自己の責任と人間の進歩
『聖徒の道』1980年9月号,117-119からの抜粋
末日聖徒は,この世の生活には目的があることを知ってます。すなわち,わたしたちはそれぞれ試しを受けたり,神が与えてくださった選択の自由を行使して将来の可能性を決めたりするような状況に置かれていますが,それは,目的があってのことなのです。古代の預言者リーハイはこのことを悟り,息子のヤコブにこのように言っています。「そのため,人は肉においては自由であり,人のために必要なものはすべて与えられる。そして人は,すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも,あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。」(2ニーファイ2:27)
彼はさらにこう説明しています。人は「すでにとこしえに自由となり,善悪を知るようになっている。……神が下された戒めによって,……律法に伴う罰を受けるほかは,思いのままに行動することができ,強いられることはないのである。」(2ニーファイ2:26)
ある時,主は御自身の思いをこのように言われました。「すべての人がわたしの与えた道徳的な選択の自由に応じて,未来に関する教義と原則に従って行動できるようにして,各々が裁きの日に自分自身の罪に対する責任を負うようにするためである。」(教義と聖約101:78)
善悪の区別ができるということは,選択をする際に自由を行使できるということです。またそうするときに,わたしたちは自分が選択したことに対して責任を負わなければなりません。選択の必然的な結果から逃れることはできないからです。道徳的な選択の自由を行使するこのような自由は,進歩と成長に大きな期待をかけている人々の中にあっては欠かせない大切なものです。
わたしたちは永遠の御父の子供として,自分の心の中に自由を切望する気持ちを植え付けてきました。わたしたちが自分自身の運命に対して責任を持ちたいと思うのは当然のことです。なぜなら,わたしたちの内なる声が,このように責任を持つことがわたしたちの永遠の目的を達成するのに絶対に必要であるという確信を与えてくれるからです。
これまで,どんなに律法や規則があっても人を強制的に従わせることは決してできませんでした。自由意志を行使してこそ豊かな従順さが生まれるのです。 ……
決められたように行動するだけでは、永遠の生命を得るのに必要な霊的成長を生み出すことはできません。霊的に成長するにはある程度の自由や自己決定が必要です。正しい原則を理解し,それらを応用しようという本質的な願望をもって,人は自らの自由意志を働かせて多くの善をなすように心がけなければなりません。なぜなら啓示にもあるように,人は自らの内に力があり,自ら選択し行動する者だからです(教義と聖約58:27-28参照)。