偽善売教の危険
教会教育システム2002年度カンファレンス-教義と聖約,教会歴史2002年(2002年8月12日)
今日,わたしは安全に関する訓練に焦点を当てたいと思います。
伝道に出る前にわたしは,工場で農機具の溶接をしていました。そこでわたしは,工場内や機械周辺での安全について学びました。そこには守るべき明確な安全基準と実践事項が定められていました。そして,その中には,どのような種類の靴を履かなければならないかということまで定められていました。
わたしは,幾つかの鉱山を訪問したことがあります。興味深いことに,そこでは訪問者に対しても,安全に関する指導がなされます。そして,備えつけの安全器具を装着して,鉱山に入るのです。今日,鉱山には空気の状態を監視する設備があり,問題があれば警報を発し,ただちに坑夫たちを外に退避させることができます。このような監視システムが開発される前に,坑夫たちはカナリヤを連れて坑道に入りました。カナリヤは有毒なガスに敏感なため,坑夫たちよりも先に窒息してしまいます。カナリヤの息が絶えてしまうと,彼らはそこから退避しなければいけないことに気づくのです。それは初期の警告システムの一つでした。
製造業や鉱業,その他の産業における安全教育の目的は,危険な状況や事故の発生を減らし,人の命を救うことです。わたしは,教会での教育が,少なくとも肉体的に危険な仕事だと考えたことはありません。しかしながら,わたしたちは霊的な危険にさらされています。
ジェフリー・ R・ホランド長老が教育コミッショナーを務めていたときに,あるメッセージを伝えています。その中で長老は,会社の雇用主が従業員の安全を気遣うことについて述べています。
「わたしたちの仕事には,それを危険と呼ぶことができるのであれば,他に類を見ない危険が存在しています。それについて,わたしたちの雇い主は愛にあふれた関心を示しておられます。いささか長々と話すことになりますが,これは,皆さんの信仰が不足しているからだとか,皆さんを信頼していないと考えているからではありません。これからお話しすることは,火薬の貯蔵庫に付ける目印のようなものです。この印は危険のある場所には常に付けられていて,わたしたちの注意を喚起しています。わたしは,このような目印は,常に付けられていなければならないと思っています。」(“Pit falls and Powder Sheds,” The Growing Edge, 1978年11月1日)
わたしたちは職業上の危険に直面しています。わたしたちの職業に限定されない危険も存在しますが,わたしたちの雇用に影響を与える危険があります。例えば,当面,金融債務が不履行の状態であれば,教会教育システムにおいて職を失うことになります。
今日,多くの離婚や夫婦間の問題が世の中で見られます。ほとんどの職業において,従業員の結婚生活,家庭生活の問題は,仕事には関係ありません。しかし,クラスで良き模範を示す必要があるため,教会教育システムにおいては,大いに関係があるのです。
生徒との適切な関係を維持できなくなることもまた,別の危険です。注意を怠り,勧告に従わなかったために,毎年多くの人たちが失われています。何度も繰り返し話されているため,これ以上時間を取りませんが,重ねて申し上げます。生徒とのかかわり方には十分注意してください。
わたしたちが抱えるもう一つのチャレンジは,教義の純粋さです。このチャレンジからもたらされる危険について,ホランド長老は次のように話しています。
「兄弟姉妹の皆さん,自分を抑え,注意深くあってください。あらゆることについて教会の教義に忠実であってください。お気づきの方もおられると思いますが,これこそ,この偉大な業におけるわたしたちの雇用者である,中央幹部が抱えている大きな懸念なのです。彼らは教師全員をまた一人一人を愛し,助け,信頼しています。その一方で,クラスにおいて,教義や教会の歴史に関する不適切な立場が表明され,それに対し不安感を持つ会員がいるとすれば,それを見逃すことはありません。このように絶え間なく続く危険を鑑みて,皆さんに警告を与え,注意を喚起したいと思います。 ……
この的を射た自制を促す言葉を考慮すると,わたしたちが教えることは,預言者や聖典と調和したものでなければなりません。わたしたちは,奇抜で刺激的な,自分勝手な教義を教えるために召されているのではありません。教える際にわたしたちは,最も基本的な贖いの教義を最大限,効果的にまた確実に伝えるようにしなければなりません。……生涯をかけて学び続けてください,そして注意深くあってください。レッスン中の指導は,中央幹部が規定した範囲にとどめてください。注意深く耳を傾け,幹部が総大会で教えるために選んだことと,彼らが聖任された人たちであることを理解してください。」(“Pitfalls,” 1)
わたしたちが直面しているもう一つの憂慮すべきことがあります。現在,自宅のコンピューターでセミナリー,インスティテュートや,管理者のインターネットサイトにアクセスすることができます。兄弟,姉妹の皆さん,扉はすでに開かれており,わたしたちは注意深くある必要があります。教会教育システムだけでなく,教会は,教会の機器を用いてのポルノグラフィーとインターネットの不適切な利用に対しては,一切許容しません。一日で職を失う恐れがあります。そのようなことが起こることを目にしたくありません。この問題がいかに重要かを理解するよう望んでいます。現在利用されているフィルタリングシステムは,すべての教会教育システムの所有するコンピューターからアクセスした全サイトを含むレポートを作成することができます。十分な注意を払うように望んでいます。将来,もし個人的な依存症やポルノグラフィーを繰り返し視聴した兆候が現れたとすると,その中に教会教育システムの設備が含まれているかどうかを問わず,職を失うことになるでしょう。この深刻な疫病は世界中に蔓延していますが,わたしたちの間でそれを許すことはできません。貴重な若人を教える際には,御霊を伴っていなければなりません。預言者たちは,この悪について警告を与えてきました。そしてわたしたちは,この領域において清さの模範にならなければなりません。
偽善売教の危険
わたしたちのような職種に特有と思われる危険は,他にもたくさんありますが,その中の一つに絞ってお話ししたいと思います。それは,偽善売教という危険です。これまでこの件についてどれくらい訓練を受けてきたかは分かりませんが,あまり取り上げられていないのではないでしょうか。わたしたちのように福音を教えることにより報酬を得ている人間が陥りやすい,偽善売教という危険があります。我々がその危険に気づいていれば,よりたやすく回避することができます。
偽善売教とは何でしょうか。ニーファイは簡潔かつ有益な定義を提供しています:
「主なる神は,偽善売教はあってはならないと命じられる。見よ,偽善売教とは,利益と世の誉れを得るために,説教をして自分自身を世の光とすることであって,シオンの幸いを求めることではない。」(2ニーファイ26:29)
ニーファイは,彼らが「利益」と「誉れ」を得るために「自分自身を世の光と」し,「シオンの幸いを求めること」をしなかった,と説明しています。モルモン書に見られるように,自身の教会を設立したり,反キリスト者になったりすることを含め,偽善売教には,様々な兆候が認められますが,ここでは,我々教会教育システムの教師が陥りやすい兆候に絞りたいと思います。恐らく,ニーホルやコリホルよりもはるかに微妙なものですが,それでも,ニーファイによって示された定義に合致しています。このようなことが起こると仕事や,生徒,そして教師自身に影響を及ぼすのです。
利益を求める
ニーファイの定義によると,自分自身を世の光とすることが,偽善売教という問題の中心にあるように思われます。自分自身を世の光とする理由には,利益と誉れを得ることが含まれます。個々の問題を少し詳細に見ていくことにしましょう。数年前にある男性と話をする機会がありました。彼の兄弟は数年間,教会教育システムで教べんを執った後,辞職しました。福音を教えることによってお金を得るということに,どうしても納得できなかったのです。この男性は,その点について,わたしがどのように折り合いをつけているのか尋ねました。大変良い質問です。わたしたちは,どのように折り合いをつけているのでしょうか。ほとんどの人がこの問題について深く考えたことがあるでしょう。恐らく教会教育システムに雇用される前から考え始め,現時点に至るまで,幾度となく考えたことがあるのではないかと思います。
スペンサー・ W・キンボール長老が十二使徒定員会の一員だったときに,この件に関する最もすばらしい説明を聞きました。
「わたしは,お金で雇われた人に若人を教えてもらいたくありません。皆さんの中で,仕事として報酬のためだけに,このプログラムで教えている人がいるのであれば,その方には,他の分野の仕事に就いていただくよう希望します。しかし,給与はあくまで二の次で,わたしたちの子供たちの成長に対して壮大かつ崇高な望みを抱いている方には,わたしの愛する子供たちの住むニューヨーク州,ミシガン州,ウィスコンシン州,ユタ州で教えていただきたいと思います。」(“What I Hope You Will Teach My Grandchildren and All Others of the Youth of Zion,” address to religious educators, Brigham Young University, 1966年7月11日,8)
これが,わたしたちにとって偉大な鍵の言葉なのです。わたしたちの思いはどこにあるのでしょうか。もしも,シオンの幸いと若人のためを思っているのであれば,大丈夫です。
より高い報酬を得たいという望みは,通常の勤務や給与に現れることがあります。また書物の出版やより高い教育を求めるといった職務外の関心という形で現れる可能性があります。ここで一つ質問をしてみましょう。教会教育システムで給与を得ている人は,偽善売教に関係していないと断定できるのでしょうか。はい,確かにできます。書物を出版したり,より高い教育を受けるために収入を求めたり,その他の機会を通して収入を得ている人が,偽善売教に関係しないことは可能ですか。はい,可能です。これは,わたしたちの心の問題なのです。何が動機かということです。この分野の問題については,キンボール大管長が話した言葉が鍵となります。わたしたちがお金に捕らわれていると心が曇り,誤った決断をすることになるのです。
世の誉れ
収入を得ることの他に,ニーファイは人々が世の誉れのために,自分自身を世の光とすることがあることを指摘しています。誉れを得るために,彼らは自らを世の光とするようになるかもしれません。人々は彼らを光と見なすと,彼らが望むとおりに進んで誉めたたえるようになり,彼らの誉れに対する欲求はさらに増していきます。そしてこの循環は続いていきます。これは危険な状態につながります。自分を光と見せるために,教義を変え,教えるべきではないことを教えるようになり,用いるべきでない教授法を用いるようになるからです。
1987年,十二使徒評議会のマービン・ J・アシュトン長老は,次のように語りました。
「注意してください。人々から誉め言葉をかけられるとき,気を配り,賢明であってください。人々から大きな尊敬の念を持たれるときにこそ,注意深く気を配り,賢明であってください。人々の注目を浴び,高く評価され,認められていることが大きな試練になる可能性があります。特に自分に対する言葉を信じ込んでしまうときにその危険が高いのです。 ……
世の誉れが大きな試練になり得ることがあります。『彼は成功するまではすばらしかったが,それから,うまくいかなくなったね。』このような言葉をここ数年,幾度となく耳にしてきました。わたしは,地位やお金のことではなく,教会の責任であっても,評価されることの裏に潜む危険性について,取り上げているのです。……
誉れや,成功,またたとえ自らが設定した目標を達成したというようなものによっても,自分自身を失うことのないように祈ります。」(“Carry Your Cross,” Brigham Young University 1986–87 Devotional and Fireside Speeches〔1987年〕,141)
皆さんは,生徒や両親,神権指導者や同僚の教師,そして時には教会の幹部からの誉れや,いささか誇大な賞賛がもたらされる仕事に従事しています。しかし,アシュトン長老が話しているように,わたしたちは,注意深く気を配り,賢くある必要があります。
1952年にステーク会長とビショップに宛てられた大管長会の手紙には,注目されることが新会員に与える良くない影響について言及されています。「度を超した注目と誉め言葉により,しばしば新会員の信仰と昇栄へと導く業に従事する意欲が鈍くなる傾向があります。」(1952年6月30日,4)
この原則は,新会員だけではなく,過度な注目と賞賛を得た人間すべてに対して当てはまると思います。わたしたちは,努力する中で,多くの賞賛と誉れを得ることができますが,それが目標になってしまったり,酔いしれるようになったりすると,自分自身を世の光とするようになるのです。
中央幹部の言葉
中央幹部は,長年にわたり,自分たちを世の光とすることの危険について話をしてきました。その幾つかを見てみましょう。1992年,ダリン・H・オークス長老はこのように話しています。
「強さのゆえに堕落する可能性があるのが,カリスマ的な教師です。鍛えられた知性と見事な指導技術により,教師は絶大な人気を得て,効果的に教えることができるようになります。しかしサタンはその強みを使って,自分に従う弟子たちを集めさせることによって,その教師を没落させようとします。自分に従う人々を集めようとする教会の教師,教会教育システムの教師や教会経営の大学の教授が,『富と誉れを得ようとして』偽善売教の罪を犯すのです(アルマ1:16)。
『偽善売教とは,利益と世の誉れを得るために,説教をして自分自身を世の光とすることであって,シオンの幸いを求めることではない。』(2ニーファイ26:29)
最も人気のある教師,すなわち最も効果的な教師が,特に偽善売教に陥る危険性を持っています。彼らが注意しなければ,その長所が霊的没落につながることがあります。例えば教義と聖約の中で,主が喜ばれなかったアルモン・バビットのようになるのです。
『見よ,彼はわたしが定めた助言,すなわちわたしの教会の大管長会の助言の代わりに,自分の助言を確立しようと切望している。彼はわたしの民が礼拝するために一つの金の子牛を掲げている。』(教義と聖約124:84)」(“Our Strengths Can Become Our Downfall,” Brigham Young University 1991–92 Devotional and Fireside Speeches〔1992年〕,111)
1989年にアッセンブリー・ホールで行われた中央幹部との夕べにおいて,当時,十二使徒定員会会長であったハワード・ W・ハンター大管長は次のように語りました。
「皆さんに警告の言葉をお伝えします。教師の影響力や説得力が非常に大きいために,生徒たちが福音よりはむしろ,教師に従ってしまうという潜在的な危険性の大きさを,皆さんが認識していると確信しています。このような問題に直面するとはすばらしいことです。わたしたちが皆,人を引き付けてやまないカリスマ性のある教師であれば,確かに実にすばらしいことです。しかし,真の危険はここに存在しているのです。ですから,生徒たちに聖典の解釈や説明を提示するだけでなく,聖典そのものを学習することを勧め,御霊によって得られた個人的な証を伝えるだけでなく,主の御霊そのものを感じるように勧めなければならないのです。言葉巧みに教義を教える人間のもとに導くのではなく,最終的には,生徒たちを直接キリストのもとに導かなければなりません。教師は常に生徒たちの手の届くところにいる訳ではありません。彼らが高校や大学を卒業してからも,彼らの手を取って導くことはできないのです。 ……
…… 生徒たちが,主と回復された主の教会の教義と聖典に,忠実に従えるようにしてください。彼らの目を父なる神と彼の最愛の独り子であるイエス・キリストと真実の教会の指導者たちの方に向けさせてください。教師の個人的な魅力や,授業やレッスンのカリスマ的な雰囲気が消えたとしても,生徒たちが丸腰でこの世と対峙しなくてもよいようにしてください。自立に迫られたときに彼らを支えてくれる賜物を与えてください。このように指導するときに,後に続く世代によって教会全体が祝福されるのです。
〔御霊とともに教える〕ことについて,警告の言葉をお伝えします。毎日授業を行う専門の教師としての注意を怠ると,不適切かつ作為的な方法により,御霊の影響力を偽造しようとする可能性が出てくることがあります。特に,激しい感情や,とめどなくあふれる涙を,御霊があるときの状況と等しく扱うことについて憂慮しています。確かに主の御霊は,涙を伴う強い感情をもたらすことがありますが,外面的な現れを御霊の存在そのものと混同してはいけません。」(Eternal Investments, address to religious educators, 1989年2月10日,2-3)
先週金曜日に行われた中央幹部との夕べの中で,ロバート・ D・ヘイルズ長老がお話をされました。次の言葉が皆さんの記憶に残っていることでしょう。
「セミナリーやインスティテュートを教える教師一人一人は,天使になりたいという望みを心に持っていることと思います。これ自体は良いことなのですが,ハーメルンの笛吹きのように振る舞って生徒たちを自分の周囲に集め,愛することにより彼らに証を得させようという誘惑にかられたり,生徒たちの人気を集めることができれば,生徒たちの模範になり,彼らの生活を変えることにつながると感じたりするようになります。
改宗者が主ではなく宣教師に改宗するのと同じように,生徒が教師に対して個人的な愛や関心を向けることほど危険な状況はありません。もし教師または宣教師がいなくなる,あるいは福音の教えと反する振る舞いがあると,生徒は打ちのめされてしまいます。証は揺らぎ,信仰は跡かたもなく失われてしまうでしょう。真に偉大な教師は,生徒たちを注意深く主の方にいざなうのです。
ひとたび若人の生活に触れたならば,祈りと学習,そして福音の原則を生活に当てはめることを通して,彼らを父なる神と贖い主,救い主であるイエスキリストの方に向けるようにしなければなりません。」(Teaching by Faith, address to religious educators, 2007年2月1日,7)
1997年4月の総大会において,ヘンリー・ B・アイリング長老は次のように話しています。「与えられた警告が主からのものかどうかを知る一つの方法は,証人,それも権威ある証人の律法にかなっているかどうかを考えることです。預言者の言葉が,あることを繰り返し述べていると思われるとき,その事実はわたしたちの心に深く刻まれるとともにそのような祝福された時代に生を受けていることへの感謝の気持ちが胸に満ちるのです。」(『聖徒の道』1997年7月号,28)
しるしに気づく
偽善売教に気づき,そして避けるうえでの一つの課題は,それが心の問題であるということです。それは,高慢のようなものです。事実,高慢こそが,この問題の根にあるものです。もし,工場で事故が発生すれば,通常,血痕や精神的動揺など目に見える兆候があります。事故が発生したことは,多くの人にとってすぐに分かります。しかし,心の傷はそのようにはいきません。わたしたちは,霊的な問題を認識するために,より敏感になる必要があります。
これらの兆候は,昔,鉱山にカナリヤを連れて行ったことに少し似ています。坑道で働いていると仮定しましょう。カナリヤがぐったりとなっているのを見たとき,二つの対処方法があります。一つは,すぐにその場から離れることです。もう一つは,カナリヤがインフルエンザにかかったのだろうと考えることです。2番目の選択は,坑夫にとっては致命的な失敗です。わたしたちの職業においても,同じような対処方法を取ることは危険を伴うことでしょう。
以下の兆候について考え,わたしたち自身の行いや,クラスで何が起こっているのかを振り返ることは有益に思われます。これらは,兆候であって最終的な結果ではありません。しかし,カナリヤはインフルエンザにかかるよりもはるかに深刻な状態である可能性があります。
自分の話やレッスンに対する他人からの賞賛によって自尊心を感じることは,自分に従う人を集めるという行為の一つの兆候です。先ほど述べましたように,これは危険な状態です。レッスンを評価する試金石が人々からの賞賛になってきており,より多くの賞賛を得るために,何をどのように教えるかについて,妥協する可能性があるからです。
教会教育システムが自分の担当を変えることにより,大きな穴が開いてしまうと感じることは,もう一つの兆候です。たとえそれが本当のことであったとしても,悩むのはそのような変更を決定した責任者に任せておく方がよいでしょう。本当に必要不可欠な人間であるならば,すでに教会教育システムはそのことを知っているはずです。
生徒たちが,特定の教師からでないとセミナリーやインスティテュートを受講することを拒むところまで来てしまうかもしれません。
ある教師のクラスの生徒数が他のクラスの生徒数と著しく異なることがあります。同じ建物の中で生徒の数を競うことに焦点が置かれることさえ起こることがあります。
ある一人の教師が,地域の他の教師たちの支持を受けている場合もあります。さらに会員たちは担当の指導者よりも,その教師をより強く支持するかもしれません。
通常よりもはるかに多い機会に,話したり教えたりするように依頼されるかもしれません。
自分に従う人を集めることについて,他にも考えたい兆候が存在すると思います。
ここで,知識や学問の領域において,自分自身を世の光とすることの兆候を考えてみましょう。
自分はどの教科課程よりも,またほかのどの教師よりも,深い教義をより純粋かつ平易に教えていると感じている人がいるのではないかと思います。
通常他の教師が目にすることのない特別の教材を持っているかもしれません,また他の教師よりも上手に教えることができると感じさせるような特別な教案があるかもしれません。
もしわたしたちが,教会や教会教育システムがある特定の教義を十分に強調していない,または正しく理解していないと感じるとしたら,どうなるでしょうか。実際に,ある少数の人たちが,中央幹部は特定の教義について明確に理解していないと感じていたことがありました。ここまで来ると,カナリヤはすでに止まり木から落ち,息絶えてしまっているのです。
自分の大好きな福音の原則があり,どのコースを教えていような,全てのクラスでそれを教える教師もいます。
すべての質問の答えを知っていなければいけないと感じるかもしれません。生徒からの質問に答えることができないと,気まずい思いをします。
ある特定の中央幹部や教会教育システムの教師たちが純粋な福音を知っているとして,他の幹部や教師たちのことを軽視したり見限ったりすることがあるかもしれません。
教義に関する自分自身の哲学を教えてしまうかもしれません。
両親,神権者,教会教育システムの指導者からレッスンで教えたことについて,質問が出るかもしれません
生徒たちの意見を無理に押しのけ,自分の意見を強引に教えてしまうことがあるかもしれません。
教会教育システムのクラスとは直接関係しませんが,ワードやステークにおいて,自らを福音の専門家と定めることは,もう一つの兆候です。福音の教義クラスで難しい質問が出ると,ほとんどの人が答えを求めてこちらを見ませんか。わずかとはいえども,自分自身を世の光としているのかもしれません。
他の人が自分たちと同じように福音を理解できないように思われるため,いらだちを感じることはありませんか。モルモン書には,「民は,彼らの富と学問の機会の多少に応じて階級に区別され始めた」時代がありました(3ニーファイ6:12)。宗教教育に携わる者として,わたしたちは世界の誰よりも福音を学ぶ大きな機会に恵まれています。わたしたちの職業には,福音を学ぶことと教えることが含まれているのです。同じ機会を持つことのない人たちを上から見下ろすような態度を取ることのないよう注意する必要があります。
現職教師会でのプレゼンテーションが,誰がいちばん詳しく調べていて,誰がいちばん独創的な意見を述べるかという,言葉のない競争になることがあります。
「洞察力依存症候群」が進行していることがあります。これは,クラスに生徒たちが参加するのは,わたしたちが福音に対する真の洞察力を持っているからであると考えることです。ここに潜む一つの危険は,感情的なものであれ,学問的なものであれ,洞察力が最終目標となってしまうことです。洞察力と福音に従って生活することは,必ずしも同じ意味ではありません。
福音のある分野における専門家と呼ばれ,インスティテュートでそれ以外のコースを教える指示に対していらだちを感じるかもしれません。
書物の出版や学問の探求などに没頭するあまり,自身の知識の追求を生徒たちや教える仕事よりも優先するようになるかもしれません。
では,感情的,霊的な意味において,自分自身を世の光とすることの兆候を考えてみましょう。
感情に強く訴える話を探し出してきて,授業に用いるようになったり,自分自身や自分の生活に過度に注目させるような話を用いたりしているかもしれません。
話を誇張したため,真実でない内容があるかもしれません。
御霊が「わたしにこうするように語った」という表現を何気なく使い過ぎているかもしれません。あるいは,ハンター大管長が言及しているように,自分の感情をねじ曲げて,それを御霊だと言っているかもしれません。
生徒たちの個人的な相談ごとに深くかかわり過ぎているかもしれません。
結果
我々の組織に偽善売教が存在する場合,どのような結果になるでしょうか。教える際に力がなくなるということは,大きな危険だと思います。また,教え方に力強さがあったとしても,それは神の力ではありません(教義と聖約50:13-23参照)。感情に訴える力はあるでしょう。学術的な力もあると思います。しかし,生徒たちの生活に必要な永続的な変化を生じさせる助けにはならないのです。ご存じのように,中央幹部は,生徒たちが生活の中で正しいことを行えるよう,教師に聖典と福音の知識を詳しく調べるように依頼しています。
偽善売教に陥ると,誤ったメッセージを伝える可能性があります。生徒たちは,個人と福音の教義との間に生じる真のつながりを得るのではなく,教師たちを崇拝するようになるかもしれません。これでは,子供に正直について有無を言わさずに教える父親が税金をごまかしているようなものです。言葉はそこにありますが,力はありません。生徒は,状況を正確には理解していないかもしれませんが,何かがかみ合わないことを感じているのです。そこに存在するはずの御霊がないため,しっくり来ないのです。
教師が,偽善売教に陥らないようにするには,どのようにすれば良いでしょうか。教師は,教義と福音を簡潔に,飾り立てることなく,御霊によって教えることができます。実際に御霊がないときには,教師は依頼されたことを行うことができません。霊的な事柄は,御霊によってしか学ぶことができません。これが,この末日において,生徒たちが福音を生活で実践する唯一の方法なのです。
教師が偽善売教に陥らなければ,生徒たちは彼らを愛します。そして生徒たちは教師に頼ることはしません。教師を愛し,教師の教えに感謝しますが,生徒たちは主を仰ぎ見るでしょう。また,彼らは自分の両親,神権指導者の方を向くでしょう。生徒たちの生活には奇跡が起こり,教師たちはその証人となることができるのです。わたしたちにはできるのです。
偽善売教は,職業上の危険です。影響を受ける可能性がありますが,注意深く謙遜であれば,その影響を回避できるのです。力に満ちあふれたクラスを持つことができます。なぜなら皆さんのようなすばらしい人々がいるからです。教師としてすばらしい姿勢を持ち,熱心に働き,主が非常に多くの人々に影響力を及ぼされることを可能にします。教会教育システムの教師の皆さんに心から感謝しています。
最近,わたしは,教会教育システムの職員の何人かと話をする機会がありました。ある職員からは,管理役員はライフル銃を使うべき状況で散弾銃を使うことがある,といった趣旨のご意見をいただきました。言葉を変えて言えば,問題を抱える数名と直接話をする代わりに,教会教育システムの全員に向けて散弾銃を撃つようなものだ,ということです。あえてわたしが,フルタイムの教会教育システムの職員全員に話をしているということを,ご承知おきください。これはわたしたちすべてに対するメッセージです。わたしに対するメッセージであり,地域管理役員に対するメッセージであり,教会教育シテムのすべての教師に対するメッセージなのです。この話を特に熱心に聴くべき人たちの名前を思い浮かべることは間違いです。誰もがこの職業特有の危険に直面しているのです。
偽善売教は心の問題ですから,個人レベルで戦い,その問題を根絶することが最も良いことです。神権指導者や管理役員が頭を悩ませる前に自制することがより良いことです。この問題は,我々の生活をより注意深く見詰め直させる問題です。勤勉に働いていないと忍び寄ってくる傾向があります。
わたしたちの職業にかかわる危険について振り返る際には,絶えず生徒のことを考えなければなりません。ホランド長老の言葉をもう一度引用します。
「自らのため,そして生徒たちのために注意力を働かせ,控え目に,用心してこの危険を乗り越えてください。火薬の貯蔵庫の壁に今一度目印を付けさせてくださり,感謝します。自らのために,今一度同じことを行うようにしましょう。」(“Pitfalls,” 1)。
最後に
この話の最後に新約聖書から聖句を読みたいと思います。パウロはテサロニケの教会員に対して,自分が彼らにどのように福音を教えたのか思い起こさせました。偽善売教の影響を受けていない教師によるすばらしい模範です。この聖句を読む際には,パウロが何を行い,何を避けたかということに注目していただきたいと思います。
「いったい,わたしたちの宣教は,迷いや汚れた心から出たものでもなく,だましごとでもない。
かえって,わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので,人間に喜ばれるためではなく,わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように,福音を語るのである。
わたしたちは,あなたがたが知っているように,決してへつらいの言葉を用いたこともなく,口実を設けて,むさぼったこともない。それは,神があかしして下さる。
また,わたしたちは,キリストの使徒として重んじられることができたのであるが,あなたがたからにもせよ,ほかの人々からにもせよ,人間からの栄誉を求めることはしなかった。
むしろ,あなたがたの間で,ちょうど母がその子供を育てるように,やさしくふるまった。
このように,あなたがたを慕わしく思っていたので,ただ神の福音ばかりではなく,自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに,あなたがたを愛したのである。
兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち,あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って,日夜はたらきながら,あなたがたに福音を宣べ伝えた。
あなたがたもあかしし,神もあかしして下さるように,わたしたちはあなたがた信者の前で,信心深く,正しく,責められるところがないように,生活をしたのである。
そして,あなたがたも知っているとおり,父がその子に対してするように,あなたがたのひとりびとりに対して,
御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと,勧め,励まし,また,さとしたのである。
これらのことを考えて,わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは,あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に,それを人間の言葉としてではなく,神の言として-事実そのとおりであるが-受けいれてくれたことである。そして,この神の言は,信じるあなたがたのうちに働いているのである。」(1テサロニケ2:3-13)
わたしは福音が真実であることを知っています。わたしたちが非常に重要な業に携わっていることを知っています。わたしたちの生活を聖く保ち,教会の若人に教え,御霊の力により,若人たちが福音の真理に関する証を得られるようにする必要があります。
わたしは,ゴードン・ B・ヒンクレー大管長が預言者であること,そして聖典が神の言葉であることを知っています。聖典や預言者たちの言葉から教えることは,非常に大きな特権です。皆さんたちすばらしい教師のために祈ります。皆さんのすべてに感謝の気持ちをお伝えいたします。皆様の伴侶にも感謝しています。わたしの妻であるジルにも感謝しています。彼女がともにいてくれることを感謝しています。このことをイエス・キリストの御名によって証します,アーメン。