聖典を読む
『聖徒の道』1980年3月号,87-89参照
教会の指導者の勧告に従って,聖文を読み,勉強するとき,様々な恩恵や祝福があります。それはわたしたちが行う学習の中で最も有益なものです。旧約聖書や新約聖書は世界最高の文学としてしばしば引き合いに出されます。これらの書は科学論文,哲学論文,歴史記録書とも見なされていますが,これらの聖典や他の聖典の真の目的を理解すれば,それが実は純然たる宗教書であることに気づくはずです。
聖典
聖典には神とその民,およびその両者の関係についての基本的な宣言が記されています。聖典の各書には永遠の父なる神と御子イエス・キリストを信じなさいという教えがあり,初めから最後の1行まで,神の御心を行い,神の戒めを守りなさいという呼びかけが流れています。
聖典は神が自ら啓示された言葉の記録であり,神はこれを通して人々に語られます。そうだとすれば,聖典を通して神を知り,神と人との関係を理解することを教えている書を読む以上に効果的な時間の使い方がどこにあるでしょうか。多忙な人々にとって時間は貴重なものです。軽薄なもの,価値のないものを見たり読んだりして時間を浪費することは,貴重な時間を失っていることになります。
読書の習慣は人様々であり,速読の人がいればのんびり読む人もいます。時間を細切れにして読む人もいれば,一旦読み出したが最後,終わるまでやめられない人もいます。しかし,聖典を探究する人ならば,理解には速読や通読以上に集中した精読が必要なことに気づくものです。毎日聖典を勉強する人の方が,長時間勉強したかと思うとぱったり休むという人よりも,はるかにはかどることは確かです。毎日勉強するだけでなく,邪魔されずに集中できる時間をきちんと取るべきです。
祈り
聖文の理解力を深めるのに,祈りほど役立つものはありません。祈りによって,わたしたちは心の波長を合わせ,探究の答えを求めます。主は,「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう」と言っておられます(ルカ11:9)。これは,わたしたちが求め,探し,たたき,そして受ける用意ができているならば,聖霊がわたしたちの理解の目を開いてくださることを主が確認してくださる言葉です。
規則正しい学習計画
大勢の人々は思考を遮る雑多な煩いを忘れ去る一夜の眠りの後の,朝の勉強が一番良いと考えています。また,1日の仕事や心配事が一段落した静かな夜のひとときを勉強に費やし,聖文の言葉を味わいながら平安な気持ちでその日を閉じる方が良いという人もいます。
大切なのは,いつにするかという時間の問題よりも,決まった時間を勉強のために取るということです。毎日1時間聖文の勉強ができれば理想的ですが,それほど時間が取れなくてもきちんと30分間勉強すれば,相当な結果を得ることができます。また15分といえば,ほんのわずかな時間ですが,それだけでもどれだけ意義ある事柄について知識と啓発とを受けることができるか驚くほどです。大切なのは,何かに勉強が中断されないようにすることです。
独りで勉強することを好む人もいますが,仲間がいても有益な勉強をすることができます。賢い父,母が子供たちを集め,ともに聖典を読み,その物語や思想をそれぞれの理解力に応じて自由に話し合うとき,家族は大きな祝福を受けます。しばしば青少年や小さな子供たちが宗教の基本的な教えに関してはっとするような理解や洞察を示すことがあります。
聖典は無計画に読むのではなく,計画をきちんと立てて読むべきです。1日あるいは1週間に何ページとか,何章とかいうように予定を組んで読む人がいますが,この方法にも一理あり,楽しく読むことができますが,実りある勉強にはなりません。聖典は,読む量を決めるより,毎日何分読むかを決めるべきです。時には,わずか1節に全部の時間を使ってしまうこともあります。
熟考すること
イエスの生涯,行いや教えはすらすらと読み進んでゆくことができます。たいていの物語は簡明で,話し方も平易です。救い主はその教えの中で多くは語っておられませんが,どの言葉も意味が凝縮されていて,読者に鮮明なイメージを与えることができます。それでも,時々その簡明な言葉に表された深遠な思想について考えることに,何時間も過ごすことがあります。
救い主の生涯の中で,マタイ,マルコ,ルカがともに記述しているある出来事があります。その主要な箇所をマルコはわずか2節と数語で語っていますが,そこを読んでみましょう。
ヤイロの物語
「そこへ,会堂司のひとりであるヤイロという者がきて,イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し,
しきりに願って言った,『わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ,その子がなおって助かりますように,おいでになって,手をおいてやってください。』
そこで,イエスは彼と一緒に出かけられた。」(マルコ5:22-24)
この部分を読むのは,30秒とかかりません。短くて簡単です。描いている情景もはっきりしていて,子供でも難なく反復することができます。ところが,時間をかけてよく考えてみると,深い理解と意味がつかめてきます。病気の少女がいて,イエスは出て行ってその子に手を置かれたという話だといえばそれまでですが,単にそれだけでは終わりません。その箇所をもう一度読んでみましょう。
イエスと彼に従った者たちはガリラヤ湖を渡り,カペナウムに近い岸辺でイエスの一行を待つ群衆と会いました。「そこへ(予期しなかったときに突然),会堂司のひとり……が来〔た〕。」当時,ユダヤ教の大きな会堂は,会堂頭あるいは会堂司の指揮下で長老集団が管理していました。会堂司は,ユダヤ人から多大な尊敬を受けていた名誉ある職です。
マタイはこの会堂司の名前を記していませんが,マルコは職名のあとに「ヤイロという者」と,名前を付け足しています。この人の名前が聖典に出てくるのはここ1か所だけですが,イエスとわずかにまみえただけでその名が歴史にとどめられたのです。救い主に触れ,心や行動を変えられ,より良い新たな人生に目覚めることがなかったら,忘却のかなたに忘れ去られていたはずの数多くの人間が,こうして記録され残っています。
「イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し〔た〕。」
会堂司という高位の人がイエスの足元,つまり癒しの賜物を持つ流浪の教師と見られていた人の足元にひれ伏すということは,きわめて異例なことでした。識者や知名人の多くはイエスに対して見て見ぬふりをし,心を閉ざしていたからです。現在もそれと大して変わりません。大勢の人々の前に,イエスを受け入れるのを妨げる障害が立ちはだかっています。
「〔そしてヤイロは〕しきりに願って言った,『わたしの幼い娘が死にかかっています。』」自分のことよりも愛する人のために是非お願いしたいということでキリストの元にやって来ることはよくあることです。「わたしの幼い娘が」と嘆願するヤイロの気持ちは,会堂司という高い地位がありながら,救い主の足元にひれ伏す状況を見て,わたしたちは同情を禁じ得ません。
それから,ヤイロの偉大な信仰を表す言葉が続きます。「どうぞ,その子がなおって助かりますように,おいでになって,手を置いてやってください。」これは嘆き悲しむ父親の信仰の言葉であるばかりでなく,イエスが手を置かれた者はみな生き返ることを,改めてわたしたちに想起させます。もしイエスがその手を結婚生活のうえに置かれるならば,結婚生活は命を得,もし家族のうえに手を置かれるならば,その家族はよみがえるのです。
そして次に,「そこで,イエスは彼と一緒に出かけられた」とあります。この出来事はその日の日程に組まれていなかったはずです。救い主は,教えを聴くために待っている岸辺の民衆の所へ,湖を越えて戻って来られたのです。「そこへ」思いも寄らず一人の父親が横から願い出てきました。ここでイエスは,他の民衆が待っているからと頼みを無視することもできたはずです。ヤイロに,明日あなたの娘を見に行くという返事もできたでしょう。しかし「イエスは彼と一緒に出かけられた」のです。わたしたちがこの救い主の足跡に従うなら,忙しいからといって隣人に必要なことを無視してもよいのでしょうか。
この話の残りは語るまでもないと思います。一行が会堂司の家に着くと,イエスは少女の手を取り,生き返らせました。イエスは同じようにして,救い主に手を伸べる全ての人々が新たな,より良い人生を歩むことができるように高めてくださるのです。
聖文はキリストについて一層の知識を得させる
わたしは,熱心に学べばイエス・キリストについて一層の知識が得られる聖典を感謝しています。主は旧約聖書,新約聖書の他に,末日聖徒イエス・キリスト教会の預言者を通してキリストの新たな証人としてモルモン書,教義と聖約,高価な真珠の聖典を与えてくださいました。そのいずれも確かに神の御言葉です。これらの書は,イエスが生ける神の子,キリストであることを証しています。
わたしたちのうえに主の祝福があって,わたしたちが正しい方法で主を求め,教えを学ぶことができますようにイエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。