御霊によって教える-「霊感の言葉」
旧約聖書に関するシンポジウムにおける講演1991年,1-6
わたしたちは,一人一人の個性も,経験も文化も言語も関心も,そして必要性も実に様々に異なる環境の中で,生活し,教えています。そして,そのような差異を埋めることができるのは,御霊をおいて他にありません。主は,「御霊の剣,すなわち,神の言」と言っています(エペソ6:17)。御霊は,他に比べるものがないほど,コミュニケーションを深め,心の奥深くに浸透するからです。そのため,聖文と生ける預言者の言葉には,特別な位置付けが行われています。それは,御霊によって教えるための鍵であって,それによってわたしたちは,預言者ジョセフ・スミスの言う「霊感の言葉」でコミュニケーションを図ることになるからです。(Teachings of the Prophet Joseph Smith, ジョセフ・フィールディング・スミス選〔Salt Lake City: Deseret Book Co., 1976年〕, 56)
おそらく,聖文の持つ特別な,目覚めさせる力というものは,前世から携えてきた記憶の断片と関係があるのかもしれません。あるいは少なくとも,前世で長きにわたって養われてきたわたしたちの特性を呼び覚ますものなのかもしれません。
霊感を受けた聖文という場合,当然その中には,聖められた言葉も含まれます。
指導技術を高めるために聖文を研究するからといって,指導に際して,導きを与えてくれる啓示を受ける必要性が減少するわけではありません。
そうは言うものの,世俗化が進展する世界にあって,わたしたちはパウロの次の言葉に真理があることを認識する必要があります。「生れながらの人は,神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また,御霊によって判断されるべきであるから,彼はそれを理解することができない。」(1コリント2:14)御霊から情報を受けることを良しとしない人々は大勢います。しかし,わたしたちが皆知っているように,語る者と聞く者が,そして書く者と読む者が,霊的に結び合うとき,それは特別なこととなって,双方ともに啓示を受けて益するということが起きるのです。
「それゆえ,真理の御霊によって御言葉を受ける者は,真理の御霊によって宣べられるままにそれを受けるということを,あなたがたが理解して知ることができないのはなぜか。
それゆえ,説く者と受ける者が互いに理解し合い,両者ともに教化されて,ともに喜ぶのである。」(教義と聖約50:21-22)
ジョン・テイラーは,この聖句の正しさを確認して次のように言っています。「過去から現在にわたり,全能者から与えられる啓示の霊によって教えられ,指示され,導かれるのでないかぎり,神にかかわる事柄を教えることのできる人はいません。また,同じ霊の影響にないかぎり,永遠の命の神聖な原則について真の英知を受け,正しい判断を下すことのできる人もいません。このように,話す者も聞く者も全て全能者の手の内にあるのです。」(『歴代大管長の教え-ジョン・テイラー』91-92)
わたしたちは,ジョセフ・スミスがヤコブの手紙第1章5節を読んだときの特別な経験についてよく知っています。「この聖句が,このとき,かつて人の心に力を与えたいかなる聖句にも勝って,わたしの心に力強く迫って来たのであった。それはわたしの心の隅々に大きな力で入り込んで来るように思われた。」(ジョセフ・スミス-歴史1:12)ヤコブは霊感を受けてこのように記録し,ジョセフはその言葉に応えたのです。これまでヤコブの手紙1:5を読んで益を受けたことのある人もいたことでしょう。あるいはこれからもそういう人は出続けることでしょう。しかし,この記録が書かれた第一の目的は,最後の神権時代に向けて霊的に覚醒させるという役割の一部を担うことにあったのです。
御霊は,相互理解を進めたり,深めたりするだけではなく,確信を与えます。御霊は,生徒に福音を「試〔す〕」よう確信を与えます(アルマ32:27参照)。それによって,かけがえのない個人的な確信がもたらされ,人が皆,個人的に,これらのことが真実であることを知ることができるようになるのです。
ブリガム・ヤングは,御霊の持つ確信させる力について,次のように言っています。
「その影響力以外のどんな力も,救いの福音が真実であるという確信を人にもたらすことはできません。 …
… わたしが会った人は雄弁でないどころか,人前で話す才能すらありませんでした。彼は『わたしは聖霊の力によってモルモン書が真実であること,ジョセフ・スミスが主の預言者であることを知っています』としか言えませんでした。その人から発散される聖霊の力はわたしの理解を照らし,光と栄光と不死不滅がわたしの前に訪れました。…わたし自身の判断力も,天与の賜物も,教育も,この簡潔で,しかし,力強い証の前に頭を垂れたのです。わたしにバプテスマを施してくれたその人(エリアザー・ミラー兄弟)がそこにいます。その証はわたしの五感を光で満たし,わたしの魂を喜びで満たしてくれました。世界は,その知恵と力の限りを尽くそうとも,そして王や統治者が栄光と虚栄の外観の全てを尽くそうとも,簡潔で虚飾のない,神の僕の証と比べたら,完全に意味のない存在へとその姿を隠してしまうのです。」(Journal of Discourses, 第1巻,90-91で引用)
御霊の影響のもとにそれが伝える場合であっても,受ける場合であっても,わたしたちは人が「内なる人において生かされた者」となる過程を早く出現させようと努めます(モーセ6:65;エペソ3:16;詩編119:40も参照)。この過程は,レベルの高い,霊的なドラマとなって出現する場合もよくありますが,しかし,もっと頻繁に起こるのは,霊的に深い意味を伴う静かな瞬間として出現することです。
しかしながら,わたしたちが御霊によって教えると言うときには,それは何か神秘的な過程について語ろうというのではありません。教えるということは,祈りのうちに深く考えながら準備をするという責任を教師から取り去るわけではありません。御霊によって教えるというのは,「自動操縦」に身を任せることと同じではありません。わたしたちはそれでもフライトプランを慎重に作成する必要があります。自分自身の頭の中で何かを考え抜くということは,準備の面からも,実際の授業の面からも,御霊を受けることを含んでいます。オリバー・カウドリのように間違ってはならないのです。彼は御霊を神に求めることしか頭の中にはありませんでした(教義と聖約9:7参照)。
御霊を求めるということが,最もうまくいくのは,わたしたちが十分に「考え抜いている」事柄について,すでに情報を集積してある思いに対して,その導きを主にお願いするときです。それに加えて,わたしたちが教えを受ける人々に対してすでに深い愛情を抱いている場合,教える人々に対して,一人一人の状況に応じた勧告や強調を伝えられるよう,わたしたちが主から霊感を受けることは,はるかに容易になります。そうなると,わたしたちが御霊によって教えるときには,臨床の面からも,患者の症状からかけ離れた対応をするということはあり得なくなるのです。
俗世の世界から一つの例を紹介しましょう。大切な部分が理解しやすくなります。ウィンストン・チャーチルがわずか23歳のとき,修辞法についてあるエッセイを書きました。これは出版されることはなく,彼の死後,他の文書と一緒に発見されました。そのエッセイの中で,彼は感情を込めてコミュニケーションをすることの必要性について語り,次のように言っています。
「人の感情を揺り動かしたいと思うなら,自ら揺り動かされている必要がある。……人に涙を流させたいと思ったら,自ら流している必要がある。人を確信させるためには,自ら信じていなければならぬ。……ひとたび確信を持った人は,偉大な王の力よりもはるかに耐える力を持つことになる。世界にあって自立した力となるからである。仲間から見捨てられようとも,友から裏切られようとも,職責を剥奪されようとも,この力を操ることのできる者は誰であっても,なお恐るべき存在となるのである。」(William Manchester, The Last Lion: Winston Spencer Churchill Alone, 1932–1940で引用,〔Boston: Little, Brown, and Co., 1988年〕,210)
ハロルド・ B・リー大管長も,霊的に同じような意味の言葉を述べています。
「自分自身の心の中で燃えていなければ,人の心に火をともすことはできません。教師である皆さんも,皆さんが述べる証も,皆さんが教え導くときの霊も,助けを実に必要としている人々を強めようとする際には,皆さんが活用できる最も重要な強さの一つとなるものです。だからこそ,皆さんには与えるものが多くあるのです」(Conference Report, 1973年4月, 178-79;あるいはEnsign, 1973年7月号, 123)。
適切な感情を伴うということは,それ自体で指導に大きな影響を持つことになりますが,さらに個人の模範があれば,それだけその効果も高まります。模範にさらに権威が加われば,それがわたしたちの生活の中で示されたとき,人はそれに反応するようになります。そのとき,御霊はとりわけ,わたしたちの言葉がまぎれもなく真実だということを立証してくれますし,人は「〔わたしたち〕の言葉を信じる」ことができるのです(教義と聖約46:14)。
信じてまだ日の浅い人々の信仰の中には,信仰深い人の言葉を信頼するという部分があります。まずきっかけとして,そのような人は「わたしの僕……の言葉だけを深く信じ」ます(モーサヤ26:15)。そして「今あなたが神はましますと言うならば,見よ,わたしは信じよう」となります(アルマ22:7)。そして,そのような弟子になることによって,それに報いが伴います。「彼らは,あなたが彼らに語った言葉だけを深く信じたので,幸いである。」(モーサヤ26:16)
ジョセフ・ F・スミス大管長は,親たちに次にように訴えています。「霊と力とをもってこれらのことを子供たちに教えてください。そして,自ら実践することにより,これらを持続し,強化してください。あなたが真剣であること,教える事柄を実践していることを示してください。」(『歴代大管長の教え-ジョセフ・F・スミス』 346;強調付加)たとえ内容がどれほど立派であったとしても,数多くの場面で教えられても,望ましい影響力の存在が感じられないというのは,そうした目に見える真剣さが欠如しているからに他なりません。
大切な日の栄えの属性や美徳をさらに成長させようと,人々は真面目に努力していますが,生徒というものは,そうした人々が,御霊が宿る状況にあるのかどうか,自分の目で見,心で感ずる存在です。こうした属性はきわめて重要なものであって,永遠性を持つものであり,また身につくものでもあるのです。そうした属性の中で最も大切なものの一つが,「愛にあふれた優しさ」です(1ニーファイ19:9;教義と聖約133:52参照)。実際,わたしたちの「熱心さ」の度合いは,わたしたち自身が霊的に成長しているかどうかで測られるのです。
ここで少し話題を変えて,教義と聖約第133章を読んで考えていることを少し紹介したいと思います。この章は,最初に,イエスの再臨について,そして,太陽の劇的な見え方について書かれていて,やがて太陽と月にどのようなことが起こるのか,紹介されています。その後,こう続いています。「もろもろの星はその場所から投げ落とされるであろう。」(49節)独りで酒ぶねを踏んだと語るイエスの声が聞こえてきます(50節)。次に来るのは,わたしにとって非常に貴重な見方とも思われることで,主は続けてこう言われているのです。わたしたちは主の愛にあふれた優しさをとこしえにいつまでも忘れることがない(52節)。星はその場所から投げ落とされても,その場面からわたしたちの記憶に最も残ることといえば,それは,主の愛にあふれた優しさなのです。
御霊は,その臨在を望まない教師や生徒の所に押しかけるようなことはしません。ひとたび拒まれたら,速やかに,また簡単に引き下がってしまうのです。
ある賢者の言葉に,わたしたちは新たに教えられるよりも,記憶を呼び起される必要がある,というものがあります。御霊の最も力強い役割の一つは,わたしたちに思い出させることにあります。
御霊は,聞く者を刺激して,深く考えさせ,彼らに知的に正直であれと励まします。アミュレクの場合がそうでした。アミュレクは,自分が霊的に目覚める前は,知っていながら,知ろうとしなかったと率直に認めています。呼ばれたが,聞こうとしなかったということです(アルマ10:6参照)。御霊はその種の率直な反省を呼び起します。十代や大学生の場合,あるいは家族の集まりの中や静かな会話の中でそういうことが起こる可能性があります。御霊は知的な不正直さを黙って許すことはありません。むしろ,知的な正直さを奨励します。このプロセスは,確かに,「御霊の剣」と表現されるにふさわしいものです(エペソ6:17参照)。
実際,御霊は生徒と主を直接結び付けます。忠誠を尽くすことと将来の在り方とは関連し合っています。たとえ,両親や教師が,地理的な面や世代的な面で「落ちる」ことがあったとしても,御霊は引き続き教え導きます。ポテパルの妻の誘惑を退けようとした古代のヨセフは,信頼するポテパルがそれまで非常に寛大に接してくれていたために,そのポテパルに対して不忠を働くことを拒んだだけでなく,「この大きな悪をおこなって,神に罪を犯すこと」を拒んだのです(創世39:9;;7-20節参照)。このように知的にも霊的にも備えをしていると,年月を超えてその資質が身についてきますし,何年にもわたって養われていくことになります。また,決して予見したことがなかったような環境においても,わたしたちに勇気を与えてくれるのです。
わたしたちが毎週聖餐のパンを頂くとき,御霊をいつも受けられるように願うのも不思議なことではありません。御霊があって初めて,わたしたちは安全だからです。反対に,御霊がなければ,わたしたちは独り残されてしまいます。独りでいたいと思う人がいるでしょうか。
信仰というものは,耳を傾けることからどのように生まれるのでしょうか。わたしが今語る言葉以上に良い例を紹介しましょう。ブリガム・ヤングは,わたしたちが皆知っているように,福音について学ぶ特別な学徒でした。彼はよく出かけては,特に,つらいことがあると,預言者ジョセフの話に耳を傾けたものでした。後日,それを次のように思い起こしています。
「わたしはこれまで,預言者ジョセフとともにいる時間や,公にも個人的にも話を聞く機会を一度も逃したことはありません。彼の語るところを理解し,それを心に留めて,必要なときに思い返すことができるようにするためです。個人的な経験から,主がわたしたちの働きに応じて祝福される偉大な成功は,自分の心を知恵に委ねるかどうかにかかっていると言うことができます。例えば,(実際には滅多にないのですが)わたしの実の兄弟たちが重要な案件を携えてわたしの執務室にやって来たとします。そして,わたしはちょうどそのとき,幹部の兄弟たちに統治の原則や,その原則を家族や隣人や国家に応用する方法を教えていたとします。するとわたしの実の兄弟たちでさえ,まるでその案件は重要でなかったかのように,執務室を出て行くのです。これと同じことが実に多くの教会の長老たちの間で起きています。わたしはこの状況を嘆いています。…預言者ジョセフの時代に預言者と接するこのようなひとときは,わたしにとって世のあらゆる富に勝る貴いものでした。たとえ妻子を養うために小麦粉を借りなければならないほど貧しくとも,わたしは預言者ジョセフから教えを学ぶ機会を見逃すようなことは決してしません。」(Journal of Discourses, 第12巻,269-270で引用)
御霊は感情の部分だけでなく,実際の行動にも働きかけます。そうした例を聖文から見てみましょう。
「これらの言葉は人々から,人間から出ているのではなく,わたしから出ているのである。それゆえ,あなたがたは,これらの言葉がわたしから出ているものであって,人間から出ているものではないことを証しなければならない。」(教義と聖約18:34)
「これらの言葉を信じるようになるであろう。これらの言葉はキリストの言葉であり,キリストがわたしに授けてくださったものだからである。」(2ニーファイ33:10)
「御言葉……は…どのようなことよりも民の心に力強い影響を及ぼした。」(アルマ31:5)
人が信仰によって働くとき,それは「御言葉によって働く」ということです(Lectures on Faith, 7:3参照)。
「しかし,この時代の人々は,あなたを通してわたしの言葉を受ける。」(教義と聖約5:10)
これまで御霊によって教えるということの基本的な面についてお話してきました。ここで少し行ってよいことと行ってはいけないことについて提案したいと思います。以下に述べる行ってよいことと行ってはいけないことは,学ぶ能力に影響を与えます。行ってよいことの方は御霊を招きますし,行ってはいけないことをすると御霊を退けます。
行ってよいこと |
行ってはいけないこと |
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もちろん,教師としてカリスマに欠けてはいるものの聖約を守っているという人は存在します。もちろん,教師としてそれほど面白くはないが,生活が実に整っているという人も存在します。しかしながら,ふさわしい生活をする人が努力するときには,必ず御霊の祝福が伴います。そういう人たちの言葉や行動を支えてくれます。戒めを守る人からあふれ出る証の確かさというものがあります。それはおのずと語ってくれるのです。そのため,わたしは,根を持たない賢いカリスマよりも,教義的に正確であること,そして霊的に確固としていること(たとえ多少は冗長であったとしても)の方を選ぶのです。
しかしながら,きちんとしている教師に時々,何か足りないと思われるところがあるとしたら,その原因の一つは,福音について個人的に感動する気持ちを新たにしているかどうかという点にあります。その思いはきわめて伝染性の高いものです。わたしたちは自分の感じたことのほんの一部だけしか語ることができないわけですから,その「ほんの一部」をその小ささのゆえに埋没させないようにする必要があります。
最後に,モルモン書の預言者の言葉にあるように,こう申し上げましょう。「おお,賢くありなさい。わたしはこのうえ,何を言えようか。」(モルモン書ヤコブ6:12)
終わりに当たって,幾つかの例を紹介したいと思います。皆さんの持っている例は,少なくともわたしの手持ちの例と同様に立派なものであり,あるいはもっと優れています。
30年前のある日曜日の夜のことでした。わたしたちは,ユタ大学のインスティテュートで集会を持っていました。その晩は,ヒュー・ B・ブラウン管長がお話することになっていました。しかし,集会の時間が来ても,姿を見せません。集会を計画した人たちはかなり心配になり,何か「間違い」でもしてしまったのかと不安になりました。その晩は,きわめて頭脳明晰なリチャード・ L・エバンズも同席していました。エバンズ長老がお話している間に,数人がブラウン管長の探索のために派遣されました。彼らは,管長が自分の家のある道路の近くを歩いているのを見つけました。管長は急いで家へ戻り,着替えて,会場にやって来て,お話をしました。そして,それはわたしの生涯で起きた驚くべき経験の一つとなったのです。管長は,御霊の指示を受けて,回復について教え,自分の証を伝えました。その場にいたわたしたちにとって,決して忘れることのできない経験となっています。
わたしは,1974年4月,教会の執務ビルの講堂にいたときのことをよく覚えています。スペンサー・ W・キンボール大管長が,事実上,大管長として最初のスピーチをしていました。大管長は最初の記者会見の中で,大管長独特の柔和な表現で,もしできることなら,リー大管長が努力してきたレールと同じレールの上を歩んで物事を進めることができたら満足であると言っていました。しかし,その日,「全世界に出て行って」という演説を聞いたわたしたちに電気が走りました。わたしたちもそれを感じたのです。その後,十二使徒会の会長としてベンソン会長が同じことについて話をしました。わたしたちは皆,感動し,心が動かされました。主の時刻表の中で,人と時を得た集会があったのです。御霊がそれを確認し,心の中に響きわたるのを感じました。先に申し上げたように,それが大観衆の中であろうと,あるいは二人の会話の中であろうと,御霊は働くのです。
わたしは,1年少し前,ユタ州ペイソンに住むクリッチフィールド家族の家長が霊感に満ちた質問をしたときのことを考えています。彼らの息子のスタンリーは,アイルランドのダブリンで受けた傷がもとで亡くなっていました。それは伝道中の出来事でした。息子の死亡の通知とともにやってきたのは,ショックと失望でした。そのとき,あの謙遜な父親は15歳になる弟に尋ねたのです。「あと4年もすると,君も19歳になる。預言者は君も伝道に行くようにと召すことになるだろう。兄のスタンリーにどんなことが起きたか,見てのとおりだ。君はどうするつもりだい。」「パパ,ぼくは行くよ。必ず行くよ」という答えが返ってきました。御霊が,大群衆の中での霊の交わりを聖めてくれると同じように,その霊感に満ちた質問と答えを聖めてくれたのです。あの若者の驚くべきすばらしい答えが時空を超えて心から離れずにいます。その若者は今,伝道に出るために貯金をしているところです。でも,結局のところ,あの若者の答えは,ニーファイの言葉とそれほど違ってはいないのです。ニーファイも「わたしは行って,行います」と言っています。
先ほど,霊感された沈黙ということについてお話しました。いささか沈黙を埋めようという性癖を持つ者の一人として,わたしにとって,何も言わずにいることは,時々,辛いことでもありました。幸いなことに,そのような機会が数回だけありました。あるとき,わたしは間接的にですが,第2次世界大戦のときの仲間の一人が心臓の問題を抱えてフェニックスの病院で静養中だということを知りました。地元のワードにいる善良な七十人が,わたしに手紙を書いてきて,友人の問題について教えてくれたのです。わたしは彼とは30年くらい音信不通の状態でした。そこで彼に手紙を書き,電話をし,教会の雑誌を少し送りました。そして彼がアリゾナ州のダンカンの自宅に戻ったころ,再度電話をしたのです。「ハリー,具合はどうだい。」「まあまあさ。」「送ったものを読んでくれたかい。」「ああ,少しは読んだよ。でも ……。」「ハリー,君の所へ行って,君にバプテスマを施したいんだ。」長い沈黙がありました。幸いなことに,わたしは急いでその沈黙を埋めるようなことはしませんでした。すると彼の答えが返ってきたのです。「そうしてくれないかい。」そこでわたしはすぐにアリゾナ州ダンカンまで出かけて行って,わたしの友人のハリー・ホワイトにバプテスマを施し,確認するという偉大な特権にあずかったのです。御霊が彼に働きかけていました。彼にはすばらしい伴侶がいました。教会員として,ほかの人々とともに,何年にもわたって,彼の改宗を速めようと努力してくれていたのです。沈黙を怖がらないでください。
皆さんはだれでも,「静まって,わたしこそ神であることを知れ」という聖句を知っています(詩編46:10)。皆さんもわたしも,この聖句は「黙りなさい」という意味と同じだと解釈しています。そうではありません。これは「静まる」ということなのです。その特別な静けさの中に,抑制と集中があります。本質と無関係なものは除外されます。静まって,その静かさがそうした特別な場面で働きかけができるようにしましょう。そのときに,御霊から教えと霊感を受け,何かが記憶に上ることがあるかもしれないのです。
知るべきことを知っているわたしたちは,また,すべきことを行うために召されるわたしたちは,そして,神の王国に属するわたしたちは何と祝福されていることでしょうか。確かに現在の世は,世俗化が進む時代です。この惑星上で,御霊に関わることは愚かしいと考える人々の数が増加する一方の時代です。しかし,知っている人は,自分たちが知っているということを知っているのです。
マックスウェル姉妹とわたしは数か月前にシングルアダルトのファイアサイドに出席しました。近寄って握手をしてくれた心温かい人々に交じって,一人の離婚経験者がいました。わたしは彼女と話したわけではありませんが,彼女は妻のコリーンと話をし,わたしは彼女と握手だけしました。彼女はわたしに小さなメモを手渡したのですが,そこにはこう書かれていました。「わたしは知っていたことは覚えています。でも,今では何も知らないのです。」皆さんがこれから霊感をもたらすはずの人の中には,かつて知ってはいたが,今では何も思い出せないという人がいます。アミュレクのように知ってはいたが,知ろうとはせず,それにあらがう人もいるのです。
わたしたちの才能がどれほどささやかなものであったとしても,それを使ってわたしたちのすべきことを教えてくれる御霊が存在することは,何と恵まれたことでしょうか。神の祝福があって皆さんを支えてくださいますように。この王国の業に携わっている皆さんがどれほど大切な存在であることか,それを感じる心を神が授けてくださいますように。今はまだ生まれていない世代の人々が,これからの将来にわたって,また確かに永遠にわたって,立ち上がって,皆さんを恵まれた者と呼ぶ日が来ますように。
冬の日の朝,長い時間をかけて車で運転して来てくださる皆さん,皆さんがしていることに感謝してくれる人がそれほど多く見当たらなくとも,皆さんは自分が天父の業に携わっているのだということを知っていてください。御父の祝福があって御霊に恵まれますように。皆さんには,やがて,自分の教えた人々の感謝に包まれるという喜びを知る日がやってきます。彼らが皆さんをキリストの人,少なくともキリストのようになろうとしている過程にある人として見ることができますように。そして,皆さんがいつも御霊とともにあることができますように。イエス・キリストの御名により,アーメン。