聖約第76章と一致します。一見矛盾することがあるとすれば,それはわたしたちがその点についてまだ完全に理解していないためです。

主は,聖文や中央幹部の言葉に,見かけ上の見解の相違ではなく,調和と一致を見いだそうと努めるようわたしたちに期待しておられます。信仰と理解力を備えている人は,聖典の全ての言葉と中央幹部が述べた言葉の中に完全な一致を見いだそうと努めます。残念なことに,一部の人はわずかな情報を取り出して,他の人が語ったことと異なるから神から出てはいないと結論付ける傾向があります。長年にわたり,わたしは次のような手紙を何千通も受け取ってきました。「ある人がこう言ったが,別の人が反対のことを言った。どちらが正しいのか。」経験から言えることは,多くの場合,いえ,ほぼ全ての場合,見かけ上の相違は一致することができますし,できないとすればそれは取るに足りないことだということです。主の御霊は調和と一致,合致,一体性をもたらします。悪魔の霊は,分裂と論争,敵対心,不一致を擁護します。

5.預言者が語る言葉は全て真実か

もちろん,真実です!これこそ,人を教えるために主が設けられたシステムの要です。主の僕が聖霊に感じて語ることは全て聖文となります。主はその代理人に次のように命じておられます。「御霊は信仰の祈りによってあなたがたに与えられるであろう。そして,御霊を受けなければ,あなたがたは教えてはならない。」(教義と聖約42:14

しかし,預言者である人物の語る言葉が全て預言者として語られるわけではありません。ジョセフ・スミスは,預言者は常に預言者でいるわけではない,と教えています。預言者として行動している場合に限り預言者なのです。預言者の外套を身にまとっている人も,人間です。それぞれの見解を持っており,福音の真理に対する理解の度合いも,各々の研究と霊感により異なります。

謹んで申し上げますが,預言者の中には他の預言者よりも知識と霊感において優れている人がいます。ですから,最も偉大な預言者の一人であるブリガム・ヤングが,アダムに関してモーセ書と教義と聖約第78章と一致しないことを言ったとしたら,聖文が優先されます。わたしたちが聖典を標準聖典と呼ぶのはこのためです。聖典は,判断する際の標準であり,あらゆる教義や見解と比較検討するためのものさしであり,その見解が誰のものであろうとそのことに少しも変わりはありません。聖文は常に優先されるのです。

6.奥義は深追いせず,福音の一部への傾倒を避ける

わたしたちは全てのことを理解しているわけではありませんし,この霊的な成長の段階にあって全てを理解することはできません。モルモン書の一部が封じられていてわたしたちに与えられていないのは,そこに収められている真理を理解し,それに従って生活する備えがわたしたちにできていないためです。聖典の中のある事柄は,たとえ話や比喩などを使って隠されており,誰にでも理解できるわけではありません。わたしたちは,永遠の命をもたらす基本的な教義を理解する義務を負っています。さらに,奥義に関するわたしたちの知識は,霊的な悟りの程度により異なります。深い水の中をあまり遠くまで泳ぐのは賢明ではありません。わたしはこれまで,聖文に隠された深遠な意味について不毛な論争を繰り広げる人々を見てきました。そのような人はたいてい,救いに関する簡単で基本的な真理について,正当で基本的な理解をしていないのです。

また,気に入った福音のテーマに傾倒する人も見てきました。このような人は自分自身を特定の分野に精通する専門家であるとして,救いの計画全体が自分の関心のある特定の分野を中心に回っていると主張します。彼らはたいてい霊的に未熟で不安定です。中には,あたかも神から命を受けているかのように,熱心に時のしるしを知らせたり,再臨について説明したり,知恵の言葉を誇張して解釈したり,神殿の業や他の教義や慣習をねじ曲げて強調したりする人もいます。イエスの時代のユダヤ人は安息日の遵守の分野の愛好家となり,極端に陥りました。そのために彼らの礼拝様式全体がそのあおりを受けたのです。わたしたちは,福音全体とその全ての教義について,分別を持ちバランスを取りながら取り組むことが賢明でしょう。

7.重要でない事柄にとらわれない

わたしたちの行く末を形作る偉大な永遠の真理について学ぶべきことはたくさんあり,ささいな事柄に注意を向け続けることはもったいないことだと思います。次のような質問をしばしば耳にします。「わたしの救いにはあまり関係がないのですが,とても知りたいことがあります。針の上で天使は何人踊れるのでしょうか。また,針は真鍮と銅のどちらでできているのでしょうか。」救いの計画全体が描かれた大きなキャンバスの上にちょこんと止まった小さなハエに気を取られるあまり,永遠の報いとして与えられる命と光と栄光の肝心な点を見失ってしまうことがあります。この世には不要といってよい知識が存在します。その知識を得たところで,王国の行く末にも王国の民の救いにもみじんも影響を与えない知識です。

8.必要があれば,難しい質問について判断を控える

完全な洞察力と理解力を備えた人には難しい質問などありません。奥義は解決されるともう奥義ではなくなります。しかし,質問によっては未知の分野に関する知識の探求を促したり,霊的な学識に幾分欠ける人を終わりのない論争に巻き込むことがあります。

福音のあらゆる教義を信じることができない場合,問題となっている分野に関して判断を避けてください。王国を管理する預言者や使徒が支持する立場と相反する立場を取ることのないようにしてください。研究し,祈り,教会の中で働きながら,さらなる光と知識を待ってください。

いわゆる進化論のことで悩み,アダムが最初の人であり初めて肉体を持った人間であることや,堕落以前にはいかなる生物にも死が及ばなかったことがまだ分かっていないのなら,判断を差し控え,聖文に反する立場を取らないようにしてください。

神は現在も成長しながらさらに知識と真理を増し加えておられ,ジョセフ・スミスが教えたように全知全能であり偏在されるわけではないと思うなら,判断は差し控えてください。沈黙を守るのです。啓示された言葉と相反する立場に凝り固まらないでください。

復活後に一つの栄えの王国から別の栄えの王国に昇る,あるいはこの世で福音を拒んだ人は救いを得る機会を来世で再び得る,神殿で結婚した夫婦はあらゆる罪を犯しても救いを得ることができると思うなら,あるいは現在よく耳にする誤った教義が正しいと思うならば,判断を差し控えてください。誤った理念を擁護しようとしないでください。他の事柄について研究し,あなたを悩ませている事柄についてさらに光を受ける備えができる日を待ち望んでください。

9.できれば,尽きることのない反モルモンの文献を無視し,疫病を避けるかのように狂信的宗教から逃れてください。

改心は論争からは生じません。争いの心を持つ者は神につく者ではありません。わたしたちが神に託されている使命は,よきおとずれを世に告げることであって,聖文の意味について他の人と言い争うことではありません。もちろん,わたしたちにこぞって反対する人たちのあらゆる誤った主張に対する答えはあります。悪魔は100年間絶えず同じ手法を使ってきたのですから。しかし,改心は論争からは生じません。モロナイが勧告した方法でモルモン書を読む人々にこそ改心はもたらされるのです。ほとんどの教会員は,反モルモンの専門家のもっともらしい主張をただ無視する方が賢明でしょう。

恵みのみにより救いは得られるという誤った主張や,その他あらゆる反モルモンの文献の主張があなたを悩ませるなら,答えを探してください。答えは聖典の中にあります。救いは,真の救いの計画のあらゆる諸条件とは関係なく,口先で主に罪を告白するだけで得ることはできないということを聖書から学び取ることができない人に,救いを受ける資格はありません。

また,狂信的宗教についてですが,これは地獄の入り口です。例えば多妻結婚などの狂信的な慣習を実践している教会員は姦淫を行っているのであって,呪われます。この慣習を布教しようとする人がよく使う手法は,亡くなった預言者の教えを生ける預言者の教えに対抗させる方法です。生ける預言者よりも亡くなった預言者に従う人は,命ではなく死へと導かれるでしょう。もう一度申し上げますが,もっともらしい狂信者の全ての考えには答えがあります。これらの誤ったみじめな考えに毒されている人は真理を見いだした方がよいでしょう。そうでなければ,その人の救いは危険にさらされます。安全で賢明な道とは,そもそもこのような事柄にかかわらないことです。

10.秘密の教義は存在しない

教会のあらゆる教義と慣習は,公に教えられます。秘密の教義や秘められた慣習,一握りの人にのみ認められている行動規範などは存在しません。福音の祝福はあらゆる人のためのものです。中央幹部は他の人の知らない教義を信じている,あるいは公にされていない生活様式に従っているなどという偽りを信じ込むことのないようにしてください。教会で教えられ,実践されていることは全て公にされています。神殿儀式についても,少なくとも個人のふさわしさにより主の宮に入る資格のある全ての人に公開されており,知らされています。

11.偏見に捕らわれない

教義は主のものです。主は教義を定め,啓示をお与えになり,わたしたちに受け入れるよう期待しておられます。質問を投げかける人の多くは,事実が何であるかよりも,既に決めつけている見解を裏付けることに関心があります。わたしたちにとって大切なのは,真理を見いだし,真理に忠実であることです。教義の内容ではなく,教義を知ることに関心を向けるべきです。誤った教義を支持し擁護したからといって,それを真実にすることはできません。わたしたちにとって重要なのは,真理を知ることであって,愚かにも傾倒してしまった主張を立証することではありません。

12.学ぶ責任は各人にある

ここで,わたしたちの永遠の救いについて関連のある大切な事実について結論を出しておきたいと思います。それは各人が自分で福音の教えを学ばなければならないということです。他の人が代わってそれをすることはできません。福音の学識に関しては誰もが自分の努力によって修めるのです。あらゆる人は同じ聖文を手に入れることができ,同じ聖なる御霊の導きを受ける資格を持っています。高価な真珠を手に入れるには神が定められた代価を一人一人が支払わなければなりません。

真理を学び,その標準に従って生活することも同じ原則によって支配されています。誰かのために代わりに悔い改めることはできませんし,誰かの立場でその人に代わって戒めを守ることは誰にもできません。また誰かの名前の下で救いを得ることはできません。誰にも自分以外の他人のために証を得,永遠の栄光に向かって光と真理の中を歩むことはできません。真理の知識並びに真の原則に従う人々にもたらされる祝福は,ともに個人的な事柄なのです。公平な神は,同じ律法に従って生活する全ての人に同じ救いを与えようとしておられるように,真理を求めるために代価を支払う全ての人に対して永遠の真理に関する同じ理解を与えようとしておられます。

福音の知識を得るために教会が定めている手順は次のとおりです。

  1. 人にはそれぞれ自分の努力によって真理の知識を得る責任があります。

  2. 次に,家族は自分の家族を教えなければなりません。両親は子供たちを光と真理の中で育てるようにと命じられています。末日聖徒の生活の中で,教育の中心となる場所は家庭でなければなりません。

  3. サービス機関として教会は,家族と個人を助けるために,教える機会と学ぶ機会を数多く用意しています。わたしたちは「互いに王国の教義を教え合」うように命じられています(教義と聖約88:77)。それは聖餐会,大会,その他の集会において,ホームティーチャーによって,神権会と補助組織の集会において,セミナリーとインスティテュートを通して,教会教育システムを通して実施されています。

学ぶ機会は無限にあります。適切な質問については,その目的で提供されているあらゆるクラスや学校で話し合うとよいでしょう。

終わりにふさわしい言葉を一言申し上げます。真理を知る喜びと肩を並べる喜びはこの世にほとんどありません。忠実な人々は,自分の証にどれほど喜びを感じることでしょう。福音を学ぶ人に新たな真理が明らかにされるときに,どれほど高揚感と平安が心にもたらされることでしょう。そのたびにその人の視野は広がり,預言者の言葉への理解が深まるのです。そして霊は,偉大な原則に関する啓示の教えの意味を学び,感じ取ります。

これまで語った言葉は,皆さんに役立てていただくために記したものです。真理を求める人に福音の学習を勧め,賢明かつ適切な道へと導く目的で記しました。

わたしたちが皆福音を学び,福音に従って生活し,わたしたちが僕として仕える主の永続する王国でいつの日か受け継ぎを得ることができるようお祈りします。

主が常に皆さんを祝福してくださるようお祈りします。

敬具

〔署名〕

ブルース・ R・マッコンキー