インスティテュート
福音の教師とその教え


福音の教師とその教え

宗教教育者向けの説教から抜粋(1976年 9月17日,1-8,12-16)

今晩わたしは,「福音の教師とその教え」という主題でお話ししたいと思います。この話は,クラスで教える教師だけでなく,教師チームの一員である皆さんの伴侶をも対象にしています。皆さんと伴侶が目的や献身,忠実さにおいて一致していなければ,期待しているような成功を収めることはできません。 ……

自分自身を霊的に備える

福音の教師として皆さんの第一の責任は,自分自身を霊的に備えることです。教会教育システムで働く申請を出したとき,皆さんは全員中央幹部から面接を受けました。皆さんがジョセフ・スミスの召しとイエス・キリストの神聖さに対する個人的な証があるかどうか尋ねられるのは当然のことです。故J・ ルーベン・クラーク管長は次のように語りました。これが「〔福音を〕教える教師の第一の要件〔です〕。……真の証を持っていない教師,またイエスが御子であってメシヤであるとの証,並びに最初の示現を含めてジョセフ・スミスの神聖な使命に対する証を持っていない教師は,教会の学校制度の中でどのような職に就くこともできません。」(1938年 8月8日,アスペングローブにおけるセミナリー・インスティテュート職員向け説教「教育に関する教会の指針」, 7)皆さん一人一人が臆することなく,そのような証を持っているのは当然のことです。そうでなければ,仮面をかぶって教えているのであり,その教えは偽りです。

「単に証を持つだけでは十分ではありません。証の他に,……道徳に基づく勇気がなければなりません。なぜなら,自分の証を宣言する道徳に基づく勇気がないと,その証は弱められてしまい,生徒たちはそれを見分けることができないと言わないまでも,見分けにくくなってしまうからです。 ……」とクラーク管長は語っています(1938年8月8日,アスペングローブにおけるセミナリー・インスティテュート職員向け説教「教育に関する教会の指針」,7)。

皆さんが自分の使命を果たすうえで,これは当然のことです。これはごく基本的な要件にすぎません。さらに主の言葉を借りて,「教師よ,自分自身をいやせ」あるいは別の機会に使徒の長に述べたように,「あなたが立ち直ったときには,兄弟たちを力づけてやりなさい」と述べたいと思います(ルカ22:32)。イエス・キリストと主の福音に改心することは,証を得る以上のことです。それは霊的に癒されることです。パウロはそれを「神の力」を頂くことであると表現しています。この改心の過程で最も称賛に値する模範は,モルモン書のエノスの話に見いだされます。背景を語らなくても皆さんよく御存じの話です。ただ,この聖句に注目していただきたいのです。エノスは次のように証しました。「わたしは,罪の赦しを受けるに先立って神の前で味わった苦闘について,あなたがたに述べよう。」(エノス1:2,強調付加)

その後すぐにエノスは神によるその苦闘がどのようなものであったかはっきりと教えています。彼の懇願の熱烈さに注目してください。「わたしの霊は飢えを感じた。……わたしは造り主の前にひざまずき,自分自身のために熱烈な祈りと懇願をもって造り主に叫び求めた。わたしは一日中造り主に叫び求めた。 ……」(エノス1:4,強調付加)

それからエノスは次のように証しました。「すると,わたしに声が聞こえた。『エノスよ,あなたの罪は赦された。あなたは祝福を受けるであろう。』……〔それで〕わたしの罪がすでにぬぐいさられたのを知った。」(エノス1:5,6) ……

年齢を問わず,全ての聖徒がこのような改心の過程をたどります。モルモン書では,「肉欲にふける堕落した状態から義の状態に変わって,神に贖われ,神の息子や娘にな〔る〕。 ……」と表現されています(モーサヤ27:25,26)。これが「神の力」を頂くということです。この福音の力を教える教師の皆さんに尋ねます。「〔皆さんは〕霊的に神から生まれてい〔ます〕か。〔皆さん〕の顔に神の面影を受けてい〔ます〕か。〔皆さん〕は心の中に,この大きな変化を経験し〔まし〕たか。」(アルマ5:14

この心の変化は福音の教師の動機と望みに相応しています。エノスは,彼が「同胞……の幸いを願う気持ちがわいてきた」と証しています(エノス1:9)。この大きな変化を経験したアルマも次のように述べています。「わたしは絶えず働き続け,人々を悔い改めに導き,わたしが味わった非常な喜びを味わわせ〔た〕。 ……」(アルマ36:24

皆さんの動機も同じように純粋であるよう願っています。生徒の幸いを願うことが,皆さんの教える主要な動機となるよう願っています。皆さんが改心して,生徒を力づけられるよう願っています。

生徒を強める前に,皆さんが研究と信仰の両方によって王国の教義を調べ,福音を学ぶことが不可欠です。信仰によって学ぶとは,信仰の祈りを通して,理解と主の御霊を求めることです。そうすることで,生徒を確信に導く力が受けられます。単に良い勧めと捉えないでください。これは主の戒めです。主は次のように語っておられます。 ……

わたしの言葉を告げようとしないで,まずわたしの言葉を得るように努めなさい。そうすればその後,あなたの舌は緩められる。それから望むならば,あなたはわたしの御霊とわたしの言葉,すなわち人々を確信に導く神の力を受けるであろう。」(教義と聖約11:21,強調付加)

皆さんが教えるときに,神の力を受けるには,まず神の言葉を得るように努めます。そうすれば理解力と御霊が与えられ,ついには確信に導く力が与えられます。わたしたちの生ける預言者が皆さんを教え導くときも同様です。「熱心に聖文を読むことによって数々の祝福がもたらされます。そうすることで,天父との距離は縮まり,霊性が増します。」(スペンサー・ W・キンボール,“Men of Example,” 1975年 9月12日,アセンブリーホールにおける宗教教育者向けの説教, 2)

常に心に留めていただきたいことは,聖文や生ける預言者の言葉以上に満足を得られるものはないということです。これらは皆さんの根本的なよりどころであるべきです。主が語られた言葉を読んで一層深く考えてください。主の御言葉に関して他の人が書いた意見を優先させてはいけません。

毎朝,家を出る前に,主の前にひざまずき,個人の祈りと家族の祈りをしてください。またクラスが始まる前に,御霊によって導かれるよう主に祈ってください。皆さんが教える準備をするときに,最も重要なことは,御霊によって導かれるということです。

イエス・キリストの福音だけを教える

第二の責任は,イエス・キリストの福音以外のことを教えるべきではないということです。これも主の戒めです。主は次のように言われました。「この教会の……教師は,『聖書』と完全な福音が載っている『モルモン書』の中にあるわたしの福音の原則を教えなければならない。」(教義と聖約42:12,強調付加) ……

1938年,J・ ルーベン・クラーク・ ジュニア管長は,大管長会に代わって,「教育に関する教会の指針」と題する説教の中で皆さんに関わる責任を発表しました。ここに集う全員がこの説教の写しを持ち,少なくとも各年度の初めにそれを読むべきです。わたしはクラーク管長の説教から次の言葉を引用します。

「…… 皆さんの最も大切な,また唯一の義務は,……主イエス・キリストの福音を教えることです。皆さんは自らの権威のよりどころとして,教会の標準聖典と,この末日に主の民を導くように神より召された人々の教えとを使って,この福音を教えなければなりません。……皆さんの仕事の中に自分独自の考え方を無理やりねじ込むようなことをしてはなりません。その源が何であれ,あるいはそれがどんなに喜ばしく,道理にかなったもののように思えたとしても,そうすべきではありません。 ……

皆さんは……,教会の標準聖典に宣言され,主のみ旨と御心を教会に伝えるように権威を与えられた人々の宣べた教会の教義を,変えたり修正したりしてはなりません。 ……

皆さんは,……世の考え方を教えてはなりません。……皆さんの領域は福音だけなのです。 ……」(クラーク管長『教会の指針』, 9,強調付加)

この勧告は現在も変わっていません。むしろその必要性は,宗教教育プログラムが拡大し,教会教育システムで働く教師の数が増えている現在の方が高いと言えます。最近ハロルド・ B・リー大管長はこの責任をさらに強調して次のように述べました。「皆さんの務めは,昔からの教義を教えることです。分かりやすく教えて,生徒が理解できさえすればそれでよいというものではありません。だれ一人誤解することのないように明確に教会の教義を教える必要があります。」(“Loyalty” 1966年 7月8日,セミナリー・インスティテュート職員への講話, 9,強調付加)皆さんが基本的な教義と福音の原則に立脚し,標準聖典や中央幹部の言葉および教会教育部が示した学習の指針に忠実に従い,聖霊の導きを求めるとき,何の問題もなくこの勧告に従えるはずです。 ……

教えていることと一致した生活をする

最後に挙げる第三の責任は,教えていることと一致した生活をするということです。皆さんが生徒に宣言しているメッセージと一致した生活をしてください。皆さんの多くが示している力強く称賛に値する模範は,末日聖徒の生活と家庭のあるべき姿です。セミナリーやインスティテュートの教師の模範からどれほど多くの学生が正しい決断をするよう促されてきたことでしょうか。「わたしは彼らのようになりたい」という言葉は,頻繁に聞かれるものですが,それは生徒が皆さんを強く結ばれた夫婦として認めている証拠です。

皆さんの多くが,レッスンに加えて,教会でも責任ある地位で働いておられることを嬉しく思います。これは称賛に値することです。なぜなら,皆さんは,教会で自分の仕事で求められている以上のことをする義務があるからです。教会の使命は昔も今も変わりません。つまり,すべての会員は,「シオンの大義を起こして確立するように努め〔るのです。〕」(教義と聖約6:6

わたしたちは皆さんが夫婦としてすばらしい関係を築いていることを望んでいます。また皆さんの家庭に救い主の平安と愛の精神があり,そこを訪れる全ての人がそれを感じられるよう望んでいます。皆さんの家庭に言い争いや不和があってはいけません。

先週の金曜日,わたしたちは子供たちとともに,永遠の伴侶になって最初の50周年を祝いました。妻の愚痴を耳にすることなく,日々の愛,献身,忠実さ,一致によって育まれたすばらしい夫婦関係からもたらされるかけがえのない祝福を享受するとはどういうことなのか知っています。さらにわたしは11人の子供の長男として,両親が言い争うのを耳にすることのない家庭で育てられたので,それがどういうことなのか,よく知っています。

ボイド・ K・パッカー長老の著書『熱心に教えなさい』(Teach Ye Diligently)の序文に記されているセオドア・タトル長老の賛辞に感動しました。それは彼がパッカー長老夫妻に贈ったものです。タトル長老はパッカー長老の妻について次のように記しています。

「彼女は,彼の最愛の人であり,友であり支えです。彼女がいるからこそ,『両親が30年以上も言い争うことなく愛で結ばれている家族がある』と,彼は心から証できるのです。」(『Teach Ye Diligently(熱心に教えなさい)』序文,ⅸ,強調付加)

パッカー長老は,現在十二使徒の一人ですが,かつてはセミナリーの教師で,後に教会教育システムの運営責任者となりました。パッカー長老夫妻は当時も現在も夫婦の模範を示しています。

家庭での模範は,思っている以上に力強い影響があります。数年前,ワシントンD.C.で暮らしていたとき,ジョン・ D・ミラーという著名な憲法学者を家の夕食に招きました。居間に訪れて1時間すると,夕食を準備していたベンソン姉妹と娘たちが,準備が整ったことを知らせてきました。食堂に入ると,子供たちは家族の祈りのために椅子を整え始めました。そしてわたしはミラー判事に言いました。「判事,毎日朝と晩,家族の祈りをするのがわたしたちの家の習慣です。差し支えなければ加わっていただけますか。」「もちろんですとも」と彼は答え,子供たちがどうするのかを見て,椅子の脚もとにひざまずきました。わたしたちは長女にお祈りをお願いしました。当時,娘は8歳か9歳だったと思います。現在は5人の子供の母であり,夫はステーク会長を務めています。皆さんの娘たちもするように,バーバラも可愛らしいお祈りの中で,次のように言いました。「天のお父様,ミラー判事を祝福し,この訪問を楽しんで,安全にホテルへ戻られるようにしてください。」それだけのことでした。

わたしたちは車で判事をホテルに送り届けました。このできごとに関しては何も触れられませんでした。それから半年ぐらいたって,この判事は,産業界,ビジネス界,労働組合,農業界を含め,25人か30人程度の指導者をフロリダの冬の別荘に招きました。夕食後,彼らは広い居間の椅子に腰かけて,国が抱えているさまざまな問題について意見を交換していました。(わたしたちが思っている以上に)よくあることですが,話題が霊的なこと,つまり宗教へと変わりました。すると教会員ではありませんが,キリスト教信者の立派な紳士であるジョン・ D・ミラーが,わたしたちの家で起きたこの小さなできごと,つまり簡単な家族の祈りについて話をしたのです。彼は次のように語りました。「皆さん,わたしはその晩父親として,十分に義務を果たしてこなかったという思いを抱えてホテルに向かいました。振り返ると子供たちと家で祈ったことがなかったのです。」さらに彼は話を続けて,霊的な家庭で育った子供たちの生活には,彼が感じた力の影響が必ずあると語りました。

本来あるべき皆さんの姿を家庭で輝かせてください。そうすれば,この静かな力が皆さんの周囲の人たち全員の心にいつまでも残ることでしょう。

若人に示す皆さんの模範についてもう少し話をしたいと思います。

夫婦として,皆さんの行動や様子は大管長会を代表しています。結婚の聖約に忠実で良い夫婦関係を築いていただきたいと思います。「中央幹部に従う」という言葉は,特定の意味に限定されるのではなく,より広い意味があります。つまり,中央幹部が教会に与えた勧告に同意するにとどまらず,様子や立ち居振る舞いに至るまでその模範に従うということです。教師として皆さんは,常に自問しなければなりません。「救い主は,人々の前で,わたしがどのような様子であるよう期待しておられるだろうか。主はわたしにどのような振る舞いを期待しておられるだろうか。」皆さんが身につけるものは,世の中のファッション,いわゆる「モッズ族」(流行の最先端を行く人)と呼ばれるものを模倣したものであってはいけません。髪型は教会の標準と一致したものであるべきです。若人に宣教師として仕えるという気持ちを促すうえで,皆さんは,いわば最前線にいます。明らかに皆さんは将来の宣教師が従うべき模範であるべきです。

皆さんの模範と影響があれば,若人は時折生じる個人的な問題に対して勧告を求めて,皆さんのもとを訪れます。皆さんには,若人と教会指導者の関係を強化する仲立ちをしていただきたいと強く望んでいます。彼らが皆さんのもとを訪れたときには,ビショップのもとへ行くよう勧めることができます。こうすることでその問題を主の方法に委ねることができます。決して生徒とビショップの間に割って入ってはいけません。

次に皆さんの家計に関する責任について述べます。皆さんは借金をせずに収入の範囲内で生活するためにできる限りのことをすべきです。皆さんが住宅ローン,教育ローン,時には車のローンを背負わなければならないこともあります。この他にも支払いは生じるはずです。何でも欲しいものを即座に購入することはできません。現金で支払いができるようになるまで待つことを学んでください。教師としてどのようなことに対しても誠実さや高潔さが問われるようなことがあってはいけません。借金の返済期日は守ってください。このプログラムに携わるどの教師も借金の返済が滞れば,間違いなく評判を落とします。

皆さん一人一人が正直に什分の一を収めてください。これは雇用条件の一つです。皆さんは給与に対して正直な働きをしなければなりません。それは正規の勤務時間内にクラスがなかったとしても皆さんは勤務中であるということを意味しています。

皆さんは,「世にあって,世のものとはならない」と繰り返し勧告されてきました。時々,会員の中には,神殿推薦状を持つ資格を失わない程度に世の標準に近く生活したいと思っている人がいます。神殿で交わした聖約に従って生活してください。聖約の道を外れるギリギリのところで生活してはいけません。見ようとしている映画,身につける衣服,聴く音楽などが判断の基準です。数年前,ある教師がコーラを飲んでも,神殿推薦状を取り上げられることはなかったと生徒に言いました。これは教師として適切な判断ではありません。それは「道を外れるギリギリのところで」生活していることを証明しているにすぎません。戒めの精神に従って生活してください。

ハロルド・ B・リー大管長は次のような忘れられない言葉を残しました。「もし誰かを引き上げたいと思うなら,自分はより高い場所に立っていなければならない。」その「より高い場所」とは,皆さんが戒めを守るときに示す説得力のある模範を指しています。ここでキンボール大管長の勧告を繰り返します。

「皆さんが生徒に教えていることをすべて自分でも行ってください。実際に証を述べ,什分の一を収め,本来出席すべきすべての集会に出席し,神殿での儀式を受け,安息日を守ってください。また生き生きと教会の奉仕活動を行い,家庭の夕べや家族の祈りを行ってください。さらに収入の範囲内で生活し,常に誠実さと完全な高潔さを保ってください。」(“Men of Example,”  8)

「あなたがたはどのような人物であるべきか」と主はお尋ねになり,次のように答えられました。「まことに,あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」(3ニーファイ27:27,強調付加)

さて,今晩わたしは皆さんに直接語りかけてきました。その内容は,皆さんが道にとどまり,さらに効果的にメッセージを伝えるうえで役立つものです。冒頭で話したように,わたしたちは福音の証によってシオンの若人を鼓舞してくださる皆さんの奉仕,献身,忠実さ,努力を嬉しく思っています。わたしの話を要約すれば,自分自身を霊的に備え,イエス・キリストの福音だけを教え,教えることと一致した生活をするということです。

リーハイは命の木の示現の中で,白い衣を着た一人の男の人が,リーハイに言葉をかけて,世の誘惑を表す暗くて寂しい荒野から,彼の後についてくるよう招くのを見ました。祈ったおかげで,リーハイは「非常に大きな喜び」をもたらす木の実を食べるよう導かれました(1ニーファイ8:6-12参照)。わたしたちが望んでいるのは,教師である皆さんが,白い衣を着た男の人ようになり,教会の若人を世の誘惑から安全な所に導き,彼らも命の木の実を食べて,非常に大きな喜びを得ることです。