人々が御霊に導かれるよう助ける
ブリガム・ヤング大学で行われた教義と聖約・教会歴史に関するシンポジウムでの,宗教教育者への説教からの抜粋,1998年 8月11日,1-5,8,10-12
わたしが青少年の教師であるなら,彼らに次の原則に従うように決意させるでしょう。それは「わたしは,自分が聞くこと,見ること,感じることから学ぶように探し求めます。学んだことを書き留め,それらを実行します」という原則です。
この,「聞く」「見る」「感じる」という,神から答えを受けるための3つの方法について,一つ一つその使い方を説明するとよいでしょう。この3つの方法を通して学ぼうとする全ての生徒は,生活の中で霊感による導きを受けることでしょう。 ……
生徒が御霊に導かれるにふさわしくなり,導きを受けたときに気づき,書き留め,それに従えるように助けるための方法を幾つか提案しましょう。
皆さんが教える生徒たちは,様々な困難や誘惑に影響を受けやすい世の中に住んでいます。御霊の助けなくして,罪を犯さずにこの世を生き延びるのは難しいと,わたしは確信しています。誤った選びをすれば,罪に縛られてしまいます。 ……
皆さんが適切な教義を教え,主が御霊を通して御心をお伝えになる方法を説明しようとするなら,生徒は御霊によって導かれる経験をするでしょう。生徒は,主がどのような原則に基づいて御心をお伝えになるかを学び,それらの原則を応用するなら,人生にあって正しい選びができるでしょう。
教師は生徒に対して一方的に助言を与えるだけで,互いに意見を交わすことがほとんど,あるいはまったくないことが,世の中では横行しています。また,戒めや規則,標準が与えられている理由について何の説明もないこともよくあります。世の中では大抵,聴覚,視覚,触覚,嗅覚,味覚の五感に基づいて教えます。
皆さんがクラスで教えるときには,御霊の力によって教えることができます。皆さんは,生徒が常時話し合いに参加できるように励ますことにより,彼らが生活の中に聖霊の導きを受けられるようにする機会があります。
これを行うための皆さんの能力は,聖霊から受ける導きによって高められます。
生徒との関係において,彼らが御霊の導きに気づき,従えるように助けることさえ達成できたら,皆さんは彼らの人生にとって計り知れない,永遠の祝福を与えることができるでしょう。これを行うためには,何をどのように語るべきかを知るために常に御霊の導きを求めなければならないことが分かるでしょう。
主の器として教会の貴い若人に教え,証する業に仕え始めた皆さんは,重要な教訓を学ぶでしょう。それは,さらに経験を重ねた教師によって長年にわたって確認されてきた事柄です。皆さんが教える際,気の利いた小道具や流行,物やお菓子で生徒の気を引こうと考えてはなりません。そのようなことをしても,個人の成長を永続的に促す動機付けにはなりませんし,長く続く有益な結果をもたらすこともありません。簡潔に言うなら,真実の愛と信頼によって真理を伝えることこそ,聖霊の証によって確認を受けるための条件なのです。
皆さんの促しに従って,生徒たちが手を挙げて質問に答えるとき,彼らは学ぶ意欲があることを聖霊に示しているのです。皆さんと生徒がともに過ごす間,選択の自由をそのように用いるとき,生徒たちは御霊によって動機づけられ,さらに力強い導きを与えられるでしょう。生徒たちはレッスンに参加することにより,御霊によって導かれる経験をすることができます。生徒たちは御霊の導きがどのようなものかを認識し,感じられるようになります。促しを感じ,それを記録し,それに従って行動するという過程を繰り返すことによって,五感によって受けることよりも,御霊の導きに頼ることができるようになります。
では,これから皆さんと分かち合う事柄の基となる教義をお伝えしたいと思います。生徒を教えるうえで役立つこともあるでしょう。
救い主は言われました。「……聖霊によって,わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう。」(教義と聖約8:2,強調付加)
わたしが教師であるなら,思いに告げられる印象は非常に具体的であることを,生徒たちに説明するでしょう。
詳細に説明する言葉が聞こえたり感じられたりします。また,あたかも口述筆記するかのように啓示された教えを書き留めることもできます。
心に告げられる内容は,もっと大まかな印象として与えられます。主はよく,最初に印象をお与えになります。人がその大切さに気づき,それに従うとき,より詳細な指示が思いに与えられます。心に感じた印象に従うなら,より詳細な指示が思いに与えられて,強化されるのです。 ……
…… 聖文から学ぶ様々な方法について話し合いましょう。
一つは,特定の聖句の意味について読み,深く考え,祈る方法です。もう一つは,関連する聖句を分析し,結びつける方法です。それから,別々の紙にこれらの関連聖句に含まれている真理を表す原則を書き出します。この二つのことを注意深く,一貫して行うなら,聖文を調べるとき,霊感によって教えを受けることができるでしょう。 ……
聖文から,真理の金塊を取り出し,原則一つ一つを別々の紙に書き出していくのです。
原則を文章にして書き出すことを次の文章で始めてみましょう。聖霊によってさらに力強く導かれるために,わたしは次のことをしなければなりません-
では,具体的に聖句を挙げて,上の文章にどのように付け足せるかを見てみましょう。エノスの経験を使ってみましょう。非常に学ぶことの多い,すばらしい章から幾つかの聖句を読み,エノスが受けた二つの貴重な指示に注目して,聖霊から真理を学ぶ助けを得る方法を学びましょう。
「見よ,わたしは森で獣を狩ろうとして出かけた。かつてわたしは,父が永遠の命と聖徒たちの喜びについて語るのを度々聞いていたのだが,その父の言葉が,そのときになってわたしの心に深くしみ込んできた。」(エノス1:3)
心に一般的な印象を受けたエノスは,賢明にも,すぐに,力強くそれに応じました。
「わたしの霊は飢えを感じた。それで,わたしは造り主の前にひざまずき,自分自身のために熱烈な祈りと懇願をもって造り主に叫び求めた。わたしは一日中造り主に叫び求めた。また夜になっても,声が天に届くように,まだ大きな声を上げていた。」(エノス1:4)
実際に何があったのかは分かりませんが,エノスはずっとひざまずいて祈っていたわけではないようです。皆さんも,緊急な問題があってそれを解決しなければならないときは,祈り,思い巡らし,さらに祈り,決意と決心を定め,それを主に申し上げ,さらに祈って主から導きを受け,感じるという経験をしたことがあるでしょう。エノスに与えられた導きは非常に直接的でした。彼にはそれが必要だったためと,彼が御霊の導きにすぐに従う賢明さを持っていたためです。
「すると,わたしに声が聞こえた。『エノスよ,あなたの罪は赦された。あなたは祝福を受けるであろう。』
わたしエノスは,神は偽りを言われるはずがないので,わたしの罪がすでにぬぐい去られたのを知った。
それでわたしは,『主よ,それはどうしてですか』と尋ねた。」
ここで,貴重な教えが与えられます。
「主はわたしに言われた。『あなたが……キリストを信じているからである。』 ……
さて,この御言葉を聞いたとき,同胞であるニーファイ人の幸いを願う気持ちがわいてきた。」
再び,心の中に主からの霊感が与えられ,エノスはすぐにそれに応えました。
「それでわたしは,彼らのためにわたしの心すべてを神に注ぎ出した。
わたしがこのように心を込めて祈っていると,見よ,再び主の声がわたしの思いに告げて,次のように言われた。」
そしてここで主は再び,貴重な真理を示されます。
「『わたしはあなたの同胞を,わたしの戒めを守る勤勉さに応じて訪れよう。』」(エノス1:5-10;強調付加)
主がエノスに与えられた霊的な答えに関して,「あなたが……キリストを信じているからである」と「わたしはあなたの同胞を,わたしの戒めを守る勤勉さに応じて訪れよう」という二つの真理に注目しました。では,これらの真理を,原則を表す文章として書き出してみましょう。 ……
わたしたちが用いている方法について,もっとよく理解できたでしょうか。救い主の贖いなど,どんな教義であっても,このアプローチ方法を使って教えることができます。聖文を研究し,聖文に共通する概念を結び付けることによって,聖文について深く考えることができ,さらなる霊感と導きを受けるにふさわしくなるのです。 ……
数年前,わたしは地域会長のような責任を受けてメキシコと中央アメリカに行きました。誤った伝統によって,教会員でさえも誤った事柄を行っていることに気づいたわたしは,長い間主に導きを求めて祈りました。わたしが彼らの文化を理解していないと誤解されないように注意しながらも,心から愛する人々が,誤った伝統に気づけるように助けるにはどうしたらよいかを知りたいと思いました。
ある日曜日,わたしのホームワードと同じ建物に集っていたスペイン語支部の集会に出席しました。神権会に出ると,謙遜な,学校教育を受けていないメキシコ人神権指導者が,福音の真理を伝えようと奮闘していました。彼の人生に福音の真理がどれだけ深い影響を与えていたかは明らかでした。わたしは彼がその原則を伝えたいと熱烈に望んでいることに気づきました。彼は自分の愛する兄弟たちにとって,それらの原則がとても価値あるものだと認識していたのです。その指導者の誠実さ,純粋な志,愛のおかげで,部屋中が聖霊の力に包まれていました。
主はその瞬間をお選びになられ,わたしの願いに応えてくださいました。指導者や会員たちが誤った伝統を正すことができるようにどのように助けるべきかについて,はっきりとした導きを受け始めたのです。他の個人的な事柄についても,霊感を受けました。一つ一つの考えが浮かぶたびに,それを注意深く書き留めました。そうする中で,主の僕としてさらに効果的に働くためにとても必要な,大切な真理を授かりました。
受けた導きの内容は祝福師の祝福と同じように神聖であり,個人の益となるために与えられたものですが,わたしはその日に受けた霊感と明らかにされた真理の一部を分かち合います。これは,主の霊感による導きが聖霊を通してどのように与えられるかを示す例です。そして,今まで話してきた教義を誠実に実行するときに,誰でも受けることができるものです。
次のような言葉で,具体的な勧告が与えられ始めました。「あなたは,真実の原則を基として教会を築き続けなければならない。しかしあなたは,愛と感謝をさらに伝えることによって,偉大なレーマンの民を理解し,思いを寄せるように祝福されてきた。」そしてその後に与えられた具体的な導きと指示,そして条件付きの約束によって,わたしの人生はその道筋を大きく変えられたのです。
その出来事の後,わたしの家族が集うワードで日曜学校のクラスに出席しました。そこではとても学識のある大学教授がレッスンをしていました。支部の神権会で味わったすばらしい経験とは顕著な違いがありました。教師は,あまり知られていない参考資料や珍しい事例をわざと選んで,与えられたテーマであるジョセフ・スミスの生涯について教えようとしているように思えました。その教師が,教える機会を利用して自分が持っている偉大な知識を披露しようとしているのがはっきりと見受けられました。いずれにせよ,彼はあの謙遜な神権指導者のように熱意を込めて原則を伝えようとしているようには見えませんでした。
そのような状況の中で,わたしの心に再びはっきりとした考えが浮かび始めました。わたしの思いに直接与えられた指示を,書き留め始めました。その中には,このような文で始まるメッセージがありました。「人々が完全に従順になれるように指示を与え,高め,導くために教え,証しなさい。自分が持っているものをひけらかすためではない。高ぶる者は全て断ち切られる。」
次のような言葉もありました。「あなた自身は何者でもないのだ,リチャード。」それに続いて,主の御手に使われるものとしてさらに効果的に働くための具体的な方法も提示されました。その後でまた次のように言われました。「従順,自制,信仰の力によって自分をふさわしくすることだ。」そして続けて,これらに従うことによって与えられる約束が告げられました。
このとき,個人的な考えがとめどなく浮かんでくるので,わたしは日曜学校の最中にそれを記録するのは適切ではないと感じました。そこで独りになれる場所で,次から次へと頭に浮かんでくる思いを,できるだけ正確に書き留め続けました。一つ一つの非常に印象深い思いを書き留めた後,それについて思い巡らし,それを正確に書き表せたかを確認しました。その後わたしは祈り,御霊から教わったと思うことを主に確認しました。穏やかな気持ちを感じたので,自分が記録したことがふさわしかったことが確認できました。まだ他にも受けるべきことがあるかどうか尋ねるように促されました。するとさらに他の考えが浮かんだので,それを書き留めて熟考し,確認の祈りをささげる手順をまた繰り返しました。そして,最後には,誰もがこの世で得たいと願う,最も貴くて具体的で,個人的な指示を得ていました。
これは,単発的な経験ではありません。これまで述べてきた原則に従う,誠実で義にかなった人々は,主からそのような導きを享受するでしょう。どうぞ皆さんの生徒がこれらの原則を理解できるように助けてください。御霊の導きが確かにあることを皆さんが証することにより,生徒がこれらの原則を理解し,証を受けることができますように。そして,そのような導きを求めようという気持ちになりますように。よく祈りながら,肉体的な五感と同じように御霊の導きが本当にあることを理解できるように助けてください。主がわたしたちを導こうとお決めになられたときや,差し迫った祈りに対する答えとして思いが与えられるとき,最初に浮かぶ促しに気づいてそれを記録したり,実行したりしないために,御霊が与える,最も貴くて個人的な指示を受けそびれることがあります。そのことを,生徒たちに強調して伝えてください。
この神聖な経験は,教義と聖約の中でよく知られている指示がどのような意味を持つかを説明しています。
「真理の御霊によって御言葉を受ける者は,真理の御霊によって宣べられるままにそれを受ける〔。〕
…… 説く者と受ける者が互いに理解し合い,両者ともに教化されて,ともに喜ぶのである。」(教義と聖約50:21-22;強調付加)
わたしは,この「教化される」という言葉は,わたしたちが主の導きを求めて努力するとき,主が真理に対する理解を個人に合わせて授け,個々の必要を満たしてくださることを意味すると考えています。支部の神権会において,わたしは御霊によって導かれた教師が教えた原則を理解しました。それが真実であるという証を得ました。しかし,それだけでなく,わたしは教化されました。教師から教えを受けたメッセージは,聖霊によって与えられた神聖な印象によって,さらに力強く,大きく広がり,わたしに益を与えてくれました。メキシコ人の神権指導者が示した謙遜さは,神の御手に使われるものとして真理を御霊によって伝えるのに必要な条件だったのです。
謙遜さという特質を持つと,御霊を通して高い所から教えを受けることができます。あるいは,もともとは主からの霊感によって与えられた聖文や預言者の言葉などから教えを受けることができます。謙遜さという貴い,肥沃な土壌において,義にかなった人格が育ちます。その中で,個人的な成長の種が発芽するのです。信仰の実践によって耕され,悔い改めによって刈り込まれ,従順さと善い行いによって強められるとき,個人的な成長という種から霊的な導きという貴重な実がなるのです。
謙遜であることの重要性は,教義と聖約の 第1章28節 に書かれています。「謙遜であれば,強くされ,高い所から祝福を受け,また折々知識を与えられるようにするためである。」(強調付加)
生徒たちに,ある人々が語るように御霊を「呼び寄せる」ことなどできないことを教えてください。わたしたちにできるのは,聖霊から教えを受けるにふさわしい環境を作ることです。強制によって霊的なメッセージを受けることはできません。主がわたしたちに導きを授けようとお定めになるときに主の導きと指示を受けられるように,わたしたちは自らをふさわしく整え,備えなければなりません。わたしたちが自分の時間表ではいかに緊急だと考えていようとも,主はその御心に応じて応えてくださるのです。
御霊に導かれるためには神の戒めに従順である必要があること皆さんが強調するなら,青少年は,なぜサタンが戒めに従わないように誘惑してくるかを理解するでしょう。比較的小さな違いだと思われる事柄も,御霊に導かれる能力に重大に影響を与えるようになります。皆さんがさらに説明を加え,模範を示すことによって,生徒たちは人生で重要な決断をする際,御霊を通して主に導かれるにふさわしくあるために,義にかなった状態でいようという決意を固めることができるようになるのです。