聖文と教義に関する知識を純粋なままに得,維持する
「教会教育システムを強調する最近の教え」2003年(内部トレーニングビデオ)7−11
教会教育システムの方から「聖文と教義に関する知識を純粋なままに得,維持する」,言い換えれば,「教義の純粋さを保つように努力する」というテーマで話をするよう割り当てを受けました。
ここに集っている皆さんは,そのほとんどが誠実かつ熱心な働き人で,預言者ジョセフ・スミスを通してこの末の世に回復されたイエス・キリストの福音を,最大限の努力を払って教えようとしていると確信しています。しかし,時として,誠実に働いてはいるものの,誤ったり考え違いをしたりすることがあります。ほとんどの場合がそうですが,無意識のうちに聖文や預言者の言葉に関して誤った教義や解釈を論じることがあるのです。間違ったことを話していたり,レッスンの準備が不十分だったりすることもあります。ひょっとしたら何も知らないままに,かなりの頻度で行き当たりばったりのレッスンをしているということがあるかもしれません。時には,間違った情報を知らされていることもあります。しかし,それでいて,身分不相応とも言えるような専門的知識や権威が教師にはゆだねられているのです。自らの責任を果たすに当たっては,良い動機に加えて,今言ったような要素をすべて慎重に考慮しなければなりません。
真理からの逸脱や離反というものは,いつも何らかの形で他の人々の知るところとなります。いろいろな形で表面化します。わたしたちの意図や言葉,そして行いについて証する証人が大勢いるということです。
不適切で,どこか腑に落ちないといった印象を与えるレッスンは,多岐にわたる不満の声を通して教会教育システムの知るところとなります。霊的な意味で,筋の通らないレッスンや不適切と思われるレッスンに生徒の多くは敏感です。そのようなレッスンを受けたというニュースは自然に両親のもとに届くこともあるのですが,問題となっている事柄について子供があれこれと口にしたときに両親が気づくということもあります。両親の報告は神権指導者に伝わります。神権指導者は役職上,若人の面接を定期的に行いますが,その面接を通して適切でないと思われる事柄があれば,その報告を受けます。
報告はセミナリーやインスティテュートの指導者,指導主事,教会教育システムの管理者にも送られてきます。そのような報告の中には,教会の中央幹部や地域幹部のもとに提出されるものもあります。ほとんどの場合,中央幹部はこのような重大な問題の処理を教会教育システムの管理者にゆだねますが,そうは言っても,それらの問題に大きな関心を抱いていることに変わりはありません。
多くの問題が教会コーリレーション部にも検討と評価のために提出されます。そこで,幾つかの提案をするようにという割り当てを受けました。教師として,聖文と教義に関する知識を純粋なままに得,維持するのに役立つ指針や警告となる提案です。
頼りとすべき基礎的な情報源は聖文です。主は言われました。「『聖書』と完全な福音が載っている『モルモン書』の中にあるわたしの福音の原則を教えなければならない。」
「また,彼らは聖約と教会の規定とを守って実行しなければならない。また,御霊に導かれるままに,これらを彼らの教えとしなければならない。」
「御霊は信仰の祈りによってあなたがたに与えられるであろう。そして,御霊を受けなければ,あなたがたは教えてはならない。」(教義と聖約42:12-14)
ゴードン・ B・ヒンクレー大管長は次のように言っています。
「標準聖典は……福音の光をあふれんばかりに貯えた教義の貯水池です。それはあらゆる福音の教義を測る規準となります。他のすべて〔の資料〕もこの標準聖典に記された主の言葉を土台とすべきです。」(“Cornerstones of Responsibility”〔地区代表セミナー,1991年4月5日〕,2)
レッスンの土台となるもう一つの要素については,「預言者たちや使徒たちが書き記したことと,信仰の祈りによって慰め主により教えられることのほかは何も」教えてはならないと命じる啓示の中に記されています(教義と聖約52:9)。
またさらに「使徒たちと預言者たちの教え……だけを」告げ知らせるようにと教えられています(教義と聖約52:36)。
預言者や使徒は他に比較しようのない大切な役割を担っています。それはどのような役割であり,わたしたちが教える際にどのような影響を及ぼすのでしょうか。
何年も前のこと,J・ ルーベン・クラーク ・ジュニア管長は,教会教育システムの教師に次のように教えました。
「中央幹部の中には特別な召しを与えられている人〔使徒〕がいる。彼らは特別な賜物を所有し,預言者,聖見者,啓示者として支持されている。これにより,彼らは人々に教えるときに特別な,霊的な力と祝福を受ける。彼らは教会の大管長が有する包括的な力と権能の管理下で,神の御旨と御心を民に宣言する権利と力,権能を持っている。ほかの中央幹部はこの特別な,霊的な力と祝福を受けていない。」この結果もたらされる制限は「教会のほかの役員と会員すべてに当てはまる。なぜなら,そのような人のうちだれも,預言者,聖見者,啓示者として,霊的な力と祝福を授かっていないからである。」(“When Are Church Leader’s Words Entitled to Claim of Scripture? ” Church News, 1954年7月31日 ,9-10)
彼ら〔預言者,聖見者,啓示者〕は人々を教えるに当たって,特別な,霊的な力と祝福を与えられています。皆さんも,わたしも,またどの役員も会員も,そういったものを彼らと同じように与えられてはいません。ですからわたしたちが第一の情報源は何かを判断するに当たって,使徒パウロがテモテにしたように自問する必要があるのです。
「しかし,あなたは,自分が学んで確信しているところに,いつもとどまっていなさい。あなたは,それをだれから学んだか知って〔いる〕。」(2テモテ3:14)
「あなたは,それをだれから学んだか知っている。」皆さんにとって第一の情報源は何でしょうか。聖文が第一の情報源になっていますか。こう尋ねるのは,パウロが次のように記しているからです。
「聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであって,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。」
「それによって,神の人が,あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて,完全にととのえられた者になるのである。」(2テモテ3:16-17)
聖文には霊的な力があります。聖文にある言葉や表現を使って教えてください。今風な仲間内言葉や,使い古された表現,あるいは自分自身の解釈による言い換えなどを聖文の代用品にしないでください。聖文そのものに発言の機会を与えてください。
「改ざん」という言葉があります。……聖句や節を,通常,前後関係を抜きにして取り出し,ある事柄を証明するために,あるいはある事柄に関する個人的な解釈を擁護するために,いわゆる聖文の裏付けとするために歪曲することです。これは教義的な過ちに陥る人のほとんどがたどる道の一つです。
ボイド・ K・パッカー長老が教えた次の原則は,教会の基本的な原則を教えるうえで役立つでしょう。
「第1,救いに大切な教えは,意味があいまいな聖句や節の中に隠されていることはありません。それとは逆に,大切な真理は何度も繰り返し出てきます。」
「第2,それがたびたび引用される聖句であろうとなかろうと,必ずほかの聖句と比較する必要があります。聖文の中には,互いに補足し合う教えや調節機能を持った教えがあり,それによって偏りのない真理の知識が明らかになってきます。」
「第3,主が言われることと行われることには一貫性があります。……」
「第4,神が語られたことがすべて聖書に収められているわけではありません。ほかの聖典,すなわちモルモン書や教義と聖約,高価な真珠も同じように神の御言葉であり,互いに証し合っています。」
「第5,信仰によってのみ受け入れなければならないことも確かに多くありますが,真理は個人的な啓示を通して知ることができます。……聖文を読んだだけでははっきりと分からない部分も,聖霊の賜物を通して明らかに理解できるようになります。霊的なことについての理解は,それを求める熱心さに応じて与えられるものです。」(「わたしたちの生まれ」『聖徒の道』1985年1月号,64参照)
また,忘れてはならないのは「真理の多くの要素は,生涯をかけて準備して初めてもたらされる」ということです(ボイド・ K・パッカー,『大会報告』,1974年4月,138)。
準備し,教えるときに従うべき秩序やひな型があります。それはわたしたちが身に付けようとしている福音的なものの見方や,そのようなものの見方を支える力を提供してくれます。パッカー長老は次のようにも教えています。
「わたしたちの歩む道は,人が備えたものではありません。救いの計画,幸福の偉大な計画は,神から啓示されたのです。そして預言者と使徒は,教会や会員の必要に応じてさらに啓示を受けてきました。 ……
「…… わたしたちは聖文から……正しい教義の規範や基礎を学ぶのです。
わたしたちは教義から,行動の規範,日常生活の問題に取り組む方法を学びます。」(「父親と家族」『聖徒の道』1994年7月号,22)
「原則は永続する真理,律法,規則であり,決断をする際の指針となるものです。一般に原則は詳しくは説明されていません。皆さんが永続する真理や原則をよりどころとして,自ら道を見いだす自由があるのです。」(ボイド・ K・パッカー「知恵の言葉-その原則と約束」『聖徒の道』1996年7月,21)
その際に聖文が教義の基礎となります。わたしたちは聖文から正しい教義を学び,教義から原則を学びます。そして原則を学び,御霊の助けを受けることによって,現在のわたしたちの必要と状況にその原則がどのように応用できるかを学ぶことができるのです。
そのような教え方の結果として,個人としての進歩や成長の土台が築かれます。
「まことの教義を理解すれば,人の態度や行動は変わります。
「福音の教義を研究することは,人の行動を研究することよりも,ずっとすみやかに行動を改善する力があります。」(ボイド・ K・パッカー『聖徒の道』1987年1月号,18-19)
聖文を基とせず,教義的理解を伴わない生半可なプログラムや過程,発表といったものに人々の生活を変える力などありません。教師は,このような聖文や教義を土台として,生徒が自分自身の生活への応用法を見いだせるように助けなければならないのです。
最近,ダリン・ H・オークス長老が次のような力について分かりやすく説明してくれました。
「『福音の原則』と『王国の教義』(教義と聖約88:77)を教えるように命じられている教師は通常,特定の規則や応用方法を教えることを慎むべきです。例えば,完全な什分の一とはどのようなことかを規定したり,安息日を聖く保つために行ってよいことと行ってはならないことの一覧表を作って教えたりするようなことをしません。教師が聖文と生ける預言者から教義とそれに関連する原則を教えたら,その後の具体的な応用方法や規則については通常,個人や家族の責任となります。」
「…… わたしたちは福音の教義と原則を教えると, 教えを承認する御霊の証と導きを受けることができます。そして,生徒が信仰を行使して,それらの教えを個々の生活で応用するときに同じ御霊を求めるよう奨励します。」(「福音を教える」『リアホナ』2000年1月号,95)
要約になりますが,ハロルド・ B・リー長老は次のように教えています。
「教義上の純粋さを保つ最良の道は,会員が『身をもって経験した』ことによって,教義とのつながりを知り,理解していることである。」(“Special Challenges Facing the Church in Our Time”〔地区代表セミナー,1968年10月3日〕,7)
すなわち,彼らは救い主の勧告に従ったのです。「神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,わたしの語っているこの教が神からのものか,それとも,わたし自身から出たものか,わかるであろう。」(ヨハネ7:17)
これらの原則に従うことによって,わたしたちは安全を保証され,確立された道,すなわち狭くてまっすぐな道から迷い出ることがなくなるのです。ですからこう自問してください。「わたしは間違った教義を教えたことがないだろうか。」だれもが必ずあるはすです。しかし,成長し,学び,主の御霊と調和した生活を送るにつれて,自らを正すことができるようになるのです。
ボイド・ K・パッカー長老は次のように教えています。
「教会員は,ある時点においてある教義を理解できないかもしれませんし,誤解もあれば,間違いであることを正しいと信じるかもしれません。」
「しかし,そのことにそれほど危険はありません。逆に,福音を学ぶプロセスとしては欠かせないものです。いかなる教会員も,自分が誤った考えを信じていたことを悔い改めなければならないからと言って,恥ずかしく思う必要はありません。そうした誤解は,光と知識の内に成長するときに正されるからです。」
「誤った教義を信じることに問題はありません。問題はそれを人に教えることです。」(「こうした人々を避けなさい」『聖徒の道』1985年7月号,37)
ですから,何年も前のことですが,ハロルド・ B・リー大管長は教会教育システムの職員に次のような規範を与えたのです。この規範は教会が教えることにどれほど努力を払っているかの証明とも言えます。こう語っています。
「さて皆さんが教師として送り出されるのは新たな教義を教えるためではありません。皆さんは従来の教義を教えるのです。しかし生徒が理解できるよう簡潔に教えるというだけでは不十分です。教会の教義をだれ一人として誤解することのないよう簡潔に教えなければならないのです。」(「忠誠」〔宗教教育者への説教,1966年7月8日〕,9。Charge to Religious Educators, 第3版〔1994年〕,119も参照)
福音の原則を教える際に不可欠の要素は必要とされていること,霊的な備え,そして皆さんが預かっている生徒に細心の注意を払うことです。優秀な教師であるボイド・ K・パッカー長老は次のような賢明な助言を与えています。
「真実であってもあまり役に立たないものがあります。 ……」
「真実であっても,時期尚早に,すなわち時を誤って教えた場合,学ぶことに伴うはずの喜びの代わりに悲しみや心痛をもたらすことがあります。」
「…… 聖文では肉を与える前にミルクを与えなければならないとはっきり教えています。主は選んで教えなければならないこともあれば,ふさわしい人だけに与えなければならないこともあると断言されました。」
「語られる内容だけでなく,語られる時機もきわめて大切です。信仰を築くのではなく,破壊することがないように注意してください。」(The Mantle Is Far, Far Greater than the Intellect〔第5回年次教会教育システム宗教教育者シンポジウム,1981年〕,4-5)
これに加えて,リー長老は次のように語っています。
「教会は今日,教義の純粋さを保つという点で途方もなく大きなチャレンジに直面しています。……教会の教義は『わたしたちのもの』ではなく,『主のもの』です。なぜならこの教会が主の教会だからです。すべての人にはっきりと認識させなければならないことがあります。それはキリストから与えられた教義を純粋かつ簡潔なままに保っていかなければ,人類はこの世から永遠にわたって深い悲しみを味わうことになるということです。だからこそ,無益な推測,奥義への過度の関心,福音に自分勝手な解釈を加える一部教師の傾向は絶対に避けなければなりません。」(“Special Challenges Facing the Church in Our Time,” 6)
教義的に問題のある教師は二つの分野で最も大きな困難に直面するようです。
その一つは不適切なことを教えるという点です。そのような教師を指して,より深い洞察力や解釈力があると評する人がいます。しかし,自己点検をし,ただ単に他の人が持たず自分は持っていると思う知識をひけらかしたいがために教えているのではないか,あるいは他の人に強烈な印象を与えたり,いわゆる「退屈な標準」を越える情報を提供したりしようとしているのではないか確認しなければなりません。見せかけの知識や理解力で周囲からの称賛を求める人に与えられた警告を忘れないでください。
「わたしの僕アルモン・バビットについては,わたしが喜ばない多くのことがある。見よ,彼はわたしが定めた助言,すなわちわたしの教会の大管長会の助言の代わりに,自分の助言を確立しようと切望している。彼はわたしの民が礼拝するために一つの金の子牛を掲げている。」(教義と聖約124:84)
教えていることに対して疑問が生じ,その疑問が頭から離れない場合,何かが間違っているのです。放っておくか,同僚でも福音に精通した人でもかまいません。とにかくほかのだれかに聞いてみることです。自分が提示したことについて歯に衣着せぬ意見を言ってもらうのです。正しく,教えるにふさわしいことをもっと知っているかもしれませんが,皆さんは聖霊から承認され,認可された内容のみを教えるべきです。中央幹部を超えようなどと思わないでください。御霊を失い,自分を見失ってしまうからです。だれもが例外なく常識を用いなければならないということは経験の中から学ぶはずです。
もう一つの問題となる分野は,福音の核心と直接的には関係のない事柄です。しかし,それが引き金となって教師は最も大切なものから逸脱したり,道から迷い出たり,離れたりします。時としてわたしたちは人が喜ぶ情報を提供するという誘惑に駆られることがあります。ただ大体においてこのような情報は知っておいても悪くはない程度の情報です。自分が教える内容については必ず信頼できる情報源に基づいてその正当性を立証あるいは吟味してください。決してまた聞きの情報やうわさを生徒に提供しないでください。単に興味本意でいろいろな事柄を教えても時間の浪費となります。
教師は自分のすることにバランスを保つことが大切です。ある特定のテーマに関する先入観は,福音の他の要素と比較して不適当かつ歪められた見解を口にする原因となります。一部の人たちに見られるように,福音の持つ一面のみに関心を持つことで空回りすることになります。たとえばモルモン書の地理に過度の関心を持つ人たちがそうです。ジェームズ・ E・ファウスト長老は次のように語っています。
「モルモン書が何ではないのかを知ることも大切です。モルモン書はその多くが歴史的な内容ですが,歴史ではありません ……。」
「ジョージ・ Q・キャノン〔管長〕は次のように述べています。『モルモン書は地理のテキストではない。地理について教えるために書かれたものではない。様々な風土や都市の状態について記されているが……それはこの書物の教義的な部分や歴史的な部分に関連して付け加えられた説明に過ぎない。』 ……」
「この神聖な書物を理解するための鍵は,非常に霊的なものです。霊的な理解よりも世俗的な知識に取り付かれていると内容を解きほぐすのが難しくなります。」(「わたしたちの宗教のかなめ石」『聖徒の道』1984年1月号,16,17)
モルモン書に関して,ヒンクレー大管長は次のように語っています。
「証拠を執拗に迫る世の中においてモルモン書が真実か否かの証拠,その正当性の証拠は,考古学や人類学がある程度助けになることはあっても,そのものが証拠となるのではありませんし,言葉の研究や歴史的な分析にしても,真実性を確認することはあっても,それがそのまま証拠となる訳ではありません。真実か否かの証拠,正当性の証拠はこの本自体にあるのです。 ……」
「…… 〔モルモン書は〕イエスがキリストであり,生ける神の御子であることを疑い深い人々に証するもう一つの証拠です。」(「信仰のいしずえ」『聖徒の道』1985年1月号,54)
そこで要約になりますが,J・ ルーベン・クラーク ・ジュニア管長は「教育に関する教会の指針」の中で次のように警告しました。
「信頼している者に疑いの気持ちを植え付ける教師は,大きな苦しみと,重い罪の宣告を受けることでしょう。……
…… 皆さんは……皆さんの仕事の中に自分独自の考え方を無理やりねじ込むようなことをしてはなりません。その源が何であれ,あるいはそれがどんなに喜ばしく,道理にかなったもののように思えたとしても,そうすべきではありません。 ……
皆さんは……教会の標準聖典に宣言され,主の御旨と御心を教会に伝えるように権威を与えられた人々の宣べた教会の教義を,変えたり修正したりしてはなりません。主は御自身のことを『昨日も,今日も,またとこしえに変わらない』(2ニーファイ27:23)と言っておられます。」(改訂版〔1994年〕,3,10)
マーク・ E・ピーターセン長老は,教会教育システム職員の訓練集会で次のように述べました。
「わたしたちが拠り所とするのは聖文,すなわち4つの標準聖典です。ジョセフ・スミスを初めとする大管長や指導者も同様です。彼らはわたしたちを導く情報の担い手です。わたしたちは彼らが教えたように教え,彼らが避けた教義を避けなければなりません。」(“Avoiding Sectarianism,”Charge to Religious Educators, 第2版〔1982年〕,118)
次のように言い返す人がいます。「しかし,教師は御霊によって教えなければなりません。わたしも熱心に祈りました。そして,御霊によってこのようなさらなる洞察,新しい物の見方,より偉大で高度の真理を与えられたと感じています。」
何年も前,当時の大管長会が次のような警告を出しました。
「神により定められた権威を汚し……教会を統治するために与えられる直接の啓示からわたしたちを遠ざけるような,霊や影響力に惑わされないようにしてください。聖霊の与える啓示に矛盾はありません。真理はいつも調和が取れています。表面的には信心深く見えても,内面的には誤りを秘めているということが多々ありますが,主の定められた経路を通して与えられる主の勧告には,安全が約束されています。」(ジョセフ・ F・スミス,アンソン・ H・ランド,チャールズ・ W・ペンローズ,“A Warning Voice” Improvement Era, 1913年9月号,1149)
聖霊(主の御霊)が自己矛盾することはないことを覚えていてください。
このように幾つかの基本的事項を見直すことにより,教会教育システムの教師としてどこに焦点を当てればよいのか理解してもらえたのではないかと思います。この現世で天父の霊の息子,娘たちの教師として働き,永遠の真理を教えることができるとは,皆さんは何とすばらしい機会を授かっていることでしょう。
絶えず祈り,備え,簡潔明瞭なレッスンを心がけてください。何を教えるにしても,必ず聖文,そして預言者や使徒の教えを基としてください。なぜなら預言者や使徒は人々を教えるに当たって,特別な霊の賜物を与えられているからです。どうぞこれらの聖文に根ざした教義が教える原則に従ってください。なぜなら,そうするときに安全が得られるからです。皆さんのレッスンに天の祝福が注がれるからです。皆さんは自分の人格を教えているのだということも忘れないでください。皆さんの生活を個人的にも,物質的にも,そして霊的にも調和の取れたものにしてください。